=ホレホレ節を中心として=

河合洋人

はじめに

初期ハワイ日本人移民時代の文化活動を伝えるものは少ない。1885年から1894年までに日布政府間で取り決められた移民協定に従いハワイに日本人が移民したいわゆる官約移民時代、日本人移民の主たる目的は出稼ぎであった。三年間の労働契約を終えて大金を携えて帰国し、故郷に錦を飾ることが最大のロマンでもあった。

ハワイにおける労働条件は決して緩やかではなく、飲酒や賭博で困窮する者も多かった。また絵画や音楽といった芸術活動にいそしむ暇はほとんど存在しなかった。その長い労働時間の合間を縫うように自然発生的に生まれたものがホレホレ節である。

ホレホレ節は労働の辛さにプラスして日々の不安、焦燥、絶望に混在する投げやりな人生観そのものでもあった。歌で焦燥感を紛らわす。もしくは生活の困窮からくる虚しさを紛らわす目的で歌われた。彼ら日本人労働者は故郷に送金をするために生活はできる限り切りつめる必要があった。したがって給料から生活費や衣料費を引くと残るははした金程度であった。彼らは日々の労働の辛さを忘れるため、またやるせない自らの境遇を慰めるために日々の思いを綴った詩を作り、それを故郷に古くから伝わる歌に乗せて歌ったのであった。

ホレホレ節を長年研究されていた人物としてはジャック・田坂養民氏が挙げられる。(1)田坂は彼の著書「ホレホレ・ソング」内にて「ハワイ各島の砂糖耕地に入植した日本人移民が、望郷の念に燃えながら、炎天下での長時間労働の辛さや日常生活の苦しみの中に一抹の希望を求め、切ない心を慰めるために歌ったのがホレホレ節である。」と述べている。(田坂 62)また元『ハワイ報知』編集局長森田利秋も「自分らの苦しさや哀しみを、せめて歌に託して訴えたいという願いという願いが結集して、自然発生的に生まれたのが、この歌である。」と述べている。ホレホレ節は当時のハワイ日本人移民が如何に過酷な環境での労働と生活を余儀なくされていたかを鮮明に反映している。

1.苦悩と浪漫の交錯

本稿ではハワイ日本人移民の間で歌われていた労働歌に着目し、その歌詞に見られる言葉から当時の日本人移民たちの生活環境及び労働環境を改めて考察する。また彼らがハワイにおける自らの境遇をどのように捉えていたのか、ロマンチシズムの観点からも推察する。具体的にはホレホレ節の歌詞に出てくる言葉とその組み合わせから当時の人々の暮らしを推察する。

官約移民として日本人がハワイに渡った時代、彼ら移民者の主たる仕事は耕地におけるサトウキビ栽培であった。(2-1) 当時のハワイにおける主力輸出商品はこのサトウキビを原料とする砂糖であった。現地では常にプランテーションの労働力不足の問題に頭を悩ませていた。初期のプランテーションの労働者は原住民が主であった。しかし彼らは外国人が持ち込んだとされる伝染病に対する免疫を持たず、結果として労働力人口は減少の一途を辿っていった。

この問題を解決するため、ハワイ政府とプランターたちは外国から移民を労働力として呼び寄せた。と同時に彼らは労働者の団結を防ぐために複数の出身国からなる労働者集団を設けて同一プランテーション内にて作業をさせた。労働者は名前ではなく番号で管理され、少しでも集合時間に遅れたものは賃金を減額されるなど厳しい労働環境であった。(2-2) ここに「苦悩」と「浪漫」の交錯した日々が生まれる。

2.労働歌に見られる日々の重圧と希望憧憬の日々

“ホレホレ”とはハワイ語であり、サトウキビの茎についた枯れ葉をむしり取る作業を指している。この仕事は女性や子供が担当することが多かった。しかしながらサトウキビの葉には細かい無数のとげが付随しているので、それに皮膚を刺され大変な水ぶくれができてしまう労働者も多かった。またホレホレ作業は高い背丈のサトウキビに囲まれながら日中、炎天下に行われた。つまり、労働者は熱気と無風の中で作業を行っていた。以上の点からもホレホレ節は単純労働の辛さをうたうことで忘れるために作られた、労働歌の一種と考えることができる。

