日本浪漫歌壇 秋 霜月 令和六年十一月十六日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 四年に一度と言えば、オリンピックを思い浮かべる人が多いだろう。今年はパリでオリンピックが開催された。最もメダルを獲得した国はアメリカ合衆国だったが、そのアメリカでは、オリンピックの年に四年に一度の大統領選挙が行われる。数日前に選挙結果が出て、次期大統領がドナルド・トランプ氏に決まった。大統領の任期は二期八年までだと知ってはいるが、返り咲きについては考えたことがなかったので、今回正直驚いた。調べてみると、過去にも一人だけ返り咲いた大統領がいた。第二十二代、第二十四代大統領を務めたスティーヴン・グロヴァー・クリーヴランドである。今から百三十二年前のことである。初めてではないにしても返り咲きは極めて珍しい。トランプ氏には、選挙集会中に起こった暗殺未遂事件でも驚かされた。彼が「型破り」な人物であることは間違いない。就任後は日本にどのような影響があるのだろうか。
 歌会は十一月十六日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
 
  亡き夫がみやげに買いしパナマ帽
     野分立つ朝友かぶり来ぬ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。亡くなった夫への深い愛情とその喪失感が、パナマ帽という具体的な物を通して見事に表現されている。しかもそのパナマ帽は夫が作者に買ってきたものではなく、土産として友人にあげたもので、友人はそれをずっと大切にしている。「野分立つ」とあるので、季節は秋から初冬ごろであろう。時期としてはパナマ帽には少し遅めかもしれないが、一日の始まりにそれを被って作者に会いに来た。帽子を見た作者は夫のいない のを寂しく感じたかもしれない。ただそれ以上に夫と友人との良きつながりに心が温まったので歌に詠まれたのだろう。
  今年また好きな食材大根の
     おろぬき貰い胡麻和ごまあえにして 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。「おろぬき」とは大根の間引き菜のことで、作者は大根を栽培している農家さんから毎年いただくそうである。何気ない日常のご近所付き合いについて詠んでいるが、「好きな食材」のひと言があることで、贈り主と作者との温かい関係が示され、「今年また」とその関係がずっと続いていることもわかる。いただいた大根を食べることは、作者にとって、ささやかながら喜びや安らぎをもたらす。それに対して感謝する気持ちもよく伝わってくる。口語調の言葉を用いて歌全体が親しみやすい雰囲気になっているからであろう。台所で料理する姿や食卓で食べている姿が浮かんでくる。その胡麻和えは最高に美味しいに違いない。
 
  何処より辿り着きしか流木の
     木彫となりて展示待ちおり 和子
 
 清水和子さんの歌。木彫の展示をご覧になった際に、流木を彫って作られた作品に目を引かれた。様々な場所を漂ってたどり着いた流木には、普通の木にはないドラマのようなものを感じて感慨深い気持ちになられたそうである。この歌は、流木がどこから来たのか、作品はどのような形だったのかなど直接的なことを読者に想像させると同時に、切り倒された木が、川や海など様々場所を漂い、やがて新たな命を吹き込まれるという流木が木彫になる過程が、人生の喩えではないかとも思わせる。言葉使いには古典的な美しさも備わっており、深い意味の込められた素晴らしい歌である。
 
  ひとり去りふたり去りつの今日日なり
     隙間埋め得る一興はありか 弘子
 作者は嶋田弘子さん。寂寥感の漂う歌である。親しい方が亡くなられたり引っ越して行かれたりすることが続いたそうで、その寂しさや喪失感を詠まれた歌である。「一興はありか」という結句にどうしても目が行く。この問いには、見つけなければいけない、きっと見つかるという希望を失っていない作者の心の強さが表れているが、その問いは作者自身だけでなく読者にも投げかけられているようにも思え、果たして答えが見つかるのかという不安な心情もどこかにあるように伝わってくる。多くの人が共感できる歌である。
 
  「ただいま」と大声出せば何となく
     空気和らぐ一人暮らしの 員子
 
 作者は羽床員子さん。シンプルな言葉で綴られているが、作者の心の動きが繊細に表現されている。「ただいま」は本来誰かに向かって発せられる言葉で、誰もいない所での「ただいま」は、寂しさや孤独感を際立たせるが、作者は長くコーラスをされていて、言葉を発することの不思議な力を実感されている。声を出すことで心が安らぎ温かい気持ちになって「空気和らぐ」のである。作者ならではの一首である。
 
