2020.2.26

“山路来て”二題

会長 濱野成秋

2013年の頃か、私は京都外大で若者相手に俳句を二つ黒板に書いた。日本文化を紹介するアウトバウンド教育の一環である。

山路来てなにやらゆかしすみれ草 芭蕉

山路来て独りごというてゐた 山頭火

松尾芭蕉は江戸元禄期に活躍し、こんにちも俳聖として名高いので、君たちも高校時代に国語の時間に学んだはず。この句を知っている人は?

手を挙げさせると、25人クラスで、ほぼ全員が手を挙げた。

では山頭火を知ってる人? 手を挙げたのは8人。ほかにどんな句があるかい、言える人? だれも手が上がらない。

じゃあ、この山頭火ってどんな人か、もうちょっとでも知ってる人は?

何人かいた。入試の参考書に出てくるから覚えた程度である。そこで山頭火は山口県防府の人で造り酒屋の息子、早稲田を出て家業が順調なら家の跡継ぎをして裕福に暮らせたはず。だけど酒の醸造で失敗して腐らせ大きな借金を抱え、おまけに父親の乱行がたたって母親が家の井戸に入水自殺するという、たいへんな不幸に見舞われた。以来、家を出奔、乞食僧となって行脚、こんな、五七五もろくに揃わない俳句ばかりをつくって、生きるか死ぬるか、瀬戸際を歩いた人だ、と説明した。

さてそこで、君らに訊こう、この二句のどっちがいいかい? どっちに感動するかい?

手を挙げさせた。評価は? 半々ぐらい? ナナサンで芭蕉に? いやその反対?

読者諸君なら、どっちの方が感動的ですかね?

意外だった。京都外大の学生25名は全員、山頭火の句の方がはるかに感動的だというのだ。いや意外でないのかも。現在、山頭火の句碑は郷里近郊で90近くあり、全国では500基もある。日本人の感性にもっとも合うのは権威ぶらない山頭火だといわれる。

若者は正直だ。好ましい。俳聖だから立派だ、シェイクスピアだから立派だ、師匠の作だから優れている、などとはいわない。いい加減な大人はシェイクスピアがなぜ良いのか分からないが、それは多分、自分自身に理解力や感性が乏しいせいなのだと片付ける。それがいけない。われら令和オンライン万葉集の同人は感性で生きよう。山頭火の一句に、風の中おのれを責めつつ歩く、というのがあるが、筆者は幼少より毎日実行している。

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