キルケゴール哲学反論

濱野成秋

1.「倫理」を解脱して「存在」を究明すべし

哲学者はどいつもこいつも勝手気儘な存在である。自己流の考察だけがこの世界を支配し、自己流を唯一正統な規定機関であると主張して譲らない。天候になぞらえれば彼らの主張は「どしゃ降り」である。晴天を目指して心を入れ替えよと命じても、降り続く大雨は止むことを知らない。キルケゴールの「絶望論」は特に傍若無人であり酷い。解釈上の飛躍、逸脱、暴論が乱れ錯乱している。『死に至る病』(日本語訳1949)がその典型で、彼の代表的著書ではあるが、勝手気ままに過ぎて留めようがない。かれは中心課題「絶望」を巡って、持論を縦横に展開するけれども、そのロジックには例証が偏頗であり一面の照射に終始する。それは常日頃から多少なりとも「絶望」を味わい、それを超克することに慣れた都会人なら、「絶望」の持つ多面体的特色の複雑さを会得しているから、キルケゴールの敷いた路線通りには進行せずかくも極論へと突っ走ることはしないと思われる。本論はその主旨で論考する。

人間生活において、誰しも「絶望」を幾度か経験するが、「絶望」に陥るとき、それを「罪」という善悪勘定で規定すること自体、間違っている。「希望が絶たれた時」をもって「絶望」というなれば、希望を断絶せしめた張本人は罪深いとも考えられるが、絶たれた者は「絶望」を押し付けられた被害者であるから「罪人」ではない。

また、ある、余生いくばくもない「老作家」がたった一つの希望である「息子と暮して作品を後世に遺す」ことが希望である場合、その息子が別居し、終生同居しないと断言した時、老作家は「絶望感」に覆われて余生を送るであろう。だが、その息子が後年、その科(とが)に気づいて改心し、父親の元に帰ってくれば、「絶望」はたちどころに解消し、長期にわたる過去の苦悩はもはや苦痛を消滅させている。この場合、父も息子も罪人でも咎人でもない。しょせん、道徳律の問題ではないのである。

2.多面体的ファクターを導入せぬキルケゴール

キルケゴールは聖書のようなケース・スタデイをせず、「プロディガル・サン」のような逆説も成り立つことにも斟酌しない。『死に至る病』の冒頭で、キルケゴールは「死に至る病とは絶望である」と規定する。この着想というか、テーゼは異論も含蓄しているとはいえ、言い得て妙な定義ではある。彼は言う、「絶望」は自己における病であり、それには3つの場合がある。一つは「自己」を自覚していない場合。二つ目は「絶望」して自分自身であろうとしない場合。三つ目は自分自身であるとする場合。この3つである。この段階では、「絶望」は善悪や倫理問題とは異なる「認識論」であるから頷ける。また「可能性」や「現実性」が絶たれる状態を「絶望」というとする規定も、ある場合には当を得ているであろう。

だが彼は「絶望」に、「必然性」と「有限性」を持ち込む。「可能性の絶望は有限性の欠乏」にあり、「必然性の欠乏は可能性の欠如にある」とするロジックも一面の真理である。但し「可能性」も「必然性」も、possibility とnecessity だけでなく、probabilityも介在することを考慮に入れなければならない。さもないとロジックとしては充足されない。

他方、相対性理論から言えば、「是」は時として「非」になり、「非」も時として「是」になる。たとえば茶事の準備を淡々と進め、開始5分前になったとき、はたと茶花を活けるのを失念したことに気づいた亭主は長年世話になった賓客に最大限の無礼を働いたことに気づいて「絶望」の境地に陥る。だが開始の直前に一番弟子が茶花を持参してくれたら、直後に到着した賓客は良き弟子をもったと誉めそやし、却って茶事が和んだとなれば、こうした不可抗力と珍事が急場を拭いとるというハプニングで「絶望」は解消される。長年努力を続けた自分の茶道人生も保証され、「絶望」という「苦悩」に代えて「幸せ」が支配する。この種の不条理はしばしば人為を転生させるファクターなる。キルケゴールはこの種の配慮には欠落する。これらは夏目漱石やアインシュタインがすでに言及したことであるが、状況がつねに多面体として存在する中で、キルケゴールの絶望論には外界の転変を無視した論考が目立つ。

