良寛の相聞歌
                     日本浪漫学会副会長 河内裕二
 
  一 歌人良寛
 
 良寛(一七五八ー一八三一)は江戸時代後期の禅僧で、優れた書家、詩人、歌人でもあった。生涯寺を持たず簡素な草庵に住み、托鉢僧として清貧生活を送った。托鉢中に子供たちに出会うと、毬つきやかくれんぼをして一緒に遊んだ逸話はよく知られている。
 良寛は一七五八年越後出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主兼神官の山本家に長男として生まれた。幼名は栄蔵といい、内向的な性格の学問好きな読書子であった。十三歳になると親元を離れて地蔵堂(現在の燕市)の三峰館に通い、北越四大儒といわれた大森子陽に学ぶ。十七歳で家督を継ぐべく出雲崎に戻り名主見習役に就くも、翌年家を出奔し、隣村の曹洞宗光照寺で仏門に入る。出家の理由は明らかになっていない。二十二歳からは備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の曹洞宗円通寺で十二年にわたり厳しい修行に励む。『定本良寛全集』の編者松本市壽によると、良寛はこの円通寺の修業時代に歌人でもあった国仙和尚から手ほどきを受けて和歌に目覚めている。残念なことに円通寺時代の歌は現存しない。
 良寛の歌の特徴は万葉調であると言われる。しかし初期の歌には三代集や『新古今和歌集』の影響が多く見られる。例えば一七九二年頃の初期作とされる次の歌は『古今集』や『新古今集』の歌の本歌取りである。
 
  あしびきの黒坂山の木の間より漏りくる月の影のさやけき 良寛
 
 元歌は次の三首と考えられる。
 「木の間より漏りくる月の影見れば心尽くしの秋は来にけり」  (よみ人しらず『古今集』秋上・一八四)
 「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」 (左京大夫顕輔『新古今集』秋・四一三)
 「もみぢ葉を何惜しみけむ木の間より洩りくる月は今宵こそ見れ」(中務卿具平親王『新古今集』冬・五九二)
 良寛の時代には、歌壇の主流は堂上派と呼ばれる細川幽斎以来の古今伝授を受け継ぐ公家歌人系の流派だった。良寛も当初は堂上風の歌を作っていたのである。師匠の国仙和尚もそうであった。
 良寛の歌風の変化について、吉野秀雄は『良寛歌集』(一九九二)で次のように述べている。
 彼の歌の発足は三代集からはじまったが、しかし彼は平安朝以降の歌の理智的な虚飾を好む道理のない人であった。彼はさういふものに満足しきれず、いつしか彼自身の歌魂を養ひ、いつしか彼自身の歌調を整へてゐた。それがおのづから万葉集と合致し、一層の深化を遂げていった。(三四)
 古今調から万葉調に、即ち技巧的で観念的なものから直截的で素朴なものに良寛の歌は変わっていくのである。
 
  二 心うごけば歌生まれる
 
 良寛には嫌うものが三つあった。書家の書、歌詠みの歌、題を出して歌を詠むことの三つである。良寛と交流のあった解良栄重がそれを師の語録として『良寛禅師奇話』(一九七〇)に書き残している。三つのうちの「題を出して歌を詠むこと」は「料理屋の料理」に置き換えられる場合もある。北大路魯山人のエッセイ「料理芝居」では、三つ目が「料理屋の料理」として話が展開する。実際に良寛には題詠は一首もないので「題を出して歌を詠むこと」を嫌うのは納得だが、「書家の書」や「歌詠みの歌」についてはおそらく自戒も込められているのだろう。松本市壽は、良寛が「歌詠みの歌」を嫌ったのは、職業的技巧を駆使した退嬰的な詠歌を否定し、率直で自然な感情の流儀をよしとしたからであるとする。(八)
 良寛には「歌の辞」と題した歌論がある。そこで歌について次のように述べる。渡辺秀英著『良寛歌集』(一七七九)より引用する。
 