  コンビニでコロッケ買ひぬ店員は
     「残り三つ」と答へる霜月 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。日常の一コマを切り取った簡潔な描写の中に多くの意味が凝縮されている。最後の「霜月」の一語でこの歌の物語は動き出す。もう冷え込む季節で、寒さの中、温かいコロッケを求めるという行為は身も心も温まりそうだが、情景を想像すると、温かい食べ物であるならば、おでんではなく、なぜコロッケなのか。さらに揚げ物であるなら唐揚げではなく、なぜコロッケなのかと疑問が浮かぶ。さらにコンビニは一人で立ち寄る人が多く皆無口で店内は静かだろうが、そこに響く「残り三つ」という店員の声の臨場感とその内容が売り切れをちらつかせて客の購買欲を煽るもので、そこで駆け引きが行われている。まるで寸劇を観ているようである。
  橘のかほりも嬉し明日香路は
     亡き父母ちちははたまも生き居て 成秋
 
 濱野成秋会長の作。作者は美しい明日香の地で橘の香りを嗅いでいるうちに父母の魂がこの地に生きているような感覚に包まれている。橘の花の香り、明日香の風景、亡くなった両親の魂が美しく融合されていて読む人に深い感動を与える。この歌に対して言葉はいらない。作者の思いも含めて読めば全てが伝わってくる。
 
  晩秋の風に舞ふ葉が音もなく
     歩める道に影を映せり 裕二
 
 作者の作。秋の終わりに道を歩いていて落ち葉が風に吹かれている光景を見て詠んだ歌である。ある一瞬を捉えているが、空間的、時間的な広がりを感じられるような言葉を選択している。さらに読者によっては、風景描写が比喩であるようにも思えるように、多様な解釈が可能な歌に詠んだ。
 
 今回、会話文を用いた歌が二首あった。会話を入れると歌に臨場感が出る。会話によって口語的になることで、表現も直接的で身近な感じになる。しかし三宅さんの歌は違った印象を受けた。語彙は口語的であるが、文法は文語的とでも言えばよいだろうか、普段の会話では決して使わない表現で、その口語と文語が混じった感じが、日常の象徴とも言えるコンビニを舞台にする歌に不思議な雰囲気を与えている。筆者は歌で会話文を使ったことがないが、その理由の一つは会話を取り入れると長くなり、限られた文字数で表現できないからである。三宅さんのような口語と文語の混合の形にすれば、あるいは会話文を使って自分の伝えたい内容をこれまでにない表現で伝えられるのかもしれない。
日本浪漫歌壇 夏 水無月 令和六年六月二十二日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 来月に新しい紙幣が発行される。約二週間後のことであるが、とくに盛り上がっている様子もない。そもそもお札で重要なのは金額であって、デザインはほぼ気にしていないというのが実際のところではないだろうか。誰が肖像になっているのかは知っていても、細かいデザインまでは思い浮かべることができないのではないか。新札発行は、このところ約二十年に一度の恒例行事になっている。偽造防止や誰にとっても使いやすいように実用面での改善で新札は発行されるが、実用とは関係ない楽しみがあってもよい。多くの人にとって新札発行の関心は、選ばれる「偉い」日本人は誰かという点のみで、高額な方から偉人ランキング「横綱」「大関」「関脇」のように見て楽しんでいる気がする。気が早いが次回の肖像画はだれになるのだろうか。
 歌会は六月二十二日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の七氏と河内裕二。
 
  花冷えの庭園めぐりに着物着て
     熟女はしかとスニーカー履けり 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。着物にスニーカーという組み合わせから、着物を着ていて上品でありながら、おしとやかというよりアクティブな感じがする。型にはまらない自由な着こなしはお洒落上級者で都会的な印象を受ける。「熟女」という言葉が重要である。若者ではちぐはぐに着物を着ていると受け止めてしまうし、高齢の女性では足が悪いのだろうと想像してしまう。
 
