日本浪漫歌壇 春 皐月 令和五年五月二十七日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 今月八日より新型コロナウイルス感染症は季節性のインフルエンザと同じ位置づけとなった。確かに猛威を振るっていた時期と比べれば、感染者数は減少しただろうが、ウイルス自体が弱体化した訳ではない。いつまた感染が急拡大するとも限らないし、感染すれば重症化の危険性もゼロではない。先日、勤務先で家族がコロナウイルスに感染した人がいて話題となった。どうするべきか。ついこの前までは「濃厚接触者」と呼ばれ、しばらく人と接することがないようにしたが、今では「濃厚接触」という概念が存在しないから、考えること自体意味がないとのことだった。その変わり方に正直違和感を覚えたが、理屈ではその通りだろう。いずれにせよ、再び感染が拡大しないことを願っている。
歌会は五月二十七日午前十一時より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。三浦短歌会の清水和子氏も詠草を寄せられた。
 
  ノートルダムは聖母マリアと聞かされし
     再建進むとテレビのニュースに 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。二十年ほど前にご主人とパリに行かれ、ノートルダム大聖堂を訪れた際にガイドから「ノートルダム」とは聖母マリアのことだと聞かされた。数年前にその大聖堂が火事になり,今は再建が行われている。ニュースで現在の大聖堂の様子を見て、昔の旅行のことや火事になった時のことを思い出され、歌にされた。
  孟夏の日風吹きよせての若葉
     見えなくなりしそれもまたよし 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。初夏に手のひらに乗せていた葉が風で遠くに飛ばされてしまった。実際の光景を詠まれたように思えるが、この歌は比喩であるとのこと。実はお子様のことを詠まれている。非常に仲の良い親子だったが、若葉が青葉に変わる初夏の頃に子供が遠くに行ってしまうような出来事が起こり、寂しくて仕方のない気持ちになった。しかし自分もかつて母親と同じような事があり、親離れ、子離れはいつか起こるもので、それはそれでよいことなのだと思ってその出来事を受け入れようとされた。
 「掌の若葉」とは、自分の手のひらの中にいて思うままになっていた子供のことで、突然親の元から巣立って行ったという内容の歌であったのだ。比喩を用いず、子離れするのが難しいことをストレートに表現すれば、詩的でなくなるだけでなく、その事実を知られることが少し恥ずかしく思われたのかもしれない。
 
  農婦より採れたばかりの貰い物
     朝露のつく春キャベツ二個 光枝
 
 嘉山光枝さんの歌。三浦の春キャベツは有名で、歌の情景が目に浮かぶ。嘉山さんのお宅の周りには畑がたくさんあり、農家の方は朝早くから作業をされているので、たまたま朝に会ったりすると収穫した野菜をくれたりするそうである。「採れたばかり」で「朝露」のついた春キャベツ。みずみずしくて美味しいことをこれ以上うまく表現することができるだろうか。
  愛されし料理レシピのしみ見れば
     幼なき子らのざわめきがする 和子
 
 本日欠席の清水和子さんの歌。清水さんは初句を「愛されし」か「好評な」か迷われたようだが、「愛されし」の方がよいと思う。「愛されし料理」とは子供が好きだった料理という意味であるが、子供が愛してくれたと親が「愛」という言葉を使って表現することで、子供に対する親の愛情も同時に感じることができるし、さらに「愛されし」「レシピ」「しみ」と「し」が連続することで音としての響きやリズムがよい。
 料理のレシピ、すなわちその家庭の味というのは家族にとって特別なものである。子供たちが好きだった料理は何だったのかを想像してみるのも楽しい。
 
  自刃せし三浦一族守りたる
     旗立て巌に霊気漂う 員子
 
 作者は羽床員子さん。先月の歌会の会場になった岩間邸を訪れた際に、庭先の旗立岩を見て三浦一族の歴史に思いを馳せて詠まれた歌。歌会はよく晴れた昼間に行われたので、「霊気」が漂うような感じでもなかったが、羽床さんには何か感じるものがあったのかもしれない。
  ひさびさに狸来たりぬ子を連れて
     毛は抜け落ちて体ハゲハゲ 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。この歌の通りだったそうである。食べるものがなくて栄養状態が悪いのか痛々しい姿である。昔は山だったところが今では畑となり、動物たちの居場所もなくなって畑や人家に現れる。畑を荒らして困るために駆除されることもあるが、対象となるのはアライグマのような外来種だけとのこと。残っている里山も保全管理を行わずに放置していれば荒廃して動物は住めなくなる。狸を写生しただけのように見えて、実は人間の行動を批判している歌ともいえる。
 
  ふだ入れは学歴いつはる乱れ籠
     天空黄砂も人為ぞ若葉よ 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。議員選挙があってトップ当選した候補者は学歴を偽っている。しかし議会はそれを糾弾しようとしない。情けない話である。「乱れ籠」や「天空」のような言葉のイメージと歌が示す内容のギャップにより、作者の怒りや悲しみ、やるせない思いがさらに強調される。短歌にしてでも言わずにはいられなかったと作者の気持ちを解釈した。
  空青し海また青し夏の日に
     火球の奪ひしあまたの命 裕二
 
 筆者の作。一週間ほど前に広島でG7サミットが開催された。世界が注目する中で原爆投下による惨状や終わらない被爆者の苦しみなどが世界中に伝えられて、核廃絶に対する意識が少しでも高まればよいと期待したが、ウクライナのゼレンスキー大統領の電撃訪問で報道の焦点が変わってしまった。戦争中の大統領を危険な中でわざわざ日本に呼んだ理由がわからない。サミットはただのショーで、ショーを盛り上げるためにはサプライズが必要だった。そんなふうにしか思えず、しらけた気分になる。各国首脳は原爆資料館を訪れて何を思ったのだろうか。原爆について多くの言葉はいらないだろう。失われた命は戻らない。それにつきる。
 
 歌を解釈する際に何に注目すればよいのか。歌を理解する手がかりはいろいろとある。今回の嶋田さんの歌でも、書かれている言葉から判断して、実際の光景を詠まれたと解釈してももちろん構わない。しかし今回、筆者は解釈するに当たって大切なことに気づかなかった。そのため作者の思いを読み取ることができなかった。歌をその歌単体でしか考えなかったのである。
 歌会はまず作者を伏せて読んで解釈するので、最初はそれでも仕方がない。しかし作者が判明すれば話は別である。筆者はこれまでに嶋田さんの歌を何首も読んできた。嶋田さんにはご家族のことを詠まれた歌が多い。この簡単な事実さえ思い出せたなら、今回の嶋田さんの歌がご家族、とくに自分の元を離れていくお子さんを詠んだ比喩だと解釈することも可能だっただろう。どんな手がかりも決して見逃さないという気持ちが足りなかった。