(考現学エッセイ)
男の「浪漫」と「挫折」
日英にみる二人のマクベス
福田京一
はじめに
卒業式と聞けば思い出すのは昭和29年(1954年)の春、小学校の講堂で唱った「仰げば尊し」(1884年)である。
この年、日本は朝鮮動乱から刺激を得て創設した警察予備隊を保安隊に、さらには自衛隊へと昇格させ、終戦直後の混乱から抜け出そうとする兆しを見せた。また経済の再建も本格化し、神武景気(1954〜57年)によって「もはや戦後ではない」 (「経済白書」1954年)などと言われると同時に、男のロマンたる出世主義も復活する様相を呈し始めた。この歌には、今では滅多に耳にしない「互いに睦し日ごろの恩 別るる後にもやよ忘るな 身を立て 名をあげ やよ励めよ 今こそ別れめ いざさらば」といった出世主義が濃厚で、この掛け声に背中を押されて頑張った者は実に多い。彼らが卒業後どうなったか、話をそこから始めたい。
1.「身を立て名をあげ」は男の浪漫だったが
戦後、GHQによってアメリカ型の民主主義が奨励され、並行して個人主義が喧伝されたにもかかわらず、大方の日本人は戦前同様の家族主義や出世主義に縛られ、根本的なところで旧来の道徳や慣習は生き続けていた。とりわけ出世主義の教えに煽られて社会へ追い出された若者の多くは、厳しい現実を前にして挫折の憂き目に喘ぐことになった。
明治以来、土地を持たず、資産なく、有力な親戚もいない若者たちは師と親への恩を忘れず、立身出世の人生訓を胸に抱いて巣立っていった。かつて末は博士か大臣か、それとも乃木大将や東郷元帥のような立派な軍人になれと励まされ一念発起したものの、彼らの大志は実現できるわけもなく、夢と現実とのギャップの大きさに絶望せざるを得なかった。大多数の若者は零細企業の使い走りや低賃金で長時間働く労働者として、その日その日精一杯働いて疲れて眠る、このような彼らの姿は男のロマンにほど遠く、痛々しい限りだった。
また、大志に向かって奮励努力を続けたものでも、病や不況に見舞われ、志なかばでその願い叶わず、失意のままに人生を終えた者も多数いた。なかには師や親の教訓を守り、実直に働いて、運にも恵まれて財をなし、故郷に錦を飾った者もいるにはいたが、それは例外で、ほとんどの男たちは質素で平穏な生活を手に入れるのに精一杯で、彼らのロマンは色あせていたと言ってよい。
言い換えれば、明治維新以来、「仰げば尊し」にみる出世主義は大正、昭和そして太平洋戦争後も若者たちを苦しめ続けてきたのである。彼らは相変わらず日本社会の二重構造の下に組み込まれながらも、「身を立て 名をあげ」るために無益な努力を強いられてきた事実は歴史を一瞥すれば明白である。
昭和5年(1930年)、たとえ大学は卒業しても、京都、大阪、東京に就職口はなく、京都から遠く岩手の寒村の中学校に教員の職を見つけたわが先輩の昔話を思い出す。それでも幸運な方だった。世界恐慌の中、日本だけが満州景気で湧いていたという評価もあるにはあったが、小津安二郎の『大学は出たけれど』(1929年)や『一人息子』(1936年)に見る主人公の屈折した心情は多くの若者に共通していた。そこには明らかに浪漫より挫折感が充満していた。同じ頃、村の少女たちは小学校を出るとすぐに彦根の製糸工場に働きに出されて、数年後肺病に罹って村里に帰り、間もなく血を吐いて死んだ。そんな事は珍しくなかったと母は死んでいった同級生のことを思い出しながら話してくれた。
昭和34年(1959年)私より一歳上の従兄は彦根の工業高校をでた時、就職口が見つからず、やっと担任の先生の口利きで埼玉県の川越にあるゴム製造工場に職を得た。五年後、大学生であった私は彼に会いに行ったが、彼が住む粗末なアパートの一室を見て、悲しく切なく涙が出そうになった。
昭和35年安保闘争が終わって後、かつて「貧乏人は麦飯を食えば良い」(参院での実際の発言は「所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うというような経済原則に沿った方へ持っていきたい。」)と言った大蔵大臣が首相になって所得倍増論を唱えた。日本は経済の高度成長期に入ると(1954年から1970年の間と言われているが、実感としては1960年頃からではないか)、全国から中学を出たばかりの少年少女たちを刈り集め列車で都会に送った。それは集団就職と呼ばれた。当時の交通機関を考えれば、東京と九州や東北の間には果てしない荒凉とした闇が横たわっていた。彼らはいつか父母の元に戻ることを願いながら、慣れない都会で孤独に耐えていた。あの少年少女たちの物語は『女工哀史』(1925年)の昭和版であろう。彼らの辛い別れ、涙、故郷、夜汽車は当時の流行歌、たとえばそれを努めて明るく歌った井沢八郎の「あゝ上野駅」(作詞・関口義明、作曲・荒井英一、1964年)にもよく現れている。
