短歌詠草 令和二年二月十七日
             東京府中 河内裕二
 
近所の公園の光景もどこか生きづらい世の中に見えてくる。
梅雨時の南風を黒南風といふとか。
黒南風くろはえに蓮より落ちる水玉に
     揺られし水面鯉が顔出す  
 
 
暗闇に立つ一本の老木に思いを寄せて
五月さつきやみ空き家の庭の老木は
     過去見つむるや朽ち果つるまで  
 
 
濡羽色の鴉は死と再生のシンボルとされている。
路地裏に震えしこゑでなく鴉
     黒き瞳に空映りたり  
花の香りは昔の記憶を呼び戻す。
ジャスミンのかほり残して去りしきみ
     春にはわれを想ふならむや  
 
 
コロナ禍で使用禁止中のグランドを見つめ
雨上がり土の匂ひのグランドに
     若かりしわれ握りめし喰ふ  
 人間は果たして賢い動物だろうか
   慶應義塾大学名誉教授 本学会最高顧問 鈴木孝夫
 
 私たち人間という動物がいま、学術上ホモ・サピエンスという学名でよばれていることは多くの人が知っていると思います。ホモとはラテン語で「人」を意味する言葉で、サピエンスは同じくラテン語の「賢い」という意味の形容詞です。
 この学名というものは、世界各地の生物を博物学や動植物学で扱う際に、同じもの、同一の対象を、言葉の違う国々の人々がそれぞれ異なる呼び方をしては混乱を招きかねないので、同じものに対してラテン語の単語をHomo sapiensのように二つ重ねてつけた、万国共通の名称のことをさします。
 はじめの大きなまとまりを表わすHomoの部分は属名と称され、次のサピエンスの部分は個別的特徴を表わす種小名といわれます。ホモが苗字でサピエンスがホモという家族の、個々の成員と考えれば分かりやすいでしょう。
 そしてこの学名にはどうしてラテン語が用いられるのかと言えば、それはこの二名法と呼ばれる命名法を考え出したスェーデンの博物学者カール・フォン・リンネが活躍した一八世紀のヨーロッパでは、まだラテン語がヨーロッパ全体で学問の共通語だったからです。
 ところが私は近頃になって、この人間に付けられたサピエンス、つまり「賢い」という意味の種小名は、どうも人間という動物の実態を正しく表していないのではないかとまじめに思うようになったのです。それはどうしてなのかを次に説明しましょう。
 そもそもリンネがなぜ人間に「賢い」という種小名をつけたのかは詳しくは分かっていませんが、キリスト教徒だったリンネは人間は神の姿に似せて創られた生き物、他のもろもろの動物とは、人間だけが言葉と知恵を授かっているという点で区別されるというキリスト教の教えを、当然のこととして受け入れていたと思います。人間は万物の霊長、つまり最も優れたものだという考え方が当時の西欧世界の人々の常識的前提としてあったからリンネはためらわずに人間の種小名をサピエンス、サピエンスすなわち「賢い」としたのだと思います。
 ところが何度もいうように、最近世界中でひっきりなしに起こる色々と深刻な被害をもたらす異常気象や大規模な砂漠化の進行、また水資源の広範囲にわたる劣化といった現象のほとんどが、人類のあまりにも度を超した経済活動の拡大と、それに伴う急激な人口増加に起因することが明らかになってきました。
 もしこのまま経済規模の野放図な拡大を放置しておけば、人間による環境の破壊が有限の地球の許容できる範囲をかなり近い将来に、様々な点で超えてしまうことはほぼ確実だと専門家たちは警鐘を鳴らしています。
 このことは一九七二年に、ローマクラブが指摘済みであるにも関わらず、アメリカ、ヨーロッパ、日本など、指導的働きをする先進国の政治家たちが依然として終わりのない右肩上がりの発展、経済規模の拡大をめざす。これではとうてい「ホモサピエンス」という種小名には相応しくありません。こう考えますと、この種小名を変えるか、種小名を変えずこの種小名に相応しい英知(wisdom)をもって根本的な発想の大転換を果たすか、あるいは、もうそろそろ、人間主導の時代を終えて他の動植物にその権限を委ねては如何かとさえ思うわけです。
 日本人には本来、森羅万象に八百万の神々が宿るとする信仰が根づいていましたが、これはけっして原始宗教として軽視されるべきものではなく、人間が現今のような驕り高ぶる存在とならず、他の動植物や山河を征服するのでなく、共に生きることこそが知恵だとする考えではあるまいか。
 本万葉集は時代色を大事にしていて、二十一世紀の異常な時代をそのまま写し出しながら、次世代や次々世代や、何百年先の後輩諸君にこのような問題に真剣に取り組む姿勢を示していることに注目されたい。
 令和二年三月十八日
      東京府中 河内裕二
 
