日本浪漫歌壇 秋 霜月 令和六年十一月十六日
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
四年に一度と言えば、オリンピックを思い浮かべる人が多いだろう。今年はパリでオリンピックが開催された。最もメダルを獲得した国はアメリカ合衆国だったが、そのアメリカでは、オリンピックの年に四年に一度の大統領選挙が行われる。数日前に選挙結果が出て、次期大統領がドナルド・トランプ氏に決まった。大統領の任期は二期八年までだと知ってはいるが、返り咲きについては考えたことがなかったので、今回正直驚いた。調べてみると、過去にも一人だけ返り咲いた大統領がいた。第二十二代、第二十四代大統領を務めたスティーヴン・グロヴァー・クリーヴランドである。今から百三十二年前のことである。初めてではないにしても返り咲きは極めて珍しい。トランプ氏には、選挙集会中に起こった暗殺未遂事件でも驚かされた。彼が「型破り」な人物であることは間違いない。就任後は日本にどのような影響があるのだろうか。
歌会は十一月十六日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
亡き夫がみやげに買いしパナマ帽
野分立つ朝友かぶり来ぬ 由良子
作者は加藤由良子さん。亡くなった夫への深い愛情とその喪失感が、パナマ帽という具体的な物を通して見事に表現されている。しかもそのパナマ帽は夫が作者に買ってきたものではなく、土産として友人にあげたもので、友人はそれをずっと大切にしている。「野分立つ」とあるので、季節は秋から初冬ごろであろう。時期としてはパナマ帽には少し遅めかもしれないが、一日の始まりにそれを被って作者に会いに来た。帽子を見た作者は夫のいない のを寂しく感じたかもしれない。ただそれ以上に夫と友人との良きつながりに心が温まったので歌に詠まれたのだろう。
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
四年に一度と言えば、オリンピックを思い浮かべる人が多いだろう。今年はパリでオリンピックが開催された。最もメダルを獲得した国はアメリカ合衆国だったが、そのアメリカでは、オリンピックの年に四年に一度の大統領選挙が行われる。数日前に選挙結果が出て、次期大統領がドナルド・トランプ氏に決まった。大統領の任期は二期八年までだと知ってはいるが、返り咲きについては考えたことがなかったので、今回正直驚いた。調べてみると、過去にも一人だけ返り咲いた大統領がいた。第二十二代、第二十四代大統領を務めたスティーヴン・グロヴァー・クリーヴランドである。今から百三十二年前のことである。初めてではないにしても返り咲きは極めて珍しい。トランプ氏には、選挙集会中に起こった暗殺未遂事件でも驚かされた。彼が「型破り」な人物であることは間違いない。就任後は日本にどのような影響があるのだろうか。
歌会は十一月十六日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
亡き夫がみやげに買いしパナマ帽
野分立つ朝友かぶり来ぬ 由良子
作者は加藤由良子さん。亡くなった夫への深い愛情とその喪失感が、パナマ帽という具体的な物を通して見事に表現されている。しかもそのパナマ帽は夫が作者に買ってきたものではなく、土産として友人にあげたもので、友人はそれをずっと大切にしている。「野分立つ」とあるので、季節は秋から初冬ごろであろう。時期としてはパナマ帽には少し遅めかもしれないが、一日の始まりにそれを被って作者に会いに来た。帽子を見た作者は夫のいない のを寂しく感じたかもしれない。ただそれ以上に夫と友人との良きつながりに心が温まったので歌に詠まれたのだろう。
今年また好きな食材大根の
おろぬき貰い胡麻和えにして 光枝
作者は嘉山光枝さん。「おろぬき」とは大根の間引き菜のことで、作者は大根を栽培している農家さんから毎年いただくそうである。何気ない日常のご近所付き合いについて詠んでいるが、「好きな食材」のひと言があることで、贈り主と作者との温かい関係が示され、「今年また」とその関係がずっと続いていることもわかる。いただいた大根を食べることは、作者にとって、ささやかながら喜びや安らぎをもたらす。それに対して感謝する気持ちもよく伝わってくる。口語調の言葉を用いて歌全体が親しみやすい雰囲気になっているからであろう。台所で料理する姿や食卓で食べている姿が浮かんでくる。その胡麻和えは最高に美味しいに違いない。