しかしながら時代が進んでくると彼らの主たる職業は変化した。1910年頃から日本人移民の中で、耕地労働をやめホノルルなどの市内で自分の店を持つものやその他の肉体的負担が軽い仕事に就くものが増えた。ホレホレ節は耕地労働の過酷さを紛らわせるためではなく、むしろ料亭などでお座敷唄の代わりに歌われることが多くなった。日本人移民はかつて自らが耐え抜いた耕地労働を思い出しながら現在に成功と発展を祝う気持ちでホレホレ節を歌った。田坂はこの時からホレホレ節のテンポもゆるやかな追分調からはやしを伴ったにぎやかで速い調子のお座敷唄へと変化したと考えている。(田坂 135)

3.ホレホレ節の多様性

ホレホレ節のルーツについては諸説ある。田坂によると瀬戸内海の魯(船頭)歌に端を発するとされるが、その理由としては初期移民者の大半が瀬戸内海沿岸部の出身者である事が挙げられている。(3) つまり日本人移民が故郷でよく歌われていた俗歌をハワイに持ち込み、それに現地語(ハワイ語)、英語、日本語(方言含む)を歌詞に用いた。(4)

「ホレホレ節」の歌詞に目を向けると、いくつか特徴が見受けられる。まず別地方の労働歌と酷似する歌詞を持つものが複数みられる。(田坂 48)また歌詞のほとんどの句形が七七七五の調子でそろっており、これは所謂「都都逸」と同じ句形である。官約移民が始まる1885年に日本国内で都都逸が流行しており、移民者の中にも都都逸になじみ深いものが存在したからと考えられている。都都逸自体が当時の庶民の赤裸々な生活事情を反映するという性質を持つので、ホレホレ節はハワイにおける都都逸であると考えられる。(田坂 143)

以下はホレホレ節の歌詞に含まれる言葉を由来に傾向を分類したものである。

⑴ “ホレホレ” “カチケン” “ホウハナメン”など、耕地労働に由来する歌詞にみる「苦悩」と「浪漫」

日本人移民は週6日、朝6時から午後16時30分までの凡そ10時間もの間労働を命じられていた。(5) 彼らは必然的に仕事中心の生活を強いられた。休息のため、あるいは心の安寧のためにホレホレ節を歌うため、仕事終わりのわずかな時間にギターやウクレレを手にしたものもいた。故郷で聞いたハワイの様相は楽園さながらで、3年働けば400円携えて帰国できるという話にみな心躍った。この額は当時の女工が絹工場で10年間毎日働いて稼ぐ金額に等しかった。(タカキ 65) そのような噂にそそのかされて移民船に乗った移民者も多かった。しかし実際のハワイは聞いた話とは全く異なった点も多かった。特に労働環境の齟齬が大きかった。日本では個人の裁量で仕事をこなす配分を選択でき、労働者は好きな時に手を止め、腰を下ろすことが出来た。対してハワイでは所定の労働時間内はほとんど休憩をすることは認められなかった。このような仕事観の違いもあり、ハワイにきたことを後悔する移民も多く発生した。

⑵ 移民の生活環境を描写する歌詞と浪漫

初期日本人移民の暮らしは前述のとおり非常に切り詰めたものであった。衣食住が保証されるとの雇い主の文句を信じてハワイに渡ってきた彼らであったが、その現実は理想とは程遠いものであった。食事は生命を維持できる程度のものしか供給されず、自腹を切って自身の食料を調達する必要があった。また衣服も作業着以外の服は自前で購入する必要があり、それも家計を圧迫した。出費を限界まで抑えるために麻袋に切れ込みを入れたものを頭からかぶって服代わりにする者もいた。

⑶ “カネ” “ワヒネ”など、夫婦生活面で用いられる歌詞

日本人移民の大半は自らの配偶者を日本から呼び寄せた。当時の移民者の男女比率には偏りがあり、男余りであったからである。(6) 写真花嫁と呼ばれるこの呼び寄せ型の婚姻は、相手の容姿を確認するための写真が一枚と、人物のパーソナリティ、相手に求める条件のみが書かれた手紙をもって縁談が進められた。また、写真は幾人かの候補者にたらいまわしにされて数年が経過することも多くあった。そのため彼らは港で初めて相手の真の姿を確認するのであった。そうした結果、思い描いていた人物とは程遠い相手の姿に落胆、憤慨する者もいた。