 人の心のうごく心のはしばしを文字にあわせて、心やりにうたふものなり。近くいはば、泣くは歌なり、笑うは歌なり。歌の心とて別にあるものにあらず。(一)
さらにこうも述べる。今の世の人もなどか歌なからんや。かしこきおろかなるをとはず、都ひなをわかたず、朝夕ものにふれ、心のうごくところみな歌なり。(一)
 歌とはその人の心であり、心のうごくところに歌がある。もしそうであれば、良寛の最晩年に注目したくなる。良寛は亡くなる前の四年間、一人の女性と心を通わせる。最期もその女性に看取られている。女性の名は貞心(ていしん)尼(に)(一七九八ー一八七二)といい、四十歳年下の尼僧である。彼女との交流が彼の人生最後に彩りを加えた。貞心尼はどのような人物か。
 貞心尼は長岡藩士奥村五兵衛の娘に生まれた。十七歳で医師に嫁ぐが五年で離別する。柏崎の閻(えん)王寺(のうじ)で剃髪し尼僧生活に入り二十九歳まで修行する。一八二六年に福島(長岡市福島)の閻魔堂に移ると、面識のなかった良寛を訪ねる。歌や仏法を学ぶためである。良寛は農民から有力者まで幅広い人々からその深い学識や芸術的才能で敬仰され、子供たちにも人気があった。良寛の高徳な評判は貞心尼の耳にも入っていたと言われる。貞心尼はどうしても良寛から教えを請いたかった。彼の気を引くために自作の手鞠や和歌も持参し、身を寄せていた木村家を訪ねた。不運にも良寛は不在で、仕方なく手鞠と和歌を残し帰路に就く。
 しばらくして木村家に戻った良寛は、貞心尼の歌に感心し、返歌を送る。その歌には、学ぶことを認めるとの意味を込めて、手鞠をつくと弟子として自分につくという掛詞が含まれていた。貞心尼の願いは叶い、その師弟関係は良寛の遷化まで四年にわたって続く。
 貞心尼は才媛でさらに美貌であった。良寛の前に現れたとき、良寛は六十九歳、貞心尼は二十九歳だった。親子どころか孫ほども年は離れていたが、ふたりには恋愛感情が芽生え、交わす歌は相聞歌となった。その歌は、良寛の寂後に貞心尼が編纂した歌集『はちすの露』(一八三五)の唱和編に収められる。
 
  三 『はちすの露』
 
 歌集『はちすの露』唱和編には、良寛三十首、貞心尼二十三首の贈答歌が収録されている。その中のいくつかに目を向けたい。まず初対面での歌である。
 
    はじめてあひ見奉りて                      貞
  君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ
    御かへし                            師
  夢の世にかつまどろみてゆめを又かたるも夢もそれがまにまに
 
    いとねもごろなる道のものがたりに夜もふけぬれば         師
  白たへのころもでさむし秋の夜の月なかぞらにすみわたるかも
 
    されどなほあかぬこゝちして                   貞
  向ひゐて千代も八千代も見てしがな空ゆく月のこと問はずとも
 
    御かへし                            師
  心さへかはらざりせばはふつたのたえずむかはむ千代も八千代も
 
 待ち望んだ良寛との出会いを果たした貞心尼の気持ちは燃え上がる。夢のようで信じられないと感情を高ぶらせる貞心尼に、良寛は、儚いこの世は成り行きにまかせましょうと高ぶる気持ちを包み込むような歌を贈る。話が弾んで時間が経ち夜も更けてきたので良寛が中天に昇る秋の月を詠んでやんわりと帰宅を促すと、貞心尼はまだ話を聞きたい気分だと言って、このまま何千年もずっと師と向かい合っていたいのに、月のことなどどうでもよいではありませんかと返す。あまりに率直で素直な気持ちをぶつけられ、押され気味の良寛もそれに応えて、あなたの心さえ変わらないのならいつまでも向かい合っていますよと返す。
 次は二度目に会ったときの歌である。良寛から詠歌。
 