何処より辿り着きしか流木の
木彫となりて展示待ちおり 和子
清水和子さんの歌。木彫の展示をご覧になった際に、流木を彫って作られた作品に目を引かれた。様々な場所を漂ってたどり着いた流木には、普通の木にはないドラマのようなものを感じて感慨深い気持ちになられたそうである。この歌は、流木がどこから来たのか、作品はどのような形だったのかなど直接的なことを読者に想像させると同時に、切り倒された木が、川や海など様々場所を漂い、やがて新たな命を吹き込まれるという流木が木彫になる過程が、人生の喩えではないかとも思わせる。言葉使いには古典的な美しさも備わっており、深い意味の込められた素晴らしい歌である。
ひとり去りふたり去りつの今日日なり
隙間埋め得る一興はありか 弘子
おろぬき貰い胡麻和えにして 光枝
作者は嘉山光枝さん。「おろぬき」とは大根の間引き菜のことで、作者は大根を栽培している農家さんから毎年いただくそうである。何気ない日常のご近所付き合いについて詠んでいるが、「好きな食材」のひと言があることで、贈り主と作者との温かい関係が示され、「今年また」とその関係がずっと続いていることもわかる。いただいた大根を食べることは、作者にとって、ささやかながら喜びや安らぎをもたらす。それに対して感謝する気持ちもよく伝わってくる。口語調の言葉を用いて歌全体が親しみやすい雰囲気になっているからであろう。台所で料理する姿や食卓で食べている姿が浮かんでくる。その胡麻和えは最高に美味しいに違いない。
何処より辿り着きしか流木の
木彫となりて展示待ちおり 和子
清水和子さんの歌。木彫の展示をご覧になった際に、流木を彫って作られた作品に目を引かれた。様々な場所を漂ってたどり着いた流木には、普通の木にはないドラマのようなものを感じて感慨深い気持ちになられたそうである。この歌は、流木がどこから来たのか、作品はどのような形だったのかなど直接的なことを読者に想像させると同時に、切り倒された木が、川や海など様々場所を漂い、やがて新たな命を吹き込まれるという流木が木彫になる過程が、人生の喩えではないかとも思わせる。言葉使いには古典的な美しさも備わっており、深い意味の込められた素晴らしい歌である。
ひとり去りふたり去りつの今日日なり
隙間埋め得る一興はありか 弘子
作者は嶋田弘子さん。寂寥感の漂う歌である。親しい方が亡くなられたり引っ越して行かれたりすることが続いたそうで、その寂しさや喪失感を詠まれた歌である。「一興はありか」という結句にどうしても目が行く。この問いには、見つけなければいけない、きっと見つかるという希望を失っていない作者の心の強さが表れているが、その問いは作者自身だけでなく読者にも投げかけられているようにも思え、果たして答えが見つかるのかという不安な心情もどこかにあるように伝わってくる。多くの人が共感できる歌である。
「ただいま」と大声出せば何となく
空気和らぐ一人暮らしの 員子
作者は羽床員子さん。シンプルな言葉で綴られているが、作者の心の動きが繊細に表現されている。「ただいま」は本来誰かに向かって発せられる言葉で、誰もいない所での「ただいま」は、寂しさや孤独感を際立たせるが、作者は長くコーラスをされていて、言葉を発することの不思議な力を実感されている。声を出すことで心が安らぎ温かい気持ちになって「空気和らぐ」のである。作者ならではの一首である。
コンビニでコロッケ買ひぬ店員は
「残り三つ」と答へる霜月 尚道
作者は三宅尚道さん。日常の一コマを切り取った簡潔な描写の中に多くの意味が凝縮されている。最後の「霜月」の一語でこの歌の物語は動き出す。もう冷え込む季節で、寒さの中、温かいコロッケを求めるという行為は身も心も温まりそうだが、情景を想像すると、温かい食べ物であるならば、おでんではなく、なぜコロッケなのか。さらに揚げ物であるなら唐揚げではなく、なぜコロッケなのかと疑問が浮かぶ。さらにコンビニは一人で立ち寄る人が多く皆無口で店内は静かだろうが、そこに響く「残り三つ」という店員の声の臨場感とその内容が売り切れをちらつかせて客の購買欲を煽るもので、そこで駆け引きが行われている。まるで寸劇を観ているようである。