⑷ その他、苦悩と交錯する浪漫の発現

以下は特徴ごとにホレホレ節を分類し、その背景を交えながら日本人移民の苦悩や郷愁、その他ロマンチシズムにつながる内容について考察したものである。

① 耕地労働に関係する言葉が存在するホレホレ節
   つらいホレホレ こらえてするよ 故郷にゃ女房や 子までいる
   今日のホレホレ つらくはないよ 昨日届いた 里だより

“ホレホレ”とは前述のとおりの葉むしり作業のことである。しかし同時に炎天下の中で無数のとげに皮膚を貫かれながら行う過酷な作業でもあった。彼ら労働者は作業の手を途中で止めることは許されなかったが、日本から定期船が来た時だけは別だった。作業中は水を飲むことや休憩のために腰を下ろすことも許されなかった彼ら移民者にとって、定期船は文字通り助け舟であったことは、想像に難くない。(7)

ハー 朝も早よからヨー べんとう箱肩に ホレホレ通いもママの種

前述のとおり、労働者は朝六時から耕地労働を行うため、それより早く起きて身支度や昼食の準備を済ませておく必要が存在した。ハワイでは今でも“bento”と呼ばれる携帯型の昼食が存在するが、これは日本人移民がハワイにもたらした文化である。生活費を稼ぐために早朝仕事場に向かう涙ぐましい労働者の努力の姿は現代にも通ずるものを感じる。

可愛い砂糖っ子 預かる心 撫でて育てて 二年越し

当時サトウキビの栽培には苗の植え付けから始まり収穫までおよそ18か月という時間を要した。丹精込めてサトウキビを育てる心はまさに赤ん坊を育てるような気持ちでいたに違いない。(8-1)長時間労働と未だ成らぬ夢を求めて。

根にはつちかい 草取りのけて すぐなキビをば 育てたい

サトウキビを我が子のように扱う彼らの切なる心情が伝わってくる。培うとは木々の根元に土をかけることである。成長途中のサトウキビの苗は背丈が低く、雑草と日光を取り合う恐れがある。光を得ようと雑草の隙間からはい出るように伸びた結果湾曲してしまったサトウキビは、圧搾が困難になるため価値が落ちたと考えられる。その可能性を排除するため、邪魔な雑草を丁寧に取り除いて、まっすぐ立派に育ってほしいという彼らのサトウキビに対する献身ぶりが表れている。(8-2)

ホウハナメンの流せる汗は キビの甘味の 汁となる

“ホウハナメン”とはハワイ語と英語の混成語である。“ホウ”は英語で鍬、“ハナ”はハワイ語で働く、“メン”は英語で作業員の意味であり、開墾作業に従事した者たちを指す。前述のとおり、雑草取りをどれだけ丁寧に行ったかがサトウキビの育成具合に少なくない影響を及ぼした。(9)

智恵をしぼって 工夫をこらし 煎じつめたる ミル機械

サトウキビから砂糖を精製するためにはまずサトウキビの茎を圧搾して繊維の間に含まれる糖分を含んだ水分を取り出す必要があった。(10) 製糖工場は往々にしてサトウキビ畑の中心に設置され、各地から刈り取られたサトウキビの茎が運び込まれた。製糖所の内部は圧搾機やその他の機械から発せられる轟音が常に鳴り響き、またボイラーから大量の蒸気が発生し熱気が労働者を包んだ。製糖工場の様子を「蒸気船の船倉」と表現した労働者も存在したほどであった。(タカキ 93)

追って来なされ 文句はやめて 口でホレホレ するじゃなし  
 追っていかりょか お前のあとに わしにゃ増し金 あるじゃなし (11-1) 
 十センもらって 引っ張るやつは 犬に食われて 死ねばよい (11-2) 

労働者たちは過酷な労働環境の中低賃金で従事することを強制する経営者に反発し、サボタージュをよく行った。監視のために耕地監督官が存在してはいるものの、労働者を背の高いサトウキビに覆われた畑で労働者全員の作業を監視することは不可能であった。この問題を解決するため、耕地経営者は自らに従順な労働者に追加の賃金を与えることでその問題を解決しようとした。労働者の中には耕地監督官や耕地経営者にうまく取り入るものがいた。彼らは他の労働者の先頭に立って仕事効率を上げる役割で、混成英語で“引っ張りメン”と呼ばれた。他の労働者は作業が増えても追加で賃金が支払われるわけではなかったので、引っ張りメンのことを非常に疎ましく感じていた。(12)