3.キルケゴールは望まずして「生」を受けた

キルケゴールは自己の誕生につき、「必然性なき誕生」という、「因果律」を伴わない「出生」という「現存在」を問題にする。父と雇女との間の、社会的には不義の子としてこの世に出現したのである。筆者自身はしかし自分にもあった「因果律」の欠落を問題にしない。

歴史上の大人物で、望まれずしてこの世に生誕した人物は多い。キリストがそうであり、アメリカ独立の父といわれるベンジャミン・フランクリンも多産系の父母の家族として16人兄弟の13番目として生まれている。キリストは言うまでもなく、フランクリンもそれにめげず、若い頃からPoor Richard’s Almanac(1760)などを出版するなどして、彼自身の存在を植民地時代の北米在住の農民たちに染み渡らせている。人間の「無」から「有」への出現現象は家柄とは無関係に「重い」と筆者は受け止める。キルケゴールは身体虚弱という二重苦を受けたと言われるが、その不運が却って読者意識に彼の存在を刻み込むにプラスしたと看做し得る。

キルケゴールが生きた社会の政治状況はどうだったか。彼の存在を脅かすものであったか。これを考えるに、筆者は自分自身の生存状況に照らして考察したい。私もキルケゴールのような、不可解で臨まぬ条件下で生を受けた。彼同様に私も身体虚弱で幼い頃から「死」と共存していたし、我が国はまた激烈な戦時下にあり、いつ暗天で炸裂する業火に見舞われても当然とする幼児期であった。防空壕の湿った泥土が放つ異臭が真夜中充満していると、それが常態化してしまい、異臭なくしては熟睡できぬ生物となり果てた。闇夜に烈火を掻い潜り、死体もろとも爆風でどぶ川にふきとばされ、死体を視ることが常態化すると、アルベール・カミュが作品『異邦人』で描いた主人公ムルソーのように人間感覚さえも焼失せしめる。いやムルソー以上に虚脱化して生き抜くのが幼年時代であった。不条理が当たり前だった。私だけではない。20世紀という戦火の日々をアプリオリに甘受せねばならない状況下では街行く人はおしなべて、そんな「生」が常道であった。

4.「絶望」は罪である、の解釈をめぐって

筆者はこの不可解性の雑居状態から実存志向を好み、すなわち快楽主義や功利主義を排し、モラリストやニヒリストにもならず、少年期には生産的な努力を続けた。つまり従前から存する価値観には逆らわず理解を示しつつもそれに帰依もせず入信もせずして、「実存哲学」に進んで「生き方整理」をせっせと果たして大学という学府に進んだ。入学するやサルトルやカミュの生活が始まり、そこにキルケゴールが介在して、3者と同居してヘミングウエイやマルロー、サンテクジュペリ、フロイトを周辺に置いて暮らした。

『死に至る病』の第2部において、キルケゴールは「自己の罪について絶望する罪」という項目を容れているが、それを考察すれば、彼の言う「罪」の概念がよく解る。「自己の罪についての絶望」は自己の背後の橋が切り落とされていると知っている。だから自分自身だけにこだわり、頑なに自分自身だけに閉じこもろうとする。それゆえに、罪だとする。もはや「善」を欲することを不可能にしている。その結果というべきか、「罪の赦しに絶望する罪」を背負うとする。

ここら辺りの解釈は俗にいう「ひきこもり現象」の一典型でもあろう。精神病患者の形質はひとえにこのような「固形性」にあるが、筆者は「絶望」と多次元の状況との関係性を利用して「絶望回避」は可能であるとする。一元論であれかこれかと悩まねばならないわけではないのだから。(了)

日々deathを認識して「現存在」を確認する
ハイデガー哲学の齟齬を質す
 
濱野成秋

戦争や強盗は自分を殺して否応なくその存在を消し去る。だから生身を大事に保ちたい人間は、できることなら出兵に参加したり、危ない夜道に出ていこうとはしない。

ところが昨日、元気に、朗らかに過ごしていた自分が今日、しょんぼりとベッドから起き上がったとき、昨日に存在した自分が完全に消し去られている状態にあることへの慨嘆や苦しみを覚えて、のたうち回って苦しむことをするだろうか? 「生者必滅」とは「時間」がもたらす暴力的破壊行為なのだが。

Cruel Today  by Seishu Hamano

Dear Today, you have killed Yesterday
Without any love or mercy.
Say Sorry for the corrupting past days!
Without shedding tears, this killer, an arrogant murderer
Has come down from the innocent, vacant-headed sky,
Down deep into the obscure, shady, conscious widow, asking
How many yesterdays did I kill for you in this way?

