良寛の相聞歌
                     日本浪漫学会副会長 河内裕二
 
  一 歌人良寛
 
 良寛(一七五八ー一八三一)は江戸時代後期の禅僧で、優れた書家、詩人、歌人でもあった。生涯寺を持たず簡素な草庵に住み、托鉢僧として清貧生活を送った。托鉢中に子供たちに出会うと、毬つきやかくれんぼをして一緒に遊んだ逸話はよく知られている。
 良寛は一七五八年越後出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主兼神官の山本家に長男として生まれた。幼名は栄蔵といい、内向的な性格の学問好きな読書子であった。十三歳になると親元を離れて地蔵堂(現在の燕市)の三峰館に通い、北越四大儒といわれた大森子陽に学ぶ。十七歳で家督を継ぐべく出雲崎に戻り名主見習役に就くも、翌年家を出奔し、隣村の曹洞宗光照寺で仏門に入る。出家の理由は明らかになっていない。二十二歳からは備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の曹洞宗円通寺で十二年にわたり厳しい修行に励む。『定本良寛全集』の編者松本市壽によると、良寛はこの円通寺の修業時代に歌人でもあった国仙和尚から手ほどきを受けて和歌に目覚めている。残念なことに円通寺時代の歌は現存しない。
 良寛の歌の特徴は万葉調であると言われる。しかし初期の歌には三代集や『新古今和歌集』の影響が多く見られる。例えば一七九二年頃の初期作とされる次の歌は『古今集』や『新古今集』の歌の本歌取りである。
 
  あしびきの黒坂山の木の間より漏りくる月の影のさやけき 良寛
 
 元歌は次の三首と考えられる。
 「木の間より漏りくる月の影見れば心尽くしの秋は来にけり」  (よみ人しらず『古今集』秋上・一八四)
 「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」 (左京大夫顕輔『新古今集』秋・四一三)
 「もみぢ葉を何惜しみけむ木の間より洩りくる月は今宵こそ見れ」(中務卿具平親王『新古今集』冬・五九二)
 良寛の時代には、歌壇の主流は堂上派と呼ばれる細川幽斎以来の古今伝授を受け継ぐ公家歌人系の流派だった。良寛も当初は堂上風の歌を作っていたのである。師匠の国仙和尚もそうであった。
 良寛の歌風の変化について、吉野秀雄は『良寛歌集』(一九九二)で次のように述べている。
 彼の歌の発足は三代集からはじまったが、しかし彼は平安朝以降の歌の理智的な虚飾を好む道理のない人であった。彼はさういふものに満足しきれず、いつしか彼自身の歌魂を養ひ、いつしか彼自身の歌調を整へてゐた。それがおのづから万葉集と合致し、一層の深化を遂げていった。(三四)
 古今調から万葉調に、即ち技巧的で観念的なものから直截的で素朴なものに良寛の歌は変わっていくのである。
 
  二 心うごけば歌生まれる
 
 良寛には嫌うものが三つあった。書家の書、歌詠みの歌、題を出して歌を詠むことの三つである。良寛と交流のあった解良栄重がそれを師の語録として『良寛禅師奇話』(一九七〇)に書き残している。三つのうちの「題を出して歌を詠むこと」は「料理屋の料理」に置き換えられる場合もある。北大路魯山人のエッセイ「料理芝居」では、三つ目が「料理屋の料理」として話が展開する。実際に良寛には題詠は一首もないので「題を出して歌を詠むこと」を嫌うのは納得だが、「書家の書」や「歌詠みの歌」についてはおそらく自戒も込められているのだろう。松本市壽は、良寛が「歌詠みの歌」を嫌ったのは、職業的技巧を駆使した退嬰的な詠歌を否定し、率直で自然な感情の流儀をよしとしたからであるとする。(八)
 良寛には「歌の辞」と題した歌論がある。そこで歌について次のように述べる。渡辺秀英著『良寛歌集』(一七七九)より引用する。
 
 人の心のうごく心のはしばしを文字にあわせて、心やりにうたふものなり。近くいはば、泣くは歌なり、笑うは歌なり。歌の心とて別にあるものにあらず。(一)
さらにこうも述べる。今の世の人もなどか歌なからんや。かしこきおろかなるをとはず、都ひなをわかたず、朝夕ものにふれ、心のうごくところみな歌なり。(一)
 歌とはその人の心であり、心のうごくところに歌がある。もしそうであれば、良寛の最晩年に注目したくなる。良寛は亡くなる前の四年間、一人の女性と心を通わせる。最期もその女性に看取られている。女性の名は貞心(ていしん)尼(に)(一七九八ー一八七二)といい、四十歳年下の尼僧である。彼女との交流が彼の人生最後に彩りを加えた。貞心尼はどのような人物か。
 貞心尼は長岡藩士奥村五兵衛の娘に生まれた。十七歳で医師に嫁ぐが五年で離別する。柏崎の閻(えん)王寺(のうじ)で剃髪し尼僧生活に入り二十九歳まで修行する。一八二六年に福島(長岡市福島)の閻魔堂に移ると、面識のなかった良寛を訪ねる。歌や仏法を学ぶためである。良寛は農民から有力者まで幅広い人々からその深い学識や芸術的才能で敬仰され、子供たちにも人気があった。良寛の高徳な評判は貞心尼の耳にも入っていたと言われる。貞心尼はどうしても良寛から教えを請いたかった。彼の気を引くために自作の手鞠や和歌も持参し、身を寄せていた木村家を訪ねた。不運にも良寛は不在で、仕方なく手鞠と和歌を残し帰路に就く。
 しばらくして木村家に戻った良寛は、貞心尼の歌に感心し、返歌を送る。その歌には、学ぶことを認めるとの意味を込めて、手鞠をつくと弟子として自分につくという掛詞が含まれていた。貞心尼の願いは叶い、その師弟関係は良寛の遷化まで四年にわたって続く。
 貞心尼は才媛でさらに美貌であった。良寛の前に現れたとき、良寛は六十九歳、貞心尼は二十九歳だった。親子どころか孫ほども年は離れていたが、ふたりには恋愛感情が芽生え、交わす歌は相聞歌となった。その歌は、良寛の寂後に貞心尼が編纂した歌集『はちすの露』(一八三五)の唱和編に収められる。
 
