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本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

3.「知」は活性化してこそ価値をもつ

⑴知識人に取り囲まれて

鈴木教授は他の教授と大分かけはなれた存在だった。

“歩く知識の宝庫”というべきか。

授業で先生はこんなことまで知っているかと舌を巻いた私だったが、彼の知識の源泉に注目すると、慶應義塾にはその種の知識の宝庫が沢山おられた。授業中、なぜすぐにポンポンと知識が迸り出るのか。その頭脳構造に舌を巻く前に、僕は知識取り出しのプロセスに興味をもった。級友の中には自分らとは頭の出来が違うんだと追いつけない悔しさを生まれながらの優劣問題として片付けてしまう傾向もあった。だが、それは違うなと僕は思っていた。

T.S.エリオットのperfect criticとimperfect criticの差異を講義してくれた由良君美教授の授業も明快だった。僕の好きな展開法であったし、その解析法は自分と同じなので、エリオットの魅力は自分でも由良さん並に解釈出来た気がする。一口で言うとcause & effectとkey wordの掛け合わせから繰り出される知識系列には必然性があって理解に無理がなかったのだ。

その目で鈴木先生流の思考回路を解析すると、語学的な語句解釈から多岐に分化し、政治、社会、文化、歴史や国際関係へと波及していく。語学から別領域へ。際限もなく飛翔するのである。学術用語でいうと、当時はまだあまり知られていなかったinter-disciplinary(学際的展開)というジャーゴンで言えることだけれども、この技法で語学を説き分ければ、それは語学と関連性の深い文学だけでなく、社会学や哲学の弁証法にも結びつくし、さらに考察領域を拡大すれば、政治経済や自然界の、神羅万象の世界へと遡及できる。当然、諸データと共存させて多様性のある形象へと関係性を拡大することもできるのである。

つまり、鈴木氏の論考法は、一つの命題に関係性のあるポイントを引き出し、それがとても魅力的だと解ると、それからそれへと、一種の韻律をもって連鎖反応を起こす。思考回路の立体化である。その形成が無尽にできるということが聞く側には快かったのだった。

他方、対極にあるかと思える仏文の白井浩二、中文の奥野慎太郎、英文の西脇順三郎、厨川文夫の諸先生は知識量の差異というより専門性の蓄積量の差異と考えるとよいだろう。その神髄を引き出すには原典講読が欠かせないし、地味で時間もかかる。ゼミではその応用を続ければ与えた情報は熟成する。

学問とは方法論と定めたり、か。

ふと気づくと「昼食を食べに行こうか…」と誘われる。そんな先生が多くなり、そのうち食事をご一緒するのが当たり前の日々になった。池田弥三郎先生はよく幻の門を出てすぐ右に曲がった路地奥のあんみつ屋に連れて行ってくださった。談論風発、あんみつ屋で万葉集の講義である。江戸文学も出た。1体1で粋な小話もうんと聞いた。

サルトルの白井浩司教授は翻訳でいつも多忙を極めておられたが、当時は塾に予算もなく、彼の研究室を『三田文学』の事務所に充てる有様。僕は英文学科生としてではなく、塾生として仏文の院生たちとサルトルを論じ合った。足りない知識は読書量で補うほかない。下宿に帰るなり話題になった作品を読み直し、翌日にはそのキーワードやファクトを頭中に入れ込んでトークに参加するわけだ。

大橋吉之輔教授はアメリカ文学で、当時はヘミングウエイやスタインベックが流行る世間とは異なり、大橋氏はきらびやかなロスト・ジェネレーションには志向せず、むしろ鄙びたアメリカ中西部の田舎町の暮らしぶりを描くアンダスンに興味がおありだった。長編『貧乏白人』や『ワインズバーグ・オハイオ』という短編集に描かれた人間模様に親しみを感じるお人柄であった。

僕は当時西海岸で興隆したビート・ジェネレーションと20年代ジャズ時代のロスト・ジェネレーションを比較して両方の作歌群像を網羅的に調査して彼らの生きる哲学の比較論を英語で書き上げら博論級の厚さになったが、それを提出したのだが、大橋氏には気に入らなかったようである。学部学生としてはあるまじき論文だとか不平を言われたのを、今も覚えている。

学部の4年間はこうして瞬く間に過ぎ、卒業後、僕は東京国立にある桐朋高校という進学校の英語教諭になった。

⑵鈴木流知識体系の演繹法

鈴木先生流の知識体系はしかし興味深く忘れ難い。面白い。面白いだけでは演繹法にならない。勉強法としても使うにはその演繹法を辿らねばならない。僕は自分なりに英文法論をもっていたので、それを研究社という辞書の会社から出版したけれども、西欧の文法学者の領域から解脱できるほどの大作にはなれず、文法路線で進行せず、やはり文学に返り咲いてモームの長編を片っ端から読んだり、『月と六ペンス』や『人間の絆』と言った長編や南海物の短編を読み飛ばして、人間というやつはかくも卑劣なものかと、作者モームの心境で読んでは受験に熱心な生徒ばかりの教室に行くものだから、授業はろうなものじゃなかったと思う。

低迷期であった。鈴木先生や由良先生の教室が懐かしく、酒に浸っていたこともある。だが、そんな自堕落もやがて治まり、鈴木先生の文化論を読み返す気になって、立ち直り、アメリカ留学のために本格始動を始めた。

