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淡谷さんも、ジュン葉山君も
涙ながらの失恋の歌
                   濱野成秋
 
 今に遺る淡谷のり子の歌を聞くと、彼女の自画像を見ているようだ。
 恋人との悲しい別れが胸に迫る。ジュンちゃんが淡谷のり子に惹かれるのは、淡谷の歌いっぷりに、縺れた自分の恋の果てを見るからだろうか?
 僕はジュン君の過去を知らない。まして恋愛の、敗れた果ての心の愁嘆場など、知る由もない。だが、あの、堂に入った歌いっぷりに、そんなことまで夢想してしまう。
 筆者はまだ淡谷さんの生きていた頃の、遠い記憶を辿るとしよう。
 淡谷のり子さんとジュン葉山君とは、二世代は異なるし、彼女が生きた時代も、淡谷さんとはかけ離れ、泣き暮らす淡谷さんの心の内を語って貰える立場でもないことは明白である。それなのに、ジュン君は淡谷のり子に心酔して、涙まで流してしまうから面白い。
 淡谷さんは「別れのブルース」や「雨のブルース」を歌い終えて舞台の袖に戻ってくると、いつも瞳に涙のきらめきをみせる。
 ひばりちゃんもそうだった。「みだれ髪」を歌うときには、落涙を予期して目をしばたき、そっと目頭を拭ってから強烈なライトの渦の中に跳び込んでいく。
 僕がまだ大学生のときだった。
 とある新橋のキャバレーで“歌うたい”をやっていた。
 一種のアルバイトである。ディックさんの前座をやったことも。
 まだ十八歳の、駆け出しシンガーだけれど、生意気にもピカピカ光る洒落たブラックシルクのタキシードを着せてもらい、いい気になって大人の歌を歌っていた。
 兄貴分のディックさんの美声などとても真似のできない、あどけない声で、ディックさんの歌もやった。ラストダンスの暗いホールに向かって、林伊佐緒の「ダンスパーティの夜」をやると、ホールの中央はくっつき合ったカップルが、けなるい、頽廃的の極みで、熱烈なキスなどして、身体をうごめかせていた。
 淡谷さんはというと、深夜にはやらない。彼女の場合はまた失恋したか、あの声が泣き濡れて聞こえる。今日もそいつがもろに出てらあ、と舞台の袖で笑うディックさんをうらめしく思って、幕引きの脇で憮然としていたのが僕だった。
 その淡谷さんの歌に芯から惚れたか、ジュン葉山という、元銀座のプロ・シンガーは、淡谷調の歌を歌って、やはり涙ぐむのである。
 淡谷の持ち歌には、男が作詞した女の恨み節がある。「夜が好きなの」と題する歌であるが、淡谷さんの持ち歌で、平田謙二が女心を巧妙に描き出す歌詞になっている。
 
  夜が好きなの
  ふたりの夢が もえるから…
 
 で始まり、男女の夜の営みを連想させながら、
 
  夜が好きなの
  あなたの嘘が消えるから…
などと語る。作詩は上手い。実に女のハートを読んでいる。が、男の手で女心をそのまま引き出すからか、のり子も潤ちゃんも泣かない。
女心をずばり描いては却って白けるからなのであろう。
ところが「雨のブルース」の二番の出だしがなんとも憎い。
 
  くらいさだめに
  うらぶれ果てし身は
  雨の夜みちを とぼとぼ
  ひとり さまよえど
  ああ、ああ、帰り来ぬ
  心のあおぞら
  すすり泣く 夜の雨よ

 
で、ぐぐっと、涙がこみあげて来るのは、やはり失恋のあまり、雨夜の小径を濡れながらさ迷い歩いた、そんな体験が淡谷さんにもジュン君にもあったからだ、と僕は思うのだが、果たしてどうか。読者諸賢はその歌いっぷりから、ご推察されたい…。
と、ここまで書いて、一応、ご本人の検閲(笑)を受けるべく、メール添付で送ったら、返事が来た。
失恋なんて、今はもはや「祈り」の境地です…
と、数行書いてあった。
人生の深みというか、いかにも教養も並々ならぬジュン葉山らしく、繰り返し読むうち、寂聴や有吉佐和子や寺島しのぶの顔が次々と想い浮かんだ。(了)
古賀メロディと浪漫詩② 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
人生の並木路
 