    ほどへてみ消息給はりけるなかに                 師
  君や忘る道やかくるゝこのごろは待てどくらせど音づれもなき
 
    御かへしたてまつるとて                     貞
  ことしげきむぐらのいほにとぢられて身をば心にまかせざりけり
 良寛が貞心尼に訪問を促す。待っていても一向に貞心尼が来ないため痺れを切らしている。前回とは逆に良寛の方が前のめりになり、やや非難めいた歌を詠む。それに対して貞心尼は、忙しくて行けなかったと連れない回答の歌を返す。本の構成では、この唱和の前は、前回の別れ際に再会の約束をする歌である。この歌集の歌は間違いなくどれも本人の作だろうが、歌の選択や掲載の順番は著者の貞心尼次第である。そこには何らかの意図が働く。二度目では相手に対する熱量が前回と反転する。その意図は何か。良寛と貞心尼は、片や功成り名を遂げた高僧、片や名も無い若い尼僧である。しかし恋愛においては年齢や立場などは関係ないと伝えたいのだろう。唱和編全体で見ると、貞心尼の視点で書かれているからか良寛の方が貞心尼をより相手を求めている印象を受ける。
 次の四首は良寛が与板の里に遊んだ際の歌である。与板は良寛の父親の故郷で現在は弟もそこにいる。良寛が与板に来ると聞きつけて貞心尼が急いで会いに来る。良寛は別れを惜しんだ里の人々と話をしていた。良寛の姿を見つけた貞心尼は、日焼けした黒い肌に黒染めの法衣の良寛に「これからは烏さん」と呼びますよと言うと「それはふさわしい名前だ」と笑う。
 
  いづこへも立ちてを行かむ明日よりはからすてふ名を人の付くれば
 
    とのたまひければ                        貞
  山がらす里にいゆかば子がらすも誘ひて行け羽ねよわくとも
 
    御かへし                            師
  誘ひて行かば行かめど人の見てあやしめ見らばいかにしてまし
 
    御かへし                            貞
  鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ烏はからす何かあやしき
 良寛が、烏いう名をつけてくれたので明日からはどこへでも飛び立って行きましょうと詠む。それを受けて貞心尼も烏の歌を返す。山烏の師匠が里に行くのならば、子烏の私も誘ってください。子烏ですから羽は弱く足手まといになりましても、と詠めば、これまでの烏の話はどこへやら良寛は素に戻り、あなたを誘って行くのであればそれでもよいが、他の人が私たちを見て変に思ったらどうしましょうと返してくる。貞心尼は、鳶は鳶同士、雀は雀同士、鷺は鷺同士、烏は烏同士が連れだって何が変なのですかときっぱり言って返す。周りを気にする男とお構いなしの肝の据わった女。何だか現在の若者カップルのデート風景と見紛いそうだが、冷静に考えてみると、江戸時代に田舎で黒い法衣を身に纏った老僧と若い尼僧が仲睦まじく行動していれば相当に目立つ。間違いなく好奇な目で見られ、話題にもなる。現代の感覚からすれば微笑ましい光景だが、時代を考えると貞心尼はかなり大胆な女性である。
 歌集『はちすの露』にはこのような相聞歌と弟由之(よしゆき)との歌が収められているが、終盤になると、老齢の良寛の体調が悪化し、一気に緊張感が増す。病気で貞心尼との約束も果たせなくなる。秋が過ぎ、冬になっても体調は快復しない。越後の冬は厳しい。貞心尼が励ましの歌を贈ると、しばらくして「暖かい春になったらあなたに会いたいので庵を出て私の所に来てほしい」との返歌が届く。快復を祈っていると、突然、病気が重くなったとの連絡が舞い込む。急いで良寛の元に駆けつける。幸いにも状態は落ち着いていて病床で良寛はこの歌を詠む。
 
  いついつとまちにし人は來りけり今はあひ見て何かおもはむ
 
 いつ来るかと持っていた人がとうとうやって来た、今は会うことができてもう思い残すことはない。良寛が病床で詠んだこの歌に貞心尼はどのような気持ちになったのだろうか。消えそうになる命の炎を、愛する人が来るまでは消してなるものかと燃やし続け、何も飾らず何も加えず心にあるものを愛する人に伝える。もう複雑なことは考えられない。心に残るのはシンプルなことで、それが歌になる。歌はその人の心である。貞心尼はもうずっと良寛の傍にいる。
 いよいよ最後の場面である。
                                    貞
  生き死にの界はなれて住む身にもさらぬわかれのあるぞ悲しき
 
 貞心尼からの最後の歌である。別れの悲しみを詠うのに、どこか淡々としていて作者の感情の表出が感じられない。愛する者との別れがいよいよとなってこの落ち着きは、生死を超えて仏に仕える身であるからだろうか。あるいは感情を押し殺した理性的な歌にすることで、良寛の心を刺激せず穏やかな気持ちで静かに逝ってほしいという優しさなのだろうか。
 