4.自己の個人史を懐古して

国を出るときゃ 笑顔で出たが 今日もカチケン いき地獄

“カチケン”とは英語由来の言葉であり、“cut cane”がなまった言葉である。つまりサトウキビを刈り取る作業である。収穫の最大効率を図るために鉈を振るう箇所は砂糖キビの根元、土に埋もれているところを狙う必要があった。少しでも上の所で切ってしまうとその分無駄が生ずるので監督官であるルナに激しく叱責された。また“カチケン”を行う前には、サトウキビの枯れ葉を焼く目的で畑に火を放った。労働者はその前に退避したものの、労働者の子供がまだ畑で遊んでおり、そのまま焼け死んでしまったという逸話もある。その光景はまさに地獄そのものだったといえよう。

ハワイハワイと 来てみりゃ地獄 ボーシが閻魔で ルナは鬼 (12-2)

“ボーシ”は耕地経営者、“ルナ”は耕地監督官のことである。移民たちは故郷でハワイのことをあたかも天国の楽園であると聞かされてやってきたものもいた。ところが実際に働いてみると休憩時間も十分に与えられず、監督官に追いたてられる日々であった。彼ら移民は現実を思い知り、自らの境遇を終わりのない責め苦に苛め抜かれる罪人に見立てた。

地震 雷 こわくはないが ルナの声聞きゃ ぞっとする  
 ゴーヘ ゴーヘと せきたてられて ルナを殴った夢をみた  
 雨がしょぼ降る カンカン出鐘 追いたてルナの靴がなる   
 ルナの目玉に ふたしておいて ゆっくり朝寝が してみたい

“ルナ”は流れ者のポルトガル人やロシア人が多くを占めており、労働者を馬車馬のごとく扱った。(田坂 45)彼らは南北戦争以前、アメリカ南部で奴隷を従えていた。奴隷が解放された戦後、彼らは職を失いハワイに流れた。

“ルナ”のことを歌ったホレホレ節は多い。また“ゴーヘ”とは英語由来で“go ahead”であり、急げ、急げと急かされる様子を表している。労働者は起床時間や就労時刻を知らせる鐘の音にせきたてられる日々であった。また耕地監督官であるルナの多くは前述のとおり流れ者のポルトガル人とロシア人であった。労働者は彼らに反抗することは許可をされておらず、悔し涙を呑むほかなかった。中にはルナに対して反発し、組み倒すものもいないわけではなかった。しかしそうした際には後に裁判にかけられ、有罪を下された。(13)

急ぐパウハナ キビの葉がからむ ころびゃ身を刺す キビのいが  

“パウハナ”とは仕事の終わりを意味する。長い労働が終わると労働者は急いで畑からキャンプへと戻ろうとするのであった。しかしあまりにも慌てて畑を抜けようとして、鋭いサトウキビの葉で擦り傷を作ってしまった労働者もいたようである。労働者にとって、仕事終わりを告げる鐘の音を聞くことは何よりの望みであった。(14)

労働者の耕地監督官に対する恨み節としての性質を持つホレホレ節は多い。これらホレホレ節の内容から、いかに当時の労働環境が移民にとって過酷なものであったかが窺える。

(1)移民の生活環境を描写する歌詞

明日はコロコロ 三日はきまり 赤い毛布で カラボーシ

“コロコロ”はハワイ語で裁判、“カラボーシ”は英語の“calaboose”、刑務所のことである。前述のとおりハワイにおける裁判は形式上行われることが殆どで、移民は有罪判決を下され、三日間の入牢刑に処されるのが決まりごとのようになっていた。しかしながら過酷な労働を強制させられるよりは刑務所の中にいた方がよいと考える者もいて、最初から休息用の毛布を用意して裁判所に出頭する者もいた。(田坂 76)

しょう油飲んだが 待つ間にさめて 果てはコロコロ カラボーシ 

仕事を休むためは手段を選ばないものも多くいた。詐病を使って仕事を休むためにしょう油を飲んで高熱を出そうとする者もいたが、医師の診察時にはすでに症状が引いてしまい仮病がばれることもあった。その場合、前述の裁判にかけられやはり三日間の入牢刑を命じられるのであった。