時間の経過と共に消え去った「今日」が過去になると「昨日」という、定かでない虚構と成り果てていても、人間の実存は昨日の自分を今日も維持させているから問題ないと考える。だが、昨日語り合い、意気投合し合った人間たちは、自分をもふくめて、絶対に取り返せない虚像と化しており、それを昨日という括りで棚上げして、「今日」という日に対してめまぐるしく対応して過ごすうちに、「今日」も「昨日」と化し、「昨日」という括りで棚上げしておいた「昨日」は「一昨日」という、もっと虚像化した架空存在になって、もはや手の届かないほど遠距離で、記憶からさえも遠ざかって、いかに手を尽くしても手繰り寄せられない対象へと成り果てる。自分の存在は神に頼みもしていないのに、「時間」という得体のしれないクラウドにからめ捕られて、虚像化し、かつての実存は確実に非在化していないか。

How many ancestors challenged you in the past time cave?
Swords decayed, broken and left in the mud of repentance cried out
Let it come down into my dream,
Let it cry over the spilt milk!
Memory, a bundle of dismay and hopeless inquiry,
Dried, shrank, rotten, with half-attained aspiration
Waiting in line for their coming into Today, but in vain,
Tomorrow, come with me, you the grand children of the victims.

ハイデガーは「人」(ダス・マン)を「主体性」を喪失して日々を非本来的な存在として「頽落」しているから、その不安状況から逃れて日常性にかまけて生きる。その状態では永遠に自己の実存を獲得することが出来ないから、Man is mortal.すなわち「人は死ぬもの」という自覚を前面に据えて、「死への先駆的決意性」を発揮せねばならないと主張する。見方を変えれば人間疎外を認識し、自己を覚醒することによって、現存在を獲得する必要があるというのであるが、それが時空というアプリオリな、逃れ難い怪物の餌食になっているという、もう一つの魔物には無頓着でいることと相俟って、「人」は益々主体性を喪失する方向に流される。

肉体が尽きて「死」に至る前に、人は没個性化して「頽落」状態にあるから、「死」への存在としての自分を自覚せねばならないというハイデガーは自己を「個」として捉え「現存在」を確保できろとする楽観論者である。キルケゴール以来の実存論争は彼自身の不条理な誕生とその後の曲折した生存状況がカオスであるがゆえに複雑多岐に分裂していたし、それに加えて時間の経過による実存在の消滅ということには配慮を怠るわけにはいかない。だがハイデガーはそれを怠る。筆者はしたがって、これをHeidegger’s discrepancy と呼びたい。ハイデガー理論は一次方程式のようなロジックから出ておらず、この現実界を覆う多元的ファクターを考慮しない。これは同時代のカミユの不条理どころか、ほぼ一世紀以前のキルケゴールの不条理と比しても物足りない思考といえまいか。

サイコ・セラピスト入門講座⑴
フィラデルフィアでの体験
    ニューヨーク州立大客員教授・作家 濱野成秋
 
1 精神分析学と心理学は別物
 
 心理学は歓びと悲しみの学問。
 精神分析学は構造力学にすぎない。
 僕はよくこう言います。それは、心理診断士の称号を出す立場からいうと、若い諸君になんとか世の中の困っている人々に役に立ってもらいたいという気持ちが絶えず胸中に去来するからだと思います。
 この世の中に心理学より精神分析学を優先するドクターが多すぎるから、患者は冷たく理詰めに扱われるし、分析されればされるほど治らない。いや却って症状が深刻になる。もう自分の異状性は手の施しようのない段階に来ている、と観念する。ドクターの深刻そうな表情も患者の内奥にへばりつく。なぜもっと彩りのある心理学で治癒するセロリーと入れ替えないかと僕は助言するが、聴く耳を持たない人は多い。そのほとんどが、もう、癒し難い患者の一人になっている。
 フィラデルフィアにある「アインシュタイン記念病院」の精神科でのこと。僕がそんな病院でセラピーを行なう幸運に恵まれたのは、NY州立大バッファロー校のL・フィードラー教授とサイコセラピー論を展開中だった頃、僕は学内にいたフロイディアン(フロイト学派の学者)と親しくなり、彼らの口からフラデルフィアまで伝わって、この、第一級の病院の主任教授の私邸に一時逗留しているとき、教授が僕のセオリーに共鳴してセラピーの実地体験をさせてくれたわけだった。
 