2.昭和30年代後半からの日本
幸にも大学まで進学し、卒業できた者、とりわけ男性社員は、戦時中の産業戦士にならってか、企業戦士と囃し立てられ、社員教育によって愛社精神なるものを叩き込まれて、必死で夜遅くまで働いた。東京五輪の年(1964年)に卒業して、いわゆる一流会社で戦士になった同級生の二人も40歳そこそこで月給とりの戦場で憤死した。そう言えば東京五輪マラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉選手は、メキシコ五輪が開かれる昭和43年(1968年)1月、剃刀で頸動脈を切って自殺した。「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切って走れません。何卒お許しください」と遺書にあった。
一方、こうした競争社会から予め排除されていたかのような人たちがいた。家業の手伝いで商品を配達していた学生時代に、いつも釜ヶ崎で目にする光景があった。朝からバクダン(安物の焼酎)を飲んで、道路脇に日雇い労務者たちが寝そべっていた。仕事にあぶれると血を売って、なかにはひと月に十回近くも売って、その日の飯と酒を買う人たちがいて、国会でも問題となった。
このように思い出を少し掘り起こしても、昔の若者は大志を懐いて世にでていったというのはウソではないにしても、それは例外的に恵まれた境遇とか才能を持っていたか、有力な庇護者かコネがあったものに限られていたと思う。有り体に言えば、ほとんどの日本の若者は「身を立て 名をあげ やよ励めよ」の歌を胸に頑張り、やがて恨めしく思いつつ、すっかり忘れさって、ただ食べるために一所懸命に働かざるを得なかったのだ。
昭和40年代になって日本人ががむしゃらに働いたお陰で、日本の中産階級にも経済的に少しゆとりが生まれた。今とは違ってまだ専業主婦が多かった時である。なんとか食べることに不自由しなくなったが、それまでとは少し違う光景が見られるようになった。男は相変わらずコツコツ働いて、ようやく課長になったとしても、やがて妻が夫に「あなたいつまで課長なの。お向かいのご主人は、お若いのにもう部長さんなのよ。わたし恥ずかしいわ。もっと頑張ってくださらなきゃ」と言い始めた。「俺はこのままでよい」と返答すると、「あなた、もっといい生活を望まないの。お向かいの奥さんと毎日顔を合わすわたしの気持ちも少しは分かってくださらないとね」と続く。苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、なんとか妻の愚痴を聞き流せる心のゆとりが残っておれば、その後はなんとかなった。大抵の夫はそうしてやり過ごしてきたはずだ。
このような実情に人間はいかに苦渋するか。男はそのロマンと欲望をどう処理するか。
これを考える時、中世から近世へと移行するイギリスで生まれたシェイクスピアの『マクベス』と黒澤明監督の『蜘蛛の巣城』に描かれた出世欲とその瓦解が意味するものとが、奇しくも合致点を見出す。
3.マクベスの野望と絶望
面白いことに、高度経済成長期の日本の家庭で見られた夫婦の会話の場面によく似た場面が『マクベス』(初演推定1606年)とそれを元に製作された『蜘蛛の巣城』(監督・黒澤明、1957年)に見られる。この二つの場面を参照しながら日本の企業戦士のことを考えてみよう。
マクベスは荒野で魔女から「万歳!やがて王となられるお方」との予言を受けて「運命によって王になれるものなら、自ら行動しなくとも王になれるかもしれぬ」と密かな望みを抱く。戦いで手柄を立てたマクベスは、予言通りにコーダアの領主に取り立てられると、スコットランドの王になる望みも叶えられるのではないかと期待を膨らます。彼は使者を送って、魔女の予言とダンカン王がマクベスの居城に立ち寄ることを夫人に知らせる。それを知った夫人は、王を殺して夫が王になる千載一遇の機会が訪れたと喜ぶ。
