本田 康典
はじめに
我が国でヘンリー・ミラー(1891-1980)の作品が翻訳・紹介され始めたのは1953年(昭和28年)であった。当時は朝鮮戦争が終息し3年前に誕生した警察予備隊が保安隊となって国防問題が再燃していた時期で、日本の保守本流がやや右傾化している時期であったと言える。そのさ中の登場ゆえ、ミラーの包み隠さない性的描写は反逆的志向を持つとされ、異端視されていた。
筆者は1961(昭和35)年、鎌倉の啓明社から刊行されていた英文によるミラー作品に高田馬場の古書店で巡り合ったのがきっかけで、彼の志向に惹かれたわけだが、世は上げてAmericanismに酔うがごとき保守的時代精神が横溢していたから、彼の登壇は異彩を放っていた。ミラーはエログロ・ナンセンスの風潮の中で後に言う「ポルノ作家」扱いされていたが、20世紀という時代とアメリカという空間を超越しようとして言葉を爆発させている、と私は感じていた。それはまた明治維新後の脱亜入欧あるいは和魂洋才を標榜されながら世相は因習的概念から脱しきれず、閉塞状況にあったことに業を煮やした東京新詩社をはじめとする日本型浪漫主義の台頭と共通したわけで、筆者のミラー論はそのパラダイムと捉えた編者の意向にも通底すると考えてよい。
1.1960年代の日米における反応
1963年(昭和38年)、早稲田大学非常勤講師であったケイト・ミレット(1934-2017)は、『英文学』(第23号、早大英文学会)にHenry Millerと題する論考を寄稿し、ミラーを痛烈に批判した。早大の関係者によると、ミレットは教員室では寡黙でひたすら本を読み耽っていたというが、彼女は後の女権運動の闘士であった。ミレットは当時、アメリカで吹きあれていた『北回帰線』旋風を日本から眺望する立場であったけれども、帰国後に Sexual Politics (1970)を上梓してフェミニストの視点で論考する。
『北回帰線』はパリでの出版から27年後の1961年6月に出版され、同年秋にペーパーバックが200万部印刷された。『北回帰線』が合衆国憲法によって保護されないとみた出版社が海賊版を出す構えをみせたために、グローブ・プレスが急ぎペーパーバックを刊行する対応策をとったのである。出版の可否について60件もの法廷闘争に展開したが、グローブ・プレスの社主バーニー・ロセット(1922-2012) は弁護士グループを擁して果敢にアメリカ社会に挑戦し、1964年に最高裁で結着を見た。
1965年、アメリカの『北回帰線』旋風にあおられたせいであろうか、大久保康雄と飛田茂雄を中核とする翻訳者たちによるヘンリー・ミラー全集(全13巻)が新潮社によって企画された。1966年『本の手帳』(ヘンリー・ミラー特集、8月号)において、立教大学教授の細入藤太郎は、1939年9月にデンマークの首都で『北回帰線』(初版)を読んだと述べた。彼は日本の最初の読者であった。
1967年、ホキ徳田と結婚したミラーは、週刊誌にも登場し、話題の対象として盛り上がりをみせたが、ミラー像に劇的な変化がみられるようになったとは言えなかった。
1980年、欧米の批評家や研究者の代表的な諸論文を訳出した大久保と飛田は『ヘンリー・ミラー』(早川書房)を上梓した。序文において大久保は、「(日本では)ミラー文学の本質を論じた研究者があまりにも少ない」と断じた。彼はヘンリー・ミラーについて、翻訳・紹介の時代から研究の時代への推移を見極めようとしていたのである。
2.ミラー像は変貌しているのか?