  一、泣くな妹よ 妹よ泣くな
    泣けば幼い二人して
    故郷を棄てた かいがない
 
 歌詞も曲もまるで古賀さんが作ったような。だが作詩は佐藤惣之助である。
 この兄妹の苦難の話は古賀さん、佐藤さんに通底する。いや、当時の貧農出身なら誰もが味わった故郷離脱劇である。
 唱歌「ふるさと」は、「うさぎ追いしかの山」であり、日本人なら誰もが郷愁を歌う、のどかな歌だとしたがる。それは違う。現実はのどかどころか、碌に食えない故郷は如何に貧しく、抜け出したかった所か。これを詠んだ歌なのである。貧農で子沢山。次男三男は山の蔭の、陽の当たらない土地を耕し、年貢は高い。畔に畔豆を植え、二毛作で麦を植え、渋柿を干して甘柿にし、娘を紡績工場に息子を軍隊に。それでも食えない農家では、野兎や狸を追って棍棒で叩き殺して汁の具にして飢えをしのぐ。
 「小鮒釣りしかの川」も、のんびりした歌ではない。泥臭い小鮒、どせう、フナ、ナマズ、ザリガニ、ヘビ、雀、何でも獲って食わねば生き延びられん。女工に出した娘は過労で肺病に。その妹は売られて女郎に。
 「幼い二人して故郷を棄てた」兄と妹の境遇とはこんな有様だったのだ。
  二、遠いさびしい 日暮れの路で
    泣いて叱った 兄さんの
    涙の声を 忘れたか
 
 兄貴は法廷でも泣いて諫めるばかり。少年の頃が昨日のことのように思い出されるのである。
 アメリカじゃ、こんな悲劇は通じない、日本政府は軍隊ばかりに力を入れた。なってないよ、日本の政治は。と、君は思うか? どうかな?
 アメリカの経済学者ガルブレイスは1958年に『豊さの時代oと題する名著をだした。戦勝国アメリカの50年代はハリウッドに象徴されるアメリカニズム全盛の右傾化した時代で、ガルブレイスのいう「豊かな社会」(affluent society)という言葉はたちまち世界中を独り歩きをし、ジャパンも、おっつけ高度経済成長期に入ったので、アメリカ路線で当たり前の時代になった。
 だがアメリカも移民難民で中西部から西へ。開拓時代は困窮続きの民衆が右往左往の有様。1920年代のジャズ時代でも、みな浮かれ騒ぎだと外見には喧伝していたが、ニューヨークのイーストサイドはロシア系、東欧系、ユダヤ系難民でごった返し、社会制度に金もかかる、飢えと病の底辺を日本人は全くしらない。白人でも貧しくて裸足で暮らす人々はそこら中にいて、poor whiteと呼ばれていた。こんなんじゃ母国に戻った方がましだと、当時の新聞の「身の上相談欄」出た記事は溢れるほどある。
 それでも、農園の下働きで、暮らしを立てた日系移民の中にはしっかり貯蓄して、故郷に豪華な洋館を建て、村長の家より立派だと、見返した人も、沢山いた。だが、勤勉国家ジャパンは極貧だった。なぜ出遅れたか。なぜ軍備拡張ばかりに没頭したのか。
 明治維新当時、富国強兵策が打ち出されたことは、日本人なら誰でも教科書で知っている。脅威はロシアだった。日清戦争で台湾や満州を手に入れ、「絶対国防圏」と称して頑張ったが、日露戦争で樺太の下半分の権益を得たものの、どれもこれも中途半端で、却って巨額の戦費を伴う日中戦争を継続する羽目に陥った。侵略と見做されて、アメリカからも見放された。
 満州事変、日中戦争、ついには日米戦争へ。平民は一銭五厘の赤紙で戦地へ。軍隊では毎、貧農の日びんたびんたの連続だが、それでも水飲み百姓よりもましだと農家の次男、三男たちは入隊した。だから「欲しがりません、勝つまでは」の標語は言い得て妙で、この状況で、身売りをする妹を救うために志願したという。「人生の並木路」の兄と妹は召集令状を食らう前に、女郎女工に売られる前に、故郷を棄てて逃げたのである。この歌は1937年に発表されているが、真珠湾攻撃のたった四年前であり、貧困が人生を狂わせる仕組みがつい最近まであったのである。
 三番と四番は一緒に出そう。トーンが違うよ。そこに気づいていただきたい。
 