  三 『はちすの露』
 
 歌集『はちすの露』唱和編には、良寛三十首、貞心尼二十三首の贈答歌が収録されている。その中のいくつかに目を向けたい。まず初対面での歌である。
 
    はじめてあひ見奉りて                      貞
  君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ
    御かへし                            師
  夢の世にかつまどろみてゆめを又かたるも夢もそれがまにまに
 
    いとねもごろなる道のものがたりに夜もふけぬれば         師
  白たへのころもでさむし秋の夜の月なかぞらにすみわたるかも
 
    されどなほあかぬこゝちして                   貞
  向ひゐて千代も八千代も見てしがな空ゆく月のこと問はずとも
 
    御かへし                            師
  心さへかはらざりせばはふつたのたえずむかはむ千代も八千代も
 
 待ち望んだ良寛との出会いを果たした貞心尼の気持ちは燃え上がる。夢のようで信じられないと感情を高ぶらせる貞心尼に、良寛は、儚いこの世は成り行きにまかせましょうと高ぶる気持ちを包み込むような歌を贈る。話が弾んで時間が経ち夜も更けてきたので良寛が中天に昇る秋の月を詠んでやんわりと帰宅を促すと、貞心尼はまだ話を聞きたい気分だと言って、このまま何千年もずっと師と向かい合っていたいのに、月のことなどどうでもよいではありませんかと返す。あまりに率直で素直な気持ちをぶつけられ、押され気味の良寛もそれに応えて、あなたの心さえ変わらないのならいつまでも向かい合っていますよと返す。
 次は二度目に会ったときの歌である。良寛から詠歌。
 
    ほどへてみ消息給はりけるなかに                 師
  君や忘る道やかくるゝこのごろは待てどくらせど音づれもなき
 
    御かへしたてまつるとて                     貞
  ことしげきむぐらのいほにとぢられて身をば心にまかせざりけり
 良寛が貞心尼に訪問を促す。待っていても一向に貞心尼が来ないため痺れを切らしている。前回とは逆に良寛の方が前のめりになり、やや非難めいた歌を詠む。それに対して貞心尼は、忙しくて行けなかったと連れない回答の歌を返す。本の構成では、この唱和の前は、前回の別れ際に再会の約束をする歌である。この歌集の歌は間違いなくどれも本人の作だろうが、歌の選択や掲載の順番は著者の貞心尼次第である。そこには何らかの意図が働く。二度目では相手に対する熱量が前回と反転する。その意図は何か。良寛と貞心尼は、片や功成り名を遂げた高僧、片や名も無い若い尼僧である。しかし恋愛においては年齢や立場などは関係ないと伝えたいのだろう。唱和編全体で見ると、貞心尼の視点で書かれているからか良寛の方が貞心尼をより相手を求めている印象を受ける。
 次の四首は良寛が与板の里に遊んだ際の歌である。与板は良寛の父親の故郷で現在は弟もそこにいる。良寛が与板に来ると聞きつけて貞心尼が急いで会いに来る。良寛は別れを惜しんだ里の人々と話をしていた。良寛の姿を見つけた貞心尼は、日焼けした黒い肌に黒染めの法衣の良寛に「これからは烏さん」と呼びますよと言うと「それはふさわしい名前だ」と笑う。
 
  いづこへも立ちてを行かむ明日よりはからすてふ名を人の付くれば
 
    とのたまひければ                        貞
  山がらす里にいゆかば子がらすも誘ひて行け羽ねよわくとも
 
    御かへし                            師
  誘ひて行かば行かめど人の見てあやしめ見らばいかにしてまし
 
    御かへし                            貞
  鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ烏はからす何かあやしき
 良寛が、烏いう名をつけてくれたので明日からはどこへでも飛び立って行きましょうと詠む。それを受けて貞心尼も烏の歌を返す。山烏の師匠が里に行くのならば、子烏の私も誘ってください。子烏ですから羽は弱く足手まといになりましても、と詠めば、これまでの烏の話はどこへやら良寛は素に戻り、あなたを誘って行くのであればそれでもよいが、他の人が私たちを見て変に思ったらどうしましょうと返してくる。貞心尼は、鳶は鳶同士、雀は雀同士、鷺は鷺同士、烏は烏同士が連れだって何が変なのですかときっぱり言って返す。周りを気にする男とお構いなしの肝の据わった女。何だか現在の若者カップルのデート風景と見紛いそうだが、冷静に考えてみると、江戸時代に田舎で黒い法衣を身に纏った老僧と若い尼僧が仲睦まじく行動していれば相当に目立つ。間違いなく好奇な目で見られ、話題にもなる。現代の感覚からすれば微笑ましい光景だが、時代を考えると貞心尼はかなり大胆な女性である。
 歌集『はちすの露』にはこのような相聞歌と弟由之(よしゆき)との歌が収められているが、終盤になると、老齢の良寛の体調が悪化し、一気に緊張感が増す。病気で貞心尼との約束も果たせなくなる。秋が過ぎ、冬になっても体調は快復しない。越後の冬は厳しい。貞心尼が励ましの歌を贈ると、しばらくして「暖かい春になったらあなたに会いたいので庵を出て私の所に来てほしい」との返歌が届く。快復を祈っていると、突然、病気が重くなったとの連絡が舞い込む。急いで良寛の元に駆けつける。幸いにも状態は落ち着いていて病床で良寛はこの歌を詠む。
 
