良寛の相聞歌
                     日本浪漫学会副会長 河内裕二
 
  一 歌人良寛
 
 良寛(一七五八ー一八三一)は江戸時代後期の禅僧で、優れた書家、詩人、歌人でもあった。生涯寺を持たず簡素な草庵に住み、托鉢僧として清貧生活を送った。托鉢中に子供たちに出会うと、毬つきやかくれんぼをして一緒に遊んだ逸話はよく知られている。
 良寛は一七五八年越後出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)の名主兼神官の山本家に長男として生まれた。幼名は栄蔵といい、内向的な性格の学問好きな読書子であった。十三歳になると親元を離れて地蔵堂(現在の燕市)の三峰館に通い、北越四大儒といわれた大森子陽に学ぶ。十七歳で家督を継ぐべく出雲崎に戻り名主見習役に就くも、翌年家を出奔し、隣村の曹洞宗光照寺で仏門に入る。出家の理由は明らかになっていない。二十二歳からは備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の曹洞宗円通寺で十二年にわたり厳しい修行に励む。『定本良寛全集』の編者松本市壽によると、良寛はこの円通寺の修業時代に歌人でもあった国仙和尚から手ほどきを受けて和歌に目覚めている。残念なことに円通寺時代の歌は現存しない。
 良寛の歌の特徴は万葉調であると言われる。しかし初期の歌には三代集や『新古今和歌集』の影響が多く見られる。例えば一七九二年頃の初期作とされる次の歌は『古今集』や『新古今集』の歌の本歌取りである。
 
  あしびきの黒坂山の木の間より漏りくる月の影のさやけき 良寛
 
 元歌は次の三首と考えられる。
 「木の間より漏りくる月の影見れば心尽くしの秋は来にけり」  (よみ人しらず『古今集』秋上・一八四)
 「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」 (左京大夫顕輔『新古今集』秋・四一三)
 「もみぢ葉を何惜しみけむ木の間より洩りくる月は今宵こそ見れ」(中務卿具平親王『新古今集』冬・五九二)
 良寛の時代には、歌壇の主流は堂上派と呼ばれる細川幽斎以来の古今伝授を受け継ぐ公家歌人系の流派だった。良寛も当初は堂上風の歌を作っていたのである。師匠の国仙和尚もそうであった。
 良寛の歌風の変化について、吉野秀雄は『良寛歌集』(一九九二)で次のように述べている。
 彼の歌の発足は三代集からはじまったが、しかし彼は平安朝以降の歌の理智的な虚飾を好む道理のない人であった。彼はさういふものに満足しきれず、いつしか彼自身の歌魂を養ひ、いつしか彼自身の歌調を整へてゐた。それがおのづから万葉集と合致し、一層の深化を遂げていった。(三四)
 古今調から万葉調に、即ち技巧的で観念的なものから直截的で素朴なものに良寛の歌は変わっていくのである。
 
  二 心うごけば歌生まれる
 
 良寛には嫌うものが三つあった。書家の書、歌詠みの歌、題を出して歌を詠むことの三つである。良寛と交流のあった解良栄重がそれを師の語録として『良寛禅師奇話』(一九七〇)に書き残している。三つのうちの「題を出して歌を詠むこと」は「料理屋の料理」に置き換えられる場合もある。北大路魯山人のエッセイ「料理芝居」では、三つ目が「料理屋の料理」として話が展開する。実際に良寛には題詠は一首もないので「題を出して歌を詠むこと」を嫌うのは納得だが、「書家の書」や「歌詠みの歌」についてはおそらく自戒も込められているのだろう。松本市壽は、良寛が「歌詠みの歌」を嫌ったのは、職業的技巧を駆使した退嬰的な詠歌を否定し、率直で自然な感情の流儀をよしとしたからであるとする。(八)
 良寛には「歌の辞」と題した歌論がある。そこで歌について次のように述べる。渡辺秀英著『良寛歌集』(一七七九)より引用する。
 