帰ってきた夫に「今夜の大事な仕事はわたくしにお任せになればよろしい」と言い放つ。しかし、マクベスは逡巡する。「こういうことをすれば、この世でいつも裁きを受けるものだ」と。そこで夫人に「今度の計画はこれ以上前に進めないでおこう。最近も恩賞は頂いたし、あらゆる人から黄金の褒め言葉ももらった。この輝いている真新しい衣装をそんなに急いで脱ぎ捨てることもなかろう。」夫人「ではあのとき身に纏った希望は酔っ払ってしまったのですか。それからずっと眠っていたの。そしていま目覚めて、あんなに大きく膨らんでいた望みを思い出して青ざめていらっしゃるの。これからはあなたの愛はその程度のものと考えますよ」(1幕7場。日本語訳はすべて拙訳)と。この強烈な反駁にマクベスは精一杯抵抗する。
「男としてふさわしいことなら何でもやるさ。それ以上のことをやろうとするのは男ではない」と言い返す。それに対して夫人は「では、あの時わたしに計画を打ち明けさせたのはどんな獣だったの。勇気を出して実行してこそ、男になれるのよ」と畳み掛ける。こうしてマクベスは夫人の強い意思に降参せざるを得なくなった。
一体、マクベス夫人が求めた愛とは何だろうか。中世ヨーロッパのロマンス(騎士道物語)に登場する騎士は、トリスタンやランスロットのように宮廷愛の規則に従って、聖母マリアを崇めるように意中の恋人を慕う。彼女の愛を得るために困難を恐れず、勇気を持って試練に立ち向かい、そして自己犠牲さえも厭わぬ求愛者のその行動が本来人間的、性的な欲求である愛(エロス)をキリスト教の愛にまで高める。このような理想的な、プラトニックな中世の愛の作法はエリザベス朝時代にもまだ残っていた。
クリストファー・マーロウの『ヒーローとレアンダー』(1598年)の一行「一目惚れでなければ恋でなし」(Whoever lov’d that lov’d not at first sight?)は、『お気に召すまま』でフィービが受け継いでいる(3幕5場82)。そして、ロザリンドと付き合っていたお坊ちゃんのロミオも、ジュリエットを一目見るなり、ロマンスの騎士に豹変した。彼らの愛は運命的であり宗教的である。「愛も憎しみもわれらの力では御し難し/なんとなれば意志は運命に支配されているから」(マーロウ)。運命的で神聖な愛、なんというロマンティックな愛か。
ところがマクベス夫人は、夫が彼女の欲望を充たす男、つまり「獣」になれるかどうかによって彼女への彼の愛情の深さを測っている。彼女は夫にもはや騎士道精神も無私の宗教的愛も求めてはいない。いや、こう言い換える方が適切ではないか。母の乳を無心にねだる赤子に対するように、夫人はマクベスを忠実な従僕として彼女の欲望に奉仕させようとしているのだと。そうだとすれば謎の予言をマクベスに授けた魔女はマクベス夫人の分身であったと読める。いずれにしても人生の選択の場で運命としての「愛」を持ち出されては中世の武将マクベスには選択の余地はなかった。
4.高度成長期に作られた『蜘蛛の巣城』では
次に高度経済成長期の入口に入った頃に製作された『蜘蛛の巣城』の夫婦のやり取りを見てみよう。「俺はこのままでよい」は主人公・鷲津武時が妻・浅茅に言った台詞である。「この館の主人として大殿に忠勤を励むのだ。分相応に安らかさが好ましい」と続ける。心の底に出世の野心を潜ませながら、「俺の心には何もない」と言い張る夫に対して「それは嘘です」と妻は言い、夫の意気地無さを責め立てる。夫の僚友・三木義明が森で聞いた予言を主君・都築国春に告げれば、大殿は夫に謀反心ありと疑って攻めてくるだろうと唆す。だが彼は彼の武功に対して正当に報いてくれた大殿を信頼し、子供の頃から仲の良い友を信じていると言い返す。それに対して妻は「出世功名のためならば、親が子を殺し、子が親を殺す世の中です。人に殺されぬためなら人を殺す末世です」と諭す。その時、主君が思いもかけずわずかの手勢を従えて武時の館に来て、一夜の宿を願いでた。浅茅は今が予言通り蜘蛛の巣城の城主になる絶好の機会であると夫に主君を殺すようにと促す。ここで、昭和のマクベスである武時は「お前は、俺がこれまで真面目に頑張って、やっと手に入れた今の暮らしに満足できないのか」と一喝してもよかった。しかし、武時は「大望を抱いてこそ男子」と駄目を押されて観念し、妻の指図に従う。なぜか。