  いついつとまちにし人は來りけり今はあひ見て何かおもはむ
 
 いつ来るかと持っていた人がとうとうやって来た、今は会うことができてもう思い残すことはない。良寛が病床で詠んだこの歌に貞心尼はどのような気持ちになったのだろうか。消えそうになる命の炎を、愛する人が来るまでは消してなるものかと燃やし続け、何も飾らず何も加えず心にあるものを愛する人に伝える。もう複雑なことは考えられない。心に残るのはシンプルなことで、それが歌になる。歌はその人の心である。貞心尼はもうずっと良寛の傍にいる。
 いよいよ最後の場面である。
                                    貞
  生き死にの界はなれて住む身にもさらぬわかれのあるぞ悲しき
 
 貞心尼からの最後の歌である。別れの悲しみを詠うのに、どこか淡々としていて作者の感情の表出が感じられない。愛する者との別れがいよいよとなってこの落ち着きは、生死を超えて仏に仕える身であるからだろうか。あるいは感情を押し殺した理性的な歌にすることで、良寛の心を刺激せず穏やかな気持ちで静かに逝ってほしいという優しさなのだろうか。
 
    御かへし                            貞
  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
  こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへ玉ふ、いとたふとし。
 
 『はちすの露』ではこれが良寛の辞世の句とされている。貞心尼への返句だが、もう書く力は残っていないため、最後の力を振り絞って言葉を口にする。
紅葉の葉が散るように、自分も裏も表もすべて見せて生きて、いま死んでゆくといった意味だろう。この句は良寛の作ではないが、この場での気持ちを述べられた尊い言葉とされる。表というのは僧侶良寛で、裏というのは貞心尼を愛したような人間良寛を表すのだろう。順番が裏からなのも元の句がそうだからと言わずに、良寛の思いからだと考えたい。
 『和歌文学大系七四』(二〇〇七)には「良寛は一首を詠めないほど衰弱しているので木因の句を貞心尼に示した」とある。その言及のように元句は美濃の俳人谷木因が詠んだ「裏ちりつ表を散つ紅葉哉」である。
  四 おわりに
 
 人の出会いは不思議である。わずか四年でも良寛の人生に貞心尼が現れなければ、後世の人々は、良寛の相聞歌を読むことはできなかった。貞心尼との交流で相聞歌が生まれ、貞心尼も歌人であったことでそれを歌集として残すことができた。これは間違いなく貞心尼の功績であるが、しかし同時に彼女にそうさせる人物だった良寛の功績でもある。つまりこのふたりでなくてはならなかった。
 文学者で良寛研究者としても有名な相馬御風(一八八三―一九五〇)は、ふたりの愛について、師弟の愛よりは深く、肉親の愛よりは強く、恋人の愛よりは浄い、一種不思議な聖愛だと説明する。一方で、巷ではふたりに男女関係があったのかに関心が集まるようだが、文学者や歌人にとっては、その読み方が同じであることが示すかように「聖愛」でも「性愛」でもどちらでもよい。重要なのは文学における事実であり、作品の世界に飛び込んで自分にとっての事実を探すのである。
 良寛は、歌とはその人の心だと言った。歌を読むこととは、歌に宿る作者の心に触れ、自らの心を震わせることだろう。良寛の相聞歌を読んで心が震えないはずがない。
 
参考文献
伊藤宏見 『良寛の歌と貞心尼』 新人物往来社 一九九二
上田三四二『良寛の歌ごころ』 考古堂書店 二〇〇六
大島花束 『良寛全集』 岩波書店 二〇〇一
北側省一 『良寛をめぐる女人たち』 考古堂 一九八九
解良栄重 『良寛禅師奇話』 野島出版 一九七〇
相馬御風 『大愚良寛』 考古堂書店 一九七四
相馬御風 『復刻良寛と貞心』 考古堂書店 一九九一
東郷豊治 『良寛全集 下巻』 東京創元社 一九八四
松本市壽編『定本良寛全集』 中央公論新社 二〇〇六
吉野秀雄 『良寛歌集』(東洋文庫午五五六) 平凡社 一九九二
渡辺秀英 『良寛歌集』 ‎木耳社 一九七九
日本浪漫歌壇 秋 霜月 令和六年十一月十六日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 四年に一度と言えば、オリンピックを思い浮かべる人が多いだろう。今年はパリでオリンピックが開催された。最もメダルを獲得した国はアメリカ合衆国だったが、そのアメリカでは、オリンピックの年に四年に一度の大統領選挙が行われる。数日前に選挙結果が出て、次期大統領がドナルド・トランプ氏に決まった。大統領の任期は二期八年までだと知ってはいるが、返り咲きについては考えたことがなかったので、今回正直驚いた。調べてみると、過去にも一人だけ返り咲いた大統領がいた。第二十二代、第二十四代大統領を務めたスティーヴン・グロヴァー・クリーヴランドである。今から百三十二年前のことである。初めてではないにしても返り咲きは極めて珍しい。トランプ氏には、選挙集会中に起こった暗殺未遂事件でも驚かされた。彼が「型破り」な人物であることは間違いない。就任後は日本にどのような影響があるのだろうか。
 歌会は十一月十六日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
 
