若き日の六本木
 
                濱野成秋  作詞
                ジュン葉山 作曲
 
シシリアの 坂道くだ
霞町かすみちょうの 谷のひだり手
わが春の 迷いを語る
一輪の 菊ぞ聞きゐて
 
鉢は欠け 転がりたるを
持ち帰り 棚の静寂しじま
たれそ知る その後の日々や
いかばかり つらはかな
 
今ぞ見る 幼心おさなごころ
白菊の 遺れるいのち
歌姫の 恋路をでつ
孤独ひとりの 夜や時雨れて
                  ©2024・09・09登録
  羽二重餅はぶたえもちポーニョポニョ
 
                橘かほり  作詞
                ジュン葉山 作曲
【壱】
羽二重餅 ポーニョポニョ
お宮で賑やか ペッタンコ
みんなで でんぐり返して
も一つ食べて ニッコリコ
 
【弐】
羽二重餅 ポーニョポニョ
お寺でこっそり ゴッツンコ
みんなで泣きべそ ごめんなさい
も一つゴツンで ニッコリコ
 
【参】
羽二重餅 ポーニョポニョ
峠のお宿で ピッタンコ
皆さ村中で お祝いさ
孫も曾孫ひまごも ニッコリコ

                  ©JAR. August 26,2024

格言 「親の言葉は自分の永遠」

葉山カフェ・テーロにて 濱野成秋

 
 戦前は「親孝行」を徳目の第一に挙げていたが、現在は、個人主義のエゴを良しとする風潮からか、自分が第一であり、自分が幸せを求めて、何が悪い、となる。だが、高齢で己が肉体が果てる時、何も残らないと気づいて後悔する向きがつよい。自分の努力など消えて当然とあきらめるか? 肉体は枯れ果てた庭木と同じだが、百年程度しかもたない自分の心も思い入れも、一緒にくたばることになる。
 
 高齢の親はそれを知っている。だから筆者のように著書を遺す。自分史ではないが、著書の大半はそのたぐい。若い息子はそれをうざったいとガラクタ同然に処分してしまうかも。せいせいするからね、一時的に。だが生き永らえてみると自分の存在が怪しくなる。世間の泥沼にどっぷり浸かって、心が飢えて、寒さにふるえて、この先、死ぬしかない運命で。只の、朽ちる肉体でしかない。遺された手段は余命の使い方だけだ。まず温かい飯にありつきたい。それでうろつく。泥沼で、右往左往。…俺は親として哀しむ、その姿を。
 折角、親の愛が言葉となって、君の老後の安定と親自身の君への「心」を遺すために、遺贈した家の中に遺した著書群だから、大事に読んでみてくれ。それをむげに斬り棄てると、一時的解脱感があっても、君自身が徐々に、自分の人生の存在理由も怪しくなりだす。わが子に棄てられる恐怖感も湧いてくる。泥沼のなかで君ら親子がまたもや醜悪な生存競争になる。
 
 だから君、息子よ、しばらくは抵抗感があっても、親の言葉たる著書をとって置きなさい。自分も枯れた庭木にならず、永遠の生の息吹を得られるから。君自身が85歳になったとき、実感するはずだ。
 君、これを読んだ君よ、子孫に立派な言葉を遺しなさい。親の言葉と自分の言葉がちゃんと仏壇にしまわれて、ちゃんと永遠に続くから、未来世代も時々は読んで、蘇生させてくれる。 親があって自分があり、孫子よ、君らがあってこそ、未来に生き、その果てに、僕や君と一緒に、永遠に生きられる。では一足先に逝って待ってるぜ。

河内裕二

日本浪漫学会主筆

 

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日本浪漫歌壇 春 皐月 令和四年五月二十一日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会の開催された五月二十一日は二十四節気では小満と呼ばれる。『大辞泉』によると「草木が茂って天地に満ち始める」という意味である。雨が降ったり止んだりの天気になったが、午後一時半より三浦勤労市民センターに九名が集まった。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の八氏と河内裕二。三浦短歌会の櫻井艶子氏も詠草を寄せられた。
 
  花終へて赤く色づくさくらんぼ
     鳥ついばめば種散乱す 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。ここでいう「さくらんぼ」とは山桜とか吉野桜の実のことで、今の時期はその実を鳥が食べて種を落としていくため、洗濯物を干すのに注意されているそうである。世の中は変わっても自然の営みは変わらず、時が来れば花は咲くし、鳥も飛び交う。そんなお気持ちで詠まれたとのことである。
 
  フロントに花びら四、五片はりついて
     病院帰りのわれを迎へり 由良子
 加藤由良子さんの作。耳が痛くなり心配になって病院に行って診てもらうと、とくに何でもなかった。医師によると、耳掃除をしすぎるとよくないとのこと。ホッとして帰ってきたら車のフロントガラスに桜の花びらが張り付いていた。もしかすると行きにも付いていたのかもしれないが、気にする余裕はなく、帰ってきてはじめて気がついた。その花びらに心が癒やされたとのことで、安堵されたお気持ちを詠まれた。
 
  春よ春 おごれる心はちれて
     上京せしは十八の春 艶子
 
 本日欠席の櫻井艶子さんの作品。櫻井さんは松竹歌劇団(SKD)のメンバーだったそうなので、オーディションに合格して上京された時のことを詠まれたのだろうか。「驕れる心」とあるが、加藤さんは「三浦のような田舎からSKDのメンバーに選ばれて花の東京に行くのはすごいことで、当然自信に溢れ、選ばれし者という気持ちになったのだろう」と仰る。今振り返ると当時のご自身は何故に驕っていたと思われたのだろうか。ご本人にうかがえないのが残念である。「春」が三度も使われて、当時の喜びに満ちた様子が伝わってくる。
 