  「歩いてる」医師に問われて時々と
     愛犬逝きて散歩義務なし 光枝
 作者は嘉山光枝さん。犬を飼っていると散歩に行くので運動になるとはよく言われることである。作者は四年前に飼い犬が亡くなり日課として歩くことはしなくなった。下句の「愛犬逝きて」からは哀感が伝わってくる。この言葉により、犬が居なくなったので歩かなくてもよくなったという気持ちではなく、愛犬と歩くから歩くことには意味や価値があったという気持ちが表現されている。
 
  階段をあえて選んでゆっくりと
     ひとりふたりと追い越されつつ 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。階段を上っているシーンが見えてくる。足が衰えないように階段を使用する作者の努力に対して、当たり前に階段を上っていく人たちの軽やかな足どりは、どこか残酷な感じもするが、二句の「あえて選んで」の一言により、人はどうであれ自分は我が道を行くのだという決意が静かに宣言されている。日々自分と向き合う作者だからこそ詠めた歌である。
 
  なるようにしかならないと覚悟決め
     七十八歳明るく生きる 員子
 
 作者は羽床員子さん。現在の日本の平均寿命から考えて七十八歳で覚悟を決めるのはまだ早いだろうという意見が多かった。この歌は結句の「明るく生きる」にアクセントが置かれているので、そのためには上句のような覚悟をしないといけないと思ったのだろう。その覚悟は諦めではなく、どんなことでも正面から受け止める前向きの覚悟である。どんなことがあっても明るく生きるのだと自分に言い聞かせている歌である。
 
  百年ももとせの悲恋を抱えし坂田山
     青葉に語らめ穢れなき愛 成秋
 濱野成秋会長の作。坂田山は大磯にある山で昭和七年に若い男女の心中事件が起きた。この事件を題材に映画『天国に結ぶ恋』が作られ、映画を観た多くの男女が坂田山で心中を試みた。そのことを知る人は今ではほとんどおらず、純愛を貫いて亡くなった若い人たちのことを今の若者にも語るべきで、そのような思いから詠まれた重みのある歌である。斎藤茂吉は心中事件が頻発した昭和七年に次のような歌を詠んでいる。
 
  心中といふ甘たるき語を発音するさへいまいましくなりてわれ老いんとす 茂吉
     
 
  泰山木咲くのを待てり友は逝き
     今は何処に白い花影 和子
 
 作者は清水和子さん。食堂からは泰山木が見えて五月、六月になると白い花が咲く。毎年花が咲くのを楽しみにしていた友人とは泰山木が咲いたよと言うのが朝の挨拶だった。それが十年以上続いていたのに、今年友は泰山木が咲く前に亡くなってしまった。彼女のことを思い出すときには、いつも泰山木の白い花と一緒とのことで、下句はどこか幻想的である。
 
  緑道に整備と掲げ一日ひちひにて
     消えし街路樹鳥のこゑなし 裕二
 
 作者の作。家の前の緑道が一日にして変貌した。大きな街路樹が並び灌木が茂る緑豊かで緑道と呼ぶに相応しい歩道だったが、ある日仕事から戻ると木々の一本もない見慣れない風景が広がっていた。ときどき木の剪定が行われていたが、フェンスが張られたことはなかったので、長い距離に渡ってフェンスが張られた前日に、立てられていた説明看板を見に行った。作業内容については、緑道の整備とだけ書いてあった。まさか木々を根こそぎ切り倒し排除するとは思わなかった。そこで何十年もかけて育った木を無感情で切り倒す作業が行われたのを想像すると怒りと悲しみが込み上げてきた。次の日、木が無くなったことで鳥の鳴き声も消えてしまったことに気づきさらに悲しい気持ちになり歌を詠んだ。
  感染症いつでも誰でもかかりをり
     真夏日続く六月の朝 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。最近になってまたコロナウィルス感染症が少し増えてきているようである。熱中症に注意が必要なほどの暑さの中でコロナに感染して高熱を出せば体への負担はさらに大きくなる。実際に一年前に作者は経験したそうである。六月なのに真夏日が続き、さらにコロナにかかる。自分の身に降りかかった不運を「いつでも誰でもかかりをり」と抽象度を上げて表現するところにこの歌の面白さがある。
 