僕のディベート論法にそれを心得として加えて組み直すと、鈴木流なら鈴木流の知識体系の各端末に、A→A‘→A″につながる端子を出して控えるようになる。この方式をわきまえて展開すれば痛快に使えるはずで、それをエリオット流の批評に専念して、アメリカ文学の新作を次々読んでは文芸誌に発表する日々になった。

池田弥三郎助教授の国文学研究法は実証的で、万葉集の読み解きも芭蕉のように現地を歩いて実感している感動が伝わってくるから、当然、聞く人に実感を与える講義ができる。これは私にも影響を与えて、アメリカ史の初期独立革命を知るために、ボストンのfreedom trailを歩き回り、東印度会社のオフィスやポール・リヴィアが馬を繋いだ杭まで行ったし、汽車に乗ってレキシントンやコンコードまで行って、イギリス正規軍とアメリカ民兵とのドンパチでめり込んだ銃弾の穴にまで指を突っ込むまでやってのけたから、講義に迫力が出たしその時点で出したデータは活き活きと使えた。

その頃、僕は中野にある『新日本文学』の会員で、野間宏、佐多稲子、中野重治さんたちとかなり革新的な文学運動を一緒にやり、他方では中央公論の『海』、文春の『文學界』、研究社の『英語青年』に連載で掲載され鶴見大学の専任講師となり、数年後、東北大の教官に推挙された。

僕は大学院に上がって英語論文で博士号をもらう機会を逸したわけだが、東北大では私が精神分析学者の書くWalker Percy, The Last Gentleman という難解な作品(450ページ)を翻訳し、そこに誤訳がほとんどないと判明して評価されていたことも招聘の大きな理由だった。

これは大学に奉職する技法などというくだらないものではない。パーシィ流の精神分析に耽溺して読んでいたら、自分自身も精神分析学者となり、当時はやりのフロイトをはじめ、聖心分析や心理学に傾倒していかからこそ取り組めた仕事だった。延々800枚。乗せられた枚数は重荷でも何でもなかった。面白く読んで鈴木流に解釈して、誰が読んでも納得のいく言語で翻訳していく。高校で受験英語を教えた後、けっこう楽しんで仕上げた一冊だった。

鈴木孝夫氏はアメリカを日本人の観点からとらえ直しておられるが、僕は卒後、高校教師をやりながら「アメリカ研究」という新分野を東大の駒場の先生方と縦軸と横軸を構成することに腐心した。つまり、当時はまだ斎藤光、斎藤眞、久保田きぬ子、本間長世教授がみなさんご健在で、研究熱心はこの上なく活発。そこから得た知識群で自分自身、少しは語れる存在になった。

東北大助教授になったのはそれから数年後のことになるが、その間、僕は当時月例会が盛んな「アメリカ文学会」から声が掛かり、シンポジウムのパネリストになることが屡々で、それは月刊文芸誌の『海』、『新日文』、『三田文学』などに書きまくり、まだ若手の亀井俊介氏や僕も加わって、「アメリカ研究」を、「歴史」と「民族」と「移民」という三つの要素をもって構築。それが文学世界にも導入していた。ということは、一見、鈴木理論とは大分かけ離れた知識体系を作ることになったと見えるだろう。が、鈴木先生は、それはそれでいいと思われたと思う。

僕は後年、アメリカ文化センターで頂いたたくさんの情報や東大駒場で誕生した「アメリカ学会」で構築した「アメリカ研究」で、次々と著書を出していたから、鈴木先生とは観点視点も異なるけれども、歴史問答では面白くかみ合って、却ってよかったか、先生とはまた一段と親しくなった感がある。

⑶アメリカ時代での鈴木流研究法

僕が35歳頃だったが、東北大の助教授でいた時分、ニューヨーク州立大のバッファロー校で大学院生を相手にポストモダン米文学を教えていた時、近くの高校から講演に来てくれといわれた。レクチャーをあらかた終わって、日本でもシェイクスピアを読んでる、大学院でねと言ったら、高校生たちが怪訝そうな顔をする。

その空気が気になって後でレクチャー後、招いてくれた先生に訊いたら、「アメリカでは『ハムレット』や『マクベス』は高校の教科書で読みます、ほら、これです」と分厚いテキストをどさりと手に乗せられた。何と部分掲載ではなく、終わりまでスキップせず、一作を2週間で読むのだと言う。日本型の、少量を精緻に読み解く、というような読み方は果たして実力に結びつくのか。鈴木先生の膨大な知識量はどれもこれも活性化されているが、大学受験で培ったような精緻な、少量の知識は果たしてどんな実力になっているというのだ。

知識とは膨大な体系であって、一字一句きちんと覚えて100点を取る式では、とうてい知識人の端くれにもなれない。

結局、僕が明日の火種というか、話題に備えて必死に読んでは頭に叩き込んで、どの話題になっても直ぐ取り出せるように、いわば“文学のディベート”を続けたのがよかった。学生時代から始めた自己特訓が効を奏したのである。鈴木孝夫氏の『鈴木孝夫の世界』第3集(冨山房、2012)を例にとれば、それがよく解る。

