日本浪漫歌壇 春 卯月 令和六年四月二十日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 今年は三月下旬に寒の戻りがあり、桜の開花が平年より遅くなった。日本では入学式に桜というイメージがあるが、温暖化の影響なのか近年は開花が早まる傾向にあり、ここ何年も満開の桜の下で入学式を迎えたことはなかった。そもそも四月入学は世界では日本ぐらいのもので、会計年度が四月から始まるのでそれに合わせたためである。ただ、満開の桜ほど入学を祝う雰囲気にふさわしいものもなく、今年は久しぶりにイメージ通りの入学式になり喜ばしい気持ちになった。今後温暖化が進み、桜の開花がさらに早くなっていけば、いずれは桜が卒業を祝うものになるのかもしれない。
 歌会は四月二十日午前一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の七氏と河内裕二であった。
 
  「良くぞケッパッタ!」の声援とんで
     六十才差の尊富士まぶし 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。大相撲春場所で百十年ぶりに新入幕力士で優勝を飾った尊富士の相撲から目が離せず、見られないときには録画までして每日欠かさずに見たとのことである。尊富士の出身地である青森の方言で「がんばった」を「けっぱった」と言うらしく、最終日の場内で一際大きく「よくぞけっぱった」という声援がとんだ。作者には孫よりも若い力士の活躍が眩しかったそうである。尊富士というしこ名もよい。来場所も楽しみである。
  ピカピカの一年生等帰り道
     話しに夢中歩み進まぬ 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。光景が目に浮かんでくる。「ピカピカの一年生」とは小学一年生向けの雑誌のキャッチフレーズでもあったと思うが、これほど入学したばかりの小学生をうまく表現できる言葉もない。新入学で学校では緊張感もあるだろうが、帰り道にはそれから解放されて仲の良い友人と楽しく話しながら家に戻る。時代を超えて見られる光景だろう。しかし最近は少子化で子供の数も少なくなったので、多くの地域ではクラス数も減っていて、新一年生もみなよく知った者同士という感じなのではないだろうか。いったいどんな話をしているのかなどと考えてみても楽しい歌である。
 
  電車来て乗る私にあたたかき
     手を差しくれし忘る日はなし 和子
 
 清水和子さんの歌。電車に乗るときに前に並んでいた人が振り返って手を差し出してくれたことがあった。その手の温もりが忘れられないという歌である。電車とホIムには隙間や段差があり、年配の方は乗り込むときに緊張する。手を貸してくれるというささやかな気配りは、自分も大事にされているのだという気持ちにさせてくれる。最近では、お年寄りに席を譲ったり、困っている人に手を差し伸べたりするのが当たり前ではなくなってきているのかもしれない。電車やバスに乗っても周りを見ている人はあまりいない。ほとんどがスマホの画面をのぞき込んで「自分だけの世界」に入っている。人の優しさを感じるのが難しい世の中になってきているようで残念である。
  たれが我を分かろうか我にしか
     分からぬこの我教えて我よ 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。「我」という言葉が繰り返され、どこか鬼気迫る感じすらする歌である。自分は何なのか自分自身に問いかけるも、その答えは見つからない。しかし問いかけずにはいられない。筆者はこの歌を読んで、デカルトの「コギト・エルゴスム」(われ思う、ゆえにわれあり)を思った。すべてを疑っても、疑っている私という存在を疑うことはできない。つまり自分とは何かと考えること自体が、自分が存在することを示している。作者はデカルトを意識してこの歌を詠まれたのだろうか。三宅さんは釈迦の「天上天下唯我独尊」を思われたそうである。
 
  利休梅小道の庭に咲き満ちて
     白無垢姿の花嫁のごと 員子
 
 作者は羽床員子さん。知り合いの方の庭に咲いている梅があまりにきれいだったので、何という梅なのか尋ねたら「利休梅」という名前だった。梅の花は桜と違ってどこかかわいらしいところがある。その白い花を白無垢姿の花嫁に例えられたのは納得である。
 
  桜散りて花見を想う常日頃
     時の罪人つみびといとひて久し 成秋
 
 濱野成秋会長の作。花見を想っても桜はもう散っている。何かをやろうとしても時はめまぐるしく進んで行き、何もできずに一日が終わってしまう。決してわれわれを待ってはくれない。時は罪人でいとわしいと作者は昔から思っている。「時の罪人」という表現は独特だが、誰もが時間の過ぎるのは早いと感じているもので、強く共感できる歌になっている。
  身命は何故なにゆえさよう儚きや
     思ひ嘆けば月はかたぶき 裕二
 
 筆者の作。「身命」は「しんみょぅ」もしくは「しんめい」と読み意味は文字通り「身体と生命」である。人の命はいつ終わるのか分からない。若くして亡くなった人のことを聞くと気の毒な気持ちになるとともに自分はまだ大丈夫という思い込みなど全く無意味であることを思い知らされる。突然の病で亡くなるかもしれないし、健康に気をつけていても事故で命を奪われるかもしれない。今日眠ったら二度と目覚めないかもしれない。自分もいつかは亡くなるのだというような悠長な気持ちではいられなくなり、明日亡くなったらどうなるのか。そんなことを考えていたら夜が明けてきた。
 
  四月にてはや夏日なり眠られず
     猫の如くに廊下に眠る 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。犬や猫は汗を分泌する汗腺がないので暑さにはたしかに弱いだろう。作者が猫のように廊下で寝ている姿を想像すると笑える。飼い主が寝ているところに猫も来て寝ていたらさらに面白い。まだ四月。夏になってさらに暑くなったときにはどうするのか心配になる。
 
 今回の加藤さんの歌にはしこ名ではあるが、人物の名前が登場する。歴史上や伝説上の人物であればまだしも、現存する人物の名前を作品に入れることには、筆者はどこか抵抗感がある。しかし具体的な名前があげられても、人物を讃えて、想像をかき立てるような歌のできることが加藤さんの作品でわかった。人名の含まれる歌にも今後は挑戦してみたいと思った。