  三、雪も降れ降れ 夜道の果ても
    やがて輝く 曙に
    我が世の春は きっと来る
 
  四、生きてゆこうよ 希望に燃えて
    愛の口笛 高らかに
    この人生の 並木路
 
 この、三番、四番も含め、あの甘い声のディック・ミネさんの歌は絶妙で泣かせるけれど、一番、二番の後の、この内容では、打開策もなし、絶望感をこの程度の心がけで拭い去れるはずもない。
 原節子が妹を演ずる映画のなかで唄われるわけだけれども、その後に作られた映画のストーリーを見ても、歌ほどの情念には欠けている。
 歌詞の一番、二番が醸し出す切なさが映画やドラマの筋書きでは、興醒めだと思うのだが、皆さんは如何。むしろ、この歌だけを独立させて、筆者が指摘した個人の努力では如何ともし難い状況を噛みしめながら、日本の貧困とやるせない状況を噛みしめた方が、歌の心が、切々と峰に迫る。
 佐藤惣之助も古賀政男も貧農の子で後に大成功者となるし、ガルブレイスもカナダの貧農に生れ、ハーバードからプリンストンへ加州大バークレーで気炎を吐く存在となったが、彼もアメリカ作家アンダーソンが描く『白人貧農』(Poor White)で、みなほぼ同時代なのである。
 こうやって見ると、昭和7年、世界は大恐慌のさ中で、日本は日中戦争を始めたばかり。関東大震災からまだ十年と経たない時代。帝都の復興も充分でないのに、戦費が掛かる。国を挙げて軍備増強政策に躍起になっている。輸出相手国のアメリカとの関係が悪化して、西洋音楽などにうつつを抜かすより増産に汗を流せの時代である。強兵には税金がかかり、生産性は乏しいから、貧困層の救済などに国家としては手が回らない。
 この歌を作詩作曲した古賀政男の二十歳代の暮らしも、どん底状態で、恋愛の懊悩を歌って生計を立てるなど、夢のまた夢。尋常な世界ではなかった。
 
 古賀政男は明治大学に在学してマンドリン倶楽部を創設したとあるから、生活に困らない学生と思うなかれ。食事もままならぬ貧困状態で欠食に継ぐ欠食。マンドリンも売るしかないと思った矢先に、母親が5円何某を送ってくれた。もしマンドリンを売りに出していたら、今日の古賀メロディはなかったと、別の所で書いた覚えがあるが、佐藤惣之助も貧乏のどん底だった。
 だから、古賀は佐藤の歌詞に涙しながら、この哀愁に満ちた詩に、切々と迫る名曲を与えたのだと筆者は思う。
「寝屋」を巡る懊悩三題 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
1.「寝屋」は政治がらみの格闘の場か
 
