Q&A⑴ 浪漫人間は刹那的な享楽主義者ですか
        Q 岩手県 盛岡市 山口栄宏
        A 本学会会長 濱野成秋
 
 浪漫主義は刹那的か
 
Q 浪漫主義といえば鉄幹・晶子の東京新詩社を想い出すのですが、彼らを上手に捉えて書かれた永畑道子さんの『華の乱』とか『夢のかけ橋』によると、ずいぶん享楽的で刹那的ですね。
 
A そうですね恋愛至上主義で有島武郎も含めて永畑さんの作品は論文というより物語風に仕立てた読み物になっている。
 
Q 永畑さんの浪漫主義の捉え方は情熱的で刹那的な側面が強よすぎると思っていますが、あれは創作的過ぎる思いますけれど、現実もそうだったのでしょうか。
 
A 大分ちがう。新詩社の動きを追いかけ与謝野家の経済生活を見てみると同情すべき面が多く、晶子の実生活は苦労の連続だったし、享楽的どころか、子たちを育てることに汲々として安眠すらできないくらい。
 
Q でも山川登美子や茅野雅子と鉄幹との関係と『恋衣』にまつわる醜聞も考えるとやっぱり享楽主義。令和オンライン万葉集もそれを追う気風があるのかと、心配です。
A 愛憎の世界は時に刹那的な醜聞に発展しがちです。平塚らいてうが森田草平との間で起こした塩原事件も同様です。が、それは浪漫派の歌人や女性運動家に限りません。リアリズムの世界にも富や権力や面子にこだわり、それを快楽として耽るタイプは一般社会にも多々見受けられる。
 
Q どこが違うのですか?
 
A 浪漫人間は人類愛や永遠性の伴う正義や美徳に夢中になる。生きる価値を心の問題と追究する。生死が最大の課題です。物欲を満たすのと対照的ですから取り組む価値があると考えます。
 
Q では浪漫派の愛は必ずしも刹那的な男女の愛には限らないわけですね。
 
A 当然です。親子の愛も友愛も気の毒な境遇に生きる人たちへの慈愛も、みな浪漫です。別に著名人でなくとも、次世代の若者の幸せや生き甲斐を生かして立派な人間に育てようとしている沢山の先生方も、たとえその人たちが短歌一首作らなくとも、立派な浪漫の心を持って子供たちと取り組んでおられる。それが尊いから我々も取り組む意義がある。
 
Q 浪漫の心とは、言い換えれば無償の愛とか慈愛ですか?
A 今年はナイチンゲール生誕二百年になりますが、彼女の献身的な姿はご自身に浪漫の心があったればこそ、長続きしました。
 
Q ほかにもそんなロマンをもった教育者がいますね。
 
A 同志社の新島襄、日本女子大の成瀬仁蔵、津田塾の津田梅子、慶應義塾の福沢諭吉。彼らはみな留学して日本人の教育の大切さに目覚めた。自己愛ではなく博愛に満ちて帰国して自分の理想とする学舎を送検した。これは典型的な浪漫人間の業といえるでしょうね。
 
Q 享楽主義者というより修養を勧めるストイックな人ばかりですね。
 
A その通り。そもそも文学者や歌人でないと浪漫主義者でないという狭義の解釈で人間を見るのはよくないな。狭い了見だ。今日では映像作品やガーデニングにも浪漫が生きる。生き方の原点に存在する根源的無垢だと捉えてください。
 
福沢とフランクリンにみる浪漫主義の共通項
 
Q 福沢諭吉といえば、実学。だから真っ先に理財科を優先させた。実利一点張りでロマンチックな側面などゼロだという印象があったから、意外です、彼が浪漫の精神風土を持っていたなんて。
A 福沢は生涯を人間愛で通した。それは幼い頃から発芽し、たとえばチエという乞食の子がシラミを頭に一杯つけてやってくると、諭吉の母がシラミを一匹、一匹摘まみだしては石の上にのせる。と、幼い諭吉はそいつを石で潰しながら、母親から恵まれない子にこそ愛を、という気持ちを教えられる。
社会の底辺の人たちを大事にする積み重ねが後世日本人の西欧化の中で万民平等に教育してこそ立派な国ができるという信念に発展した。当時は華族、士族、平民と、身分が厳然と分け隔てられていたけれど、その垣根をなくして教育する一般人の塾、つまり義塾を創った。彼自身、咸臨丸に乗船して帰国した欧米通で、その経歴を生かしていくらでも高位高官に登れるのにその誘いを拒み続け、終生、平民で通した。その生き方こそ、見事な浪漫の精神だと思います。
 
Q 福沢諭吉が浪漫主義者だとは考えてみたこともなかった。
 
A 彼自身、大の健筆家で、『学問のすすめ』や『文明論之概略』ほか著書を沢山出すばかりか、『時事新報』に啓蒙記事を毎日のように情熱的に書き続けた。短歌より評論で理想を説き続けた。ベンジャミン・フランクリンと同じく、沢山の人々に、身分など、とくになしの状態から自らの理想を万人に向かって書き続けたから、ひろく人口に膾炙したわけです。経済や社会の在り方を説き続けた。この情熱は浪漫の心が社会全般に行き渡っていなきゃ出来ることではないのです。福沢はけっして刹那的な快楽を追求しなかった。情熱をそんな形で現わすことにむしろ嫌悪したから、品行方正で人の道の範となる日々を続けた。つまりロマンを発揮する方法というか、生き方が彼独特だったわけです。
 
状況の苛烈さに堪えられない弱き浪漫人こそ
 
Q ではこの日本浪漫学会はその路線ですか?
 
A とんでもない! 心に浪漫を秘めても、山川登美子や茅野雅子のように、弱き心を如何ともし難いまま破滅の路を辿らざるを得なかった、そんな歌人たちの心情も大事です。登美子のような弱き末路にも憂えの心は限りなく、堀辰雄の結核文学にみる存在の不確かにも通じる滅びの美学があって、これは愛おしい。
 
Q 与謝野晶子もその意味では複雑な夫婦関係や官憲との板挟みで…
 
A ええ。当時のインテリたちは心の自由さえ制限されるかのような圧力を感じて日々過ごしていた。それが家の経済をガタガタにする。自由民権の運動家たちでさえ、日清戦争の頃から国家主義に流れたぐらいですから、自由思想家たちの歌人集団の生活も、その発言も自ずと曲折し、ライフスタイル自体も刹那主義、享楽主義に走った。「君死にたまふことなかれ」で政府を叱りつけるような怒りをぶつけて徹底的に睨まれるし。
 
Q 確かに晶子の「君死にたまふ」には、国家の一大事業たる戦争に堺商人なら加勢せずともよいというのか、といわれて…。
A そうです、大町桂月が、晶子の「すめらみことは戦いにおん自らは出でまさね」のくだりを指摘して「大胆すぎる」と諫めれば、晶子は黙っておれず「当節のやうに死ねよ死ねよと忠君愛国主義を強いられては黙っておれない」とやり返しましたね、そんな、時代が閉塞的で、逃げ場がないような、そんな窒息状況下にあったから、彼らの行動は自ずと懐疑的となり先々保証されることのない刹那主義におちいる。
 
Q なるほど。またよろしくお願いします。
 
A きらびやかだけでは物足りない。深みのある短歌を期待しています。
 
                            (つづく)