(2)“カネ” “ワヒネ”など、夫婦生活面で用いられる言葉が使われた歌詞

カネはカチケン わしゃ ホレホレよ 汗と涙の 共稼ぎ

“カネ”はハワイ語で夫を意味する。女性や子供は比較的力を必要としない葉むしり作業を担当することが多かった。労働中に私語をすることはほとんどの作業で禁じられていたが、“ホレホレ”だけは許されていた。(15) それ故ホレホレ節は女性目線で語られるものも多く存在している。(16)

ハナワイすましてヨウ キャンプに戻りゃ にくやマウカにゃ夫婦星

“ハナワイ”はサトウキビに水を当てる仕事である。“マウカ”は北、特にホノルルの北部を意味する。厳しい労働をすましたのちキャンプに戻ろうとすると北の山の上に二つ並んだ星がよく見えた。星までが夫婦であるのに己には体をいたわる妻がいないということである。独身者の悲哀、侘しさが伝わってくる。(17)

カネはマウカで 水当て仕事 ワヒネはダンブロで 浮気する

“ワヒネ”は妻、“ダンブロ”は“down blow”、下層キャンプ地を指す。つまりは夫がサトウキビに水をやる仕事をしている最中に、妻は別の男性と不貞行為を行うという意味になる。当時移民者の男女比率は大きく偏っており圧倒的に男性の割合が多かった。また現地の住宅の屋根はサトウキビの枯れ葉を並べたもの、壁は板材に白灰を塗っただけの粗末なつくりであった。そのような簡素な作りの掘っ立て小屋に妻帯者と独身者が同室に住むこともあり、夫婦間の愛情を形成する時間はないに等しかった。その隙を狙って他人の妻を我がものとせんとする輩も多く、キャンプは弱肉強食の世界であった。ハワイ特有の温暖な気候に適応するため肌の露出が多い格好で過ごしていたとの記録もあり、当時の移民キャンプの風紀衛生環境は極めて悪かった。

5.絶望はブラック・ユーモアと共に

頼母子落として ワヒネを呼んで 人に取られて ベソをかく  

頼母子とは頼母子講、互助会の一種である。会の参加者は毎月決められた額を供出し、くじを引いて当選者がまとまった額を手にした。頼母子は移民者が店を出すための資金として活用されることが多かった。そうまでして身を整えてやっと呼び寄せた女性が他人にとられ涙する男の悲哀がよく表れている。(18-1)

旅行免状の 裏書き見たか 間夫をするなと 書いてない
 明日はサンデーじゃ 遊びにおいで カネはハナワイ わしゃ家に (18-2)
 宅で朝から 首尾してお待ち きっとバンバイ 行くわいな   (18-3)
 カネはマウカで 水当て仕事 ワヒネはダンブロで 浮気する
 カネがフウフウすりゃ 出て来いワヒネ 連れて行きます ホノルルへ (18-4)

写真一枚で半ば強制的に婚姻関係を結ばされた男女間に愛情が芽生えるにはいくばくかの時間を必要とした。その間に他の男性に魅力を感じたり、または言い寄られたりするなどして夫の下を去る女性もいた。

三十五仙の ホレホレしよより パケさんとモイモイすりゃ アカヒカラ

“パケ”はハワイ語で中国人、“モイモイ”は一夜を共にすることである。“アカヒカラ”は一ドルを指す。(19)当時の賃金は仕事や労働者の性別によって異なっており、比較的軽作業とされた“ホレホレ”は男性70セント、女性35セントが一日当たり支払われた。また中国人は日本人より早い時代にハワイに労働者として召集されており、すでに耕地作業から別の仕事に転身し比較的裕福な暮らしを行う者も多くいた。“ホレホレ”のような苦しい作業を必死になってこなしても収入はたかが知れているので、いっそ裕福な中国人相手に体を売る方が圧倒的に実入りがよいと考えた女性もいた。

(3)その他

行こかメリケン 帰ろか日本ジャパン ここは思案の ハワイ国 (20-1)(20-2)

当時の移民は二年から三年の間、同一耕地で働く契約をプランター及び移民会社と結んだ。ハワイがアメリカに併合され法律面もメインランドと同一のものが適用されるようになり、労働者は自由に雇用契約を結べるようになった。言い換えると各労働者には自身の職場を自分で探す必要が生じた。ハワイ生活に見切りをつけてメインランドに渡りもっと実入りの良い仕事を見つけるべきか、それとも移住生活自体に見切りをつけて故郷に戻るべきかの他、ハワイで仕事を続けることも選択肢として残った。この歌詞からはそのような状況に直面した彼ら移民たちが、人生の決断を強いられ決断しかねるその葛藤がにじみ出ている。(21)