鈴木先生から頂戴したご著書を前に、僕は慶應義塾の文学部英文学科で学んだことを今更ながら貴重な体験だったと述懐している。有難う鈴木先生。この想い出の記に登場された諸先生は今や総てこの世の人ではない。皆さん、有難う。僕ももう直ぐ黄泉の国へと出立しますが、まだまだ頑張りたい。どうぞ叱咤激励の目でお見守りを。(了)

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

2.鈴木孝夫は明治以来つづく世捨て人の系譜

⑴慶應義塾は世捨て人も養成する

慶應義塾に入学して直観した言説は、福沢先生以下、文学部の先生は、みなさん、世捨て人ではないか、という感慨だった。俗に、「起きて半畳、寝て一畳。天下盗っても二合半」と言われる、芭蕉や山頭火に通じる言葉が慶應義塾にも通じた感があった。慶應義塾は政財界に幾多の大物を送ったけれども、文学部にあっては世捨て人づくりの本店ではないか。そんな雰囲気が横溢しているとさえ思えた。

理財科には通じない逆説が文学部では罷り通っているのは嗤える。だが当たっている。筆者のように、国立私立の両方で教鞭を執ってきた人間にいわせると、こう言っても過言ではなかった。

鈴木孝夫は『人にはどれだけの物が必要か』というタイトルの自著まで出しているが、いかにも医学部を捨てて文学部に来た仙人らしい。彼は言う、古代ローマやビザンチンの皇帝たちが愚民政策の常套とした「パンとサーカス」。こいつによく似たグルメにゴルフにテニスが今の日本。ホモ・エコノミクス(経済人)とホモ・ファベル(技術者)ばかりが目立って、環境破壊に取り組むホモ・フィロゾフックス(思想家)の姿を視えないと指摘。

この書の出版は平成6年。四半世紀前だが、その後この発想で汚染問題は表面化したけれども、今日に至っても、解決したと考えるには程遠い。鈴木はまたこの時点で、世界人口は56億、21世紀には100億を越すと嘆くが、ますます極貧化した国情がひろがり、その犠牲者として死んでいく新生児の数は増えるばかりである。彼の読みは残念ながら当たっているのに、どの富裕国もほとんどその手当てが出来ていない。

鈴木流に見ると、ジオポリティックス(地政学)が国家主義のエゴの下、戦前のコロニアリズムそのままに進む第二・第三の新興国の及ぼす勢いに先進国がひるんで退行現象を起こしてしまったせいとでも、診断できる。東大にはいるが、慶應義塾の文学部には、現行の官僚主義を愛でる者はいない。

顧みれば創設者の福沢諭吉はいつも国家指導の、つまり民衆を置いてきぼりにした政策主導のビューロクラシー(官僚主義)を慨嘆していた。だからこそ、その傘下に甘んじて惰眠を貪ることを潔しとはしなかった。その精神的脈流を受けて福沢の代弁者のように気炎を吐いていたのが鈴木ではなかったか。

⑵日本の、明治初年、戒告当時の実情に思いを馳せよう。

近現代の覇権主義の台頭に呼応して富国強兵策を国是とした明治政府はヨーロッパの国家体制の安定策に必要不可欠なロジックとして外周に「利益線」後に「生命線」と呼ばれた線引きをして自国を守る戦略を立てた。日本は朝鮮半島を利益線の対象にしていたから、日清日露の戦争が不可欠かのように是認した時代でもあった。それは欧米列強とロシアの脅威もあり、やむを得ぬ状況下でもあったともいえるが、強引な派兵工作は現地の民衆はもちろん、国内の下級兵士の立場から見れば、かなり無理無体は政策だった。当時はまだ国家安泰のためなら、民衆は喜んで命を捧げて当然とする風潮があった。公害問題も然りである。民衆が我慢さえすればよい、モクモクと黒煙を吐く工場や機関車や軍艦は国力発展のシンボルぐらいにしか考えられていなかった。労働問題や政体の改革など問題にならない時代でもあった。

しかし福沢をはじめ、指導者を失って欧米列強の植民地主義に国土を席捲されるさまを気の毒に思って革命家を保護するなどしていたから、やはりカウンター・カルチュラルな思考回路をすでに持っていた知識人はいたのである。

福沢型あるいは鈴木型の発想は当時の庶民からも受け入れ難い。体制派からみれば、かかる思想は排斥されるべきであり、帝国大学と名の付く7つの大学からは、学長自らが軍国主義に逆らう例はきわめて少なかった。

むろん帝大系でも教授陣において問題視する傾向もあり、それが高じると、○○事件と呼ばれて、官憲の弾圧対象になっていた。今から考えると、なぜあの程度の国家論に官僚主義者がこだわったか苦笑するほどの窮屈な時代だったとしかいいようがないが、鈴木孝夫氏はその時代でではなく、現代において、言論の自由で、いや、言論のフレキシビリティのお陰で、いや言論の「自由裁量権」のお陰で、異端視されず、問題視されなくなったのであろう。(つづく)

本学会相談役 鈴木孝夫慶應義塾大学名誉教授追悼

畏敬の師とその時代

⑴鈴木孝夫先生との出会いは60年安保の年

鈴木孝夫先生と私の出会いは昭和35年春、日吉から三田へ、英米文学専攻生として本格授業を受けに来た初日のことであった。授業はSimeon Potterの Our Language で、英語の組成を歴史的に説く歯ごたえのあるテキストで行われ、受験英語とは段違いに難解な内容をものともせず、驚くべき博学で内容の面白さに耽溺なさって饒舌に名講義を展開される鈴木先生には圧倒された。福沢諭吉の再来か。この授業はまさに慶應義塾に相応しい、悲痛な思いさえ籠められている。教室にいる学友は皆、一様にそう思ったはずだった。

