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日本浪漫学会 会長 濱野成秋

 

額田王は日本の文学史の最初に登場する女性である。古代短歌の有史初頭に浪漫歌として登場し、その奔放さは与謝野晶子に匹敵する情感を宿す、浪漫そのものである。

茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王ぬかたのおおきみ

この三十一文字を読むだけで、彼女がどれほど浪漫の才覚に富む人物か、窺い知れる。歌人自身が屋内にじっとゐるのではない。茜が咲き乱れる紫一色の原野にあって、自分自身に向かって袖を振って来る恋人に向かって詠む心を籠めた歌である。ここだ、ここに来よ、と手招きする恋人をはらはらして遠望している。その女性額田王は、「そんな振る舞いをしては、野守に見つかりますよ」と、政敵に告げられたらなんとするかと、はらはらしている心境が出ている。しかもその気持ちを歌に仕立てて己が情熱を露にする当たり、立派な浪漫派歌人であり、千年下って20世紀初頭に出た与謝野晶子の「みだれ髪」にある「やわ肌の熱き血潮に触れもみで淋しからずや道を説く君」にも通じる。

ところが、この「やわ肌の…」の歌は俵万智の間違った解釈でつまらない歌にされてしまった。俵は現代語を「チョコレート語」としゃれてみて、無茶苦茶な解釈に仕立ててしまったのだ。

“鳳志よう“のちの与謝野晶子が与謝野家に押しかけ女房のような形で転がり込む。堺の商家を抜け出し、与謝野寛の元へ転げ込んだわけだが、その時には、すでに歌集『みだれ髪』 の中に入るべきして在った歌である。「やわ肌の…」の歌はチョコレート語訳では、夫がワイシャツを着て「歌の道」を説くため、私の肌にも触れず、きのどくね、と解釈するのでは、ぶち壊しではないか。晶子はまだ堺市にいた頃、近所の寺の若い修行僧に惚れて、浪漫歌に通じる奔放な、「やわ肌」の歌を献ずるが如く書き上げたという解釈があり、その若き僧侶の名前まで判っている。

1901年、この年、彼女は鉄幹と結婚しているが、その頃は鉄幹も晶子との肉体的交情の激しさは言を俟たない。俵万智の解釈では鉄幹は「歌の道」を説くのに忙しいと読み解くが、それは寛と晶子の熱々ぶりを興醒めにしている。「歌道」に勤しむ寛ではなく、「仏の道」だけでこちらの情熱を知らぬ気で、そんなのつまらないわ、仏道を説くよりも私の體に触れて、「破戒僧」となるほうが、心が満たされますよ、それが如何に心を満たすか、お考えあそばせ、と思春期の晶子は言っているのである。まだ女学校を出るか出たかのうら若き乙女が背徳でもいい、それが生き甲斐よ、それが偽りのない心を満たす浪漫の道よと、解釈してこそ、晶子の多情多感な浪漫歌を理解したことになる。歌の道を説くために私と情交を交わす暇もないとするのでは、浪漫主義の根本からして理解していないことになる。とんだ「迷訳」だが、未だに解かってないのかと思うと情けない。

「歌の道」を説く鉄幹が自分を愛撫しなくなったので、詠んだ歌という解釈自体が平凡でつまらない。晶子がまだ府立一女高(現在の泉陽高校)の生徒だった時に近所のお寺さんで仏道の修業中の若き僧侶を診て性欲を感じ、詠んだ歌が近現代浪漫歌の嚆矢であり、それ以外の解釈では浪漫主義文学自体を履き違えた解釈になる。

やわ肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君 晶子

これは破戒僧になってまでも、吾を愛し給え、という歌は当時のモラル一点張りの修身教育や親孝行を説きながら、忠君で名誉の戦死を礼賛する軍国主義への大胆な一矢でもある。これと、天武天皇と天智天皇の両方を愛し愛され、両方との契りをかわした額田王の心境とは、図らずも合致する究極の美学であり、浪漫の切なさやるせなさが、ストイシズムや愛国死礼賛のモードとの対決するところに、究極の美学があると解釈できる。

たった三十一文字でそこまで描き尽くした額田王も晶子も、浪漫文学の粋を凝らしている。明暗や遠景近景。写し尽くして己が情念をその情景に写し込む。彼女は年取ってから天武天皇との関係を想い出して戯言として披露したとも言われるが、女性は年齢を重ねるとそんな戯言をして何の利得もないと知るから、この種の解釈は評価に値しない。むしろDHロレンスの『チャタレー夫人の恋人』に診る、森番との情交を想起して、ロレンスのいう「生命主義」(livingism)と合致すると知るべきである。観方を変えれば、「活き活きと生きる喜び」として「性」を正当化するのが浪漫主義であり、東洋と西洋との異文化地帯を超越した普遍性に繋がる。