わたしゃ苦労を 千人小屋よ 主に逢うのも 今七日 

移民たちは船がホノルルに到着した後すぐに上陸を許可されず、各地のプランテーションに配属されるまで移民収容所に留め置かれた。“千人小屋”とはこの移民収容所を意味し、文字通り千人の収容が可能なほど広かったこの施設はホノルルの港に近いカカアコ地区にあった。伝染病患者の有無を調べたり移民者の能力を検査したりするために、一時的に収容された移民者たちは、そこで食料を与えられ自炊生活をした。また検査不適合者が出れば該当者の処遇が決まるまで一週間でも二週間でも拘留期間が延びた。移民たちは自らの配属が決まり解放されるまで、期待と不安双方を胸に抱えて過ごすことを強いられた。

結語

出稼ぎを主としてハワイに渡ってきた移民者は、故郷に送金するため日々血のにじむような倹約をしていた。酒を買ってきて飲めば赤字になるような生活水準で暮らしをしていた彼らは、日々の労働でたまる不満や鬱憤といった心理的苦痛を、ホレホレ節を唄うことで発散していた。当時の日本人移民たちが後世に自らの暮らしの有様を伝えるためにこのような労働歌を作ったかどうかは想像の範疇でしかないものの、結果的に我々は彼らの赤裸々な胸中の感情をその歌詞の内容から見て取ることが出来る。とくにホレホレ節のような労働歌は率直な労働者の感情をそのままメロディに乗せて歌唱していたと考えられる。

ホレホレ節が自然発生した原因として、彼ら移民者が出国前に成功者の体験談を聞かされており、ハワイを理想の国として考えていたことが考えられる。当時の日本では度重なる飢饉の発生、諸外国との交易の増加による需給バランスの変化が発生していた。それらの影響により生活が著しく困窮した貧農が大量に発生した。彼らは貧苦のなかハワイ行きの話を耳にした。当時日本では耕地労働者の募集が行われていた。その話の中で、ハワイはこの世の楽園であるかのような説明がなされていた。それらの話は彼ら貧民の心を激しく動かした。またハワイで大金を手に入れ帰国し、故郷に錦を飾ったとされる人物が何人か存在しており、そうした彼らの話は瞬く間に貧農たちの間で持ちきりになった。彼らにとってハワイ移民とは天から吊るされた蜘蛛の糸のようであった。このまま日本で餓死するよりは多少の不安はあろうとも新天地で成功する方に賭けたものが多かった。そのような不安と期待双方の感情が入り混じる彼らを乗せて、移民船はハワイに向けて舵を切っていくのであった。

当初、彼ら日本人移民は二、三年の契約期間が満了したのち帰国する目的でハワイにきた、所謂出稼ぎ目的のものが殆どだった。その計画通り当初に計画した年数で金を貯め、故郷に錦を飾れたものも存在したが、何年たっても金を貯めることが出来ず絶望の果てに縊死する者もいた。また生活の苦しさを紛らわせるため飲酒や賭博、買収に手を出して堕落していったものも多くいた。うわさに聞いた成功者とそのような落伍者の差は歴然であった。そうした彼らはどうにもならぬ人生のままならさや不遇さを紛らわせるため、ホレホレ節を歌って自らを慰めるのであった。

このようにホレホレ節に苦悩や郷愁、ロマンチシズムを彷彿とさせる歌詞がよくみられる理由は、ハワイ移民の理想と現実が多分に象徴されているからだと考えられる。新天地での成功を夢見てハワイにやってきた際に抱いていた期待・希望と、長時間・重労働・低賃金の現実との差に絶望、挫折した者の悲哀がよく表れている。一方、そのような過酷な生活環境の中にあっても、生き抜き、前に進もうとする人間の力強さというものも伝わってくる。

ホレホレ節は主にハワイ日本人移民一世たちが生み出し、歌唱されてきた。しかしながらその後の世代に順調に継承されているとは言い難い。100編余り制作されたといわれているものの、現存しているのは40編程度に過ぎない。その理由としては日本放送協会の山崎俊一が自身の取材記の中で、ホレホレ節には「豊作や金儲けにつながる歌詞も少なからずあり、中にはかなり猥雑なものもある。」そのため、「一世や二世の中にはこんな歌を歌うのは恥だと思っている人々もあり、」継承されない歌詞も多く存在しているとのべている。(山崎101)辛酸を嘗めされ、また屈辱に満ちた過去を想起したくない一世もそれなりにいたことであろう。