というのは、当時は1960年。60年安保の真っただ中だった。国会周辺は全学連のデモ隊が何万と犇めく。現代アメリカ文学が専門の大橋吉之輔教授が戦時中にダンテの『神曲』を持っていただけで、特高に捕まり暗所に連れ込まれて拷問された話をなさると、我々もまた学徒動員が待ち構えている強迫観念に捉われ、清水谷公園から国会への行列に加わった。そんな時代だったからである。

厨川文夫教授は古代中世英語学の権威で、慶應義塾は明治維新の直前、江戸城の開門を巡って戦乱の最中でも講義を休まず続けられた話をされた。学問とは、一時的な感情の高ぶりに左右されてはならずと諭される。鈴木孝夫の授業がまさにそれだった。彼は政治抜きの学者肌で、講義内容から明確にされたのは、欧米の思想体系が必ずしも政治思想に毒されて歪んでいる存在ではないということであった。
 
偏在や偏見に陥る勿れ。まだ19歳の僕も自分自身にそう言い聞かせた。渋谷の東横デパートの屋上から眼下を睥睨すれば、ここに蝟集する人々の歩くさまがよく見える。自分もまた都会のゼロ記号になってはならぬ。そうは思えどエゴ・セントリックに考えても所詮はゼロ記号意識から解脱できない自分が情けなかった。

渋谷の下宿に帰ると机の上には、渋谷の大盛堂で買い込んだ大岡昇平の『野火』や『俘虜記』、田宮虎彦の『足摺岬』、火野葦平の『土と兵隊』、それに忘れもしない大江健三郎の『死者の奢り』や『ワレラノ時代』が積み上がり、学研連の「文学研究会」の話題に不可欠の作家群やサルトルやカミユの不条理実存主義の思想群や、「怒れる若者たち」グループのコリン・ウイルソンのDeclarationの英語論文。へたばるものか。父や兄の奮闘を思えば学問など苦労のうちに入らず。と、また自分に言い聞かせて読書とノート取りの日々だった。

この時代、鈴木先生は岩波の、今でも売れている名著『言葉と文化』を書き、大橋先生はNorman Mailerの評論White Negroを『三田文学』に翻訳され、さっそくそれを読んだ僕はsquareあるいは organization manというキーワードに対峙するhipsterという語に憑りつかれた。メイラーは1950年代というAmericanism全盛時代に順応主義者として生きるアメリカ大衆に失望していたから、beatという「打ちのめされた世代」とは別にhipsterという、敢然と冷戦という米ソの対立状況に立ち向かう存在を明記したわけだが、自分もまたかかる立場を採らねば、わざわざ関西から上京して学問の門を敲いたことにはならないと思った。

兄は私が東京に出立するという日に、母に向かって言ったそうだ、それは後年、兄自身から聞いたことなのだが、「成生はもう大阪へは帰って来よらんよ」

それは異母兄弟として育った、自分から見れば、母のたった一人の息子であり、兄とは姑を介在して戦中から続いた確執が絶えない、その時代に郷里を後にした私の存在を、兄は見事に見抜いて言った言葉であった。 

「親不孝者か、自分は…」

この思いは、学生時代はおろか現代に至るまで続いている悔悟の念である。確かに慶應義塾の門に入ったことは正解であった。ここに来なければ、私は関西人として政治も社会の矛盾撞着ともあまり拘泥せず、平凡な暮しで生涯を終えたはずだった。

賢明な兄はそんな弟の行く末まで見抜いていたわけだが、自分としては塾生として日々4年間送った毎日が自問に自問を重ねる日々であり、どの師を前にしても未だ浅学の我が胸中を思えば自信喪失でその空白を埋めるが如き悪戦苦闘の日々ともなったのだった。

60年安保の響きは現在の静けさからみれば、想像を絶するほど、喧噪著しいものがあった。

連日連夜、国会周辺を十重二十重に取り巻いて「岸を倒せ!」「日米安保反対!」のシュプレヒコール。全国の主要都市でもこのシュプレヒコールは鳴り響く。それは曇天の梅雨空に響きわたり、東大生の樺美智子さんが警官隊に圧し潰されて亡くなった。22歳だった。僕らはアメリカ政府の手先にされて、また軍隊に無理やり放り込まれ、朝鮮半島に送り込まれるのだろうと、参加者全員がそう危惧したのだ。まだ朝鮮戦争が終結して7年だった。

現在、「日米同盟」と呼ばれる、US-Japan Security Treaty には、当時の若者たちの悲痛な叫びが届いたせいか、「即入隊、即原子戦争」というメイラーが『白い黒人』で示唆したinstant deathのイメージは明白ではない。それはソヴィエト(今のロシア)が共産国としての国家権力を放棄宣言したのが最大の原因であると言われるが、果たしてそうか。喉元過ぎれば何とやらで、日本人の心の中で、警戒心がその後急速に薄れ果て雲散霧消してしまったのが主たる原因ではないか。日本人は「仕方がない」とすぐあきらめる。それだと筆者には思えるのだが、これも鈴木先生の思考回路の影響かもしれぬ。