 人間は眠るもの。動植物も似ており。
 休眠をもって勢力回復を目指す生物は多い。
 人間はしかし、「寝屋」の一時を悶々と過ごす動物である。
 
  嘆きつつ ひとり寝る夜の明くる間は
    いかに久しき ものとかは知る
             右大将道綱母
 
 歌人は言わずと知れた『蜻蛉日記』の作者である。拾遺集では恋歌の部類としている。通婚が当たり前の時代、娘の寝屋に男が通い、種を宿す。こんな風習が貴族社会に広まるには、参内を許された高位高官の子を宿せば、それで終生悔いはぐれがない実態に裏付けされている。互いに好きなれば事は上々となれば親も安堵するが、種だけ宿して正当に嫡子と認められねば、言い知れぬ生涯が到来する。この御仁は無事男子を出征し、見事に右大将まで出世させたのだから、それを誇らしげに自分の呼称としているわけである。
 そんな出世街道を背景にしながら、男を待つというのは、打算めいて頂けないが、そうでもせねば、貴族として家を維持できない仕組みにも、溜息が出る。
 夜更けて、約束の刻を過ぎても訪れない男の心変わりを慨嘆し、噂通り彼の男子には、ほかに恋人ができ、自分よりも先にその女を慰めてからこちらの寝屋に来るかと思えば、腹も立つ。だから『蜻蛉日記』には、待てど暮らせど来ぬ人が、やっと来たのに、木戸を開いてやらず、暫く焦らせてから、ようやく入れてやって…のくだりもある。菊一輪と歌を持て迎えたとあるが、本当か。
 この種の策略を講じる才女はあまり好かれない。そうと判っていても、やってしまう女だから、待ち惚けを食わされた男の足は益々遠のくと思われるが、そこまでは書いていない。
 結局寝所に招き入れて、目出度く身ごもったわけである。つまり「寝屋」とは、政治がらみの、政敵を視野に入れての妖艶な格闘技の場でもあったとも考えられる。恋のムードも萎え果てよう。紫式部の『源氏物語』もその目で読み解けば、浪漫の気持ちも半ば消えなんと見える。
 
2.「寝屋」は安らぎの場に在らず
 
 『よさこい節』に、
 ぼんさん
 かんざし
 買うを視た…
 という下りがある。
 坊主は丸頭だから、おつむにとんがった簪が刺されへんのに、買うたんか、と幼い頃に笑った覚えがある。が、むろん、そんな駄洒落で詠ったのではない。土佐の高知へ来てごらん、はりまや橋でお坊さんが恋人にプレゼントを買うてはる、粋な処でんがな、と都人や上方からの客人をもてなす商魂で歌にした。
 現に、女人禁制の高野山でなくとも、女人との交わりを禁ずる仏教僧が密かに廓に通い、妾を囲うなど、破戒を破戒とも思わぬ僧侶も多々居た。だから、
 
  夜もすがら もの思ふころは明けやらで
    寝屋のひまさへ つれなかりけり
                俊恵法師
 
 この歌も『千載集』で恋の部に入れられているように、寝所にいても昔の女人と過ごした夜を想い出し、なかなか眠れない、ということにもなる。
 高野山の石堂丸という不運な子の話がある。妻のほかに出来た妾との罪作りを詫びて出家した刈萱の、愛児石堂丸との切ない再会の話である。
 俊恵もまた世俗にいた頃、罪作りな日々を悶々と思い起こすのか。ならばなかなか眠れなかったであろう。刈萱の場合、ひと間おきて、障子に映ったシルエットを見て驚いた。正室と側室とが、仲良く談笑しているようで、二人の長い黒髪が何百もの蛇となって、相手に向かって牙を剥き出しにしている姿に見えたという。
 筆者の家にも同様のことが起こった。戦中戦後のことである。実母は、父が祇園の芸妓に産ませた子を連れて突如大阪の本宅に来たとき、母は「生まれた子には罪がない」と言って、雪ちゃんという可愛いおかっぱ頭の女の子を奥座敷に上げたが、母親の芸妓は断じて座敷に上がることを許さなかった。そんなこととは露知らず、幼い雪ちゃんと筆者は、無心に蓄音機を掛けて遊んだ覚えがある…。
 だから石堂丸の話を聞いたとき、これは僕やがなと思った。まだ小学生だったが、その時の複雑な心境を今も思い起こす。
 恵恵法師もまた出家後も、俗代で過ごした長年の苦悩が、寝屋の暗闇に次々と現れて眠れぬ思いであったのであろう。
3.罪作りと夜の静寂しじま
 
 こうして「寝屋」を視れば、安らぎの場所どころか、自らをさいなむ場所に見えて来る。考えぬが華。自らの不逞不貞、不見識を次々諫める場でもあるわけだが、そのプロセスは人によって大いに異なるであろう。自らの失態を恥じるタイプは良質な「寝屋」であるが、根っから性悪に生まれた人間には、自分の不行き届きなど、平気で棚上げし、自己肯定の立場に立って無理でもなんでも、自己主張の方策をあれこれ思い巡らせるのであろう。よりハイアなポジションを獲得する方策を練る場所が寝屋だとは。
 だが善人も悪人と波一重。今夜は懐旧の想いで眠られず、今夜は自己弁護策で眠られない。その綯い交ぜが常人の偽らざる姿であろう。
 自分を責めさいなむどころか、政敵を封じ込める策略を練るところが、「寝屋」であるとする者も、若いうちから沢山要る。
 その種の人間は決して自己省察の歌など詠むはずがない。寝屋で人は本性を露にする。だからわんちゃんにゃんちゃんによく似た性衝動も行為として実現する。「寝屋」とは、形而上でも形而下でも、永遠に罪つくりと悔悟の場なのである。
 