  亡き夫がみやげに買いしパナマ帽
     野分立つ朝友かぶり来ぬ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。亡くなった夫への深い愛情とその喪失感が、パナマ帽という具体的な物を通して見事に表現されている。しかもそのパナマ帽は夫が作者に買ってきたものではなく、土産として友人にあげたもので、友人はそれをずっと大切にしている。「野分立つ」とあるので、季節は秋から初冬ごろであろう。時期としてはパナマ帽には少し遅めかもしれないが、一日の始まりにそれを被って作者に会いに来た。帽子を見た作者は夫のいない のを寂しく感じたかもしれない。ただそれ以上に夫と友人との良きつながりに心が温まったので歌に詠まれたのだろう。
  今年また好きな食材大根の
     おろぬき貰い胡麻和ごまあえにして 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。「おろぬき」とは大根の間引き菜のことで、作者は大根を栽培している農家さんから毎年いただくそうである。何気ない日常のご近所付き合いについて詠んでいるが、「好きな食材」のひと言があることで、贈り主と作者との温かい関係が示され、「今年また」とその関係がずっと続いていることもわかる。いただいた大根を食べることは、作者にとって、ささやかながら喜びや安らぎをもたらす。それに対して感謝する気持ちもよく伝わってくる。口語調の言葉を用いて歌全体が親しみやすい雰囲気になっているからであろう。台所で料理する姿や食卓で食べている姿が浮かんでくる。その胡麻和えは最高に美味しいに違いない。
 
  何処より辿り着きしか流木の
     木彫となりて展示待ちおり 和子
 
 清水和子さんの歌。木彫の展示をご覧になった際に、流木を彫って作られた作品に目を引かれた。様々な場所を漂ってたどり着いた流木には、普通の木にはないドラマのようなものを感じて感慨深い気持ちになられたそうである。この歌は、流木がどこから来たのか、作品はどのような形だったのかなど直接的なことを読者に想像させると同時に、切り倒された木が、川や海など様々場所を漂い、やがて新たな命を吹き込まれるという流木が木彫になる過程が、人生の喩えではないかとも思わせる。言葉使いには古典的な美しさも備わっており、深い意味の込められた素晴らしい歌である。
 
  ひとり去りふたり去りつの今日日なり
     隙間埋め得る一興はありか 弘子
 作者は嶋田弘子さん。寂寥感の漂う歌である。親しい方が亡くなられたり引っ越して行かれたりすることが続いたそうで、その寂しさや喪失感を詠まれた歌である。「一興はありか」という結句にどうしても目が行く。この問いには、見つけなければいけない、きっと見つかるという希望を失っていない作者の心の強さが表れているが、その問いは作者自身だけでなく読者にも投げかけられているようにも思え、果たして答えが見つかるのかという不安な心情もどこかにあるように伝わってくる。多くの人が共感できる歌である。
 
  「ただいま」と大声出せば何となく
     空気和らぐ一人暮らしの 員子
 
 作者は羽床員子さん。シンプルな言葉で綴られているが、作者の心の動きが繊細に表現されている。「ただいま」は本来誰かに向かって発せられる言葉で、誰もいない所での「ただいま」は、寂しさや孤独感を際立たせるが、作者は長くコーラスをされていて、言葉を発することの不思議な力を実感されている。声を出すことで心が安らぎ温かい気持ちになって「空気和らぐ」のである。作者ならではの一首である。
 
  コンビニでコロッケ買ひぬ店員は
     「残り三つ」と答へる霜月 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。日常の一コマを切り取った簡潔な描写の中に多くの意味が凝縮されている。最後の「霜月」の一語でこの歌の物語は動き出す。もう冷え込む季節で、寒さの中、温かいコロッケを求めるという行為は身も心も温まりそうだが、情景を想像すると、温かい食べ物であるならば、おでんではなく、なぜコロッケなのか。さらに揚げ物であるなら唐揚げではなく、なぜコロッケなのかと疑問が浮かぶ。さらにコンビニは一人で立ち寄る人が多く皆無口で店内は静かだろうが、そこに響く「残り三つ」という店員の声の臨場感とその内容が売り切れをちらつかせて客の購買欲を煽るもので、そこで駆け引きが行われている。まるで寸劇を観ているようである。
  橘のかほりも嬉し明日香路は
     亡き父母ちちははたまも生き居て 成秋
 
 濱野成秋会長の作。作者は美しい明日香の地で橘の香りを嗅いでいるうちに父母の魂がこの地に生きているような感覚に包まれている。橘の花の香り、明日香の風景、亡くなった両親の魂が美しく融合されていて読む人に深い感動を与える。この歌に対して言葉はいらない。作者の思いも含めて読めば全てが伝わってくる。
 
  晩秋の風に舞ふ葉が音もなく
     歩める道に影を映せり 裕二
 
 作者の作。秋の終わりに道を歩いていて落ち葉が風に吹かれている光景を見て詠んだ歌である。ある一瞬を捉えているが、空間的、時間的な広がりを感じられるような言葉を選択している。さらに読者によっては、風景描写が比喩であるようにも思えるように、多様な解釈が可能な歌に詠んだ。
 
 今回、会話文を用いた歌が二首あった。会話を入れると歌に臨場感が出る。会話によって口語的になることで、表現も直接的で身近な感じになる。しかし三宅さんの歌は違った印象を受けた。語彙は口語的であるが、文法は文語的とでも言えばよいだろうか、普段の会話では決して使わない表現で、その口語と文語が混じった感じが、日常の象徴とも言えるコンビニを舞台にする歌に不思議な雰囲気を与えている。筆者は歌で会話文を使ったことがないが、その理由の一つは会話を取り入れると長くなり、限られた文字数で表現できないからである。三宅さんのような口語と文語の混合の形にすれば、あるいは会話文を使って自分の伝えたい内容をこれまでにない表現で伝えられるのかもしれない。
歌謡『夜のプラットホーム』に見る
  別れの背景  橘かほり
 
