日本浪漫歌壇 夏 水無月 令和五年六月十七日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会当日は晴天となったが、梅雨晴れといった感じではない。気温がぐんぐん上昇し、三十度を超えた。まるで夏である。三十度以上の日を真夏日と呼ぶが、三十五度以上の猛暑日になるのもそう遠いことではないのではないか。まだ六月である。この調子で暑くなれば夏本番には猛暑日すら超えて次の段階にまで行きそうである。猛暑日の上をいく四十度以上の日のことを、日本気象協会が「酷暑日」と命名した。比較的最近のことである。「猛暑」の次が「酷暑」という言葉の選択は、あまりに妥当過ぎて物足りなく感じているのは筆者だけだろうか。四十度超えという異常さが伝わるようにもっと特徴ある「派手」な言葉にできなかったのか。命に関わるような暑さを表す言葉に「お祭り騒ぎ的な要素」は不謹慎ということなのだろうか。
 歌会は六月十七日午前十一時より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。三浦短歌会の清水和子氏も詠草を寄せられた。
 
  年月としつきの経つのは早く亡き夫の
     十三回忌法要子らと 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。内容がよく理解できる歌である。作者がどのようなお気持ちで詠まれたのかを考えると、ご主人が生前はどのような方でご夫婦の生活はどのようなものだったのかを想像してしまう。「子らと」とあることで、どのような父親だったのだろうと想像はさらに広がってゆく。「年月の経つのは早い」という言葉が現実に引き戻す。三宅さんのお話では、嘉山さんの旦那様は三浦短歌会のメンバーで、亡くなる数日前まで短歌を詠まれておられたとのことである。旦那様は奥様のこの歌をどのように評価されるのだろうか。
  高層ビル住まいし友をおとづれば
     ビル風うなり我をこばみぬ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。幼なじみが高層ビルに引っ越され、そのお宅を訪れたときのことを詠まれた。高いビルの周辺で突然強い風が吹くいわゆる「ビル風」は、誰もが経験したことがあるだろう。歌に表現されているようにまさに「うなる」勢いである。そのメカニズムを知らない者にとってはどこか不思議なものでもある。そのビル風が自分の訪問を拒んでいるようだと見る視点が秀逸である。古くからのご友人は作者の到着を今かと待っているだろうが、ビルが象徴する都会の新しく「最先端」の暮らしは、あたかも作者を寄せ付けないようにしているかの如くで、ユーモアすら感じられる。
 
  処方されし薬の効きて亡き父に
     飲ませたかりし小さき一粒 和子
 
 本日欠席の清水和子さんの歌。科学技術の進歩により、昔は不可能であったことも現在は可能になっている場合がある。そのようなことは様々な分野にあるだろうが、とくに医学においては顕著だろう。実際にご自身の具合が悪くなった時に処方された薬を飲むと効き目があった。それで、よかったとか助かったとか思うのではなく、現在作者が飲んで効いた薬は、昔の父親の病気にも効いただろうと思う気持ちが読者の心を打つ。あの時にこの薬があればという気持ち。しかもそれはたった一粒の小さな薬なのである。
  しんとした耳にジンジン事も無し
     誰か言ひつる宇宙の呼吸と 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。耳鳴りが聞こえるようになった時に、以前本で読んだ耳鳴りについての内容を思い出した。そのおかげで耳鳴りを心配する気持ちが少し和らいだとのこと。嶋田さんによると本には「耳鳴りの音は宇宙の呼吸である」と書かれていたそうである。確かにその言葉は印象に残る。一度聞いたら忘れないだろう。「宇宙の呼吸」とは何なのか実際には意味はよくわからない。言葉のマジックとでも言うのだろうか、言葉の響きや雰囲気から素晴らしい確かなもののように感じてしまう。病は気からではないが、「宇宙の呼吸」という言葉で安心感が得られる。不思議である。
 
  押し寄せる電波に乗りて脳内に
     サプリメントの広告入り来る 員子
 
 作者は羽床員子さん。日常の身の回りにあふれる煩わしい広告もユニークな言葉使いで歌になる。ユーモアもある。例えば、押し寄せる波に乗って湾内に船が入って来るといったありふれた内容の歌を思い浮かべて比較してみたら、羽床さんの歌の面白さがよくわかるだろう。
  紫陽花の名前のひとつ「ダンスパーティー」
     知らぬ間にわが庭に咲く 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。色や形の違うあじさいを見かけるので、筆者も種類が複数あることはわかっていたが、みなさんによるとその数は相当なもので、歌にある「ダンスパーティー」も先日テレビで紹介されていたそうである。一般的なあじさいに比べれば珍しいだろう種類のあじさいが、ある日突然、知らない間に庭で咲くことなどあるのだろうか。作者が知らないだけで、ご家族の誰かが植えたりしたのではないのか。何か不思議な自然の神秘のような雰囲気も漂う。
 
  ひとり咲きひとり墜ちゆく寒椿
     五月の地べたに濡れて重なる 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。光景が目に浮かぶ。「ひとつ」ではなく「ひとり」という言葉が使われていることから想像されるが、人間が寒椿に喩えられている。作者によると歌のテーマは生と死である。どんな花でもいつかは散るが、椿の花の散り方は印象的である。椿は花が根元から丸ごと落ちる。寒椿の場合は花びらが落ちる。濡れて重なるのならやはり寒椿だが、落ちるところは「地べた」なのである。「地面」ではなく、よりネガティブな印象の「地べた」という語を選択したのは、誰でもそんな所には落ちたくないことを表すためである。
  変わりゆく街に響ける烏鳴からすなき
     高層ビルは雨に濡れをり 裕二
 
 筆者の作。最近街の中心部で古い建物が壊されて高層のビルが建てられている風景をよく目にする。関心がないからなのかもしれないが、ビルはどれも無機質で同じように見える。あるいは、たまたま目にする場所に同じような種類のビルが建っているだけなのかもしれない。また、街に集まってくるカラスはたいてい古い建物に止まっているが、これも偶然なのかもしれない。さらにその鳴き声は、次々とビルを建てている人間にあきれているように聞こえて仕方がない。この歌は目にした風景を詠んだつもり だったが、変わりゆく街に対する失望をカラスに代弁させたとも思えてきた。
 
 歌会用の歌を提出した後で少し後悔したのは、梅雨の時期なので今回は雨についての歌が多いのだろうと予想し、自分の作品も雨の日のことだった点であった。もう少し別の内容で詠めばよかったかとも思ったが、まさか「高層ビル」が他の作品とかぶるとは思ってもみなかった。しかし逆にそれほど高層ビルが身近なテーマであることが示されたとも言える。高い建物としては東京スカイツリーが有名だろう。名前が表すように高層の建物を都会の木に見立てれば、あるいは面白い作品ができるかもしれないと思った。