ミラー像は固定化してしまったのではなく、たえず変化する。しかし、緩慢に。新たな読者がミラー作品を読めば、ミラーは新しくなる。思想家、哲学者、文学者がミラー作品に接し、発信すれば、ミラーはさまざまな相貌をみせる。
またミラーは歯が立ちにくい作家ではあるが、研究者がミラーの伝記的事実を新たに掘り起こし、テクストの緻密な読みに向かうならば、ミラー像は必然的に変貌するだろう。以下にその片鱗を挙げておく。
⑴上野霄里 ―― 東北の哲人
1969(昭和44)年、岩手県一関市在住の思想家・上野霄里(実名は賢一)の『単細胞的思考』(行動社)が出版された。序文の書き手はヘンリー・ミラー。『ネクサス』を読み、こんなふうに書いてよいのであれば自分も書けると思った上野は、原稿用紙大に切り揃えたチラシの裏や包装紙に自分の思いを書き連ねていった。『単細胞的思考』は、一部の全共闘の学生や三島由紀夫の楯の会の闘士を一関に引き寄せる威力があった。が、上野の破天荒な主張や川端康成を罵倒する言辞に辟易したせいであろうか、批評家たちは上野を回避した。
1970年、三島由紀夫の割腹事件があり、ミラーと上野のあいだの書簡の往来は激しくなった。1971年10月、ミラーによる「三島由紀夫の死」(飛田茂雄訳)が『週刊ポスト』に連載されたが、そこでは「性の作家」というヘンリー・ミラー像は破砕されている。上野は健筆のひとであり、10冊以上の著書が出版された。ミラーのひととなりと作品は、天才的人物を解き放つ衝撃力を秘めているように思われる。近年、「ヘンリー・ミラーと日本」というテーマをもつアメリカ人の研究者ウェイン・アーノルド(北九州市立大学教員)が両者の間を往来した膨大な書簡を手がかりとして知られざるミラー像を描きはじめた。
⑵ファム・コン・ティエン ―― ベトナムの哲人
1965年夏、24才のファム・コン・ティエン(1941-2011)が、ミラー宅を訪問し、「ヘンリー・ミラー、ぼくはあなたを殺す」と声を発すると、ミラーは訪問者を抱きしめ、壁に「逢仏殺仏」と書けと言ったという。野平宗弘(東京外語大教員)はこのエピソードを彼の著・訳書において幾度も紹介している。ティエンがミラーの作品を読み、禅を学んだのが1959年であったから、彼は19歳の時にミラーを知ったことになる。ミラーはティエンを「ベトナムのランボー」と評したという。
ティエンは詩人であり、小説家、翻訳者、思想家、その他であり、要するに、天才的な哲人である。野平の著書『新しい意識』(岩波書店、2009)を読むと、ティエンがミラーをおのれ自身の強固な橋頭堡にしていることがよく判る。25歳のティエンがパリで書き始めた『深淵の沈黙』の訳書が2018年に東京外語大学出版会から上梓された。ニーチェ、ランボー、ハイデッガー、ヘンリー・ミラーが頻出しているが、この作品はベトナム戦争の惨禍、ベトナムのうめき声の発露になっている。
⑶ノーマン・メイラー『天才と肉欲』
1940年、まだ17歳であったノーマン・メイラーは、地下出版の『北回帰線』を読み、さらにアメリカ作家たちの作品を渉猟し、ふたたびヘンリー・ミラーにもどり、ミラー論『天才と肉欲』を1976年に発表した。この作品においてメイラーは、「ヘンリー・ミラーにはいまだ明らかにされていない謎があって、その謎は偉大な作家というものが、いかに怪物じみたものであるかを告げている」と書き込んだ。ミラーは『南回帰線』において、「強烈な作品、永遠に理解されることのない作品」を執筆しようと意気込んでいるのであるから、ミラー作品に明らかにされない部分があるのは当然であるように思われる。しかし、ミラーの圧倒的な影響力が外堀を埋めるかのようにミラー像を新たに浮上させていくことになるだろう。
結語
ミラーの生きた時代は大戦、ミリタリズム、極度なコロニアリズム、国家主義が当然とされていた。言い換えれば国家や巨大なる護持思想の中に個人の尊厳や人生の幸せなど無力で微小化されて当然の時代であった。メイラーは大戦に送り込まれ、一兵士としての体験もあり、戦後に生じた米ソ冷戦時代にもゼロ記号として埋没したままの一般庶民をsquareあるいはorganization manと捉え、白人でありながら常に組織の下で踏みにじられる若者たちbeat generationに同情を示して、総じて当時のアメリカ人をwhite negroと呼ぶ評論を書いている。この価値基準でミラーを捉えたメイラーの感覚は今日常習化した核武装とミサイル攻撃という状況にも当て嵌まる。すなわち、閉塞状況のなかで活路を見失った人々は自由恋愛や片時のエクスタシーを求める飲酒や逸脱した男女関係は刹那主義の行動であり、一種の短絡した実存であるが、こうした今日的生命主義あるいは実存哲学をミラーはすでに予見していたともみなし得る。
(宮城学院女子大学名誉教授)
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