それはともかく、自分は生涯をかけて、この日本の国を良くせねばならないと心に決める大きな起因はこの期に培われたと思う。当時、自分自身の知識体系が果たしてどこまで可能か、自分自身の開発力に挑戦する日々であったが、今にして思えば、僕の達成目標の一つは、鈴木先生の知識体系であったことは疑う余地もない。(つづく)

対談 日本人の感性を世界に⑴
   慶應義塾大学名誉教授 本学会最高顧問 鈴木孝夫
   本学会会長 元日本女子大英文学科教授 濱野成秋
     はじめに
 
 令和オンライン万葉集を今の日本に、いや世界に向けてカミングアウトさせたのには論拠のあることです。日本には伝統的に身分の上下を問わず詩歌を愛する気風がありました。現在でも国語の教科書には詩歌はもちろん物語性のゆたかな、庶民の作品群もたくさん出てまいります。
 一体日本人はなぜこうも詩的世界を好むのか。
 そのセンチメントは何か。
 この問題で言語学者の鈴木孝夫氏をお招きして対談を持つことになった。鈴木孝夫は戦後まもなく、慶應義塾大学からガリオア奨学金でミシガン大学に。構造言語学を専攻され、その後、イリノイ大学、イエール大学、ケンブリッジ大学で言語学の見地からヨーロッパの語学と宗教や思考法に着目し、その視点で日本文化を捉えられ多くの著書を世に。就中岩波書店から刊行された『ことばと文化』は名著で今日も読まれるロングセラー。目上の人に日本語では「あなた」とはいえないから始まって、高文脈(high context)をもって真意を伝える力を論じる。
 いっぽう濱野成秋はアメリカ文学が専門でNY州立大客員教授時代にポストモダニズム作家と交流して、多民族国家の視点から日本文化を捉え、近現代文学の推移を日米異なった文化民度で探る。
 両者が最初の接点を持ったのは半世紀前、慶應義塾大学三田キャンパスの英文学講義室でのことです。鈴木は英語の組成について博学多識で多彩に語り、たほう濱野はアメリカ西海岸のビートジェネレーションがもつ禅哲学に興味を持ち、両者文明論で火花をちらす。濱野は『慶応文藝』に小説を書き『三田文学』にローゼンストーンの対抗文化論を翻訳。両者の交流は古代中世英語学の厨川文雄教授と詩人西脇順三郎の訓育を受けて始まり、専門は異なれど奇しくも文明論の視点に共通項を持つところから、こんにちの浪漫学会を構築する運びと相成った次第です。
 双方、戦時中の体験から異国文化に向かう  
濱野「鈴木先生は英語学だけでなく、仏独イスラム文化までを擁して、その目で日本を捉えられる。私はアメリカの多民族国家でユダヤ系を研究しながら正統派のロシア系ユダヤ人がどうアメリカナイズしていったか、その視点を持ちながら、日系移民の視点でも日米文化論を講じる。両者とも戦後の闇市派でも進駐軍の支配下で影響されたアプレゲールでもない。
 先ずは戦中体験から語りの幕を開けよう。
鈴木「君、空襲のときはどうした? ちゃんと生きのびていたから今も会えるわけだけれど」
濱野「大阪の南部、堺市の郊外、いえ農村地帯にいて、紀伊半島南方洋上を北進するB29大編隊を堺市南部の田園地帯で、毎日、空を仰いで心でババババ…高射砲を撃ち続けていましたよ、まだ幼児でしたから」
鈴木「こっちは三月十日の東京大空襲のとき、屋根に上ってふり来る焼夷弾を、軍から教えられた通りに消す作業でアメリカに逆らった。ちゃんと消せたよ、焼け残って生き残りになって。しかし僕は昭和の終わり頃までは今のような、『下山の時代を生きる』で書いたような日本式思考スタイルだとか、日本語の持つ複雑なノンバーバル(非言語的)な要素が大事かどうかなんて、まだ考えている余裕なんかはなかったけどね」(笑)」
濱野「戦争には対話がないですからね。戦後、父親は家を接収されるのを予測して、毎晩進駐軍を呼んでダンスパーティをやるんです、僕が蓄音機を回す係でね。背の高いアメリカの兵隊さんと着物姿の母が目の前で踊る。フォックストロットとか、二〇年代のチャールストンも。父が白靴はいてタップダンスをやる。それを見てたら、負けたらこうなるんだと…幼な心にしみじみ思って悲しかったですが、そこには対話があった。僕らを理解してくれる。でも百人一首を蔵から出して遊ぼうよと誘ったら、きょとんとしている。しめた、勝ったぞと思ったですよ」
鈴木「それは痛快な話だな。畳の上で、つまり今の僕の云うタタミゼを無意識にやったわけだ。それはね、幼時から百人一首を教える日本人の精神風土が後押ししてくれたお陰だ。日本はヨーロッパ諸国と違い、何千年と他国に征服されたことがない。つまり他民族の支配下に置かれると面従腹背の嘘つき民族になる。ところがこんな幼児でさえ独自の文化で遊ぼうよと誘って来るのを見て、進駐軍は、これは迂闊に征服は出来ん民族だと思ったに違いない。君は白洲次郎とは違ったかたちで、アメリカさんをやんわり諫めたわけだね(笑)」