 短歌の決まりは五・七・五・七・七の三十一音にすることぐらいで、他にこれといった決まりもなく、かなり自由に作歌することができる。音数についても字足らずや字余りも大丈夫なので、三十一音も絶対的なものでもない。また、カッコや句読点を使ってもよい。カッコを使用すれば会話を入れることができるし、句点を打つことでも同様かもしれない。アルファベットが入ってもよい。今回嘉山さんの歌は初句にカッコを付けることで、歌全体が上手く組み立てられた。筆者はカッコや句読点を使ったことがない。効果的で表現の幅が広がるのであれば使うこともやぶさかでないが、できる限りオーソドックスな形で表現する努力をしたい。
日本浪漫歌壇 春 皐月 令和六年五月十八日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 数字を語呂合わせにするのはよくあることで、本日五月十八日は、「五」と「十」と「八」で「ことば」となり、日本記念日協会は五月十八日を「ことばの日」としている。同協会によると、「ことばの日」としたのは、「ことば」を大切に使い、「ことば」によって人と人とが通じ合えることに感謝し、「ことば」で暮らしをより豊かにすることが目的とのことである。歌会を行うのにこれ以上ふさわしい日はないであろう。
 歌会は五月十八日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。三浦短歌会の嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
 
  春野菜いく種も並ぶ無人店
     新じゃがを買い今日の夕餉に 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。無人販売で自動販売機などを使わずにお客自身が商品代金を置いてゆく場合、不正が行われないことを前提としているが、残念なことに実際には売上合計が少ないことがほとんどだそうである。それでも無人店で販売するのは、商品を安く提供したいからで、それは買う方にとってもありがたい。嘉山さんもよく利用するとのこと。新鮮な野菜が安く買えて、それを美味しくいただく。一部の心ない人のためにそれができなくならないか心配しながらこの歌を詠まれた。
 
  スーパーでママの買い物待つパパの
     幼はパパの股くぐり遊ぶ 由良子
 作者は加藤由良子さん。実際にスーパーで見かけた家族について詠まれた歌である。混み合った店内で母親が買い物をするあいだ父親と子供が持っている。子供はまだよちよち歩きでとても可愛く微笑ましい光景だったそうである。「スーパー」「ママ」「パパ」とカタカナ語の響きが良いリズムを奏でていて単調な調子になるのを避けている。
 
  なぜなぜと動かぬ体に腹を立て
     九十五年の感謝忘れて 和子
 
 清水和子さんの歌。年をとれば誰でも体の動きは悪くなる。それを嘆くのではなく怒るところに作者のエネルギーが感じられ、まだまだお元気なのが伝わってくる。しかも下句で怒った自分を客観視する冷静さも示され、体だけでなく心もお元気である。清水さんでなければ詠めない歌である。
 
  朝夕べ野栗鼠は来たりわが庭の
     夏柑食す五月の御馳走 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。三浦にはリスがたくさんいて、人にも慣れていて家の庭などにも平気でやって来るそうである。作者は実際に庭の夏柑を食べられたが、わざわざ食べに来るのだからあの酸っぱい夏柑もリスにはごちそうなのだろう。しかも頻繁にやって来る。リスはその体型や動きが可愛らしく見えて得をする。食べられても何だか許したくなってしまうのではないだろうか。歌からは怒りは全く感じられない。リスにどこか癒やされているようでもある。
 
  なりふりも構はず急ぐ若者の
     睨みつけたる赤信号機 裕二
 筆者の作。朝の通勤・通学時間帯に歩道を全力で走っている若者を見かけた。制服姿なので高校生である。寝坊でもしたのか、遅刻を免れるために必死なのだろう。自分も高校生の時には同じような悪あがきを何度もくり返したので気持ちがよく分かる。そんな一刻を争う時に信号が赤になると怒りが込み上げてくる。さらに行く先々でも赤信号となるとやがて怒りが絶望に変わる。真剣な高校生には申し訳ないが、昔の自分を思い出して、懐かしく可笑しい気分になった。
 
  飛鳥川子等と遊びし日々もとめ
     歩めど叫べど天空深し 成秋
 
 濱野成秋会長の作。明日香村は風致地区なので今でも田んぼなどが残っていて美しい風景が広がっている。作者はおばのお墓もあり、明日香村を訪ねた。子供の頃に飛鳥川で遊んだことがあるが、その時に一緒に遊んだ子たちはどうなったのかなどと思って、今その場所を歩いてみても、彼らの名前を叫んでみても当然誰もいない。思い出だけが自分の中に残る。歴史的なものが多く残る場所で、詠まれていることが味わいを深めている。さらに結句「天空深し」で時間的だけでなく空間的にも広がってゆく。
 