武時を高度成長期の日本の企業戦士に置き換えてみればよくわかる。昭和の戦士の多くは会社で忠勤に励みささやかな報酬と幸福を手にして満足している。しかし、もし彼に浅茅のような現状に満足しない妻が家で待っているとすれば、どんな選択があるのだろうか。こう考えてみれば、『蜘蛛の巣城』は立身出世の神話が揺らぎ始めた時期の物語であることがはっきりする。実力があり、懸命に励んできたのだから、もっと報われてもいいのではないか。家族のために十分に働いてきたつもりだが、それでも妻が満足していないというのなら、世の中の方が理不尽なのであろう、と。だったら不正な手段を使って欲しいものを手に入れても悪かろうはずがない。露見しなきゃ幸い、これも生きるためなのだ、と。だから、この映画は日々家族のために身を粉にして働いている高度成長期の月給とりの心の底に眠っている善(忠誠、勤勉、節約、節制、貞節の倫理)と悪(欲望の充足)の葛藤を夫婦の対話を通してメロドラマ風に表出した物語映画として解釈できる。
日本には元々愛の観念、神の愛に同化される絶対的な愛の観念はない。だから、浅茅はマクベス夫人のように「これからはあなたの愛はその程度のものと考えますよ」と夫に詰め寄りはしなかった。なぜなら「日本人にとっての夫婦の愛情は、赦(ゆる)しあうという実質を持つかまたは真の執着そのものである」からだ(伊藤整「近代日本における「愛」の虚偽」1958年)。日本のマクベス夫人・浅茅は夫の不甲斐なさに愛想を尽かすのではなく、さりとて赦すわけでもなく、あくまで自我に執着する。「出世功名のためならば、親が子を殺し、子が親を殺す世の中です。人に殺されぬためなら人を殺す末世です」と乱世の道理を語って、わが欲望を充たすために夫をわが身に引き寄せる。その際、彼女が説得の切り札に使ったのが「大望を抱いてこそ男子」という明治以来の人生訓であった。
20世紀も末になれば、近代日本の神話、つまり儒教思想に明治以降移入されたプロテスタントの労働倫理が合わさってできた立身出世の物語は流行らなくなった。近代化の歪みが各所に現れ、下克上の戦乱の時代に似てフェア・プレイでは成功できない時代が到来したのである。こうして努力や勤勉が報われない世の中で、ごく僅かの勝ち組と多数の負け組に二分化され、固定化される理不尽な現実が定着した。このような世になると、「少年よ、大志を抱け!」(“Boys, be ambitious!”)の掛け声も若者には遠く虚しく響くのみであった。なぜ、俺が負け組なのか。おかしいではないか、とマクベス夫妻の昭和の末裔たちは自問する。このように過渡期の混沌、荒野で魔女たちが「綺麗は汚い、汚いは綺麗」(“Fair is foul, and foul is fair.”1幕1場)と不気味に予言したあの終末的世界が経済の高度成長期の浮ついた世相の底に見え隠れしていたのである。
5.ポストモダニズムの解釈で切ると
中世と近代がないまぜになったエリザベス朝時代(1558-1603年)という過渡期に生まれたシェイクスピアの悲喜劇には、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」と唱える魔女の感性が浸透している。この感性は、奇妙にも現在のわしたちの感性とも符合している。
近代が、進歩と幸福を約束した啓蒙時代、そして産業革命から情報革命に至る資本主義の発展と成熟の段階を経て、衰退期に差し掛かった20世紀後半に、ポストモダンと呼ばれる感性の時代がやってきた。一般に、近代の次に来る時代が何かまったく見通せない時期がポストモダンと曖昧に呼ばれている。現在も私たちはこのモラトリアムを通過していない。だから、イギリス・ルネサンスの最盛期でもあるエリザベス朝時代は中世から近代への過渡期という意味で、ポストモダンと共通した点が見られるのだ。特徴は、反合理主義、権威への懐疑、キャンプ、パロディ、秩序へのチョッカイ、コラージュ、秩序と無秩序の接合、バロック的装飾、ゴチック的グロテスクの味付けなどである。