 人の心のうごく心のはしばしを文字にあわせて、心やりにうたふものなり。近くいはば、泣くは歌なり、笑うは歌なり。歌の心とて別にあるものにあらず。(一)
さらにこうも述べる。今の世の人もなどか歌なからんや。かしこきおろかなるをとはず、都ひなをわかたず、朝夕ものにふれ、心のうごくところみな歌なり。(一)
 歌とはその人の心であり、心のうごくところに歌がある。もしそうであれば、良寛の最晩年に注目したくなる。良寛は亡くなる前の四年間、一人の女性と心を通わせる。最期もその女性に看取られている。女性の名は貞心(ていしん)尼(に)(一七九八ー一八七二)といい、四十歳年下の尼僧である。彼女との交流が彼の人生最後に彩りを加えた。貞心尼はどのような人物か。
 貞心尼は長岡藩士奥村五兵衛の娘に生まれた。十七歳で医師に嫁ぐが五年で離別する。柏崎の閻(えん)王寺(のうじ)で剃髪し尼僧生活に入り二十九歳まで修行する。一八二六年に福島(長岡市福島)の閻魔堂に移ると、面識のなかった良寛を訪ねる。歌や仏法を学ぶためである。良寛は農民から有力者まで幅広い人々からその深い学識や芸術的才能で敬仰され、子供たちにも人気があった。良寛の高徳な評判は貞心尼の耳にも入っていたと言われる。貞心尼はどうしても良寛から教えを請いたかった。彼の気を引くために自作の手鞠や和歌も持参し、身を寄せていた木村家を訪ねた。不運にも良寛は不在で、仕方なく手鞠と和歌を残し帰路に就く。
 しばらくして木村家に戻った良寛は、貞心尼の歌に感心し、返歌を送る。その歌には、学ぶことを認めるとの意味を込めて、手鞠をつくと弟子として自分につくという掛詞が含まれていた。貞心尼の願いは叶い、その師弟関係は良寛の遷化まで四年にわたって続く。
 貞心尼は才媛でさらに美貌であった。良寛の前に現れたとき、良寛は六十九歳、貞心尼は二十九歳だった。親子どころか孫ほども年は離れていたが、ふたりには恋愛感情が芽生え、交わす歌は相聞歌となった。その歌は、良寛の寂後に貞心尼が編纂した歌集『はちすの露』(一八三五)の唱和編に収められる。
 
  三 『はちすの露』
 
 歌集『はちすの露』唱和編には、良寛三十首、貞心尼二十三首の贈答歌が収録されている。その中のいくつかに目を向けたい。まず初対面での歌である。
 
    はじめてあひ見奉りて                      貞
  君にかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬ夢かとぞ思ふ
    御かへし                            師
  夢の世にかつまどろみてゆめを又かたるも夢もそれがまにまに
 
    いとねもごろなる道のものがたりに夜もふけぬれば         師
  白たへのころもでさむし秋の夜の月なかぞらにすみわたるかも
 
    されどなほあかぬこゝちして                   貞
  向ひゐて千代も八千代も見てしがな空ゆく月のこと問はずとも
 
    御かへし                            師
  心さへかはらざりせばはふつたのたえずむかはむ千代も八千代も
 
 待ち望んだ良寛との出会いを果たした貞心尼の気持ちは燃え上がる。夢のようで信じられないと感情を高ぶらせる貞心尼に、良寛は、儚いこの世は成り行きにまかせましょうと高ぶる気持ちを包み込むような歌を贈る。話が弾んで時間が経ち夜も更けてきたので良寛が中天に昇る秋の月を詠んでやんわりと帰宅を促すと、貞心尼はまだ話を聞きたい気分だと言って、このまま何千年もずっと師と向かい合っていたいのに、月のことなどどうでもよいではありませんかと返す。あまりに率直で素直な気持ちをぶつけられ、押され気味の良寛もそれに応えて、あなたの心さえ変わらないのならいつまでも向かい合っていますよと返す。
 次は二度目に会ったときの歌である。良寛から詠歌。
 