  壱.星はまたたき 夜深く
    鳴り渡る 鳴り渡る
    プラットホームの 別れのベルよ
    さようなら さようなら
    君 いつ帰る

 
 別れの歌は切ない。殊に戦場に送り出す場合は複雑だ。愛する人を死ぬか生きるかの世界に送り出すわけだから。
 戦争とは運次第。隣が死んでも自分は無傷。今の子は戦争を知らないから、こう思うだろう。当時も日中戦争当時やハワイ奇襲の頃はそんな楽観論が多かった。だから送り出す側も陽気だった。「手柄頼むと妻や子が、ちぎれるほどに振った旗」なんて歌まで平気で唄っていた。「露営の歌」では、勝ってくるぞと 勇ましく 誓って故郷を 出たからは 手柄立てずに死なれよか 進軍ラッパ聴くたびに 瞼に浮かぶ 旗の波…と歌うのである。
 ところが昭和17年6月のミッドウェー海戦の大敗北いらい情報作戦で日本は敗戦の連続。それを大本営がいくら大勝利と喧伝しても、帰還兵から漏れ来る情報は悲惨な負け戦ばかり。
 こんな国家ぐるみの操り作戦で鼓舞される民は不幸だが、現代もその種の政策で民を操る国は色々。日本も何もかも真実かどうか、人は公的政策にもっと疑念を持つべしと助言したい。
 歴史談に戻るが、兵隊生活のいいところは飯がたらふく食えることだという発想が濃厚にあった。貧農家庭では次男三男を続々と立派な兵隊にと志願させ、戦場に送り出した。大学生には兵役猶予があったが、それは不公平だと無くなる。インテリ層の大好きなタンゴ調で「夜のプラットホーム」が出た頃はまだ日米開戦以前だったが、暗に反戦? と、軍部は神経を尖らせた。
 
  弐.人は散り果て ただ一人
    何時までも いつまでも
    柱によりそい 佇むわたし
    さようなら さようなら
    君 いつ帰る

 
 機関銃でバタバタ倒れる。生きて帰ったのは、俺一人だよ、という話が毎日のように届くと、単発歩兵銃の兵隊になる戦意が萎える。が、召集令状は絶対だ。予科練に合格した子まで、行くの、いやや、いややと家族にごねて入隊する始末。殉国型の特攻も盛んだった。「別れ」の背景は二つに割れる。当時は多分に公的で、いまのような個人主義では考えられない義務が伴う。「顔で笑って、心で泣いて」となるから、昭和19年の後半ともなれば、神州不滅、連戦連勝は、ウソだろうと多きは思ったが、口に出せないから、切ない。送り出される若者から笑みも消え、送る側も「勝ってくるぞと勇ましく…」の歌もやらなくなる。やがて昭和20年となると、軍部がいくら連戦連勝のニュースをNHKに強制して流しても、東京も大阪も都市部は焼け野原。空しい虚言が「別れ」の背景だった。
  参.窓にのこした あの言葉
    泣かないで 泣かないで
    瞼に焼き付く さみしい笑顔
    さよなら さようなら
    君 いつ帰る

 
 この歌が出たのは日米戦に至る以前で、時の日本では、「出征」とはソ満国境辺りに無理無理行かされることで、後年、外地とは南方を意味した。ところが多くは船倉でぎゅう詰めで寝ていてドカン! 潜水艦に穴を空けられ、闇の海に放り出されて、終わり。
 生死の「別れ」には、そんな闇までくっついていた。筆者は思う、国防は絶対必要だが、この種の「闇」を隠し持つ内国事情ではろくな国防はできん。十中八、九、戦わずして勝つ武士道精神をもって世界中から貴ばれ、東西両方から認められる国力を発揮し続ける以外、存続のすべはない。「夜のプラットホーム」の三番を聴くと涙が出て仕方がないが、そう思う。戦時中に淡谷さんが唄うはずが唄えず、戦後、述懐してNHKのステージでやっていた。気の毒だったが、神々しかった。(了)
歌謡『赤い靴のタンゴ』に見る
  女の半生涯  橘かほり
 
  壱.誰が履かせた 赤い靴よ
    涙知らない 乙女なのに
    履いた夜から 切なく芽生えた 恋の こころ
    窓の月さえ 嘆きを誘う

 
 この歌が出た昭和25年はようやく食えるか飢え死にか、瀬戸際にピりを打った、朝鮮動乱の特需景気のさ中であった。巷は軍国復活キャバレーが氾濫していた。だから高級すぎるタンゴ調で、悩ましく、おぞましく。ピカピカの赤い靴など、高嶺の花。
 歌はまだ男を知らないうぶな少女が、「どうだい、いい靴だろう、履いてみんか?」と悪の誘いにかかる。「何も知らない乙女」を「涙しらない」と書いて胸ときめかす。昭和30年代に出た『赤線地帯』という映画では、赤い靴ならぬ親子丼の旨さに驚嘆した貧農出の子がその道に染まる誘惑の第一歩の描写がある。月を見ても自分の境遇との落差に涙する純真ぶり。進駐軍のダンスホールにぴったりで。
 
  弐.なぜに燃え立つ 赤い靴よ
    君を想うて 踊るタンゴ
    旅は果てなく 山越え 野超えて 踊るタンゴ
    春はミモザの花も匂う
 当時やたらと出来たダンスホールにキャバレー。オールナイトでダンサーは客を取る。クリスマス期には郊外電車までオールナイト。赤い靴の乙女も求められるままベースからベースに。軍国キャバレーからキャバレーへ。また一年、春となりました、で。
 
