投稿

日本浪漫学会 会長 濱野成秋

 

額田王は日本の文学史の最初に登場する女性である。古代短歌の有史初頭に浪漫歌として登場し、その奔放さは与謝野晶子に匹敵する情感を宿す、浪漫そのものである。

茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王ぬかたのおおきみ

この三十一文字を読むだけで、彼女がどれほど浪漫の才覚に富む人物か、窺い知れる。歌人自身が屋内にじっとゐるのではない。茜が咲き乱れる紫一色の原野にあって、自分自身に向かって袖を振って来る恋人に向かって詠む心を籠めた歌である。ここだ、ここに来よ、と手招きする恋人をはらはらして遠望している。その女性額田王は、「そんな振る舞いをしては、野守に見つかりますよ」と、政敵に告げられたらなんとするかと、はらはらしている心境が出ている。しかもその気持ちを歌に仕立てて己が情熱を露にする当たり、立派な浪漫派歌人であり、千年下って20世紀初頭に出た与謝野晶子の「みだれ髪」にある「やわ肌の熱き血潮に触れもみで淋しからずや道を説く君」にも通じる。

ところが、この「やわ肌の…」の歌は俵万智の間違った解釈でつまらない歌にされてしまった。俵は現代語を「チョコレート語」としゃれてみて、無茶苦茶な解釈に仕立ててしまったのだ。

“鳳志よう“のちの与謝野晶子が与謝野家に押しかけ女房のような形で転がり込む。堺の商家を抜け出し、与謝野寛の元へ転げ込んだわけだが、その時には、すでに歌集『みだれ髪』 の中に入るべきして在った歌である。「やわ肌の…」の歌はチョコレート語訳では、夫がワイシャツを着て「歌の道」を説くため、私の肌にも触れず、きのどくね、と解釈するのでは、ぶち壊しではないか。晶子はまだ堺市にいた頃、近所の寺の若い修行僧に惚れて、浪漫歌に通じる奔放な、「やわ肌」の歌を献ずるが如く書き上げたという解釈があり、その若き僧侶の名前まで判っている。

1901年、この年、彼女は鉄幹と結婚しているが、その頃は鉄幹も晶子との肉体的交情の激しさは言を俟たない。俵万智の解釈では鉄幹は「歌の道」を説くのに忙しいと読み解くが、それは寛と晶子の熱々ぶりを興醒めにしている。「歌道」に勤しむ寛ではなく、「仏の道」だけでこちらの情熱を知らぬ気で、そんなのつまらないわ、仏道を説くよりも私の體に触れて、「破戒僧」となるほうが、心が満たされますよ、それが如何に心を満たすか、お考えあそばせ、と思春期の晶子は言っているのである。まだ女学校を出るか出たかのうら若き乙女が背徳でもいい、それが生き甲斐よ、それが偽りのない心を満たす浪漫の道よと、解釈してこそ、晶子の多情多感な浪漫歌を理解したことになる。歌の道を説くために私と情交を交わす暇もないとするのでは、浪漫主義の根本からして理解していないことになる。とんだ「迷訳」だが、未だに解かってないのかと思うと情けない。

「歌の道」を説く鉄幹が自分を愛撫しなくなったので、詠んだ歌という解釈自体が平凡でつまらない。晶子がまだ府立一女高(現在の泉陽高校)の生徒だった時に近所のお寺さんで仏道の修業中の若き僧侶を診て性欲を感じ、詠んだ歌が近現代浪漫歌の嚆矢であり、それ以外の解釈では浪漫主義文学自体を履き違えた解釈になる。

やわ肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君 晶子

これは破戒僧になってまでも、吾を愛し給え、という歌は当時のモラル一点張りの修身教育や親孝行を説きながら、忠君で名誉の戦死を礼賛する軍国主義への大胆な一矢でもある。これと、天武天皇と天智天皇の両方を愛し愛され、両方との契りをかわした額田王の心境とは、図らずも合致する究極の美学であり、浪漫の切なさやるせなさが、ストイシズムや愛国死礼賛のモードとの対決するところに、究極の美学があると解釈できる。