濱野「でも当時はつい昨日まで、田んぼのあぜ道でP51の機銃掃射を受けていたわけだし、僕の場合、土くれの破片がオデコと後頭部に当たって…すごい出血で…だけど、ダンスしている進駐軍を見ても恨む気持ち、出て来ないんです、太くてでっかいハムの塊を持って来てくれて優しくされたら、もうお手上げ…キャメルの空き缶もらって匂いを嗅いだり、塩からいビスケット、つまりクラッカーをもらって、負けたなあ意識ばっかりです。後年、リッチモンドのポーミュージアムにいたとき、館内から炎天下に出て来たら、真正面にポールモールの工場がでーんとあって、強烈なタバコの匂いで、それであのキャメルの空き缶を思い出し、また負けた感で苛まれて歩いたなあ…」
鈴木「実感だね、アメリカってタバコの空き缶にピーナッツってわけだ」
濱野「ところが日本は敗戦しても相変わらずで、ガラスバリバリに破れた講堂で「蛍の光」や「仰げば尊し」を歌って、みんなして涙を流して…」
鈴木「戦後も人心は変わらないからね」
濱野「傑作な事件がありましたよ、南方から復員した先生が、民主主義とは男女が手をつないで歩くことだと言って、無理無理女の子と手をつながせる。それが恥ずかしいからモジモジしていたら、その兵隊上がりが走ってきて、貴様、民主主義が解っとらん! と、ビンタですよ、僕はなにこの敗残兵めと言い返して反抗したら、蹴っ飛ばされて鼻血だらだら。後で母親に言ったら、それはお前が悪い、よう殴ってくれたと謝りに行った」
鈴木「今じゃ謝るのは教師の方なのにね。これはしかし滑稽な話だ」
濱野「滑稽ですか?」
鈴木「その兵隊帰りの先生も君の母親も、まだ戦中のモラルが頭にこびりついていたから、新兵を拳固で鍛えてくれる上官だとか、そんな受けとめでしかない。滑稽じゃないか。日本人は和を尊ぶしもっと慈しみの心を大事にする。その伝統からも相当外れる行為をまだやっていたわけだよ」
濱野「本来の日本人はなるほど、そんなスパルタ教育じゃない。もっと奥が深いその視点で捉えると、たしかに滑稽だ」
鈴木「そう、そのとおり。もっと自然界に視点を置いて思考の原点もそこから生じる。朝顔に釣瓶とられてもらひ水、と詠んだ千代女の自然界への思いやりや、やれ打つな蠅が手を擦る足を擦る、と詠んだ一茶の、蠅が命乞いをすると思う心が日本人の本来の感性なのだと思う」
濱野「解ります、大いに解る。でも日本にはね、とくに田舎には食うものがないと、「うさぎ負ひし」の歌にあるように、野ウサギを追いかけて棍棒で叩いて食うし、小鮒を釣って、やはり食っちまう。あの「故郷」という唱歌は貧しさが高じるとそうなる実相をまともに捉えず、のどかな旋律で歌わせている、なんとも二律背反した感情だなと僕は思って聞いています」
 状況の苛烈さは戦後、日本にもアメリカにも  
鈴木「しかし君ももしもっと早くから慶應義塾に来ていたらそんな殺伐たる情景には遭うこともなかった」
濱野「慶應では戦時中、伏せの姿勢で銃を構える場所には筵が敷いてあったと聞きましたが本当ですか?」
鈴木「ああ、それは軍令部が日吉を借りたりしていたから遠慮していたわけだ。いわゆる手加減というやつだろうね。ところで君が学部のころは六〇年安保のさ中だろう?」
濱野「はい、国会の周りが殺伐としていて…日米安保でまた僕ら、戦場に駆り出されるんだと大騒ぎで」
鈴木「きけわだつみのこえの再来だね、そういえば自由主義者の塾生が特攻で殉死した話や日吉校舎が連合艦隊本部だから地下壕には入るなとか、いや原爆の時代だ、そのうち東京上空で水爆が…などとアメリカのイメージが強烈に出た時代だった」
濱野「日本人であること自体がとても切ない時代だった。大江健三郎が「死者の驕り」や『ワレラノ時代』を書いて、厭戦ムードに拍車を掛け、『三田文学』にノーマン・メイラーの「白い黒人」の翻訳を載せていた。訳者は米文学の大橋吉之輔教授で、彼は授業に来ると、自分が東大の学生だった頃、ダンテの『神曲』を持っているだけで特高に捕まり、テントにひっぱっられてビンタを食らった話なんかされる。と、クラスからうぉ!って叫ぶやつまで出て我々も清水谷公園に集結して国会デモに参加した」
鈴木「メイラーの『裸者と死者』は彼自身の兵隊体験がベースだったよね。戦後のアメリカニズムはかなり右寄りだったのに、メイラーは自国を真っ向から批判している」
濱野「はい、アメリカの若者はみな大都会のゼロ記号になるか、原子爆弾で一瞬のうちに死ぬか、どちらかだと書いてある。世界制覇したアメリカ人の中からこんな悲観的な論文が出たのがショックでした。この種の絶望感は国の伝統や国民性以前の問題で、「状況」そのものに「死」がへばりついている。インスタント・デスが支配的なら若者は何をやっても無駄だという気がしきりとした」
鈴木「それからアメリカはベトナム戦争に突入する。するとハーバード、イェール、加州大バークレーなど主要大学が悉く批判的になる。五〇年代米ソの冷戦中にあったアメリカニズムが急速に崩壊していく」
濱野「はい、私はその頃、教師として、べ平連でデモに走る生徒を説得したり…『新日本文学』で野間宏さん、中野重治さんと意気投合してかなり左でアメリカ作家のヴォネガットやチーヴァーの紹介記事を書いてアメリカの矛盾撞着を突いていました。ところが明治のⅡ部で全学連や民青の若者との議論に巻き込まれて…つまり昭和四〇年代になっても戦時色が払拭できないままで、状況論ばかりが優先していました」