          令和六年四月十日        成秋
「内面生活」を描く浪漫文学 
 
      日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
1.リアリズム文芸には限界がある
 
 人間は「社会人」ばかりを演じているわけではない。
 家に帰れば親子や夫婦関係が待っている。若い青春の悩みや壮年の不安、老齢期の深刻な問題は、社会人としては、扱うに相応しくはない。心の病は奥深く、係累に広がり、拭い去れない過去の問題も多々頭を擡げる。それを社会問題として片づけるわけには行かないのは当然である。
 リアリズム文学の発生は何を機縁とし、何を人間に与えたか。
 遡れば一九世紀。産業革命の影響で世界中のライフスタイルが変容した。成長発展には価値観の変容が伴い、宗教心が薄れて即物的な生活で経済生活が登場。並行して世紀末から極端な国家主義が台頭して世界大戦が二度も起こった。
 戦争や科学文明の大発展で人間社会は掻き乱され、それを描くのがリアリズム文学だろうという風潮が世界中に興隆し、自然主義が幅を利かせて浪漫主義は影を潜めた。作家も詩人もリアリズム文学で混濁し続け、労働問題が基盤になって、抵抗文学や社会主義文学が人心を誘導し、革命を唱える文学まで台頭した。
 だが人間社会の汚濁や不正を描くばかりで終始していた文学は世情の推移と共に徐々に滅亡し、やがて文学史の一時期として括られるに至る。
 同時期、時代的には一九二〇年代後半から画像映像の時代となり、画像やデータ表示で事足りる歴史記録のような文学が現出する。アメリカ作家ドス・パソスのUSA三部作にはニューズリールや記録文学が取り込まれて、リアリズム文学作品は人間の内奥に踏み込むより、外界の変貌を優先描写させる。
 その結果、政治的主義主張や巨大な組織で動く宗教が人間の内面を支配し始め、世の中は益々形骸化して作品から人間味が失せていく。人間は物欲や変貌の中で翻弄させられる存在となった。リアリズム文学が人間の内面に巣くい去来する悲哀、情熱、憤怒、慚愧な思いなどを満足のゆくまで解き明かせたとは言い難い。
2.浪漫文学では若さだけが対象か
 
 浪漫といえば、ロマンティックな想念を連想する。
 若くて、恋をして、愛情深くて。
 世の中の矛盾撞着には目もくれず、愛する人に会うことばかりを願っている。
 なるほど、そんな世代もあるだろうし、恋に破れた切ない思いもあるだろう。
 だが、人間、思春期は長くは続かない。学生時代を終えれば次に来るのは収入と安定的な自立の時代を希求する世代となる。初めて実力のなさを思い知る時期でもある。試行錯誤から体得する心得は幾つもあって、日増しに上手に暮らせるようにはなるが、周りが結婚し始めると、自分も身を固めたくなる。安定した経済を得ることで保障される安定感を得たい。
 その希求が達成できたとしても、病気や夫や妻との齟齬もあり、義理の関係も複雑になって、結婚生活も、時には意想外に揺らぎ果て、遂には離婚や別居生活へといたるなど、悲しい別れが訪れる。
 いわゆる中年時代の哀楽に立たされるわけである。
 会社の倒産で家庭生活が瓦解することもある。
 浪漫文学はその頃から真価を発揮する。
 母子、父子、老父母、事故や病気、などなど綯い交ぜで、かてて加えて転職転住、入院、ハウスローンの不払い等々、誰にも吐露できない懊悩が日日の生活に及んでくる。感情的な縺れも複雑にからんで、投げ出したい心境にまで至ることも。
 これを書きとめるのが文学の神髄であるが、浪漫文学もその一端を担っていると筆者は考える。
 すなわち、世代により、環境により、浪漫文学が対面する問題も色合いを異にするのである。
 また若い頃には当然であった健康状態も長年の疲労の蓄積で失われると、この先、妻子や老父母をどう養うか、長女の結婚、長男の家を継がせる話など、自分の判断通りにはやり難い問題まで、抱え込むことになる。内面は穏やかに波打つ状態でも、徐々に迫る瓦解や決別が脳裏を掠めると、不幸という二文字に苦しむこともしばしばとなる。
 浪漫文学では多重多彩な懊悩を書き留めることになる。
 