  参.運命さだめかなしい 赤い靴よ
    道はふた筋 君は一人
    飾り紐さえ 涙で千切れて さらば さらば
    遠い汽笛に 散りゆく花よ

 
 靴ほど悲しい宿命を背負った身繕い道具はない。どんなに好かれ愛されても、いずれはボロ靴になり、見棄てられる運命に。
 この赤い靴も愛された挙句にぼろぼろ。何と、国内にいる恋人を振り捨て海外に。つまり進駐軍と結婚して船に乗る。憧れのハワイ航路かもしれぬ。ダンサーの仕事にさらば、さらば。赤い靴は出航と共に海に捨てられ、波の間に間に視え隠れ。沈んでいく。
 作詞者は西条八十。君は早稲田は仏文の教授である。アルチュール・ランボーの研究家だよね。だのに、よくもまあ、女の半生涯をこんな短い詩の中に描き込んだものだ。当時の世相も、それに流される女の情念も一緒くたに描く君は怪物である。
雨月物語 断章 朽木篇
                   橘かほり
  
 人の世は断章で出来ている。
 起承転結がありそでない。
 世の中が騒乱の渦の中で生きる家族なんぞ、気の毒だが、そこに確かな拠り所など、縋れる糸口さえ見当たらぬ。
 古今東西、人は断章の、脈絡ない繋がりに調和を求め、或いは調和を施さんと足掻くが、思い通りには運ばぬ。投げ出して諦めるほか、手立てがないのが普通である。
 
 上田秋成の『雨月物語』のプロトタイプは千葉県の真間の手児奈だというが、その奇態な妖怪霊魂は能楽に端を発する。それをそっくり湖北にして再生した溝口健二の『雨月物語』もまた彼の独占物に非ずして、ここに描く『雨月物語』朽木編もまた然り。その誘因地帯を異にして、日本の古典にみる愛欲憎悪のどろどろ地帯を描くものなり。
 
  一、誘因地帯
 
 賤ケ岳や湖北といえば、今では写真家の聖地である。峩々たる岩山から下れば葦の湿原。茫漠たる湖の岸辺に立てば、戦国時代に戻れる。だがこの霊地では世人の侵入をゆるさない怖さを宿しているばかりではない。
 賤ケ岳は今も鬱蒼たる山々。朽木の隠れ里は村全体が妖気に包まれている。だから憑りつかれて二度、三度と行きたくなる。誘因の怪地である。
 本当か?
 疑うなら行ってみるといい。むら外れの卒塔婆群の前で耳を聳(そばだ)てよ。ずだん、ずだん! 今も鈍重な種子島の炸裂音が響き渡る。
 賤ケ岳は古戦場として名高い。急峻すぎて分け入れない。いまだ片づけられない折れた刀やちぎれた具足が散らばる。種子島の音が今日も岩々に響き渡る。 
 朽木では、狐雨となり、斜陽の中に朽ちた御殿が浮かび上がる。夕刻。薄明を突いて絶え絶えに聞こえる姫の声が渓谷を這い上る。
 もう四百年も前に潰えたはずだ、この地の集落跡は。だが今も物見岩では断首刑の血潮が飛沫となって君の顔面に降り注ぐ。逆転の歴史に打ち震える戦慄は君を現実社会というフェイクな空間から救ってくれよう。
 
  二、火と炎の地
 
 柴田の軍勢が自分の領地に飽き足らず踏み込んで来た?
 北国へ追いやったのも束の間、勢力を盛り返したらしい?
 柴田や羽柴の名を借りたありきたりの歴史を拭い捨て、鉄砲野盗(のぐさり)が凌辱を恣(ほしいまま)にする現象社会に降り立つとよい。生暖かい霊気が毎夜のごとく枕元に立つ。
 朽木や賤ケ岳だけではない。湖北一帯の村々に人を吸い寄せるには、そこに人間臭い生活以上の愛憎がなくてはならぬ。
 離れんとして吸い寄せられる。それにはわけがある。
 土地と火だ。
 良質の粘土が採れる。丹波や信楽系の粘土はやたら高度な焼き上がりを好む。赤松の、脂(やに)をたっぷり含んだ丸たんぼうは登り窯で千度の高温で燃え盛る。焼いた茶碗や皿は土気臭くない。灰が釉薬となり、窯変を創って好まれる。
  三、妖魔の錬金術
 
 ここに登場する源十郎はその虜になった。彼の一家や、その弟の藤兵衛夫婦は朽木とは深山を隔てた山里に住み着いた。ここなら軍勢も来まい。焼き畑で米も出来る。登り窯で陶器を焼いて、坂本や大津、果ては長浜まで運んで売れば、結構な金になる。粘土と赤松。ここでも狐雨。薪あるところ、生活にゆとりが出来る。
 だが浅井、朝倉を巻き込んで秀頼と勝家の戦となれば…
 「ここは危ない。今に俺たちも襲われるぞ…」
 村人にとって怖いのは勝家でも秀吉でもない。
 飢えた侍どもが村々を襲って食い物を漁る。拒まれると槍で一刺し。娘はかどわかす、若者は忍苦に。捨て石に使われる。高台に登って遠く、琵琶湖の方に目を凝らす。
 
