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三浦短歌会  令和二年十一月二十一日  濱野成秋
 
 歌会と講演『浪漫歌人山川登美子によせて』
 
 三浦半島の突端、城ヶ島を間近に三崎港がある。そこは北原白秋が駆け落ちして隠れ住んだところでもある。当時、白秋は傷心の果て。駈け落ちは絶望の日々でもあって、暗澹たる心境であった。ところがここに、彼の歌碑が最初に建てられ、白秋自身が懐かしさを胸に訪れた。昭和十六年、真珠湾攻撃の年である。
 人生、はかなき出来事が次々起こると、人は旅をしたくなる。
 住み慣れた地で同じ顔ばかりに向かうのが辛い。天国のような住みやすい処でなくてよい、地獄の果ての、わが身の細る境遇に置かれても良い、どこか遠くに行きたい。そんな夕陽や月夜を視たければここにお出でな。筆者は山川登美子の講演も兼ねて車を飛ばした。
 歌会は午後1時半、勤労市民センターで。
 「今日はフルメンバーです」と声を弾ませる三宅尚道師匠が迎えてくれる。
 会場は料理教室のようなテーブルがあり、隣室から詩吟が聞こえる。
 
  ナラ枯れて赤茶に染まる樫の木に
     リスが登れば枯葉舞い散る  光枝
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
 これまた秋の風情にて、先ほど誘うた三崎の浜近く、割烹旅館の女将らしい気風がある。明暗と天地が見える。ブルームーンはハワイの装い。六十年前、この地に嫁に来た加藤由良子さんには、もはや三崎は第二の故郷以上の親しみ。恋しかるべき夜半の月かな、が脳裏に。
 ところが筆者の葉山は第二の故郷。こここそ安住の地と定めたる吾を嗤うのは、座敷に侵入して来た大蜘蛛で、加藤さんの心には程遠く、
 
  が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
     大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し  成秋
 
と詠みたるを思い起こせど、口にせず女将の言に聞き入る。
  雨上がり菊葉の珠の輝きは
     朝の空気の為せる業なり   弘子
 
 久々に静謐なお作にお目にかかった。静寂そのものである。前二作には動きがあり人の息遣いがあるのと対照的にこのお作は静止状態。Staticそのもの。正詩型というべきか。
 
  新型の肺炎ゆゑに天国へ
     旅立つときもマスクしてゆく  尚道
 
 これは狂歌ですかと言えば、このひと月の間に入院したので、とのこと。これを深刻に捉えずにギャグとして詠むしたたかさ。却って真剣になる思いである。マスクといえばコロナ感染症ゆえの流行ものと捉えるか。否。高峰秀子主演の映画『浮雲』のワンシーン、彼女が仏印から引き揚げて来る、そのボロ船からボロリュックを背負って上陸して来る姿を視よ。誰も可も、全員、マスク姿なり。
 
  てらてらと輝く背中踊らせて
     仕事に励むイルカたくまし 和子
 イルカショーは何とも気の毒。どう見ても知能は人間もイルカも同格。どこが違うかと言えば、人間はずるいから安全な役についていて、イルカは正直者だから身体を張っている。ひとたび着水が着地になれば、それでお陀仏。だから、「たくまし」より「いたまし」と変えたいと作者。至極もっともなり。
 
  庭の木に伸びたるツルを引きゆけば
     冬瓜三つ実をつけてをり  良江
 
 結構な収穫でした。三崎は平和なり。これぞ桃源郷。桃源郷とは義理の家族や夫と細君との仲たがいがあっては成り立たぬ。
 いや、もしもですよ、もしも次の歌のような家族関係もあるなら、歌にするもよし。短歌の世界に身を投じて、一首、
 兄と一緒に駅に父を迎へに来たものの
 
  腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわ
     父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 続いて山川登美子の話となる。
 日本の浪漫主義文学は現代文学史では明治25年に夏目金之助のちの漱石がアメリカの詩人ホイットマンを日本に紹介したことに始まる、とよくまことしやかに書いているが、これは間違いである。いや、むろん、有島武郎でもない。そんな現代人ではなく、千年も前、額田王の頃に遡らねばならない。ここから説いて、古今、新古今と辿らねばならないが、それは次の機会にということで、登美子がなぜ日本女子大に来たか、なぜ晶子や雅子が名誉回復したのに、登美子だけが薄命にしてその生涯を閉じたかを語った。小浜の方々も短歌の会か盛ん。
 いつの日か、あい集う日が来ることを。
 三浦半島の三崎も小浜も、港町。
 その三崎で、筆者は良い子でいましたが、白秋もそうであったように、筆者も心は漂泊の思いにて、その果ての旅のごとく、会のあと、宵闇にキーコーヒーのカフェに行こうということになり、皆でお茶を。
 誰にも言わなかったが、その情景は、原田康子の『挽歌』に出て来る釧路の喫茶店「ダフネ」のようでありました。
山川登美子を救ひ度候
       日本浪漫学会会長
      「オンライン万葉集」主幹  濱野成秋
        (元日本女子大学文学部英文学科教授)
 