    ほどへてみ消息給はりけるなかに                 師
  君や忘る道やかくるゝこのごろは待てどくらせど音づれもなき
 
    御かへしたてまつるとて                     貞
  ことしげきむぐらのいほにとぢられて身をば心にまかせざりけり
 良寛が貞心尼に訪問を促す。待っていても一向に貞心尼が来ないため痺れを切らしている。前回とは逆に良寛の方が前のめりになり、やや非難めいた歌を詠む。それに対して貞心尼は、忙しくて行けなかったと連れない回答の歌を返す。本の構成では、この唱和の前は、前回の別れ際に再会の約束をする歌である。この歌集の歌は間違いなくどれも本人の作だろうが、歌の選択や掲載の順番は著者の貞心尼次第である。そこには何らかの意図が働く。二度目では相手に対する熱量が前回と反転する。その意図は何か。良寛と貞心尼は、片や功成り名を遂げた高僧、片や名も無い若い尼僧である。しかし恋愛においては年齢や立場などは関係ないと伝えたいのだろう。唱和編全体で見ると、貞心尼の視点で書かれているからか良寛の方が貞心尼をより相手を求めている印象を受ける。
 次の四首は良寛が与板の里に遊んだ際の歌である。与板は良寛の父親の故郷で現在は弟もそこにいる。良寛が与板に来ると聞きつけて貞心尼が急いで会いに来る。良寛は別れを惜しんだ里の人々と話をしていた。良寛の姿を見つけた貞心尼は、日焼けした黒い肌に黒染めの法衣の良寛に「これからは烏さん」と呼びますよと言うと「それはふさわしい名前だ」と笑う。
 
  いづこへも立ちてを行かむ明日よりはからすてふ名を人の付くれば
 
    とのたまひければ                        貞
  山がらす里にいゆかば子がらすも誘ひて行け羽ねよわくとも
 
    御かへし                            師
  誘ひて行かば行かめど人の見てあやしめ見らばいかにしてまし
 
    御かへし                            貞
  鳶はとび雀はすずめ鷺はさぎ烏はからす何かあやしき
 良寛が、烏いう名をつけてくれたので明日からはどこへでも飛び立って行きましょうと詠む。それを受けて貞心尼も烏の歌を返す。山烏の師匠が里に行くのならば、子烏の私も誘ってください。子烏ですから羽は弱く足手まといになりましても、と詠めば、これまでの烏の話はどこへやら良寛は素に戻り、あなたを誘って行くのであればそれでもよいが、他の人が私たちを見て変に思ったらどうしましょうと返してくる。貞心尼は、鳶は鳶同士、雀は雀同士、鷺は鷺同士、烏は烏同士が連れだって何が変なのですかときっぱり言って返す。周りを気にする男とお構いなしの肝の据わった女。何だか現在の若者カップルのデート風景と見紛いそうだが、冷静に考えてみると、江戸時代に田舎で黒い法衣を身に纏った老僧と若い尼僧が仲睦まじく行動していれば相当に目立つ。間違いなく好奇な目で見られ、話題にもなる。現代の感覚からすれば微笑ましい光景だが、時代を考えると貞心尼はかなり大胆な女性である。
 歌集『はちすの露』にはこのような相聞歌と弟由之(よしゆき)との歌が収められているが、終盤になると、老齢の良寛の体調が悪化し、一気に緊張感が増す。病気で貞心尼との約束も果たせなくなる。秋が過ぎ、冬になっても体調は快復しない。越後の冬は厳しい。貞心尼が励ましの歌を贈ると、しばらくして「暖かい春になったらあなたに会いたいので庵を出て私の所に来てほしい」との返歌が届く。快復を祈っていると、突然、病気が重くなったとの連絡が舞い込む。急いで良寛の元に駆けつける。幸いにも状態は落ち着いていて病床で良寛はこの歌を詠む。
 