鈴木「七〇年代になってからかな、国内にいて落ち着きを取り戻して、日本文化をゆっくり味わえるようになったのは」
濱野「はい、でも、私は『三田文学』に「若者よ、明日香の国は」と題する中編を発表して、日本の何処に救える道があるのか、ないだろう、というような問い掛けを読者にした。そのころです、ニューヨーク州立大から教えに来ないかの誘いを受けてバッファロー校の英文科の院でユダヤ系文学を講じていた。J&J論、つまり日本人とユダヤ人の比較論をやっていた。両方とも民族的には少数で孤立した存在で…そんな話をしていたら、宿舎になったのが、ヒッピーのアジトだった。フェダマンやスーキニックとアングラでポエトリーリーディングをやって、フィードラーが桃太郎の詩を読んでくれたり…あの時期は混沌の極みでした。病んでいるのは日本だけじゃないと、逆に元気が出ましてね」
鈴木「八〇年代以降になって、ようやく状況論から解放されたわけね」
濱野「日本が日本らしい文化を取り戻すまで、四〇年はかかったわけです」
鈴木「君の郷里はしかし日本史の中心的なところだろう」
濱野「はい、僕の母は奈良高取の生まれで久米育ち。父は鳳晶子の駿河屋羊羹と同じ堺の宿院育ち。僕は河内生まれで百人一首漬け。戦中幼時期から当たり前にかるた取りと歌づくりと河内音頭。明日香も岡も橿原神宮もみな庭みたいな親近感で育ったのに、激烈な日米状況に翻弄され続けていたわけです。鈴木先生はこの点、もっと早くから比較文化論に目覚めておられたのは立派です」
 日本には詩人が多い  
鈴木「私が一般人向けの講演や大学の講義の冒頭で、好んでよく話すことの一つに「今の日本は世界で詩人が最も多い国だと知っていますか」ということがあります。聞いている人たちの「えっ、どうして!」とか「そんな馬鹿な!」といった驚いた反応のざわめきが楽しいからです」
濱野「詩人って、まず見かけないですからね。多くの日本人は詩人というと、なんとなく朗読して聞かせる詩人を思い浮かべがちですから、身近に詩人が沢山いるなど言われるとびっくりするでしょう」
鈴木「詩人とは、英語ではポウエットだが古代ギリシャ語でポイエーテースという言葉で、それは何かを作る職人という意味です。言葉をあれこれ工夫して新しいものを作り出す人もだからポウエットという。
濱野「古代から日本人は和歌を通じて心のやり取りをしておりますね」
鈴木「現在でもあらゆる階層や職業に属する老若男女が皆りっぱな工夫をする詩人と言えます。このようにごく普通の庶民が今でもみな詩人などという国は、まちがいなく日本だけです」
濱野「草津温泉に行けば、草津節、串本港に行けば串本節、丹後の宮津へいけば丹後の宮津でどうしたとか…」
鈴木「いや、そうじゃなく、和歌、俳句、川柳など、言葉の芸術をいう」
濱野「宗匠を迎えての歌会は芭蕉も各地に旅をして指導をすれば、幾日でも只で泊めて差し上げるなど、たいへんなもてなしようでしたよね」
鈴木「そうね、それは現代にもあって、どの新聞にも週刊誌にも、短歌や俳句、川柳のコーナーがある。ラジオもテレビも負けじとやっている」
濱野「武家社会ではそれが連歌の会となって、情報交換会でもあったようですね。九度山に幽閉されていた真田信繁も」
鈴木「連歌の会が見張り役の目をくらますとか」
濱野「そのとおり。大阪城からお呼びがかかって向かうとき、連歌の会と称して九度山から紀見峠を経て…見張り役もそれを知っていて見逃す」
鈴木「それは侠気だね。男のロマンとでもいうか、安宅関の弁慶と富樫のやりとりに似て」
 一期一会の短歌を創ろう  
濱野「ポエティックな世界は人格を豊かにする。死に臨んで辞世の句を遺すのも、空海のいう入定の決意があってのことでしょう。ただの戦を戦にとどめない。敵味方とは別に、つまり人間色々な立場をもつが、それを離れての心の永遠性を大切にして歌を詠むわけですね」
鈴木(うなずいて)「天皇が年の初めに催される歴史の極めて古い御歌会始めに、現在のように、広く国民からも和歌を募集して著名な歌人たちが選歌するようになったのは終戦後二年目からで、職業の貴賤を問わない文芸行事は日本がいかに開けた文化的国家に成長したかを示す好例ですね」
濱野「私はこうした身分上下を問わないアートの世界をめざしてこの令和オンライン万葉集をつくったわけですが、さらに、時間的にも永遠を目指したいと考えています」   
鈴木「と言いますと?」
濱野「それは歌づくりは人生その時々の思いを書き留める、というだけでなく、それが一期一会だと思うのです。人間にそなわった時間は若い時、中年、晩年となって、最期のひと時が大事なのだ、と考えるのではなくて、どの時点でもそこに到達した心境は一期一会の出会いだと思うのです」
鈴木「なるほど。すでに出来上がった歌を歌うのと違って、自分自身からほとばしり出た絶句というか…」
濱野「そうです。短歌でも詩でも、思い詰めてほとばしり出た句というのは、自分の全身全霊そのもの」
鈴木「歌づくりはその心境こそ大事だね。いい加減に作ってはいかん」
濱野(うなずいて)「書いたものは残りますから。オンラインで世界中の人たちが読むし。いや、だから詠み応えがあると思います」(以下、次回)
 