令和二年三月、山形の庄内に暮らす親友を訪ねた。その際に遊佐の吹
浦や鶴岡の羽黒山を巡る。吹浦西浜海岸の岩礁には二十二体の磨崖仏
があり、説明によれば、地元海善寺住職寛海が日本海で亡くなった漁
師の供養と海上安全を願って造仏し、明治四年に自らも守り仏となる
ため海に身を投じたといわれる。岩礁に立つと石仏の視線が一斉に自
分に向けられている。卑俗な自分を恥ながら静かに手を合わせた。遊
佐には出羽富士とも呼ばれる東北第二の高さを誇る鳥海山があり、そ
の雄大で秀麗な姿には神々しささえ感じられる。鶴岡の羽黒山には羽
黒山、月山、湯殿山の三山の神が合祀されており、三神合祭殿で三神
に拝礼した。信仰の地を巡り自分の未熟さを痛感する旅となった。庄
内では四首の歌を詠んだ。
 
波しぶく吹浦ふくらの磯の磨崖仏目前のわれに何思ふらむ
出羽富士の白き頂眺むれば貧しき心露わとなりぬ  
勇壮な出羽三山の神々よわれに与へよ生きる力を  
山あいの湯壺に浸かり貪欲を洗い落として友と語らふ  
庄内に住む友人とは彼が庄内に就職する前に東京で知り合った。私は
愛知県の知多半島にある田舎町の出身で、アメリカ文学を学ぶために
上京し、武蔵野の府中に住んでもう四半世紀が経つ。すでに故郷より
この町で暮らした年月の方が長くなっている。私はこの町が好きだ。
ただ時々ここが自分の居場所ではないと感じることもある。かといっ
て家族に会うために故郷に戻ってもそこが自分の居場所だとも思えな
い。東京では移り住んだ「よそ者」、故郷では「逃亡者」。何とも中
途半端で不安定だが、アメリカに移民した一世たちもこんな気持ちだっ
たのだろうか。今は故郷を想いながら、不安、孤独、迷い、いらだち、
虚しさを日々感じてこの町で生きている。この府中での生活を詠んだ
歌。以下はそれである。
 
とめどなく冷たき闇が絡みつく病むは世間かわが魂か  
荒天に風にあおられ河川敷水に流さむ弱き自分を  
わが命何を恐れる今更に線香花火玉膨らみて  
街灯の明かり滲んだ並木道暗闇空に蝙蝠の群れ  
自宅から駅に向かう途中にある交差点の片隅にいつも花が一輪置かれ
ている。ここで亡くなった方への献花なのだろう。ある時、仕事帰り
に雨も降っていたので急いで自宅に向かっていると、街灯に反射する
光が目に入った。見ると交差点の隅に献花の山ができていた。命日だっ
たのだろう。私も道路を渡って花の前に立ち静かに手を合わせた。亡
くなった方の性別も年齢も知らないが、これだけたくさんの花が供え
られているのだから、多くの人に愛された方だったのだろう。なぜそ
んな人が。私もこの道を通るのだから私がこうなっていても不思議で
はない。神様が私を選ばなかったのは何故か。降り出した雨は亡くなっ
た方の涙のように思えた。きっと花を持ってこられた人たちに会いた
いのだろう。せめてこの花は散らないでほしい。この方の分まで生き
なければいけないと思った。
 
雨もよに帰路を急ぎし十字路の静かに光る花な散りそね  
独り身は気楽でよいが、家には話し相手もいないし時々寂しくなるこ
ともある。そんなときには友人と食事をしたり、賑やかなところへ出
かけたりする。寂しさと違って孤独は厄介だ。家族といても友人とい
ても孤独感は消えるものではない。人間は本質的に孤独だと思うが、
一体どうすればよいのだろう。
 
多摩川の岸にたたずむ水鳥がわれに語りし君も独りか  
痛むひざかばひて登る石段にやおらころころ一粒の豆  
紅の梅の林に目もくれず帰宅する君スマホ片手に  
友撮りし写真のわれは楽しげとひとりアパートおでんつつきて  
 
私は海の近くで育った。海といえば夏の印象が強い。この頃は近所の
多摩川を散歩するぐらいで海に行くことも少なくなったが、冬の海を
眺めれば、思い出すのは恋人と過ごしたあの日のこと。
うたかたの君の笑顔と笑ひ声ひとりたたずむ厳冬の海  
冬の海山で育った君の手を引きて裸足で波に駆け出す  
交通や通信の発達で、最近は距離による物理的な隔絶はなくなり、そ
の気になればいつでも故郷に戻ることも連絡もできる。結局、故郷は
思う気持ちが重要であって、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思
ふものそして悲しくうたふもの」で始まる有名な「小景異情」の詩の
ように、上京した者は自分の居場所を求めて故郷と東京と思いが揺れ
動き続けるのだろう。私の場合は日常でふと意識が西へ向くと、いつ
も故郷を思い出す。西を向いた時に詠んだ歌を。
いざ行かむバス待つわれも西の地に夕焼け空に飛び立つ鳥と  
旅立ちに母にもらいしアンブレラ使うことなし眺めるばかりで  
夕闇の窓に映りしわれを見てむかしの父に見えた衝撃  
雨降るか天気予報で確認しなぜか目が行く故郷の天気  
 