  いついつとまちにし人は來りけり今はあひ見て何かおもはむ
 
 いつ来るかと持っていた人がとうとうやって来た、今は会うことができてもう思い残すことはない。良寛が病床で詠んだこの歌に貞心尼はどのような気持ちになったのだろうか。消えそうになる命の炎を、愛する人が来るまでは消してなるものかと燃やし続け、何も飾らず何も加えず心にあるものを愛する人に伝える。もう複雑なことは考えられない。心に残るのはシンプルなことで、それが歌になる。歌はその人の心である。貞心尼はもうずっと良寛の傍にいる。
 いよいよ最後の場面である。
                                    貞
  生き死にの界はなれて住む身にもさらぬわかれのあるぞ悲しき
 
 貞心尼からの最後の歌である。別れの悲しみを詠うのに、どこか淡々としていて作者の感情の表出が感じられない。愛する者との別れがいよいよとなってこの落ち着きは、生死を超えて仏に仕える身であるからだろうか。あるいは感情を押し殺した理性的な歌にすることで、良寛の心を刺激せず穏やかな気持ちで静かに逝ってほしいという優しさなのだろうか。
 
    御かへし                            貞
  うらを見せおもてを見せてちるもみぢ
  こは御みづからのにはあらねど、時にとりあへ玉ふ、いとたふとし。
 
 『はちすの露』ではこれが良寛の辞世の句とされている。貞心尼への返句だが、もう書く力は残っていないため、最後の力を振り絞って言葉を口にする。
紅葉の葉が散るように、自分も裏も表もすべて見せて生きて、いま死んでゆくといった意味だろう。この句は良寛の作ではないが、この場での気持ちを述べられた尊い言葉とされる。表というのは僧侶良寛で、裏というのは貞心尼を愛したような人間良寛を表すのだろう。順番が裏からなのも元の句がそうだからと言わずに、良寛の思いからだと考えたい。
 『和歌文学大系七四』(二〇〇七)には「良寛は一首を詠めないほど衰弱しているので木因の句を貞心尼に示した」とある。その言及のように元句は美濃の俳人谷木因が詠んだ「裏ちりつ表を散つ紅葉哉」である。
  四 おわりに
 
 人の出会いは不思議である。わずか四年でも良寛の人生に貞心尼が現れなければ、後世の人々は、良寛の相聞歌を読むことはできなかった。貞心尼との交流で相聞歌が生まれ、貞心尼も歌人であったことでそれを歌集として残すことができた。これは間違いなく貞心尼の功績であるが、しかし同時に彼女にそうさせる人物だった良寛の功績でもある。つまりこのふたりでなくてはならなかった。
 文学者で良寛研究者としても有名な相馬御風(一八八三―一九五〇)は、ふたりの愛について、師弟の愛よりは深く、肉親の愛よりは強く、恋人の愛よりは浄い、一種不思議な聖愛だと説明する。一方で、巷ではふたりに男女関係があったのかに関心が集まるようだが、文学者や歌人にとっては、その読み方が同じであることが示すかように「聖愛」でも「性愛」でもどちらでもよい。重要なのは文学における事実であり、作品の世界に飛び込んで自分にとっての事実を探すのである。
 良寛は、歌とはその人の心だと言った。歌を読むこととは、歌に宿る作者の心に触れ、自らの心を震わせることだろう。良寛の相聞歌を読んで心が震えないはずがない。
 
参考文献
伊藤宏見 『良寛の歌と貞心尼』 新人物往来社 一九九二
上田三四二『良寛の歌ごころ』 考古堂書店 二〇〇六
大島花束 『良寛全集』 岩波書店 二〇〇一
北側省一 『良寛をめぐる女人たち』 考古堂 一九八九
解良栄重 『良寛禅師奇話』 野島出版 一九七〇
相馬御風 『大愚良寛』 考古堂書店 一九七四
相馬御風 『復刻良寛と貞心』 考古堂書店 一九九一
東郷豊治 『良寛全集 下巻』 東京創元社 一九八四
松本市壽編『定本良寛全集』 中央公論新社 二〇〇六
吉野秀雄 『良寛歌集』(東洋文庫午五五六) 平凡社 一九九二
渡辺秀英 『良寛歌集』 ‎木耳社 一九七九