 此度の小浜来訪には、私にとってはその薄幸なる山川登美子の晩年を思うにつけ、まさに参詣に近い心境が伴いました。
 日本女子大の英文学科教授として十四年間、文学講義に専念してきた私は、今から百年以上も前の人ではありますが、英文学科の生徒だった山川登美子さんの退学の成り行きをいつも残念に思っておりました。
 増田雅子さんは『恋衣』の一件で叱られても学内の教師と結婚したことでもあって、「茅野蕭々雅子奨学金」の名目で名誉回復を遂げた。だが山川さんは病を得て小浜に帰りその薄幸なる生涯を終える。今もその状態のままなのだ。つまり近現代に在って、浪漫歌人の第一人者たる山川登美子は日本女子大では特段の誉め言葉もなく事典に記載がある程度。若き世代の間で人口に膾炙する名誉回復もなきまま今日に至る。
 日本女子大は女子大では珍しく良妻賢母を標榜しない気骨ある女子大で、創始者成瀬仁蔵は、女性でありとも、立派な人間として育てるヴィジョンを掲げ、それに呼応して意想外に多くの入学希望者が現れたことは特記に値する。小生も成瀬イズムには共鳴すること多く、何も知らない新入生には建学の精神を語っていた。
それだけに、小浜より遠路はるばる入学され歌人としてかくも立派な仕事を果たされた山川登美子さんの扱いがいかにも気の毒。時代の風潮に押されて当局の指導に屈して処断したものの、その後の扱いが淡々に過ぎて浪漫華麗の向きにあらずして、その情熱なき無念さは今日も変わりなく続く。学寮委員としても幾度も成瀬イズムに籠る情熱を生徒に教えてきたなりに、今でも日本女子大の名誉にかけても登美子の名誉と情熱の回復を遂げさせてやりたい思いです。
 幸い生家が記念館となり小浜市も見事に行き届いた管理ゆえさぞかし登美子君も父君もお悦びと思いますが、その邸内の回廊を一歩、一歩踏みしめるにつけても、涙のこみ上げるを圧し留めることのできぬほど、痛ましく存じました。したがって、この一文は、玄関脇にある登美子の辞世の歌の歌碑を読んだ時点から、登美子の見果てぬ夢を追い焦がれる心情を、百年の過客を超えて、切々と物語ることになります。
 
 父君に召されていなむ永久とこしえ
    春あたたかき蓬莱のしま 登美子
 
 蓬莱にはもう鉄幹もいない。晶子も遠い存在。また会いたいかと自問すれば、否私の心は彼らから離した父君の愛の許にあります、と登美子は答えるだろう。小浜の登美子研究の方々も、おそらくそう解釈されるかと思いながら、入り口から畳の控えの間に。歩み入る第一歩で一首浮かぶ。
 君かめ生まれ変はりて父君ちちぎみ
   御膝みひざで食事ぞ稚児のかわゆき 成秋
 
 奥の間まで人の気配。訪れる人なきはずが、咳の声がしている。まさか登美子の? しばし廊下を歩む。空耳か。と、庭の蔓草が目に留まる。
 
 伸び盛るつる草にくえちぢむ
   あるじの心を知らでか庭にゐて 成秋
 
 さらに三歩あゆみて、庭の燈篭に飛び石の茶事を連想し、また一首。
 
 枯れしぼ御體みからだいとおし燈篭の
   赤き火影ほかげ密事みそかごと裳て 成秋
 
 廊下の奥でまた咳(しわぶき)の気配。やはり登美子はそれと気づいて黄泉より急ぎ戻りしや? それともあれは新詩社で滝野や勇と荷造りせし啄木か?
 
 その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
   ふるさとに来て咳せし男 啄木
 いやあの咳は女性だ、登美子自身のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君らの背後に鉄幹の仕掛けが。気の毒だ。大学当局も官憲より君を庇って立ち往生。かろうじて採りし決断で成瀬もいかばかりの断腸の思いであったか。どうぞご賢察して下され度。
 
 それとなく赤き花みな友にゆずり
   そむきて泣きて忘れ草つむ 登美子
 
 この歌はあの時期の作ではないけれども、登美子の謙虚さはいつも変わらない。女子大開学前の世紀末、晶子と写った登美子をみよ。大店(おおだな)娘の晶子が椅子に座し、寄り添いて上級藩士のお姫様が床に。登美子も山川家もいかに節度ある御心か。
 廊下を歩きながら考える。と、また深窓から咳が。あの咳は女性だ、令嬢のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君の「恋衣」に罪はない。大学当局も苦肉の策で採りし措置。出来たばかりの学園である。成瀬氏もさぞや断腸の思いのはず。どうぞ察してやって下され度、とも筆者は思う。
 時の流れは惨(むご)い、切ない。取り戻せない。
 人の短い生涯など瀬川に浮かぶ小笹舟である。忘れ草でよいという登美子の見舞いに、僕は勿忘草を持って参じたい。白百合の君よ、君は余計なことをしたか。いや百年の流れの中で、あの日露の沸き立つ勝(かち)戦(いくさ)モードの中で浪漫主義文藝は小笹舟の如く翻弄された。だが今にして思えば、『恋衣』は日本人の、今の民主の時代を生む勇気ある雄叫びでもあったのだ。
 登美子よ、君こそホイットマンの言う自由人。なのに風潮の囚われ人にされた。自由主義という船の、船頭の一人として。かつて万葉集学者で日本女子大学長もつとめた青木生子教授は増田雅子と共に登美子も讃える中心的人物だが、私も同大学英文学科教授であり浪漫文学の研究者として、失意のうちに退学して去った登美子の後ろ姿に哀惜の情を禁じ得ない。山川登美子よ、願わくばあなたは蘇ってわがゼミに還るべきだ。僕は君のか弱き體と卓抜した学績を勘案し、飛び級にして卒業させてやりたかった。
 遂に寝室へ。登美子は? 奥座敷に姿はなく咳も聞こえず、ただ柔らかな陽光が私を迎え入れてくれた。登美子よ。
 
 わが胸の棘の痛みは刺しさわ
   百年ももとせ過ぎてもゼミに復せよ 成秋
                            合掌