新作歌詞

「政子のタンゴ」にみる
フロイト的性的不安リビドー

シュール・ダダの雄叫び

濱野成秋

今の代は挙げてシュールなダダの時代である。ダダが日常化しているから国民の大多数は無感覚になっている。夢なく餓えているから空腹なはずが、栄養も心の糧も摂らないまま来るべき戦争か、飢餓か、貧困化か、その常態化に平気でおられる。

ダダイズムが最初に産声を上げたのは第一次世界大戦のさ中であった。飛行機、毒ガス、機関銃。無作為の殺戮が大量に拡がると人は理性を信じなくなる。戦争は真面目に続行され、否応なく続く中で、自分も戦場に駆り出されて夢も希望も可能性も全て閉ざされているのに、真面目に殺戮を続けている。

芸術が空疎化しきって、日常性が蔓延る中で便器やタイヤがテーマのない小説と一緒に跳び出す。ダダとはこれだ。疎外のシンボル。仇花とはこのことか。

ダダイズムの歴史を時代状況と重ね合わせて診よう。

昭和が始まったのが1926年だが、ダダはその数年前、大正時代に日本にも上陸している。

当時のジャパンは日清日露と戦勝続きだったが、軍拡を止めぬ限り、富国強兵策には経済が掛かり過ぎ。日中・日ソの膠着維持に無理を重ね、国民の大部分を占める中堅層は兵営に獲られる時代でもあったので、貧しさに娘を売る悪習は一向に改善するはずもなかった。特権階級だけが伝統や儀礼や理性を至福としたが、一般人は使用者として貧困と隣同士の状態であった。

 1920年代はモダニズム全盛の時代。モダンアートが何もかも無味乾燥した形態を持つ。放浪詩人の高橋新吉は詩の世界で極北を求めた。
「皿」という詩には同じ皿が何枚も出て来て、その際限もないさまを革命的と見做されている。高橋は中原中也にも影響をあたえた。僕は中也の「思えば遠く来たものだ」が好きで自著『日本語朗読の愉しみ』のなかでも採りあげて、朗読会で何回も読み上げては、中也の漂泊の果てを読者と共に味ったものだ。が、ダダに徹しなくとも、中也流のダダイストの足跡が偲ばれる。芸術とはこんな才能から生まれるという既成観念は真っ向から否定するヨーロッパやアメリカのダダイストの先人たちと比較すると、いかにも日本人らしい暮らしのスタイルが感じ取れる。だがしかし西欧やアメリカのダダイストに見られる哲学と中也では「状況把握」が異なるせいか、ダダの哲学の位相が異なって見える。

ニューヨーク・ダダとジグムント・フロイトの場合はどうだったか。わが作詞「政子のタンゴ」とはどう関係するか。

1910年代、便器にサインをしたのを作品だというマルセル・デュシャンや、オブジェをもって芸術医術作品とするマン・レイらのように、既存の芸術観自体を破壊して前衛的だが、その当時すでに話題となったフロイト心理学を応用するなど、リビドーを入れた精神分析にまで達するダダの作品からは十分ではない。

フロイトは連想法や精神分析、性的欲求不満などには疎いとさえ診える。フロイトは流行り廃れのない心理学であり、人間の性欲が存在する限り、古典でさえ、アイスキュロスやソフォクレス、エウリぺデスなどギリシャ悲劇に濃厚に認められるように、濃厚な性欲がすべての意欲的闘争心に繋がる。

筆者が作詞で、「政子のタンゴ」を書く時、当時の北条家が持つストレスフルな状況に囚われない訳にゆかなかった。作詞ではそれに精神分析の立場から織り込んだのではなく、北条政子の行動様式を読み解くに、フロイト心理学を濃厚に発揮する必要があった。それを現出させたのが、今回、5月30日に鎌倉きららホールでレリースさせる「政子のタンゴ」である。

北条政子は鎌倉幕府の産みの親とでもいえる女将で、彼女の権政欲は愛欲と綯い交ぜに。これに疑念がある読み手はどうぞ、アイスキュロスの悲劇に耽溺されたい。「政子のタンゴ」では自分が平家一門であるにも拘らず宿敵源氏の総大将頼朝と恋仲になり、恋い慕うままに小坪にある頼朝の愛人の家に討ち入り、ずたずたに引き裂いてしまう。その面相は般若か鬼か。さながら今から2500年前のアイスキュロスやソフォクレスに描かれているエレクトラの如し。アイスキュロスは紀元前525年前に生れ、紀元前456年に死去。もちろんエレクトラはギリシャのミケーネの王女で父を殺した母とその愛人を討つ悲劇のヒロイン。

2500年後、シェイクスピアの「ハムレット」でも母が愛人と謀って父を殺したと知るハムレットの原型とも言われ、これら骨肉の争いは、何時の時代でも、どこの国でも起こる。「政子のタンゴ」では骨肉の争いを背景に愛欲に溺れる姿を中心に、フロイト心理学の背景にしたダダの姿をたっぷり味わって頂ければよく、現代の国家権力の抗争とも綯い交ぜに受けとめられたい。