対談 日本人の感性を世界に⑴
   慶應義塾大学名誉教授 本学会最高顧問 鈴木孝夫
   本学会会長 元日本女子大英文学科教授 濱野成秋
     はじめに
 
 令和オンライン万葉集を今の日本に、いや世界に向けてカミングアウトさせたのには論拠のあることです。日本には伝統的に身分の上下を問わず詩歌を愛する気風がありました。現在でも国語の教科書には詩歌はもちろん物語性のゆたかな、庶民の作品群もたくさん出てまいります。
 一体日本人はなぜこうも詩的世界を好むのか。
 そのセンチメントは何か。
 この問題で言語学者の鈴木孝夫氏をお招きして対談を持つことになった。鈴木孝夫は戦後まもなく、慶應義塾大学からガリオア奨学金でミシガン大学に。構造言語学を専攻され、その後、イリノイ大学、イエール大学、ケンブリッジ大学で言語学の見地からヨーロッパの語学と宗教や思考法に着目し、その視点で日本文化を捉えられ多くの著書を世に。就中岩波書店から刊行された『ことばと文化』は名著で今日も読まれるロングセラー。目上の人に日本語では「あなた」とはいえないから始まって、高文脈(high context)をもって真意を伝える力を論じる。
 いっぽう濱野成秋はアメリカ文学が専門でNY州立大客員教授時代にポストモダニズム作家と交流して、多民族国家の視点から日本文化を捉え、近現代文学の推移を日米異なった文化民度で探る。
 両者が最初の接点を持ったのは半世紀前、慶應義塾大学三田キャンパスの英文学講義室でのことです。鈴木は英語の組成について博学多識で多彩に語り、たほう濱野はアメリカ西海岸のビートジェネレーションがもつ禅哲学に興味を持ち、両者文明論で火花をちらす。濱野は『慶応文藝』に小説を書き『三田文学』にローゼンストーンの対抗文化論を翻訳。両者の交流は古代中世英語学の厨川文雄教授と詩人西脇順三郎の訓育を受けて始まり、専門は異なれど奇しくも文明論の視点に共通項を持つところから、こんにちの浪漫学会を構築する運びと相成った次第です。
 双方、戦時中の体験から異国文化に向かう  
濱野「鈴木先生は英語学だけでなく、仏独イスラム文化までを擁して、その目で日本を捉えられる。私はアメリカの多民族国家でユダヤ系を研究しながら正統派のロシア系ユダヤ人がどうアメリカナイズしていったか、その視点を持ちながら、日系移民の視点でも日米文化論を講じる。両者とも戦後の闇市派でも進駐軍の支配下で影響されたアプレゲールでもない。
 先ずは戦中体験から語りの幕を開けよう。
鈴木「君、空襲のときはどうした? ちゃんと生きのびていたから今も会えるわけだけれど」
濱野「大阪の南部、堺市の郊外、いえ農村地帯にいて、紀伊半島南方洋上を北進するB29大編隊を堺市南部の田園地帯で、毎日、空を仰いで心でババババ…高射砲を撃ち続けていましたよ、まだ幼児でしたから」
鈴木「こっちは三月十日の東京大空襲のとき、屋根に上ってふり来る焼夷弾を、軍から教えられた通りに消す作業でアメリカに逆らった。ちゃんと消せたよ、焼け残って生き残りになって。しかし僕は昭和の終わり頃までは今のような、『下山の時代を生きる』で書いたような日本式思考スタイルだとか、日本語の持つ複雑なノンバーバル(非言語的)な要素が大事かどうかなんて、まだ考えている余裕なんかはなかったけどね」(笑)」
濱野「戦争には対話がないですからね。戦後、父親は家を接収されるのを予測して、毎晩進駐軍を呼んでダンスパーティをやるんです、僕が蓄音機を回す係でね。背の高いアメリカの兵隊さんと着物姿の母が目の前で踊る。フォックストロットとか、二〇年代のチャールストンも。父が白靴はいてタップダンスをやる。それを見てたら、負けたらこうなるんだと…幼な心にしみじみ思って悲しかったですが、そこには対話があった。僕らを理解してくれる。でも百人一首を蔵から出して遊ぼうよと誘ったら、きょとんとしている。しめた、勝ったぞと思ったですよ」
