人間は果たして賢い動物だろうか
   慶應義塾大学名誉教授 本学会最高顧問 鈴木孝夫
 
 私たち人間という動物がいま、学術上ホモ・サピエンスという学名でよばれていることは多くの人が知っていると思います。ホモとはラテン語で「人」を意味する言葉で、サピエンスは同じくラテン語の「賢い」という意味の形容詞です。
 この学名というものは、世界各地の生物を博物学や動植物学で扱う際に、同じもの、同一の対象を、言葉の違う国々の人々がそれぞれ異なる呼び方をしては混乱を招きかねないので、同じものに対してラテン語の単語をHomo sapiensのように二つ重ねてつけた、万国共通の名称のことをさします。
 はじめの大きなまとまりを表わすHomoの部分は属名と称され、次のサピエンスの部分は個別的特徴を表わす種小名といわれます。ホモが苗字でサピエンスがホモという家族の、個々の成員と考えれば分かりやすいでしょう。
 そしてこの学名にはどうしてラテン語が用いられるのかと言えば、それはこの二名法と呼ばれる命名法を考え出したスェーデンの博物学者カール・フォン・リンネが活躍した一八世紀のヨーロッパでは、まだラテン語がヨーロッパ全体で学問の共通語だったからです。
 ところが私は近頃になって、この人間に付けられたサピエンス、つまり「賢い」という意味の種小名は、どうも人間という動物の実態を正しく表していないのではないかとまじめに思うようになったのです。それはどうしてなのかを次に説明しましょう。
 そもそもリンネがなぜ人間に「賢い」という種小名をつけたのかは詳しくは分かっていませんが、キリスト教徒だったリンネは人間は神の姿に似せて創られた生き物、他のもろもろの動物とは、人間だけが言葉と知恵を授かっているという点で区別されるというキリスト教の教えを、当然のこととして受け入れていたと思います。人間は万物の霊長、つまり最も優れたものだという考え方が当時の西欧世界の人々の常識的前提としてあったからリンネはためらわずに人間の種小名をサピエンス、サピエンスすなわち「賢い」としたのだと思います。
 ところが何度もいうように、最近世界中でひっきりなしに起こる色々と深刻な被害をもたらす異常気象や大規模な砂漠化の進行、また水資源の広範囲にわたる劣化といった現象のほとんどが、人類のあまりにも度を超した経済活動の拡大と、それに伴う急激な人口増加に起因することが明らかになってきました。
 もしこのまま経済規模の野放図な拡大を放置しておけば、人間による環境の破壊が有限の地球の許容できる範囲をかなり近い将来に、様々な点で超えてしまうことはほぼ確実だと専門家たちは警鐘を鳴らしています。
 このことは一九七二年に、ローマクラブが指摘済みであるにも関わらず、アメリカ、ヨーロッパ、日本など、指導的働きをする先進国の政治家たちが依然として終わりのない右肩上がりの発展、経済規模の拡大をめざす。これではとうてい「ホモサピエンス」という種小名には相応しくありません。こう考えますと、この種小名を変えるか、種小名を変えずこの種小名に相応しい英知(wisdom)をもって根本的な発想の大転換を果たすか、あるいは、もうそろそろ、人間主導の時代を終えて他の動植物にその権限を委ねては如何かとさえ思うわけです。
 日本人には本来、森羅万象に八百万の神々が宿るとする信仰が根づいていましたが、これはけっして原始宗教として軽視されるべきものではなく、人間が現今のような驕り高ぶる存在とならず、他の動植物や山河を征服するのでなく、共に生きることこそが知恵だとする考えではあるまいか。
 本万葉集は時代色を大事にしていて、二十一世紀の異常な時代をそのまま写し出しながら、次世代や次々世代や、何百年先の後輩諸君にこのような問題に真剣に取り組む姿勢を示していることに注目されたい。