  四、源十郎一家
 
 「おうい、どうだ、攻めて来よるか」
 「暗くてよく見えん」
 「おい、あっち、見てみぃ、稲を踏みつけやがって、こっちに向かってやってくるぞ…」裸足で駆け降り、「この勢いじゃ、村の衆もみな殺しじゃ、山に逃げるしかないぞ!」
 草葺き屋根の家々から赤子を抱き子供の手を引き…庄屋さんの指示に従い、里山に向かう。
 ところが逃げもせず、見送りながら平然としている奴がいる、「へっへ何の心配が要るか!、俺は羽柴様につくぞ。羽柴の殿様の家来になって出世してやる」
 ぼろで肩綿を縫い足した男の独り言に脇の男が顔を顰(しか)める。
 「藤兵衛! この馬鹿野郎、刀の扱い方も知らんで…お前なんぞ苦役にこき使われるのが関の山じゃ」
 言ったのは兄の源十郎だった、「藤兵衛、そんな夢より、食い物が先、出世より女房子供が大事だ」「わかってるよ、兄い、じゃが俺は百姓はもう懲り懲りじゃ…いくら作っても何もかも持って行かれる」
 「さあ、そこでじゃ…藤兵衛、百姓じゃ食えんが、ほうれ、今焼いとる瀬戸物があるぞ」と目の前の登り窯を指す。小窓から炎がめらめら燃え盛る。それに赤松の薪を放り込み、炎を泥板で塞いで、「この中にゃ小判の元がある…湖(うみ)を渡って向こう岸は長浜じゃ。お前の好きな羽柴様のひざ元じゃ。ええ商売ができるぞ」
 「そうか、小判になるか」
 「なるとも。それで阿浜を喜ばせてやれ…阿浜も子供が欲しいんじゃ。母親になりゃお前にも優しくもなる」
 藤兵衛は我が家に目をやり、いましも凄い剣幕で出てきた女房を見ながら、
 「いいや兄い、俺は兄ぃみたいに、優しい、美人の嫁に恵まれなんだ…同じかかあでも阿浜は怒鳴るばかりじゃ…それよか侍がええ。これからは槍じゃ、鉄砲じゃ…偉くなりゃ、いくらでも優しい女子(おなご)に惚れられるわい」
 「おい、阿浜に聞こえるぞ。…足軽鉄砲隊になったぐらいじゃ、女から相手にされんわい」 
 
  五、妻の秘密
 
 兄の源十郎には好きあって添い遂げた妻の宮木とまだ三つの息子がいる。
 宮木は湖尻の大津から故あって着の身着のまま逃げてきた素性の判らぬ女子だったが、色白で指の流れも百姓の手とはちがう。握ると源十郎の掌(たなごころ)の中でもがく白魚のよう。もしや遊女? そのうち女衒が探しにくるか…いいや、この物言い、気品のある薄化粧…何もかも見知った村娘とはちがう妖艶さだ…
 宮木は元は姫さま? 巫女? それとも雪女?
 用心せい、源十郎よ、素性の悪い女は子を作ってもすぐ他所へ
 という親の反対を押し切って夫婦になっただけあって、幸せな家族を作らねば死んだ親に申し訳が立たない。
 「宮木さんは高貴な家柄…あの白い肌をみれば…」
 死に際に父親(ててご)はそう言う、「身分不相応な…源十郎…あるいはもしや…」
 あとは言わないが、聞かんでも判る。戦乱の果てに苦界に…と言いたいらしい。「そんなに気にいったのなら、お前が働いていい着物(おべべ)でも着せてやらにゃ…」
 宮木に手の汚れる百姓をさせては、折角の夫婦も続くまいと言い遺した父親の言葉を思い出す。
 
  六、血脈の秘密
 
 「兄やん、また上等(ええ)小袖、買うてやるのか、姉さまに。ええな、ええ嫁御でな、こっちの嫁は…」
 言いかけたところで阿浜に見つかった、「藤兵衛! 藤兵衛! このぐうたら野郎」と、首根っこを掴まれた。
 「兄ぃ、ほらこの調子じゃ、村娘を貰うと毎日怒鳴りよる」
 「元気で何よりだ、阿浜は」
 俺はな、兄い、と語りだした。「俺が一国一城の主になりたいのはな、阿浜よか、宮木みたいな、別嬪がええ…
 「馬鹿なこと言うもんじゃないわい」と阿浜は藤兵衛の頭を叩く。「兄さま、許してやっておくんなさい、この人は宮木さんを盗ろうなんて思うとるわけじゃない…だけんど、わたしって者がありながら…」とまた藤兵衛の頭を小突きまわす。
 藤兵衛は頭を抱えて「わしにはもっと優しい南殿がええ」
 「南殿? あの竹生島の?」と、阿浜。
 「ああ」と答え、「…いかんか? お前もあん娘(おなご)のようにならんか」
 「あはは。ありゃあ…お姫様ぞな、今じゃ…もう人の妻」
 「知っとる、羽柴秀吉様のお妾さん」
 「しいっ」と、源十郎は口に指を立て、「…聞こえたら首が飛ぶぞ」
  七、里山の兄弟
 