たとえば、映画『ニッポン無責任時代』(監督・古澤憲吾、1962年)の挿入歌「無責任一代男」(歌・植木等、作詞・青島幸男、作曲・萩原哲晶)はその好例ではないか。「人生で大事な事は/タイミングにC調に無責任/コツコツやる奴はごくろうさん/ハイ!ごくろうさん」。まだ、立身出世の神話の残像が残っていた時期、つまり日本経済の高度成長期にこの歌は流行った。粉骨砕身働けば幸福が手に入るという成功神話が完全にパロディ化されている。同じように、「ハイそれまでヨ」(1962年)では、頑張って手にした結婚生活によって男は想像していた安寧を得られず、こんなはずではなかったのにと、戯けて嘆いてみせる。「私だけがあなたの妻/丈夫で永持ち致します/テナコト言われてソノ気になって/女房にしたのが大まちがい/云々」(1962年)。もちろん、男が立身出世の神話に苦しめられてきたのと同様に、良妻賢母の鋳型に押し込められてきた女の側にも相当の言い分はあったのも確かなことである。
一方、表舞台には、1972年(昭和47年)立身出世の手本として今大閤と賞賛された田中角栄首相が登場した。新潟の貧しい農家の少年は明治生まれの母の教えを忘れず、15歳で上京。奮闘努力の甲斐あってか、政界の頂点に登った後、彼は日本人全体を豊かにしようと「日本列島改造論」の実践に乗り出した。その結果、大規模なインフラ整備に伴って生じた地価高騰とインフレ、さらにオイルショックに対応しながらも国民の所得の向上に貢献した。その彼も1976年に汚職事件で逮捕された。それでも経済は昭和の終わりから平成にかけてGDP世界第2位と言われるまでに成長した。しかし、バブル経済(1986-92)はあっと言う間に破綻した。バブルがはじけた頃、卒業式では「仰げば尊し」に代わって「旅立ちの日に」(作詞・小嶋登、作曲・坂本浩美、1991年)や「贈る言葉」(作詞・武田鉄矢、作曲・千葉和臣 1979年)などが歌われ始めた。
おわりに:浪漫は蘇るか
このように成長から破綻まで、さながら運命の糸車に翻弄されたマクベスの半生に似て、明治以来、日本の近代化の流れは一気に終末まで進んだ。その間、日本のため、功名のため、家族のため、そして生活のために一所懸命に働くことに虚しさを感じ、生きることに疲れた人たちが増えた。実話に基づいた『人間蒸発』(監督・今村昌平、1967年)や『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(監督・山田洋次、1975年)には、ある日突然、なんの前触れもなく妻の前から姿を消す男が登場する。当時、今では死語になった「蒸発」と言う言葉が流行った。70年代から80年代にかけて毎年10万人以上の行方不明者がでたが、その中には女性も男性と同じくらい含まれていた。彼女たちもまた社会の急激な変化によって、女性の居場所であると言われてきた家庭に生きがいを見いだせない人たちであった。平成になってもやや人数は減ったものの、「蒸発」は続いている。
平成から令和になると、職場でのパワハラや親による子供と配偶者への虐待、子供同士の陰湿ないじめなど、全ての年齢層で弱い者をいじめて、たびたび死に至らしめる殺伐とした風景が日常的に見られるようになった。立身出世であれ、良妻賢母であれ、明治から昭和まで生きながらえてきた神話が消滅するとともに、従来のような働く意義と目的が失われ、付随していた倫理の核も壊れ、そして当然のように、人間として生きることを律する精神の衰退を招くことになった。加えて、地震、津波、水害、そして世界に蔓延する新型コロナウイルスの脅威など様々な外敵に囲まれて、これから子供たちはこの混沌とした状況の海を航海しなければならない。いや、漂わねばならない。
仕事を終えて家に帰ってきた炭治郎少年—-漫画『鬼滅の刃』(作・吾峠呼世晴、2016年–)の主人公—-が見たのは、親兄弟が鬼に殺され、生き残った妹は血を吸われて鬼になって生死の狭間にいる惨事であった。そんな彼は妹を人間に戻すため、そして家族の仇を討つために鬼との戦いの旅に出る。鬼は必ずしも鬼の姿をせずに突然襲ってくる。また敵か味方もはっきりしない不可解で、グロテスクな、滑稽なまでに錯綜した現世で、彼は勇気と優しさを失わず、鬼に打ち勝つために技を修得し、自己を鍛え成長していかねばならない。いつか彼も鬼に喰われて鬼になるかもしれない。貧しい炭焼き農家の倅に過ぎないが、彼は中世の騎士のように次々に現れる悪鬼と闘う旅を続ける。これも現代のロマンス(騎士道物語)のひとつと言えまいか。
2020年5月10日
目次