「ただいま」と大声出せば何となく
空気和らぐ一人暮らしの 員子
作者は羽床員子さん。シンプルな言葉で綴られているが、作者の心の動きが繊細に表現されている。「ただいま」は本来誰かに向かって発せられる言葉で、誰もいない所での「ただいま」は、寂しさや孤独感を際立たせるが、作者は長くコーラスをされていて、言葉を発することの不思議な力を実感されている。声を出すことで心が安らぎ温かい気持ちになって「空気和らぐ」のである。作者ならではの一首である。
コンビニでコロッケ買ひぬ店員は
「残り三つ」と答へる霜月 尚道
作者は三宅尚道さん。日常の一コマを切り取った簡潔な描写の中に多くの意味が凝縮されている。最後の「霜月」の一語でこの歌の物語は動き出す。もう冷え込む季節で、寒さの中、温かいコロッケを求めるという行為は身も心も温まりそうだが、情景を想像すると、温かい食べ物であるならば、おでんではなく、なぜコロッケなのか。さらに揚げ物であるなら唐揚げではなく、なぜコロッケなのかと疑問が浮かぶ。さらにコンビニは一人で立ち寄る人が多く皆無口で店内は静かだろうが、そこに響く「残り三つ」という店員の声の臨場感とその内容が売り切れをちらつかせて客の購買欲を煽るもので、そこで駆け引きが行われている。まるで寸劇を観ているようである。
橘のかほりも嬉し明日香路は
亡き父母の魂も生き居て 成秋
濱野成秋会長の作。作者は美しい明日香の地で橘の香りを嗅いでいるうちに父母の魂がこの地に生きているような感覚に包まれている。橘の花の香り、明日香の風景、亡くなった両親の魂が美しく融合されていて読む人に深い感動を与える。この歌に対して言葉はいらない。作者の思いも含めて読めば全てが伝わってくる。
晩秋の風に舞ふ葉が音もなく
歩める道に影を映せり 裕二
作者の作。秋の終わりに道を歩いていて落ち葉が風に吹かれている光景を見て詠んだ歌である。ある一瞬を捉えているが、空間的、時間的な広がりを感じられるような言葉を選択している。さらに読者によっては、風景描写が比喩であるようにも思えるように、多様な解釈が可能な歌に詠んだ。
今回、会話文を用いた歌が二首あった。会話を入れると歌に臨場感が出る。会話によって口語的になることで、表現も直接的で身近な感じになる。しかし三宅さんの歌は違った印象を受けた。語彙は口語的であるが、文法は文語的とでも言えばよいだろうか、普段の会話では決して使わない表現で、その口語と文語が混じった感じが、日常の象徴とも言えるコンビニを舞台にする歌に不思議な雰囲気を与えている。筆者は歌で会話文を使ったことがないが、その理由の一つは会話を取り入れると長くなり、限られた文字数で表現できないからである。三宅さんのような口語と文語の混合の形にすれば、あるいは会話文を使って自分の伝えたい内容をこれまでにない表現で伝えられるのかもしれない。
亡き父母の魂も生き居て 成秋
濱野成秋会長の作。作者は美しい明日香の地で橘の香りを嗅いでいるうちに父母の魂がこの地に生きているような感覚に包まれている。橘の花の香り、明日香の風景、亡くなった両親の魂が美しく融合されていて読む人に深い感動を与える。この歌に対して言葉はいらない。作者の思いも含めて読めば全てが伝わってくる。
晩秋の風に舞ふ葉が音もなく
歩める道に影を映せり 裕二
作者の作。秋の終わりに道を歩いていて落ち葉が風に吹かれている光景を見て詠んだ歌である。ある一瞬を捉えているが、空間的、時間的な広がりを感じられるような言葉を選択している。さらに読者によっては、風景描写が比喩であるようにも思えるように、多様な解釈が可能な歌に詠んだ。
今回、会話文を用いた歌が二首あった。会話を入れると歌に臨場感が出る。会話によって口語的になることで、表現も直接的で身近な感じになる。しかし三宅さんの歌は違った印象を受けた。語彙は口語的であるが、文法は文語的とでも言えばよいだろうか、普段の会話では決して使わない表現で、その口語と文語が混じった感じが、日常の象徴とも言えるコンビニを舞台にする歌に不思議な雰囲気を与えている。筆者は歌で会話文を使ったことがないが、その理由の一つは会話を取り入れると長くなり、限られた文字数で表現できないからである。三宅さんのような口語と文語の混合の形にすれば、あるいは会話文を使って自分の伝えたい内容をこれまでにない表現で伝えられるのかもしれない。