3.自然主義は立派な浪漫を表出していた
 
 浪漫に取って代わった自然主義はリアリズムの奔りと見做されたが、そこには多々浪漫調の要素を維持していた。
 例えばドライサーの『シスター・キャリー』(1900)であるが、この、所帯持ちの男と田舎出のキャリーとの恋はやがて遁走状態となり、遂には男が浮浪者となる。キャリーだけが幸せを得る。原作ではキャリーの身勝手な振る舞いを批判的に描いているが、映像作品では両者が相愛の状態のまま、成功者と落ちぶれ者とに分かれ、その悲哀をたっぷり描いて観衆の心に迫る。
 日本文学では山本有三の『波』{1923}がそうである。この作品は人間を運命の操るままに描いている。外的な事情、例えば偶然遭った先生と生徒、偶然生じた出産と外部の男、遺伝、離合集散など、人生を変貌させる要素は多々外部にある。これは自然主義の典型的姿であるが、登場人物たちの内奥は実に奥深く、人生とはかくありなんと思える要素が多い。
 
4.浪漫文学は生と性と人間を描く
 
 浪漫といえば、ロマンティックな想念を連想する。
 だが、若くなくてよい。恋をしていなくともよい。
 ただ愛や情感を豊かに、情深く、信頼関係をもって接する人間関係を描きたい。
 とかく当節の世は不信感に満ちている。
 矛盾撞着以前の問題として、不信感をもって相手を見る癖があれば、厚意であっても疑念を持つ。こんな人間関係では、自らも猜疑心の虜になり、自分の為に尽くしてくれても素直にうけとめられない。年齢を経ると、とかく猜疑心だらけとなって、どんな厚意も詐欺的行為に見えてくる。すると、もはや信じるに値する人はいなくなり、気がつくと孤独に陥る。孤独は自分で作る環境である。
 
 浪漫文学は個人に忍び寄る孤独感を除去する暖か味をもつ。
 心に浪漫があれば幸せなり。
 かつて、筆者の世界にはこんな麗しき女性あり。
 この女性は生き永らえれば御年桃歳か。かぼそき指の腹で筆者の心の臓に触れるがごときジェスチャーで、こう詠んだ、
 
  卆寿なれど我が血脈は確かなり
    触れて詩を書く 浄土の春まで 秀
 
 先にも言ったが、醍醐寺の学頭斎藤明道師は我が短歌の師であるが、この、秀歌の主もまた、我が心の師にして、終生忘れ難き存在なり。桜花の下、改めて浪漫の昔日に想いを馳せ、合掌する。
 
          令和六年四月五日        成秋
「目黒川音頭」と「目黒川恋歌」  作詩 濱野成秋   2024.3.21
 
     序
 
 音頭は元来、世俗がむき出しで成った歌謡である。
 卑猥な風俗、隠さない心根さえも恥じらいも厭わずぶつけてこそ、本心で愛する音頭となると考える。本音をぶつけて何が悪いという開き直りには、苦労の毎日、失敗だらけの人生がむき出しの庶民には愛すべき笑いと哀しみの歌になっている。
 最近筆者は戦中戦後にかけて学者歌人として著名な川田順が昭和六年に出した満州訪問記とでもいうか、短歌集『かささぎ』を読みつ、自らも歌う掌編を書いた。少々硬直気味の心境が持続し、その直後の筆に成る。だから、「わたしゃ真室川の梅の花。あなたはこの町の鶯よ…と始まる「真室川音頭」に視る卑俗な「からみ」が色濃く滲む。
 川田の作風とはいかに異質か。冒頭にこうあり。
 