  年老いた我を見つめる娘居り
     娘のくるを見つけた我居て 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。母親、自分、娘に渡って重なる歌で、それぞれが同様の経験をしていると思えば、「我」と「娘」は自分と娘であり、また母親と自分でもある。
みな年をとるが、母が老けるのを見る娘は寂しい気持ちで、娘が老けたのを見る母親は複雑な気持ちだろう。自分と娘のことであれば話は単純だか、そこに自分もかつて娘だったという視点を持ち込むことで時間軸を変えて、自分の母親をも含めるのが作者の非凡なところである。
  白樺の新芽の葉先の雨粒が
     真珠となりて朝日に耀う 員子
 
 作者は羽床員子さん。光景が目に浮かぶ。四句はもともと「ひとつぶ降りて」という句を考えられたが、「真珠となりて」に変更された。この変更がなければ、美しい言葉は並ぶものの説明文になっていた。「真珠となりて」を入れたことで説明文になるのを回避し、趣のある詩となった。
 
 短歌は身近なことを詠うことが多い。三浦の歌会では野菜などの食べ物が歌によく出てくる。周りには畑も多く、家庭菜園をしている方もおられるので、そうなるのだろう。今回も嘉山さんと三宅さんの歌には出てきている。考えてみると、筆者には食べ物に触れた歌が極端に少ない。おそらくあってもわずか二、三首だろう。人間にとって最重要で理解や共感を生みやすい食べ物をうまく活用すれば、歌の幅が広がるのではないか。そう思った。
日本浪漫歌壇 春 卯月 令和六年四月二十日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 今年は三月下旬に寒の戻りがあり、桜の開花が平年より遅くなった。日本では入学式に桜というイメージがあるが、温暖化の影響なのか近年は開花が早まる傾向にあり、ここ何年も満開の桜の下で入学式を迎えたことはなかった。そもそも四月入学は世界では日本ぐらいのもので、会計年度が四月から始まるのでそれに合わせたためである。ただ、満開の桜ほど入学を祝う雰囲気にふさわしいものもなく、今年は久しぶりにイメージ通りの入学式になり喜ばしい気持ちになった。今後温暖化が進み、桜の開花がさらに早くなっていけば、いずれは桜が卒業を祝うものになるのかもしれない。
 歌会は四月二十日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の七氏と河内裕二であった。
 
  「良くぞケッパッタ!」の声援とんで
     六十才差の尊富士まぶし 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。大相撲春場所で百十年ぶりに新入幕力士で優勝を飾った尊富士の相撲から目が離せず、見られないときには録画までして每日欠かさずに見たとのことである。尊富士の出身地である青森の方言で「がんばった」を「けっぱった」と言うらしく、最終日の場内で一際大きく「よくぞけっぱった」という声援がとんだ。作者には孫よりも若い力士の活躍が眩しかったそうである。尊富士というしこ名もよい。来場所も楽しみである。
  ピカピカの一年生等帰り道
     話しに夢中歩み進まぬ 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。光景が目に浮かんでくる。「ピカピカの一年生」とは小学一年生向けの雑誌のキャッチフレーズでもあったと思うが、これほど入学したばかりの小学生をうまく表現できる言葉もない。新入学で学校では緊張感もあるだろうが、帰り道にはそれから解放されて仲の良い友人と楽しく話しながら家に戻る。時代を超えて見られる光景だろう。しかし最近は少子化で子供の数も少なくなったので、多くの地域ではクラス数も減っていて、新一年生もみなよく知った者同士という感じなのではないだろうか。いったいどんな話をしているのかなどと考えてみても楽しい歌である。
 
