研究ノート①

河合洋人

1. Mayflower号、Cape Codに上陸

1620年11月、イギリスから102名を乗せたMayflowerがPlymouth, Mass.に到着した。主たる乗組員は Oxford大学や Cambridge大学卒のPuritanと農民で「巡礼」的なキリスト教信者Pilgrimから構成される。この集団は後に一括して “Pilgrim Fathers”と呼ばれるが、両者の出自は身分制度でも大いに異なる混成存在であった。当時の大英帝国はChurch of England(イギリス国教)をもって階級制度を固め、宗教を政治に利用するが如き存在であったことから、下級階級の信者はPuritanを自称し、英国国教を批難して、しばしば大学でシンポジウムを開催、その場にエリザベス女王を招いて来聴させるなどして、主張を展開させたが、その一連の活動が却って彼らの立場を悪くし、追放されるに至った。

Puritanたちは結局イギリス本国では住めず、同じく身分差別されていたPilgrimに説いて本国から離脱、理想の新天地を求めてオランダに向かうが、ここでも排斥された挙句、未開地のアメリカ大陸に向かうほかなかった。その頃にはエリザベス女王は没し、王位はJames一世となり、アメリカの南部、今日のバージニア州の大西洋岸にあるJamestownつまり、“ジェームズ一世の街”に向かうべく、勅許上まで得て船出した。つまり体制側に反旗を掲げながらも、帝国の認可を得ねばならない微妙な立場であったことが、研究であきらかになった。言い換えれば、言葉は悪いが、妥協策といえよう。彼らに先立ってイギリス人の入植に成功していたColony of VirginiaのJamestownならば、Puritanismの種は撒けると診たのである。

1620年9月にイギリスのCity of Plymouthの港を出発した。しかし季節風の影響でMayflower号が流された結果、彼らは、65日間の航海を経たのち、Jamestownより遥か北方のCape Codに到着した。この地を調べると北海道と同等で、折から小雪のちらつく寒冷状態。食料も底を尽き、長期の船旅で多くが疲弊の極致で、動力を持たないMayflower号では年内に当初の目的地であるJamestownに到着できないと考えた彼らは移動をあきらめ、その場に留まり越冬を試みた。

到着後の冬はさながら難破船の乗組員が九死に一生を得た苦しみにちかく、ほぼ半数が死亡している。これは全体の長を務めたWilliam Bradford(1590-1657)が書いたOf Plymouth Plantation(1856)と題する日記や、にも著されている。彼は原住民との協力や騒乱にも記述がある。

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=ホレホレ節を中心として=

河合洋人

はじめに

初期ハワイ日本人移民時代の文化活動を伝えるものは少ない。1885年から1894年までに日布政府間で取り決められた移民協定に従いハワイに日本人が移民したいわゆる官約移民時代、日本人移民の主たる目的は出稼ぎであった。三年間の労働契約を終えて大金を携えて帰国し、故郷に錦を飾ることが最大のロマンでもあった。

ハワイにおける労働条件は決して緩やかではなく、飲酒や賭博で困窮する者も多かった。また絵画や音楽といった芸術活動にいそしむ暇はほとんど存在しなかった。その長い労働時間の合間を縫うように自然発生的に生まれたものがホレホレ節である。

ホレホレ節は労働の辛さにプラスして日々の不安、焦燥、絶望に混在する投げやりな人生観そのものでもあった。歌で焦燥感を紛らわす。もしくは生活の困窮からくる虚しさを紛らわす目的で歌われた。彼ら日本人労働者は故郷に送金をするために生活はできる限り切りつめる必要があった。したがって給料から生活費や衣料費を引くと残るははした金程度であった。彼らは日々の労働の辛さを忘れるため、またやるせない自らの境遇を慰めるために日々の思いを綴った詩を作り、それを故郷に古くから伝わる歌に乗せて歌ったのであった。

ホレホレ節を長年研究されていた人物としてはジャック・田坂養民氏が挙げられる。(1)田坂は彼の著書「ホレホレ・ソング」内にて「ハワイ各島の砂糖耕地に入植した日本人移民が、望郷の念に燃えながら、炎天下での長時間労働の辛さや日常生活の苦しみの中に一抹の希望を求め、切ない心を慰めるために歌ったのがホレホレ節である。」と述べている。(田坂 62)また元『ハワイ報知』編集局長森田利秋も「自分らの苦しさや哀しみを、せめて歌に託して訴えたいという願いという願いが結集して、自然発生的に生まれたのが、この歌である。」と述べている。ホレホレ節は当時のハワイ日本人移民が如何に過酷な環境での労働と生活を余儀なくされていたかを鮮明に反映している。