鈴木「それは痛快な話だな。畳の上で、つまり今の僕の云うタタミゼを無意識にやったわけだ。それはね、幼時から百人一首を教える日本人の精神風土が後押ししてくれたお陰だ。日本はヨーロッパ諸国と違い、何千年と他国に征服されたことがない。つまり他民族の支配下に置かれると面従腹背の嘘つき民族になる。ところがこんな幼児でさえ独自の文化で遊ぼうよと誘って来るのを見て、進駐軍は、これは迂闊に征服は出来ん民族だと思ったに違いない。君は白洲次郎とは違ったかたちで、アメリカさんをやんわり諫めたわけだね(笑)」
濱野「でも当時はつい昨日まで、田んぼのあぜ道でP51の機銃掃射を受けていたわけだし、僕の場合、土くれの破片がオデコと後頭部に当たって…すごい出血で…だけど、ダンスしている進駐軍を見ても恨む気持ち、出て来ないんです、太くてでっかいハムの塊を持って来てくれて優しくされたら、もうお手上げ…キャメルの空き缶もらって匂いを嗅いだり、塩からいビスケット、つまりクラッカーをもらって、負けたなあ意識ばっかりです。後年、リッチモンドのポーミュージアムにいたとき、館内から炎天下に出て来たら、真正面にポールモールの工場がでーんとあって、強烈なタバコの匂いで、それであのキャメルの空き缶を思い出し、また負けた感で苛まれて歩いたなあ…」
鈴木「実感だね、アメリカってタバコの空き缶にピーナッツってわけだ」
濱野「ところが日本は敗戦しても相変わらずで、ガラスバリバリに破れた講堂で「蛍の光」や「仰げば尊し」を歌って、みんなして涙を流して…」
鈴木「戦後も人心は変わらないからね」
濱野「傑作な事件がありましたよ、南方から復員した先生が、民主主義とは男女が手をつないで歩くことだと言って、無理無理女の子と手をつながせる。それが恥ずかしいからモジモジしていたら、その兵隊上がりが走ってきて、貴様、民主主義が解っとらん! と、ビンタですよ、僕はなにこの敗残兵めと言い返して反抗したら、蹴っ飛ばされて鼻血だらだら。後で母親に言ったら、それはお前が悪い、よう殴ってくれたと謝りに行った」
鈴木「今じゃ謝るのは教師の方なのにね。これはしかし滑稽な話だ」
濱野「滑稽ですか?」
鈴木「その兵隊帰りの先生も君の母親も、まだ戦中のモラルが頭にこびりついていたから、新兵を拳固で鍛えてくれる上官だとか、そんな受けとめでしかない。滑稽じゃないか。日本人は和を尊ぶしもっと慈しみの心を大事にする。その伝統からも相当外れる行為をまだやっていたわけだよ」
濱野「本来の日本人はなるほど、そんなスパルタ教育じゃない。もっと奥が深いその視点で捉えると、たしかに滑稽だ」
鈴木「そう、そのとおり。もっと自然界に視点を置いて思考の原点もそこから生じる。朝顔に釣瓶とられてもらひ水、と詠んだ千代女の自然界への思いやりや、やれ打つな蠅が手を擦る足を擦る、と詠んだ一茶の、蠅が命乞いをすると思う心が日本人の本来の感性なのだと思う」
濱野「解ります、大いに解る。でも日本にはね、とくに田舎には食うものがないと、「うさぎ負ひし」の歌にあるように、野ウサギを追いかけて棍棒で叩いて食うし、小鮒を釣って、やはり食っちまう。あの「故郷」という唱歌は貧しさが高じるとそうなる実相をまともに捉えず、のどかな旋律で歌わせている、なんとも二律背反した感情だなと僕は思って聞いています」
 状況の苛烈さは戦後、日本にもアメリカにも  
鈴木「しかし君ももしもっと早くから慶應義塾に来ていたらそんな殺伐たる情景には遭うこともなかった」
濱野「慶應では戦時中、伏せの姿勢で銃を構える場所には筵が敷いてあったと聞きましたが本当ですか?」
鈴木「ああ、それは軍令部が日吉を借りたりしていたから遠慮していたわけだ。いわゆる手加減というやつだろうね。ところで君が学部のころは六〇年安保のさ中だろう?」