    御かへし                            貞
  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
  こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへ玉ふ、いとたふとし。
 
 『はちすの露』ではこれが良寛の辞世の句とされている。貞心尼への返句だが、もう書く力は残っていないため、最後の力を振り絞って言葉を口にする。
紅葉の葉が散るように、自分も裏も表もすべて見せて生きて、いま死んでゆくといった意味だろう。この句は良寛の作ではないが、この場での気持ちを述べられた尊い言葉とされる。表というのは僧侶良寛で、裏というのは貞心尼を愛したような人間良寛を表すのだろう。順番が裏からなのも元の句がそうだからと言わずに、良寛の思いからだと考えたい。
 『和歌文学大系七四』(二〇〇七)には「良寛は一首を詠めないほど衰弱しているので木因の句を貞心尼に示した」とある。その言及のように元句は美濃の俳人谷木因が詠んだ「裏ちりつ表を散つ紅葉哉」である。
  四 おわりに
 
 人の出会いは不思議である。わずか四年でも良寛の人生に貞心尼が現れなければ、後世の人々は、良寛の相聞歌を読むことはできなかった。貞心尼との交流で相聞歌が生まれ、貞心尼も歌人であったことでそれを歌集として残すことができた。これは間違いなく貞心尼の功績であるが、しかし同時に彼女にそうさせる人物だった良寛の功績でもある。つまりこのふたりでなくてはならなかった。
 文学者で良寛研究者としても有名な相馬御風(一八八三―一九五〇)は、ふたりの愛について、師弟の愛よりは深く、肉親の愛よりは強く、恋人の愛よりは浄い、一種不思議な聖愛だと説明する。一方で、巷ではふたりに男女関係があったのかに関心が集まるようだが、文学者や歌人にとっては、その読み方が同じであることが示すかように「聖愛」でも「性愛」でもどちらでもよい。重要なのは文学における事実であり、作品の世界に飛び込んで自分にとっての事実を探すのである。
 良寛は、歌とはその人の心だと言った。歌を読むこととは、歌に宿る作者の心に触れ、自らの心を震わせることだろう。良寛の相聞歌を読んで心が震えないはずがない。
 
参考文献
伊藤宏見 『良寛の歌と貞心尼』 新人物往来社 一九九二
上田三四二『良寛の歌ごころ』 考古堂書店 二〇〇六
大島花束 『良寛全集』 岩波書店 二〇〇一
北側省一 『良寛をめぐる女人たち』 考古堂 一九八九
解良栄重 『良寛禅師奇話』 野島出版 一九七〇
相馬御風 『大愚良寛』 考古堂書店 一九七四
相馬御風 『復刻良寛と貞心』 考古堂書店 一九九一
東郷豊治 『良寛全集 下巻』 東京創元社 一九八四
松本市壽編『定本良寛全集』 中央公論新社 二〇〇六
吉野秀雄 『良寛歌集』(東洋文庫午五五六) 平凡社 一九九二
渡辺秀英 『良寛歌集』 ‎木耳社 一九七九
「内面生活」を描く浪漫文学 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
1.リアリズム文芸には限界がある
 