 そうこうするうちに村人は大半が里山に入ったらしい。
 宮木が出てきた。「藤兵衛さん阿浜さん、ここは直ぐ見つかる…」
 遠くから走ってくる村人。おい、早くせんと…さすがの源十郎も藤兵衛も行きかける。
 「おい源十郎!藤兵衛! 早うせんか!」名主の顔が藪の間から見える。「村の衆が隠し畑で飯を炊いておる…早う! 早う!」と手招きする。
  二人は顔を見合わせ、走り出す。
 里山に潜り込めばよそから来た雑兵は撒ける。「おっと…宮木だ…坊主も一緒だ」と源十郎は弟を待たせて家に跳び込み、子が首にぶら下がる妻を連れて出てきた。あれ? ではさっきの宮木は?
 宮木は先をゆく。今出てきた宮木も小太郎も同じだとすれば…わからない。
 まるで狐に摘ままれたようじゃ…
 「ほらもう握り飯を作りましたよ」宮木の声。「竹の皮の一つが藤兵衛にもわたる。それを懐に、細い獣道(けものみち)をよじ昇る。
 後を追って阿浜は鍋一杯の稗と味噌、塩…袋づめの米も。
 「姉さん、この袋…」
 手渡されて宮木は目に一杯涙を浮かべて、ほんとにありがと、阿浜さまのお陰で…と、頭を下げると、それを抱き支えて、源十郎に目をやり、「兄さん、後生だからこの藤兵衛に小判、やったらあかん、この男、ろくなもの買わんでな…」
 「長浜へ行ったら…なあ、兄い、たっぷり儲けて、具足を買う、手柄立てて
 阿浜、腰抜かすぞ、家来と一緒に里帰りしたら…」
 「この馬鹿め、また言うとる。百姓は…」「秀吉さまを見ろ、百戦百勝…」
 里山の雑木林を燃やして作った隠し畑で村の衆は家族ごとに夕餉の支度。隣の畑から煮干しが来た。こっちから黍団子を返す。百姓は何だかんだ言うても、この助け合いで生き永らえるで、と村長が見回りに来ていう。「そうですとも、宮木、うちの村さ嫁に来てよかったな、あすは長浜じゃ、ここでいつまでもおれん、宮木も阿浜も来るか?」
 源十郎がいうと、阿浜はおずおず、「舟で渡る?」
 「阿浜、漕ぐのは得意だろう?」
 「海賊が出よるぞ、昔のようなわけにいかん」と阿浜。
 結論が出ない。
 見ると藤兵衛が居眠りし始めた。阿浜は源十郎の子をあやしていたが、宮木と一緒に藁しべを重ねて寝床を造り、明日のことは、明日考えよう…
 焚火を消して暗闇になる。
 
  八、船幽霊
 
 朝もやを突いて、湖畔に出る。子供がぐずる。宮木がおっぱいをやる。
 「おい、あった!…ああ、御仏様のお陰じゃ」
 源十郎は破船ばかりの岸辺に腐りの少ない、櫂のある伝馬船を探し出す。
 風だ、雨交じりの。
 この船、漕ぎだして、持ち主の漁師に見つかれば…と、宮木は懐から革袋を出す。源十郎はその口にきらりと光るものを見た。小判か? 頷く宮木。有難い、お前様のために…
 藤兵衛と二人で村に取って返して窯の土を壊して、中からこぼれ出た茶碗、皿、壺、「…おお、見事な窯変…」
 薄明に晒して源十郎は藁しべでまだ熱を持つ焼き物を車に乗せる。
 海賊も明け方は寝ている。それを見越して一跨ぎすれば明け方は長浜だ。皆で行くべし。
 源十郎の誘いに応じて二家族が漕ぎだした。朝もやの中、ゆるゆる進む。どっちが東か…下手をすると大きな円周を描いて、同じ岸辺に着く。だが、幽かな明かりを頼りに進むほかない…
 小半時も漕ぐ。向こうから舳先がこっちに向かって…海賊に見つかったか?
 「いや、誰も乗ってない…」
 …と、顔を擡(もた)げた。その形相! 血だらけ…
 「船幽霊…」宮木の喉から上ずった声。俯いて…「なぜにそなたは私に憑りつくぞ!」
 そのまま顔を伏せる宮木の肩を両手で抱いて「姉さましっかりされませ…」阿浜は「怨霊よ去れ!」
 気強く叫ぶと相手は「幽霊じゃない…」
 血だらけの形相で口をゆがめ、「やられた、海賊に…俺は竹生島の漁師だ…姫を夜陰に乗じて島から連れ出せと殿様が…湖北の朽木まで行けば味方が待つはず…だが、やられた」
 後ろの積み荷にかけた莚(むしろ)が動く。
 「姫というたか?」と藤兵衛。「…ではもしや南殿?」
 と、莚の下から、衣笠を被った女が青白い顔をみせた。
 「おお、忘れもしない、おぬしは姫じゃ、姫じゃ!」源十郎は小躍りせんばかり。「俺を覚えているか、まだ小女だったみぎり、溺れていたのを、俺が舟で引き上げた…ああ、その目、そのくちびる…わしは一目でお前さまのことが…」
 「何という、はしたないぞ藤兵衛! わたしって者がありながら」阿浜は怒る。「今更そんな…あっ!」
 顔を覗き込んで阿浜はそなた…なんと宮木姉さまにそっくりではないか!」
 と、宮木の顔を覗く。ぐったりした宮木は目を閉じたまま。「お姉さま!」と頬を叩く阿浜。「気を失われたか…」
 宮木は目を閉じたままだ。もしやこと切れたかと阿浜が顔を叩くと、宮木は切れ切れに…「そなた…そなた、秀吉さまの長浜城に行かれたのでは?」
 「いいや、あれは替え玉じゃ、お姉さま」
 「それではお二人は…」源十郎はあらためて自分の妻の生い立ちを知ってたじろぐ。「しかし、もう俺たちには小太郎という子まで…引き離されてなるものか、と我が子を抱きすくめる。いくら秀吉が金持ちでも妻ある身、側女(そばめ)をとるなんぞ、なんとも無体な。許すまじ…わしはいやじゃ」
 「当たり前よ、兄さま、宮木さんには次の子まで…」
 「本当か? わしは聞いておらん、宮木、それは…」と蒼白な宮木の顔を覗く。朝霧の中、わが妻よ、子よ…
 舟のゆれるも構わず抱き寄せる源十郎。
 「宮木、身分のことは忘れてわしと小太郎と生まれて来る子と貧しいながら一緒に暮らそう」というと、宮木は何度も頷いて、わたしもその積りでござりますると、薄目を開いて源十郎を見上げる。「そうか、そうか…良い嫁をもろうた、御仏のお導きじゃ…」
 言いながらも不安なのであろう、源十郎ははらはら涙を流し続けた。(了)