  電車来て乗る私にあたたかき
     手を差しくれし忘る日はなし 和子
 
 清水和子さんの歌。電車に乗るときに前に並んでいた人が振り返って手を差し出してくれたことがあった。その手の温もりが忘れられないという歌である。電車とホIムには隙間や段差があり、年配の方は乗り込むときに緊張する。手を貸してくれるというささやかな気配りは、自分も大事にされているのだという気持ちにさせてくれる。最近では、お年寄りに席を譲ったり、困っている人に手を差し伸べたりするのが当たり前ではなくなってきているのかもしれない。電車やバスに乗っても周りを見ている人はあまりいない。ほとんどがスマホの画面をのぞき込んで「自分だけの世界」に入っている。人の優しさを感じるのが難しい世の中になってきているようで残念である。
  たれが我を分かろうか我にしか
     分からぬこの我教えて我よ 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。「我」という言葉が繰り返され、どこか鬼気迫る感じすらする歌である。自分は何なのか自分自身に問いかけるも、その答えは見つからない。しかし問いかけずにはいられない。筆者はこの歌を読んで、デカルトの「コギト・エルゴスム」(われ思う、ゆえにわれあり)を思った。すべてを疑っても、疑っている私という存在を疑うことはできない。つまり自分とは何かと考えること自体が、自分が存在することを示している。作者はデカルトを意識してこの歌を詠まれたのだろうか。三宅さんは釈迦の「天上天下唯我独尊」を思われたそうである。
 
  利休梅小道の庭に咲き満ちて
     白無垢姿の花嫁のごと 員子
 
 作者は羽床員子さん。知り合いの方の庭に咲いている梅があまりにきれいだったので、何という梅なのか尋ねたら「利休梅」という名前だった。梅の花は桜と違ってどこかかわいらしいところがある。その白い花を白無垢姿の花嫁に例えられたのは納得である。
 
  桜散りて花見を想う常日頃
     時の罪人つみびといとひて久し 成秋
 
 濱野成秋会長の作。花見を想っても桜はもう散っている。何かをやろうとしても時はめまぐるしく進んで行き、何もできずに一日が終わってしまう。決してわれわれを待ってはくれない。時は罪人でいとわしいと作者は昔から思っている。「時の罪人」という表現は独特だが、誰もが時間の過ぎるのは早いと感じているもので、強く共感できる歌になっている。
  身命は何故なにゆえさよう儚きや
     思ひ嘆けば月はかたぶき 裕二
 
 筆者の作。「身命」は「しんみょぅ」もしくは「しんめい」と読み意味は文字通り「身体と生命」である。人の命はいつ終わるのか分からない。若くして亡くなった人のことを聞くと気の毒な気持ちになるとともに自分はまだ大丈夫という思い込みなど全く無意味であることを思い知らされる。突然の病で亡くなるかもしれないし、健康に気をつけていても事故で命を奪われるかもしれない。今日眠ったら二度と目覚めないかもしれない。自分もいつかは亡くなるのだというような悠長な気持ちではいられなくなり、明日亡くなったらどうなるのか。そんなことを考えていたら夜が明けてきた。
 
  四月にてはや夏日なり眠られず
     猫の如くに廊下に眠る 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。犬や猫は汗を分泌する汗腺がないので暑さにはたしかに弱いだろう。作者が猫のように廊下で寝ている姿を想像すると笑える。飼い主が寝ているところに猫も来て寝ていたらさらに面白い。まだ四月。夏になってさらに暑くなったときにはどうするのか心配になる。
 
 今回の加藤さんの歌にはしこ名ではあるが、人物の名前が登場する。歴史上や伝説上の人物であればまだしも、現存する人物の名前を作品に入れることには、筆者はどこか抵抗感がある。しかし具体的な名前があげられても、人物を讃えて、想像をかき立てるような歌のできることが加藤さんの作品でわかった。人名の含まれる歌にも今後は挑戦してみたいと思った。
花びら  高鳥奈緒   2024.3.28
 
桜吹雪の目黒川
今年も賑わうけれど
東横線の駅からひとり降りて
川沿いを人混みに紛れ歩く私
美しい満開の桜だけど
私の心は目黒川に落ちた
一枚の花びら。
 
流されて 流されて 
ゆらゆらと何処までも
後ろ姿に悲しみの影をひいて
ひとり歩く とぼとぼと
 
 
桜吹雪舞う目黒川
花びら風に舞って私の髪に絡むの
淡い色の薄桃の優しい色は
まるで貴方の言葉みたいね
耳に残って今も消えないわ
嘘ならいらない、もういらないのに
幻の貴方の言葉が聞こえてくるわ
愛している、愛している奈緒と・・・
 
桜吹雪舞う目黒川沿い
後ろ姿に寂しさの影をひく女が
ひとり歩く とぼとぼと