 人間は「社会人」ばかりを演じているわけではない。
 家に帰れば親子や夫婦関係が待っている。若い青春の悩みや壮年の不安、老齢期の深刻な問題は、社会人としては、扱うに相応しくはない。心の病は奥深く、係累に広がり、拭い去れない過去の問題も多々頭を擡げる。それを社会問題として片づけるわけには行かないのは当然である。
 リアリズム文学の発生は何を機縁とし、何を人間に与えたか。
 遡れば一九世紀。産業革命の影響で世界中のライフスタイルが変容した。成長発展には価値観の変容が伴い、宗教心が薄れて即物的な生活で経済生活が登場。並行して世紀末から極端な国家主義が台頭して世界大戦が二度も起こった。
 戦争や科学文明の大発展で人間社会は掻き乱され、それを描くのがリアリズム文学だろうという風潮が世界中に興隆し、自然主義が幅を利かせて浪漫主義は影を潜めた。作家も詩人もリアリズム文学で混濁し続け、労働問題が基盤になって、抵抗文学や社会主義文学が人心を誘導し、革命を唱える文学まで台頭した。
 だが人間社会の汚濁や不正を描くばかりで終始していた文学は世情の推移と共に徐々に滅亡し、やがて文学史の一時期として括られるに至る。
 同時期、時代的には一九二〇年代後半から画像映像の時代となり、画像やデータ表示で事足りる歴史記録のような文学が現出する。アメリカ作家ドス・パソスのUSA三部作にはニューズリールや記録文学が取り込まれて、リアリズム文学作品は人間の内奥に踏み込むより、外界の変貌を優先描写させる。
 その結果、政治的主義主張や巨大な組織で動く宗教が人間の内面を支配し始め、世の中は益々形骸化して作品から人間味が失せていく。人間は物欲や変貌の中で翻弄させられる存在となった。リアリズム文学が人間の内面に巣くい去来する悲哀、情熱、憤怒、慚愧な思いなどを満足のゆくまで解き明かせたとは言い難い。
2.浪漫文学では若さだけが対象か
 
 浪漫といえば、ロマンティックな想念を連想する。
 若くて、恋をして、愛情深くて。
 世の中の矛盾撞着には目もくれず、愛する人に会うことばかりを願っている。
 なるほど、そんな世代もあるだろうし、恋に破れた切ない思いもあるだろう。
 だが、人間、思春期は長くは続かない。学生時代を終えれば次に来るのは収入と安定的な自立の時代を希求する世代となる。初めて実力のなさを思い知る時期でもある。試行錯誤から体得する心得は幾つもあって、日増しに上手に暮らせるようにはなるが、周りが結婚し始めると、自分も身を固めたくなる。安定した経済を得ることで保障される安定感を得たい。
 その希求が達成できたとしても、病気や夫や妻との齟齬もあり、義理の関係も複雑になって、結婚生活も、時には意想外に揺らぎ果て、遂には離婚や別居生活へといたるなど、悲しい別れが訪れる。
 いわゆる中年時代の哀楽に立たされるわけである。
 会社の倒産で家庭生活が瓦解することもある。
 浪漫文学はその頃から真価を発揮する。
 母子、父子、老父母、事故や病気、などなど綯い交ぜで、かてて加えて転職転住、入院、ハウスローンの不払い等々、誰にも吐露できない懊悩が日日の生活に及んでくる。感情的な縺れも複雑にからんで、投げ出したい心境にまで至ることも。
 これを書きとめるのが文学の神髄であるが、浪漫文学もその一端を担っていると筆者は考える。
 すなわち、世代により、環境により、浪漫文学が対面する問題も色合いを異にするのである。
 また若い頃には当然であった健康状態も長年の疲労の蓄積で失われると、この先、妻子や老父母をどう養うか、長女の結婚、長男の家を継がせる話など、自分の判断通りにはやり難い問題まで、抱え込むことになる。内面は穏やかに波打つ状態でも、徐々に迫る瓦解や決別が脳裏を掠めると、不幸という二文字に苦しむこともしばしばとなる。
 浪漫文学では多重多彩な懊悩を書き留めることになる。
 
3.自然主義は立派な浪漫を表出していた
 
 浪漫に取って代わった自然主義はリアリズムの奔りと見做されたが、そこには多々浪漫調の要素を維持していた。
 例えばドライサーの『シスター・キャリー』(1900)であるが、この、所帯持ちの男と田舎出のキャリーとの恋はやがて遁走状態となり、遂には男が浮浪者となる。キャリーだけが幸せを得る。原作ではキャリーの身勝手な振る舞いを批判的に描いているが、映像作品では両者が相愛の状態のまま、成功者と落ちぶれ者とに分かれ、その悲哀をたっぷり描いて観衆の心に迫る。
 日本文学では山本有三の『波』{1923}がそうである。この作品は人間を運命の操るままに描いている。外的な事情、例えば偶然遭った先生と生徒、偶然生じた出産と外部の男、遺伝、離合集散など、人生を変貌させる要素は多々外部にある。これは自然主義の典型的姿であるが、登場人物たちの内奥は実に奥深く、人生とはかくありなんと思える要素が多い。
 