  大君おほぎみの遠の使つかひ寧楽人ならびと
     いはひて行きしあらきこの海
 
 筆者は抵抗を感じるも、素直に触発された風で、、
 
  奈良人の超えへし灘海なだみに乗り出でる
     おのが小袖に跳ねる荒波
 
 と詠む。恥ずるべくもない。千年の古代から数百年の近世に、寸時に跳んで、江戸期の、怪談めいた情話に浸るを愛でて俗謡を書くと次のように成った。
「目黒川音頭」   濱野成秋作詩
 
 目黒川には江戸期の、歌舞伎でも評判を取った鶴屋南北作の「白井権八と花魁こむらさき」の切ない情話が絡んで消えない。今人はこれを微塵も知らぬ。もったいないし赦せない。絶えた死霊に憑りつかれしは己が独りか、やるせない。筆者はゆえに、この情話に拘泥り、筆が進む。
 
☆壱番
スチャラカシャンシャン、……
スチャラカシャンシャン、……
咲いた咲いたよ 目黒の桜
逢うて嬉しや 人波小波
川のおもてに 頬くっつけて
いとし 恋しやお初の出逢い
交わす小指も夢ごこち
目黒音頭も夢心地、夢心地
ソレ!
目黒よいとこ 一度はおいで
誰に気兼ねも要るものか
ソレ!
目黒よいとこ 一度はおいで
可愛小袖に半幅帯で
ソレ!
 
 
大江戸恋しや 一度はおいで
此処は元禄 花見酒 花見酒
スチャラカシャンシャン、……
スチャラカシャンシャン、……
 
☆弐番
スチャラカシャンシャン、……
スチャラカシャンシャン、……
西の祇園は東の目黒
誰そ彼ぼんぼり 夜更けは錦
三味と太鼓に浮かれて酔うて
奴さん尻端折しりばしょ
きりりと締めて
粋な目くばせ
にっこり笑顔
ソレ
踊り明かそう
目黒の岸辺
恋の未練も尽きぬまで
ソレ!
 
 
踊り明かそう
目黒の出遭い
ソレ!
愛し恋しの
目黒川、目黒川
 
 
「目黒川恋歌」  作詩 濱野成秋
 
☆壱番
チントン、チレンツ、ツウンシャン
花は大江戸 目黒のさくら
小紫こむらさき待つ 愛しき街よ
川辺の春雨 寄り添う二人
腕に縋って しなだれ濡れて
けふもそぞろに 春雨しとど
濡れて渇ひて 渇ひてぬれて
雄蕊雌しべも 花魁おひらん橋も
春はめぐろよ ヤーレ 恋の街
チテチテ ツルーン、シャン
 
 
☆弐番
チントン、チレンツ、ツウンシャン
花は散りめ 葉桜愛い愛い
逢うて嬉しや 目黒の岸辺
月は木の間を ちらちらと
ほろ酔い 頬寄せ 今日もまた
おぼろ月夜の 逢う瀬の宿よ
でもなによそれ
ささの機嫌の 爪弾きみたい
権八のごと 手切れにするの
チテチテ ツルーン、シャン
チテチテ ツルーン、シャン
 
☆参番
女・遭へて嬉しや 三年ぶりね
男・目黒の川風 こごちよい
女・あらま独り身 お気の毒
女・私を探して毎日ここへ?
男・まるで権八 小紫こむらさき
女・そんなのいやよ 幸せ欲しい
女・目黒の川は幸せの
男・小笹舟おざさぶねを流す川
 
 
☆繰り返し
巡る弥生は 楽しみばかり
雄蕊雌しべも 花魁おひらん橋も
目黒に巡るよ 目黒に巡るよ
ヤーレ 恋の街
 
 
☆本作は2024.03.21に書き起こし同月28日に日本浪漫学会会員たちと回覧し目黒川花見の席にて披露発表に及んだ。当日の立会人は作曲家山川英毅(慶大哲学科よりボストン「バークリー音楽院」卒業)、同学会会員で大正大学英文学科卒業の閨秀詩人高鳥奈緒、まとめ役を同学会副会長河内裕二尚美大学准教授に依頼した。作詩は中央公論社や研究社での出版歴の多い警鐘作家濱野成秋。学生時代、目黒に居住し昔日の想い出とみに多し。制作時点で濱野成秋は日本浪漫学会の初代会長である。