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正月公演記録概要
鎌倉きららホール(13:30開演)
「日本浪漫学会」1月8日
テーマ:ジュン葉山と和泉元彌
鎌倉の北条時宗から七五〇年
出演:ジュン葉山、平野ユキノリ、山下優樹
ゲスト出演:和泉元彌、和泉淳子、三宅藤九郎
時代考証:日本浪漫学会 会長 濱野成秋
プロデューサー:プログラム&本稿著述同上。
 
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2025正月コンサート 1/8
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良寛の相聞歌
                     日本浪漫学会副会長 河内裕二
 
  一 歌人良寛
 
 良寛(一七五八ー一八三一)は江戸時代後期の禅僧で、優れた書家、詩人、歌人でもあった。生涯寺を持たず簡素な草庵に住み、托鉢僧として清貧生活を送った。托鉢中に子供たちに出会うと、毬つきやかくれんぼをして一緒に遊んだ逸話はよく知られている。
 良寛は一七五八年越後出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主兼神官の山本家に長男として生まれた。幼名は栄蔵といい、内向的な性格の学問好きな読書子であった。十三歳になると親元を離れて地蔵堂(現在の燕市)の三峰館に通い、北越四大儒といわれた大森子陽に学ぶ。十七歳で家督を継ぐべく出雲崎に戻り名主見習役に就くも、翌年家を出奔し、隣村の曹洞宗光照寺で仏門に入る。出家の理由は明らかになっていない。二十二歳からは備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の曹洞宗円通寺で十二年にわたり厳しい修行に励む。『定本良寛全集』の編者松本市壽によると、良寛はこの円通寺の修業時代に歌人でもあった国仙和尚から手ほどきを受けて和歌に目覚めている。残念なことに円通寺時代の歌は現存しない。
 良寛の歌の特徴は万葉調であると言われる。しかし初期の歌には三代集や『新古今和歌集』の影響が多く見られる。例えば一七九二年頃の初期作とされる次の歌は『古今集』や『新古今集』の歌の本歌取りである。
 
  あしびきの黒坂山の木の間より漏りくる月の影のさやけき 良寛
 
 元歌は次の三首と考えられる。
 「木の間より漏りくる月の影見れば心尽くしの秋は来にけり」  (よみ人しらず『古今集』秋上・一八四)
 「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」 (左京大夫顕輔『新古今集』秋・四一三)
 「もみぢ葉を何惜しみけむ木の間より洩りくる月は今宵こそ見れ」(中務卿具平親王『新古今集』冬・五九二)

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日本浪漫歌壇 秋 霜月 令和六年十一月十六日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 四年に一度と言えば、オリンピックを思い浮かべる人が多いだろう。今年はパリでオリンピックが開催された。最もメダルを獲得した国はアメリカ合衆国だったが、そのアメリカでは、オリンピックの年に四年に一度の大統領選挙が行われる。数日前に選挙結果が出て、次期大統領がドナルド・トランプ氏に決まった。大統領の任期は二期八年までだと知ってはいるが、返り咲きについては考えたことがなかったので、今回正直驚いた。調べてみると、過去にも一人だけ返り咲いた大統領がいた。第二十二代、第二十四代大統領を務めたスティーヴン・グロヴァー・クリーヴランドである。今から百三十二年前のことである。初めてではないにしても返り咲きは極めて珍しい。トランプ氏には、選挙集会中に起こった暗殺未遂事件でも驚かされた。彼が「型破り」な人物であることは間違いない。就任後は日本にどのような影響があるのだろうか。
 歌会は十一月十六日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
 
  亡き夫がみやげに買いしパナマ帽
     野分立つ朝友かぶり来ぬ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。亡くなった夫への深い愛情とその喪失感が、パナマ帽という具体的な物を通して見事に表現されている。しかもそのパナマ帽は夫が作者に買ってきたものではなく、土産として友人にあげたもので、友人はそれをずっと大切にしている。「野分立つ」とあるので、季節は秋から初冬ごろであろう。時期としてはパナマ帽には少し遅めかもしれないが、一日の始まりにそれを被って作者に会いに来た。帽子を見た作者は夫のいない のを寂しく感じたかもしれない。ただそれ以上に夫と友人との良きつながりに心が温まったので歌に詠まれたのだろう。

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