ゆえに今回筆者が調査したほかにも一世たちの苦悩や郷愁、またロマンチシズムが乗せられた歌詞が存在すると思われるので、引き続き研究対象として資料調査に励みたいと考える所存である。

現在のハワイの発展は目覚ましく、世界各国から観光客が押し寄せる一大観光地であることは異論をはさむ余地もない。しかしながらその影に日本人移民者の血と汗のにじむ努力と忍耐の日々があった事を決して忘れることはできない。

(1) 田坂氏は帰米2世でハワイのホノウリウリ収容所での抑留経験を持つ。太平洋戦争下のアメリカ本土では数多くの日系人が移民収容所に収容されたがハワイでは労働人口の確保などの観点から長らく日系移民の収容は無かったとされていた。近年の研究の成果によりハワイにも日系人の収容経験は存在したことが明らかになったが、同氏はまさにそのハワイでの収容経験者である。

(2-1) 移民者があてがわれた仕事は他に、道路工事や鉄道建設工事なども選択肢としては存在した。しかし労働環境は耕地労働に輪をかけて悪く、特に安全性が確保されないという点で極めて危険な仕事だった。建設中の橋から落下し死亡するケースや土砂に生き埋めになるケースもある、命を落とす可能性のある危険性の高い仕事であった。耕地栽培は重労働ではあったものの、これらの危険性の高い仕事と比較すれば楽な部類の仕事内容だったといえる。

(2-2) 労働者は氏名で呼ばれることはなく、代わりに番号で呼ばれた。自身の管理番号が刻印されたバンゴー札というプレートを各労働者は所持していた。バンゴー札は労働者の出身国別で形が異なっており、耕地監督官は札を見るだけで労働者を識別することが出来た。賃金を渡される際はこのバンゴー札に書かれた番号で呼ばれて金を受け取る仕組みだった。自身の名前が呼ばれないことにひどく憤りを覚える者もいた。

(3) その他の理由として、田坂は櫓歌が漁師だけでなく広島県の太田川を上下する船頭たちや農民によっても広く歌われていたことを挙げている。いずれにしても初期日本人移民の出身地で歌われていた労働歌が「ホレホレ節」のルーツになったと考えられる。

(4) 移民は地方出身者が多く、同じ日本人同士でもお互いの方言が理解できずに意思の疎通を図ることが難しいことがあった。日本語に代わる移民者同士の意思伝達手段として、ハワイでは主として混成語が用いられた。これはピジン英語と呼ばれ、日本語、英語、ハワイ語が混濁したものだった。例えば「トウデイね、ミイのボーシがね、エッとフウフウでのお・・・」というように話され、「今日は私の親方が大変起こった。」という内容を指していた。 [牛島秀彦 105]

(5) 労働者は自らが寝泊まりするキャンプ地から職場となるプランテーションまで徒歩あるいは荷馬車、軽便軌道車で通勤した。労働者は朝5時半には待機場所に集合し、耕地経営者もしくは耕地監督官が20人から30人ほどのグループに分けて職場まで引率した。また11時30分から30分間は昼食のための休憩時間が設けられていた。 [R.タカキ 88]

(6) 男5人に対して女1人であったとする説もある。(牛島秀彦 110)

(7) ハワイには彼ら移民者の故郷から届く支援物資や手紙を乗せた船が定期的に来ていた。代表的な船の名前に「キナウ号」があり、この船の名前が歌詞に含まれたホレホレ節も複数ある。故郷に残した妻や子、両親から届いた手紙は、はるか離れた異国の地で奮闘する彼ら移民にとって非常に心の支えになった。このホレホレ節からは故郷からの便りに励まされ、前を向いて労働を乗り越えようとする彼らのひたむきさが伝わってくる。