4.浪漫文学は生と性と人間を描く
 
 浪漫といえば、ロマンティックな想念を連想する。
 だが、若くなくてよい。恋をしていなくともよい。
 ただ愛や情感を豊かに、情深く、信頼関係をもって接する人間関係を描きたい。
 とかく当節の世は不信感に満ちている。
 矛盾撞着以前の問題として、不信感をもって相手を見る癖があれば、厚意であっても疑念を持つ。こんな人間関係では、自らも猜疑心の虜になり、自分の為に尽くしてくれても素直にうけとめられない。年齢を経ると、とかく猜疑心だらけとなって、どんな厚意も詐欺的行為に見えてくる。すると、もはや信じるに値する人はいなくなり、気がつくと孤独に陥る。孤独は自分で作る環境である。
 
 浪漫文学は個人に忍び寄る孤独感を除去する暖か味をもつ。
 心に浪漫があれば幸せなり。
 かつて、筆者の世界にはこんな麗しき女性あり。
 この女性は生き永らえれば御年桃歳か。かぼそき指の腹で筆者の心の臓に触れるがごときジェスチャーで、こう詠んだ、
 
  卆寿なれど我が血脈は確かなり
    触れて詩を書く 浄土の春まで 秀
 
 先にも言ったが、醍醐寺の学頭斎藤明道師は我が短歌の師であるが、この、秀歌の主もまた、我が心の師にして、終生忘れ難き存在なり。桜花の下、改めて浪漫の昔日に想いを馳せ、合掌する。
 
          令和六年四月五日        成秋

河内裕二

日本浪漫学会主筆

 

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西野先生ありがとう
Many Thanks, Mr. Nishino

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

はじめに

これは先年亡くなられた恩師が自ら体験された、師範学校の学生時代の、想像を絶する体験記録を紹介しておりますが、同時に日本という国はどれほど苦難の道のりを超えて今日の住み心地良い国に発展したか、それも解って頂きたくて書いたエッセイです。西野先生のお心は平和を愛する日本の教え子たちみんなの心でもあります。
This essay is written not only to introduce how much Mr. Nishino, teacher of Tomioka Middle School, had an astounding stressful everyday when he was at teachers’ college but also to show the process how much our country Japan struggled to achieve today’s affluent society. Mr. Nishino’s humane heart is a representative one we support now in this peace-loving nation.

1. 終戦直後のタケノコ生活と戦後の小学校

1945年8月15日、日本が敗戦をみとめて連合国軍側の軍門に下ったとき、我々はまだ5歳の子供でした。それまで都会は皆焼け野原で日本の大都市の焼土の有様はヨーロッパ人には想像もできないくらいで、住宅、学校、役所、病院、水道、下水などあらゆるものが壊滅状態で、食料、水、雨露をふせぐ板切れさえ見当たらないほどでした。配給制度も機能せず、人々は闇市に群がりその日その日の糧を得るので精いっぱいでした。

われわれ子供は食糧難でやせ細り、全員が栄養失調でユニセフの脱脂粉乳と米軍のピーナツ缶詰、あとは農家の芋や麦でどうにか飢えを凌ぐ姿でした。

私の家族も芋粥の日々でした。生来虚弱に生まれた私は幼児期からすぐ脚がだるくなる症状が伴って、小学低学年の頃がとくにひどく、だるい現象が始まると堪えきれず泣いてばかりでした。

堺市やその周辺は田んぼや畑もあってどうにか食料を調達できても、氷不足で魚は腐り無理して買って食べて腸チフスになって苦しんだ。インフレで紙幣は使えず、月給2000円のとき、卵1個30円もした。掛け軸や骨董品はもちろん、着物や調度品は次々と闇市の食糧買い出しに消えていくので普通でした。着物を一枚一枚手放すところから、自虐的に「タケノコ生活」と呼んでいました。学校では弁当を盗み食いする生徒が沢山いて、彼らは便所に持ち込んで腹を満たした後、弁当箱を暗い汚物の溜めに投げ捨てる。お百姓さんが糞尿を汲み取りにくると、あまりに多い弁当箱を掻き分けて汲み取る。これが現在、豊かさと公衆道徳では世界に誇れる日本の80年前の姿だったのです。それまで、食料に困らない女学生たちの家庭ではトーストの端が固いと嫌がる子はそれをちぎり取って捨てながら食べていたのに、戦争がもたらず貧困と食糧難で純真な子供たちの心まで堕落させられたわけですが、それは今でも語りたくない想い出です。