幸いに私は東京でよき師やよき友に出会うことができた。両親も未だ
健在で、私もあと数年で五十路を迎える。孔子は四十にして惑わずと
言うが、未だに迷いばかりで、果たして五十にして天命を知ることが
できるのだろうか。日本には長い歴史とその中で育まれてきた豊かな
文化があり、先人から多くを学ぶことができる。私は最近になって短
歌の素晴らしさや楽しさを知った。わが師は文学とは生きることだと
仰る。私は生きるために歌を詠んでゆきたい。
 令和二年二月二十六日掲載(No.1926)
        濱野成秋
 
終戦の想い出(これはホームページ冒頭の一首のプロトタイプ)
いくさ敗れ父母哭き稚児の稲田里いま他人よそびとの我勝ちに住み
 
秋となり
稲束を潜り潜りて田螺たにしとり野井戸近きに母駆けつけて
 
冬となり
戦ひの過ぎにし朝の貧しけれ市にて交わす息凍りたる
 
栄養失調にて吾は幼時きわめて虚弱にて
われ七つ九つ十五も黄泉想ひいま八十路にてなほ先暗し
 
同年齢に他界した父の心知りたく思はれ
父君ちちぎみの遺せしノオト読みたしと書棚さぐれど指空しけり
 
戦跡後年父他界の年齢に達し三浦半島に住まいして近隣を訪ね
キャベツ畑巡り下りて洞穴の基地入り口にくさむらむら
箱根口の茶屋にてお茶事あり。青葉若葉の陽春なれど
わかの陽黒文字折りたる吾指に落つる病葉行く末語るや
箱根口嫩葉に集ふ同人の作る歓び尽きぬ語らひ
 
☆本日の締めとして本歌取りを追加いたします。
 
本歌(茂吉『白き山』より)
最上川みづ寒けれや岸べなる浅淀にしてはやの子も見ず
 
本歌取り(成秋)
最上川岸辺に凍る稚魚のかげ追へる吾身の行方しれずも
 
推薦歌
☆本学会はむやみにカタカナをつかうなどして奇をてらうを歓ばず、常に作者の真心の発露を歓ぶがゆえに、左記の歌を参考とされて作歌されたい。
 
ぬば玉のふくる夜床に目ざむればをなごきちがひの歌ふがきこゆ  茂吉
 
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる  茂吉
秀句二題
 
山路来てなにやらゆかしすみれ草  芭蕉
山路来て独りごというてゐた  山頭火
 
☆この二句を味読されて後に私の雛型エッセイ「山路来て二題」を読まれて参考にしてください。
 
助言・作歌について
本万葉集は時代色を大事にします。次に親子の心の結びつき、次に生死に対して真剣に取り組む姿勢を良しとします。そこに季節や自然の移り変わりの情景が描かれていればなおのこと結構に思います。成秋

2020.2.26

“山路来て”二題

会長 濱野成秋

2013年の頃か、私は京都外大で若者相手に俳句を二つ黒板に書いた。日本文化を紹介するアウトバウンド教育の一環である。

山路来てなにやらゆかしすみれ草 芭蕉

山路来て独りごというてゐた 山頭火

松尾芭蕉は江戸元禄期に活躍し、こんにちも俳聖として名高いので、君たちも高校時代に国語の時間に学んだはず。この句を知っている人は?

手を挙げさせると、25人クラスで、ほぼ全員が手を挙げた。

では山頭火を知ってる人? 手を挙げたのは8人。ほかにどんな句があるかい、言える人? だれも手が上がらない。

じゃあ、この山頭火ってどんな人か、もうちょっとでも知ってる人は?

何人かいた。入試の参考書に出てくるから覚えた程度である。そこで山頭火は山口県防府の人で造り酒屋の息子、早稲田を出て家業が順調なら家の跡継ぎをして裕福に暮らせたはず。だけど酒の醸造で失敗して腐らせ大きな借金を抱え、おまけに父親の乱行がたたって母親が家の井戸に入水自殺するという、たいへんな不幸に見舞われた。以来、家を出奔、乞食僧となって行脚、こんな、五七五もろくに揃わない俳句ばかりをつくって、生きるか死ぬるか、瀬戸際を歩いた人だ、と説明した。

さてそこで、君らに訊こう、この二句のどっちがいいかい? どっちに感動するかい?

手を挙げさせた。評価は? 半々ぐらい? ナナサンで芭蕉に? いやその反対?

読者諸君なら、どっちの方が感動的ですかね?

意外だった。京都外大の学生25名は全員、山頭火の句の方がはるかに感動的だというのだ。いや意外でないのかも。現在、山頭火の句碑は郷里近郊で90近くあり、全国では500基もある。日本人の感性にもっとも合うのは権威ぶらない山頭火だといわれる。

若者は正直だ。好ましい。俳聖だから立派だ、シェイクスピアだから立派だ、師匠の作だから優れている、などとはいわない。いい加減な大人はシェイクスピアがなぜ良いのか分からないが、それは多分、自分自身に理解力や感性が乏しいせいなのだと片付ける。それがいけない。われら令和オンライン万葉集の同人は感性で生きよう。山頭火の一句に、風の中おのれを責めつつ歩く、というのがあるが、筆者は幼少より毎日実行している。