2 セラピーは症例から割り出そう
 
 その時のセラピストは私だけだった。患者は30人もいて、大半が女性だった。彼女たちは訴える行儀良く腰掛に並んでいて、看護師が名前を呼ぶと一人ずつ立ち上がって私の前に座り、「不眠症です」、「早朝、目覚めて死にたくなる」、「幻聴に苦しんでいます」、「割り安に買った家ですが、夜中、廊下を歩く音がして…寝室のノブがカチャと鳴って…」
 皆取り越し苦労だ、見るからにリッチな暮らし向きで…などどコンセプトのジェネラリゼーションしてはだめ。瞳の動きから揺らぎまで、微妙に読み取らねば最高の暗示を出せない。
 それも制限時間内に診断しなければ嫌がられる。
 なぜなら時間をかけると治患者負担の療費が嵩むし、待機中の患者はその待合室の部屋代まで払わせられるのがアメリカのやり方だから、患者からクレームが出ないようにそそくさ結論を出す必要がある。
 僕は目つきの診断から異状を読み取り、興奮上気の鎮まらない50歳代の女性のパームリーディング(手相)をやった。手相? なぜ? あなた、ウイッチドクター?(魔女裁判)
 中年女性の驚きに満ちた目。ドクターがフォーチュンテラー(運勢診断)をするとは呆れたわ…そんな目つきだ。
 「あなたの手のひら、赤いね…でも温かい」と僕。
 「運勢を掌の皺ではなく色で看るの?」
 「赤いのは血液が末端部分まで行き渡っていることの証拠」と両手で挟んでやると、確かに温かい。「これは健康な証拠だ、あなたが病むのは身体的な原因ではないですよ、心の持ち方がよくない。もっと自信を持って生きること。元気なんだ、まだまだいける。そう思って頑張ると、君の運勢は大いに開けるよ、請け合いだ」
 と言ったら、相手の目が急に明るくなった。「そんなこと言われたのは初めてです…サンクス・ア・ロット!」急に活発になって立ちあがり、握手を求めてきた。
 
3 診断には欠かせない「暗示」
 
 診断後、回復に向かったのは8名もいたとワイス教授が電話してくれた。
 こんな現象はバッファローでも起こっていたので、僕としては予測通りだったけれども、みなさんはどう受け止められますか?
 診断士は分析だけでは患者は迷う一方です。シンプトムを百例出して、つまりそういった分析をやってのけて、全部患者の前で並べ立てたら、もう最悪。多くの症例から絞り込み、それだけ言って、それに相応しい励まし言葉が患者には必要なのです。その励ましが実地検分に基づいていなければ効果に結びつかない。「暗示」というのは、「そそのかし」の意で、よくない意味も含まれますが、心理療法士は必ず科学的根拠に基づいて解析し、そのデータに基づいて「暗示」してやることが大事なのです。
 「暗示」は精神分析学でいう「無意識」(unconsciousness)に与える助言で、これが回復への強力なプッシュ要因になります。
 逆にマイナス要因となるシニフェ(発話)があります。
 それは療法士が無意識に発する言説でその典型的なものは、患者の前でけっして言ってはいけないこの言葉です。
 「色々調べてみても、よく解りませんが、しばらく様子を診てみましょう」 
 ドクターのこの一言で相手はバイバイして去って行くことでしょう。なぜなら、そんな常套句は今まで飽きるほど聞かされていて、またか、こりゃだめだ、と思って気持ちが退嬰的になって自力で立ち直ることが出来なくなるからです。
                          (to be continued)