(8-1)手間暇かけて育てるサトウキビに対し、我が子を育てるかのごとき愛情を抱いている様子が見て取れる。

(8-2)(8-1)と同様に、我が子のように成長を祈願する気持ちの表れとみる。

(9) 労働者の苦労の証である汗がそのままサトウキビの汁にとって代わるという意味になる。苦労・努力が報われると信じて労働に励む彼らの姿が目に浮かぶようである。

(10) 初期の圧搾機は性能が悪く、歩留まりが悪かった。そのような状況下で機械の改良をし、歩留まりを上げようとする労働者の苦労が感じられる。

(11-1) ホレホレ節には“~りょ”、“わし”などの現在の広島県でみられる方言が含まれたものも多い。これは広島県出身者が初期移民に多く存在したためである。当時の広島県の主力産業は綿花であったが、海外からより安い綿が日本に輸入されるようになると広島県の紡績業は下火になった。また太田川の改修・埋め立て工事の影響や宇品港の築港工事で漁場を失った漁業関係者も多く存在した。明治維新後海外との交流が始まり、日本の産業構造が大きく変わっていく中で、職を追われた人々が海外に血路を見出したのであった。

(11-2) 10銭は10セントを意味する。

(12) ホレホレ節からは、当時の耕地経営者の思惑とそれに反目する労働者たちが交錯する様子が見て取れる。当時の耕地労働者は労働者の団結を恐れていた。当時、彼らが待遇の改善を求めて集団でストライキを起こしたり、施設を破壊したりする事件はたびたび発生していた。そうした中で労働者間のぶつかり合いを引き起こすことは経営者にとって狙いの一つだった。そうした権力者に媚びる労働者に対する憎悪がよくわかる。

(13) 当時ハワイの裁判所に属する判事は耕地経営者に賄賂を握らされており、プランテーションで発生した裁判沙汰は経営者側に有利になるような判決が出た。その他警察も同様に買収されており、暴力沙汰が起きると事実確認もないまま対象者を逮捕、拘留することもあった。

(14) このように労働者が急いでキャンプに戻ろうとした要因として、風呂の存在が挙げられる。キャンプでは日本式の共同浴場を経営する者がいた。しかしその日のうちにお湯が取り換えられることはなく、後に入れば入るほど汚れたお湯につかるはめになった。故に労働者は一番風呂を目指し、全速力でキャンプに戻ろうとした。(タカキ 132-133)

(15) 耕地経営者が労働者の仕事中の私語を禁止した理由としては労働者の意思疎通を禁ずる狙いがあった。耕地経営者や耕地監督官の多くは労働者の会話する内容が理解できなかった。それ故私語自体を禁止することで労働者同士の結託を防ごうとした。

(16) このホレホレ節は妻目線の歌詞になっている。夫婦力を合わせて過酷なハワイ生活を乗り越えようとしている。実際少ない賃金から貯蓄を捻出し、故郷に錦を飾れた者の割合は夫婦者の割合が独身者に比べて高かった。独身者には自分を諫め、寄り添い心を補佐する者がないため飲酒や賭博、売春に手を出し破滅する者が多かった。

(17) 星が隣り合い、まるで夫婦であるかのように輝いている。その風景を寄り添う相手がいない自らの境遇と対比させている。独身者の孤独が伝わってくる。

(18-1) 借金のかたに妻を取られるものもいたが、その借金は賭博で作ったものがほとんどだった。また、妻を商品のように扱う者も存在し他人と売買するといったことも行われた。(牛島秀彦 110)

(18-2) サンデーはSundayで日曜、の意。

(18-3) バンバイはby and byでそのうち、の意。

(18-4) フウフウはハワイ語で激高する、の意。

(19) このホレホレ節より前に発表された流行歌に、“三十五仙でョー ハナハナよりも パケさんと モイモイすりゃ アカヒマヒ アカヒマヒ”というものがあった。アカヒマヒとは75セントのことである。時代の移り進みとともに物価が上昇し、それに伴い耕地労働者の賃金も徐々に増加していったが、実入りの面でいえば耕地労働より売春の方が圧倒的に稼ぐことが出来た。それに付け込み目を付けた花嫁がいるキャンプに赴き、大金を見せて誘惑し自分の店に誘導する売春宿の経営者もいた。

(20-1) 通常アメリカの意だが、ここではメインランド、アメリカ本土を意味する。

(20-2) “日本(にほん)”と歌う場合もある。

(20) ここではメインランドに渡り更に経済的成功を得ようとする向上心と、故郷に帰り残してきた父母・配偶者の様子を見て安心したいという安心感を得ようとする移民者の心情の葛藤をとらえた。

参考文献

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