たった三十一文字でそこまで描き尽くした額田王も晶子も、浪漫文学の粋を凝らしている。明暗や遠景近景。写し尽くして己が情念をその情景に写し込む。彼女は年取ってから天武天皇との関係を想い出して戯言として披露したとも言われるが、女性は年齢を重ねるとそんな戯言をして何の利得もないと知るから、この種の解釈は評価に値しない。むしろDHロレンスの『チャタレー夫人の恋人』に診る、森番との情交を想起して、ロレンスのいう「生命主義」(livingism)と合致すると知るべきである。観方を変えれば、「活き活きと生きる喜び」として「性」を正当化するのが浪漫主義であり、東洋と西洋との異文化地帯を超越した普遍性に繋がる。

時代が新古今和歌集に至るまでには多くの歌人が登場して浪漫の色彩はとみに色濃くなる。

名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが想ふ女はありやなしやと 業平

今も昔も官僚になって地方へ飛ばされると都がやたら恋しくなるもの。それはイギリスでも同じで、人間性の弱さやいじけを捉えて皮肉屋イギリス作家Somerset Maughamも“Before the Party”や”Footprints in the Jungle”など、「南海もの」と言われる短編集で、しきりに堕落し切った中間管理職の官僚の生態を描いている。

彼らは等しくロンドンでの社交界で政府官僚として鼻高々でいたいと熱望しているとモームには観える。平安期の日本でも、地方役人となって都の宮廷生活を羨望の眼で観る「東風吹かば匂ひよこせよ梅の花…」の道真は左遷の果て。中国に出され、科挙の試験に合格し玄宗皇帝の手厚い処遇を受けても奈良の都が忘れられず、帰国の直前に作った「三笠の山にいでし月」を想い描く仲麻呂も同様である。奈良時代、仲麻呂は唐にあって李白や王維など最高の文学者たちとの交流もあった。その処遇を受けてもなおかつ不遇な官僚の左遷状態の恨みは断ち切れないでいる。望郷の念でかたずけられない人間の業が疼くせいか。

この種の業は我欲か怨念か。時下り洋を異にしても脈々と打つ。途絶えることはない。1920年代、文明文化果つる東南アジアの僻地のイギリス領の司政官となって派遣された屑官僚の生態が如実にその醜態を現わす。

モームは描く。大英帝国で産業革命の先駆者となり、世界一の植民地を抱えた大英帝国の官僚たちの生態はこうだ。毎朝、せっせとロンドンのパーティで会っただけの友人や上役に手紙を書くのを常としているノン・エリートの官僚。彼はいつしかロンドンに引き戻してくれることを願ってかなわず、遂に酒びたりとなり、挙句の果てに妻によって原住民の使う鉈で…などなど、情けない凶行におよぶ話がわんさと出て来る。その目で業平の心を捉えれば解釈は色めく。

業平は「都鳥」を見てさえ思う、お前も「都鳥」であろう、宮中の社交界も知っているだろう、ならば教えてくれ、都で別れた恋人は今時分、どうやっているのかな、もう俺のことなんか、とおに忘れておるのでは…と、切ない話となる。

在原業平は『伊勢物語』のなかでこれを書いたとされ、日本人の解釈ではモームのような皮肉のかけらも感じられないけれども、切なさは共通する。また派遣官僚の俗物感情を想起すれば冷笑ものとなるが、春日八郎「別れの一本杉」で代表される田舎から都会へ、心細い思いで出稼ぎに来る心境に打ち返せば、モーム流のアイロニーは出しても当たらない。皮肉はなくなり、ただただ望郷の念に浸れる。純粋に切なく、やるせない。身の上の切なさが高じ、心がけ次第で至純な浪漫が成り立つのである。(了)