令和二年十二月十四日 (No.1939)
濱野成秋
ハイデガーやキルケゴールの実存哲学の齟齬と対峙していると、登美子も自己の存在に人一倍認識していたことを強く意識するようになった。登美子は肺結核に罹って余命いくばくも無きを自覚した時、その意識は頂点に達していたが、夫と見合う以前既に、つまり鉄幹の愛を得たくて晶子と競い合う日々にも、登美子は自己の孤独を自覚し、その思いに沈んでいた。沈みの底から歌が浮き上がるが如し。と気づかれた方は多かろう。
登美子は父に勧められて明星の館を去る時、また楽しきはずが暗い、短い結婚生活と夫の死に別れがあり、明星に返り咲いても自分の居場所のなきを常に自覚して日本女子大学校に、さながら駆け込み寺かのように帰属するなど、どれを観ても、みな己が存在を持て余していた感がある。
文学者であってみれば、こうした孤独を噛み締めながらの流離の日々ほど切ないものはない。流浪の波に浮沈する己が日々の生。その自覚があってこそ、詩や歌になって迸る。
海原に漕ぎ出でてみても、自分はしょせん舵を絶えた船頭の如しで、
和田津みの真中に櫂をなげやりて
泣きて見ましな船しづむまで 登美子
登美子はここでも自分という個体の行方をなげやりにと考えては、未だ見切りをつけられぬ自分の姿を見つめる。筆者はその御姿を哀れみて
わだつみに舵を絶へゐてこの一夜
明日の一夜も占ふべきや 成秋
と詠みて短冊にしたためれば登美子の思ひはいかばかりぞ。夕刻には雪となり、同舟の登美子は陸に上がって、
行き来する人も途絶へし夕暮は
窓打つ雪の音のみぞする 登美子
と詠めば、吾人は応へてこう詠めり。
大雪の積もれる夜ぞくもり窓
指の腹にてかりそめの雅樂 成秋
その雅楽に登美子はちはやぶる神代の清流に思ひを馳せて
竜田川清き河瀬に綾錦
織るさざ波の美しきかな 登美子
竜田川と聞けば吾人にも慈父と遊んだ少年期を思い出し、
奈良かへり竜田川にてふと父は
車を降りて歩くもまぼろし 成秋
登美子、何故か自己の冷めたる境遇を吐露せるか暗き声になりて
今の吾は虹の色して一めんに
くもるが中にふたりはもえぬ
さもありなむ。鉄幹との仲はつねに半ば燃えたる、白けたる。吾人はこれもいたいけにとらえて、こう励ましたる、
われのみと思ひをりゐて沈めるや
翳り曇れる痛みぞ祓はめ 成秋
(No.1939は以上)
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