1. Peeling-off Life and Postwar Elementary School

August 15, 1945. When Japan accepted instrument of surrender of the Pacific War, we were only five years old. Until that day, because of US air raids, almost every night Japan’s big cities burned to aches, which was beyond any of Europeans’ imagination. Even after the war, all the buildings and houses, hospitals, city offices, schools fell down and no water and sewage system could give us any service and people strayed looking for food and water. Official food service system was also collapsed except for black markets. Infants and children were all very hungry and we were suffered from nutritious imbalance.
Both of my legs, often suffered from sluggish feeling since birth, could not endure everyday listless pain, and therefore what I did was only sobbing alone seated all day on the hard wooden chair of the classroom.
Even coal stoves were not available. Only UNICEF milk and US Army canned peanut and peasants’ potato rescued us from nutrition disorder death.
Inflation was terrible. An egg was 30 yen when monthly income was 2000 yen. Fresh fish were rotten without ice, but we bought it and it gave us stomachache causing typhoid fever. Kimono and antique were sold or traded with food, Takenoko seikatsu (タケノコ生活), a popular masochistic name means a lifestyle seen in those days selling any item away like peeling every flake off one by one just like bamboo shoot.
In the elementary schools everywhere lunch boxes were stolen so often. Hungry boys and girls stole friend’s lunch box and ate them in the toilet and hundreds empty boxes were thrown into the dirty manure, and the peasant coming to dispose found lots of aluminum lunch boxes. Though before the Pacific War, school girls peeled off the toast edge away, but even here in Japan where public morals are very, very neat and strict, in the wartime, poverty and scarcity made innocent boys and girls terribly subverted, which is not a good memory but we have to talk about to let you know the old days’ real story.

2. 開港前の日本は神秘の国だった

皮肉をこめた諺に、「愚者は経験から学び賢者は歴史から学ぶ」というのがありますが、戦後、日本人が学んだのは経験と歴史の両方からでした。

それより80年前、西洋人にとって、鎖国中の日本はまさに神秘の国でした。悪者の中には日本に侵略してその国土を植民地にしようとする企てもありましたが、実現した試しがありません。サムライのパワーが農民の協力を得てその侵略を押し留めたからです。宣教師や商人は日本人の生活ぶりを見て、貧しいけれどもきちんとしている。サムライは戦争もないのに重たい刀を二本差して歩き、平民は勤勉に働いて、休みも盆と正月だけ。

小学教育は全国行き届いていて識字率は90%で、これは驚異的です。彼らの作る刀は非常に鋭利でひとたび戦闘になると、このブレードにかかってズタズタにされる、と本国に書き送っています。
これは鎖国中であっても、それぞれの身分を弁えて勉学に励み刀一つを例にとっても驚異的な鋭さを秘めて侮りがたい存在であることを認めていることになる。

残念なことに、2世紀半にわたる鎖国のおかげで、事実上日本はヨーロッパ諸国やアメリカなど、産業革命を成し遂げた国々から徹底的に後れをとった後進国となっていた。

1868年、日本が鎖国政策を止めて開港したときに眼にしたのは世界中の国の3分の2がヨーロッパやアメリカの植民地になっていることでした。そこで明治政府はヨーロッパの国々より強い軍事力こそが国家の安泰につながると確信したわけです。

この決意はある意味では正しかった。なぜなら隣国すべてがヨーロッパ諸国の植民地政策に侵食されていたからですが、別の意味ではこの種の展望は大変危険で、なぜなら戦争を必然的に誘発するからです。

なぜこのような歴史を語るか。もしこの説明がなければ、大多数の読者は、国の内外を問わず、我らの愛すべき西野先生がなぜ戦時中にご苦労されたか、十分理解して頂けないと思います。