今回は以上ですが、敢えて言えば、言語学者の鈴木孝夫教授のご専門は「言語生態学的文明論」です。これを展開することで、伝統的な文明論は今日的様相を持ち続け、世界における日本文化の位置づけも自ずと明らかになってまいります。鈴木孝夫は現在九三歳にして、未だ衰えを知らず。その文明論は時代を画するので、どうぞ今後もご期待ください。濱野成秋 
 人間は果たして賢い動物だろうか
   慶應義塾大学名誉教授 本学会最高顧問 鈴木孝夫
 
 私たち人間という動物がいま、学術上ホモ・サピエンスという学名でよばれていることは多くの人が知っていると思います。ホモとはラテン語で「人」を意味する言葉で、サピエンスは同じくラテン語の「賢い」という意味の形容詞です。
 この学名というものは、世界各地の生物を博物学や動植物学で扱う際に、同じもの、同一の対象を、言葉の違う国々の人々がそれぞれ異なる呼び方をしては混乱を招きかねないので、同じものに対してラテン語の単語をHomo sapiensのように二つ重ねてつけた、万国共通の名称のことをさします。
 はじめの大きなまとまりを表わすHomoの部分は属名と称され、次のサピエンスの部分は個別的特徴を表わす種小名といわれます。ホモが苗字でサピエンスがホモという家族の、個々の成員と考えれば分かりやすいでしょう。
 そしてこの学名にはどうしてラテン語が用いられるのかと言えば、それはこの二名法と呼ばれる命名法を考え出したスェーデンの博物学者カール・フォン・リンネが活躍した一八世紀のヨーロッパでは、まだラテン語がヨーロッパ全体で学問の共通語だったからです。
 ところが私は近頃になって、この人間に付けられたサピエンス、つまり「賢い」という意味の種小名は、どうも人間という動物の実態を正しく表していないのではないかとまじめに思うようになったのです。それはどうしてなのかを次に説明しましょう。
 そもそもリンネがなぜ人間に「賢い」という種小名をつけたのかは詳しくは分かっていませんが、キリスト教徒だったリンネは人間は神の姿に似せて創られた生き物、他のもろもろの動物とは、人間だけが言葉と知恵を授かっているという点で区別されるというキリスト教の教えを、当然のこととして受け入れていたと思います。人間は万物の霊長、つまり最も優れたものだという考え方が当時の西欧世界の人々の常識的前提としてあったからリンネはためらわずに人間の種小名をサピエンス、サピエンスすなわち「賢い」としたのだと思います。
 ところが何度もいうように、最近世界中でひっきりなしに起こる色々と深刻な被害をもたらす異常気象や大規模な砂漠化の進行、また水資源の広範囲にわたる劣化といった現象のほとんどが、人類のあまりにも度を超した経済活動の拡大と、それに伴う急激な人口増加に起因することが明らかになってきました。
 もしこのまま経済規模の野放図な拡大を放置しておけば、人間による環境の破壊が有限の地球の許容できる範囲をかなり近い将来に、様々な点で超えてしまうことはほぼ確実だと専門家たちは警鐘を鳴らしています。
 このことは一九七二年に、ローマクラブが指摘済みであるにも関わらず、アメリカ、ヨーロッパ、日本など、指導的働きをする先進国の政治家たちが依然として終わりのない右肩上がりの発展、経済規模の拡大をめざす。これではとうてい「ホモサピエンス」という種小名には相応しくありません。こう考えますと、この種小名を変えるか、種小名を変えずこの種小名に相応しい英知(wisdom)をもって根本的な発想の大転換を果たすか、あるいは、もうそろそろ、人間主導の時代を終えて他の動植物にその権限を委ねては如何かとさえ思うわけです。
 日本人には本来、森羅万象に八百万の神々が宿るとする信仰が根づいていましたが、これはけっして原始宗教として軽視されるべきものではなく、人間が現今のような驕り高ぶる存在とならず、他の動植物や山河を征服するのでなく、共に生きることこそが知恵だとする考えではあるまいか。
 本万葉集は時代色を大事にしていて、二十一世紀の異常な時代をそのまま写し出しながら、次世代や次々世代や、何百年先の後輩諸君にこのような問題に真剣に取り組む姿勢を示していることに注目されたい。