濱野「はい、国会の周りが殺伐としていて…日米安保でまた僕ら、戦場に駆り出されるんだと大騒ぎで」
鈴木「きけわだつみのこえの再来だね、そういえば自由主義者の塾生が特攻で殉死した話や日吉校舎が連合艦隊本部だから地下壕には入るなとか、いや原爆の時代だ、そのうち東京上空で水爆が…などとアメリカのイメージが強烈に出た時代だった」
濱野「日本人であること自体がとても切ない時代だった。大江健三郎が「死者の驕り」や『ワレラノ時代』を書いて、厭戦ムードに拍車を掛け、『三田文学』にノーマン・メイラーの「白い黒人」の翻訳を載せていた。訳者は米文学の大橋吉之輔教授で、彼は授業に来ると、自分が東大の学生だった頃、ダンテの『神曲』を持っているだけで特高に捕まり、テントにひっぱっられてビンタを食らった話なんかされる。と、クラスからうぉ!って叫ぶやつまで出て我々も清水谷公園に集結して国会デモに参加した」
鈴木「メイラーの『裸者と死者』は彼自身の兵隊体験がベースだったよね。戦後のアメリカニズムはかなり右寄りだったのに、メイラーは自国を真っ向から批判している」
濱野「はい、アメリカの若者はみな大都会のゼロ記号になるか、原子爆弾で一瞬のうちに死ぬか、どちらかだと書いてある。世界制覇したアメリカ人の中からこんな悲観的な論文が出たのがショックでした。この種の絶望感は国の伝統や国民性以前の問題で、「状況」そのものに「死」がへばりついている。インスタント・デスが支配的なら若者は何をやっても無駄だという気がしきりとした」
鈴木「それからアメリカはベトナム戦争に突入する。するとハーバード、イェール、加州大バークレーなど主要大学が悉く批判的になる。五〇年代米ソの冷戦中にあったアメリカニズムが急速に崩壊していく」
濱野「はい、私はその頃、教師として、べ平連でデモに走る生徒を説得したり…『新日本文学』で野間宏さん、中野重治さんと意気投合してかなり左でアメリカ作家のヴォネガットやチーヴァーの紹介記事を書いてアメリカの矛盾撞着を突いていました。ところが明治のⅡ部で全学連や民青の若者との議論に巻き込まれて…つまり昭和四〇年代になっても戦時色が払拭できないままで、状況論ばかりが優先していました」
鈴木「七〇年代になってからかな、国内にいて落ち着きを取り戻して、日本文化をゆっくり味わえるようになったのは」
濱野「はい、でも、私は『三田文学』に「若者よ、明日香の国は」と題する中編を発表して、日本の何処に救える道があるのか、ないだろう、というような問い掛けを読者にした。そのころです、ニューヨーク州立大から教えに来ないかの誘いを受けてバッファロー校の英文科の院でユダヤ系文学を講じていた。J&J論、つまり日本人とユダヤ人の比較論をやっていた。両方とも民族的には少数で孤立した存在で…そんな話をしていたら、宿舎になったのが、ヒッピーのアジトだった。フェダマンやスーキニックとアングラでポエトリーリーディングをやって、フィードラーが桃太郎の詩を読んでくれたり…あの時期は混沌の極みでした。病んでいるのは日本だけじゃないと、逆に元気が出ましてね」
鈴木「八〇年代以降になって、ようやく状況論から解放されたわけね」
濱野「日本が日本らしい文化を取り戻すまで、四〇年はかかったわけです」
鈴木「君の郷里はしかし日本史の中心的なところだろう」
濱野「はい、僕の母は奈良高取の生まれで久米育ち。父は鳳晶子の駿河屋羊羹と同じ堺の宿院育ち。僕は河内生まれで百人一首漬け。戦中幼時期から当たり前にかるた取りと歌づくりと河内音頭。明日香も岡も橿原神宮もみな庭みたいな親近感で育ったのに、激烈な日米状況に翻弄され続けていたわけです。鈴木先生はこの点、もっと早くから比較文化論に目覚めておられたのは立派です」
 日本には詩人が多い  