  喪中なる我も明るきマニキュアを
     つけて歩めば足取り軽し 員子
 作者は羽床員子さん。旦那様を亡くされて半年が経った。暗く沈む心を明るくもっていこうと明るいマニキュアをし、明るい色の服を着たりされているそうで、歌の内容にみなさんも共感された。
 
  初孫の初給料のお誘いは
     大好物のあんかけうどん 弘子
 
 嶋田弘子さんの歌。一読しただけで作者のうれしさが伝わってくる。子供が初任給で親に何かをするというのはよく聞くが、孫となれば喜びもひとしおであろう。嶋田さんは行きつけのお店のあんかけうどんが大好きで、そのことをお孫さんは覚えておられて、初任給が出た際に行こうと誘ってくれたとのこと。高価で気取ったものではなく庶民的な「あんかけうどん」というのが微笑ましいと仰ったのは清水さん。作者だけでなく読者も幸せに包まれる歌である。
 
  いほは仮寝の宿よと天の声
     されどふすまはやはらかぬくきぞ 成秋
  
作者は濱野成秋会長。「天の声」とはもうひとりの自分の声であり、いま毎日寝ている温かい布団は仮住まいに過ぎず、いずれ長い眠りにつくのは冷たい場所だとささやく。このような気持ちになるのは、体が弱かったために子供の頃からいつも死を意識していたことやご両親を案じながら自分の生きる場所を求めて故郷を後にしたことがあるからであり、心地よく暮らす現在の地にあっても「汝が庵は仮寝の宿」と思えてくるとのこと。文学の道を歩む者の心は、安住することのない永遠の旅人のようなものなのかもしれない。
  見つめたるわれの視線を感じてや
     雲に隠れし春の夜の月 裕二
 
 筆者の歌。仕事の帰りなどに夜空を見上げると晴れた日には星や月が見える。星は変わらないが、月は見るたびに「表情」を変える。悲しそうなときもあれば、力強く見えるときもある。先日気持ちが沈んでいたときに見上げた月は優しげで美しかったが、しばらく見ていると雲に隠れてしまった。まるで見つめられて恥ずかしくなったかのようであった。その夜の月を思い出して詠んだ歌である。
 参加者から百人一首の紫式部の歌にどこか似ているというご指摘があった。言われてみれば、たしかにその下句「雲隠れにし夜半の月かな」と似てなくもないが、筆者はただ単純に「雲に隠れた月」を描写しただけで、とくに意識したものではなかった。
  
  杜若池端かきつばたいけはたに立つ人影の
     業平に似て憂いを誘う 滿美子
 
 岩間滿美子さんの作品。根津美術館で開催された特別展「燕子花図屏風の茶会」に行かれて経験されたことを詠まれた。かきつばたの咲く頃になると、『伊勢物語』の主人公とされる在原業平のことを思われるとのことで、有名な尾形光琳の燕子花図屏風を観た後に、美術館の庭園を散策すると、池のほとりに実際にかきつばたが咲いていた。そこにひとりの男性が立っていた。その光景が三河の国の八橋で美しく咲くかきつばたを見て「かきつばた」の歌を詠んだ業平を想像させた。
 
 「かきつばた」の歌とは、句頭に「かきつばた」を置いた業平の次の望郷の歌である。
  唐衣きつつなれにしつましあれば
     はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 業平
 
  誰も来ぬ一日なれど裏山に
     来たる狸を猫に教はる 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。実際のことを詠まれたのだとすれば、狸は夜行性なので、誰の訪問もなく一日が終わろうとしていたところに狸がやって来たのだろう。狸は日本の昔話や民話では人を化かす動物として登場する。近年は、農作物を荒らす招かれざる客としてあまり歓迎されていないようであるが、筆者などは見かけるのが実物の狸ではなく、信楽焼のたぬきの置物ばかりなので、狸に対して勝手にひょうきんでプラスなイメージを抱いてしまう。猫は警戒心から狸の登場を嫌がったのかもしれないが、作者は狸であっても来てくれたことにどこかうれしい気持ちになったのではないか。
 
  ビートルズ流して飛ばした第三京浜
     あの頃のわたし何着てたっけ 和子
 
 作者は清水和子さん。最近目の具合が悪くて手術をされたりして、あまりよいこともなく歌が考えられなかったときに、なぜかふっと浮かんできたとのこと。どうしてこの歌なのかわからないが、ただ、若いときのことはよく思い出されるそうで、それが年をとることなのでしょうと清水さんは仰った。
 流れていた曲も周りの風景もはっきり覚えているのに、自分のことだけは覚えていない。ご自身はお洋服がお好きなのに、なぜかその時着ていた服も思い出せない。歌謡曲の歌詞になりそうな上句は筆者でも思いつきそうであるが、下句は清水さんならではの表現でとても出てこないと思った。
 
 今回の歌会では三宅さんの仰った「感情表現を直接書かずに感情を伝えるのが短歌である」という言葉が印象に残った。というのも、筆者が短歌を始めたばかりでなかなか歌が詠めなかった頃に、濱野会長も同じことを仰ったからである。その時は、つまり論文ではなく小説を書くということかと思い、文学研究者の筆者は少々気が重くなったが、先人の歌を読んだり、歌会に参加して勉強させていただいたりしているうちに、少しずつコツがつかめてきた気がしている。しかしながら清水さんのように、歌が自然に浮かんでくるようになるには、まだまだ作歌が必要である。