2. Japan was a Mysterious Nation

An ironical proverb says,“The fool learn from experience, the wise from history.” The Japanese, after the war, learned from both.
Eighty years ago while in the totally off-limit-time, Japan seemed to be a very mysterious country for the westerners. Some rascals schemed to invade this country for grabbing land as a colony, but such a wicked trial has never realized before, for samurai’s power together with many peasants’ support defended their land and property. Other visitors such as priests and traders found their life very poor but modest and neatly regulated. Samurai has two swards very heavy and unnecessary even in the peaceful days. Ordinary townspeople work everyday very diligent never taking off-duty days except mid-summer bon holidays and New Years.
Elementary school system or “terakoya” prevailed all over the nation, and the literacy percentage was more than 90. It was a miracle. Swords they produce are so sharp that once fighting bodies will be chopped down with this sharp blade. This shows the Japanese have advanced education, moral, manners and customs, and excellent technological sense, effective enough to fear invaders, but what would make our country strong? How should we make effort to catch up with Europeans?
It was, however, a matter for regret that during two and a half century national isolationism, Japan was actually left underdeveloped far behind the industrialized European countries and America.
It was in 1868 when Japan opened its ports to find two-thirds of all countries in the world had already colonized by the European powers and USA, and the Meiji Government was convinced that without military power stronger than those from Europe, we could not keep our nation safe and sound.
This decision was, in a sense, right, because all the near-by countries were already invaded by European colonialism, but, in other sense, such prospects were very dangerous, because military power necessarily induce wars.
You may wonder why I talk about such national history before talking on our beloved Nishino-sensei’s life. Without this explanation you will not understand well why he and his friends endured severe days during the war.

3.日本には鉱物資源ひとつない国土ですから

日本は4つの島と大小さまざまな小島から成る島国です。総てが火山島であって、イギリスのように平野や丘陵で農耕や牧畜に適した平地もほとんどなく、大部分が山岳地帯です。河川の流域にひろがる平野があっても少し多量の雨が降ると洪水が起こり山と谷を縫うようにして細い道があり、鉄道の敷設も容易ではありません。

石炭や石油の産出はほとんど期待できず、鉄鉱石ほか鉱物資源も国内から得られる量は微々たるもの。ですから天然資源も全部海外から調達する。つまり鉄鉱石から銑鉄を得て精錬し優秀な金属を製造するための原料の獲得は国内では不可能です。もし工業製品をみな外国から輸入するのでは、トレードできる国産品は絹織物しかなく、開港した1870年代から半世紀にわたり、主要輸出産品は絹織物が主で、それを売って獲得した利益で船や兵器や自動車を買い入れる時代が続きました。

20世紀になってアジアや南方方面に進出するヨーロッパ諸国の勢力は凄まじく、日本に迫る勢いでしたから、日本は已むかたなく軍事強国に変容するほか独立を維持して生き残る道はなかった。そこで技術を磨き、八幡製鉄所が九州に誕生、質の悪い石炭でも使えるものは掘って使って、日本の工業力の礎を成したのです。そんな悪条件でも経済基盤を強固にしようと、ほぼ半世紀、日本は努力努力の日々でした。その結果、日本は英米露独仏など植民地主義をくい止めることは出来たわけですけれども、1930年代ころから、彼らが日本の力を危険視するようになった。この現象は歴史研究の立場からもう一つの課題です。

3.No natural resource in Japan

Japan consists of four major islands with lots of small islands. Unlike England where there are so many plains and hills suitable to farming and cattle breeding, Japan’s land, islands by volcano, is mostly filled with high mountains. Flat farms near the river are often damaged with flood when heavy rainfall, and small roads thread up and down through mountains, and the railroad construction is very difficult. It is therefore almost impossible to get material of pig iron for smelting to produce excellent iron. If we import all the products from abroad, we have nothing but silk to trade, and during half a century since opening ports, we sold silk products to earn money to buy ships, weapons, and automobiles.
In the 20th century, European countries strengthen industrial power so much that Asian countries were obliged to obey their policy. No other nation except Japan could not afford to keep its independency. Our country learned skill of how to produce iron from ore, and with low quality coal in Kyushu area, Yawata Iron Company succeeded in making great amount of metal, which was the starting point of Japan’s industrialization. Japanese people made great effort for half a century until we could prohibit foreign invasion, but, regretful to say, in the 1930’s western super powers such as America, Britain, Dutch, Russia, French countries gradually came to think our national power dangerous. It was another point of reflection that we should look back as a historical subject.