鈴木「私が一般人向けの講演や大学の講義の冒頭で、好んでよく話すことの一つに「今の日本は世界で詩人が最も多い国だと知っていますか」ということがあります。聞いている人たちの「えっ、どうして!」とか「そんな馬鹿な!」といった驚いた反応のざわめきが楽しいからです」
濱野「詩人って、まず見かけないですからね。多くの日本人は詩人というと、なんとなく朗読して聞かせる詩人を思い浮かべがちですから、身近に詩人が沢山いるなど言われるとびっくりするでしょう」
鈴木「詩人とは、英語ではポウエットだが古代ギリシャ語でポイエーテースという言葉で、それは何かを作る職人という意味です。言葉をあれこれ工夫して新しいものを作り出す人もだからポウエットという。
濱野「古代から日本人は和歌を通じて心のやり取りをしておりますね」
鈴木「現在でもあらゆる階層や職業に属する老若男女が皆りっぱな工夫をする詩人と言えます。このようにごく普通の庶民が今でもみな詩人などという国は、まちがいなく日本だけです」
濱野「草津温泉に行けば、草津節、串本港に行けば串本節、丹後の宮津へいけば丹後の宮津でどうしたとか…」
鈴木「いや、そうじゃなく、和歌、俳句、川柳など、言葉の芸術をいう」
濱野「宗匠を迎えての歌会は芭蕉も各地に旅をして指導をすれば、幾日でも只で泊めて差し上げるなど、たいへんなもてなしようでしたよね」
鈴木「そうね、それは現代にもあって、どの新聞にも週刊誌にも、短歌や俳句、川柳のコーナーがある。ラジオもテレビも負けじとやっている」
濱野「武家社会ではそれが連歌の会となって、情報交換会でもあったようですね。九度山に幽閉されていた真田信繁も」
鈴木「連歌の会が見張り役の目をくらますとか」
濱野「そのとおり。大阪城からお呼びがかかって向かうとき、連歌の会と称して九度山から紀見峠を経て…見張り役もそれを知っていて見逃す」
鈴木「それは侠気だね。男のロマンとでもいうか、安宅関の弁慶と富樫のやりとりに似て」
 一期一会の短歌を創ろう  
濱野「ポエティックな世界は人格を豊かにする。死に臨んで辞世の句を遺すのも、空海のいう入定の決意があってのことでしょう。ただの戦を戦にとどめない。敵味方とは別に、つまり人間色々な立場をもつが、それを離れての心の永遠性を大切にして歌を詠むわけですね」
鈴木(うなずいて)「天皇が年の初めに催される歴史の極めて古い御歌会始めに、現在のように、広く国民からも和歌を募集して著名な歌人たちが選歌するようになったのは終戦後二年目からで、職業の貴賤を問わない文芸行事は日本がいかに開けた文化的国家に成長したかを示す好例ですね」
濱野「私はこうした身分上下を問わないアートの世界をめざしてこの令和オンライン万葉集をつくったわけですが、さらに、時間的にも永遠を目指したいと考えています」   
鈴木「と言いますと?」
濱野「それは歌づくりは人生その時々の思いを書き留める、というだけでなく、それが一期一会だと思うのです。人間にそなわった時間は若い時、中年、晩年となって、最期のひと時が大事なのだ、と考えるのではなくて、どの時点でもそこに到達した心境は一期一会の出会いだと思うのです」
鈴木「なるほど。すでに出来上がった歌を歌うのと違って、自分自身からほとばしり出た絶句というか…」
濱野「そうです。短歌でも詩でも、思い詰めてほとばしり出た句というのは、自分の全身全霊そのもの」
鈴木「歌づくりはその心境こそ大事だね。いい加減に作ってはいかん」
濱野(うなずいて)「書いたものは残りますから。オンラインで世界中の人たちが読むし。いや、だから詠み応えがあると思います」(以下、次回)
 
今回は以上ですが、敢えて言えば、言語学者の鈴木孝夫教授のご専門は「言語生態学的文明論」です。これを展開することで、伝統的な文明論は今日的様相を持ち続け、世界における日本文化の位置づけも自ずと明らかになってまいります。鈴木孝夫は現在九三歳にして、未だ衰えを知らず。その文明論は時代を画するので、どうぞ今後もご期待ください。濱野成秋