時代が新古今和歌集に至るまでには多くの歌人が登場して浪漫の色彩はとみに色濃くなる。

名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが想ふ女はありやなしやと 業平

今も昔も官僚になって地方へ飛ばされると都がやたら恋しくなるもの。それはイギリスでも同じで、人間性の弱さやいじけを捉えて皮肉屋イギリス作家Somerset Maughamも“Before the Party”や”Footprints in the Jungle”など、「南海もの」と言われる短編集で、しきりに堕落し切った中間管理職の官僚の生態を描いている。

彼らは等しくロンドンでの社交界で政府官僚として鼻高々でいたいと熱望しているとモームには観える。平安期の日本でも、地方役人となって都の宮廷生活を羨望の眼で観る「東風吹かば匂ひよこせよ梅の花…」の道真は左遷の果て。中国に出され、科挙の試験に合格し玄宗皇帝の手厚い処遇を受けても奈良の都が忘れられず、帰国の直前に作った「三笠の山にいでし月」を想い描く仲麻呂も同様である。奈良時代、仲麻呂は唐にあって李白や王維など最高の文学者たちとの交流もあった。その処遇を受けてもなおかつ不遇な官僚の左遷状態の恨みは断ち切れないでいる。望郷の念でかたずけられない人間の業が疼くせいか。

この種の業は我欲か怨念か。時下り洋を異にしても脈々と打つ。途絶えることはない。1920年代、文明文化果つる東南アジアの僻地のイギリス領の司政官となって派遣された屑官僚の生態が如実にその醜態を現わす。

モームは描く。大英帝国で産業革命の先駆者となり、世界一の植民地を抱えた大英帝国の官僚たちの生態はこうだ。毎朝、せっせとロンドンのパーティで会っただけの友人や上役に手紙を書くのを常としているノン・エリートの官僚。彼はいつしかロンドンに引き戻してくれることを願ってかなわず、遂に酒びたりとなり、挙句の果てに妻によって原住民の使う鉈で…などなど、情けない凶行におよぶ話がわんさと出て来る。その目で業平の心を捉えれば解釈は色めく。

業平は「都鳥」を見てさえ思う、お前も「都鳥」であろう、宮中の社交界も知っているだろう、ならば教えてくれ、都で別れた恋人は今時分、どうやっているのかな、もう俺のことなんか、とおに忘れておるのでは…と、切ない話となる。

在原業平は『伊勢物語』のなかでこれを書いたとされ、日本人の解釈ではモームのような皮肉のかけらも感じられないけれども、切なさは共通する。また派遣官僚の俗物感情を想起すれば冷笑ものとなるが、春日八郎「別れの一本杉」で代表される田舎から都会へ、心細い思いで出稼ぎに来る心境に打ち返せば、モーム流のアイロニーは出しても当たらない。皮肉はなくなり、ただただ望郷の念に浸れる。純粋に切なく、やるせない。身の上の切なさが高じ、心がけ次第で至純な浪漫が成り立つのである。(了)

日本浪漫歌壇 春 卯月 令和三年四月十七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 四月二十日頃のことを二十四節気で「穀雨」と言う。穀物を潤す春雨が降ることから名づけられた。この時期に降る雨について調べてみると、穀物を潤す雨で「穀雨」と同義の「瑞雨」、草木を潤す「甘雨」、菜の花が咲く頃に降る「菜種梅雨」、春の長雨の「春霖」、花の育成を促す「催花雨」、卯月に降る長雨の「卯の花腐し」など多くの名前がある。
 歌会当日はあいにくの雨だったが、三浦は畑が多く野菜の栽培が盛んである。植物にとっては恵みの雨になっただろう。四月十七日は午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会が合同で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、玉榮良江の六氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子氏も詠草を寄せられた。
 
  ゆく春の橋の上なるおぼろ月
    黄砂のせいとつれないラジオ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。「おぼろ月」というと唱歌『朧月夜』を口ずさんでしまうのではないだろうか。『朧月夜』は作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、このコンビは他にも『故郷』『春が来た』『春の小川』などの素晴らしい日本の歌を作っている。「白地に赤く日の丸染めて」で始まる『日の丸の旗』も彼らによるものである。
加藤さんも「菜の花畠に入り日薄れではないが」と先ず『朧月夜』に言及され、ご自身が夜空に浮かぶ月を見て今日はおぼろ月だとロマンチックな気分になっていたら、ラジオで十年ぶりに関東でも黄砂が確認されたというニュースがあり、飛来した黄砂のせいで月が霞んでいたと知り少々興ざめしたとのこと。たしかにどこか不毛なイメージのする乾燥した砂漠の砂で霞むのと霧や靄などの空気中の水分に包まれて霞むのとでは「おぼろ月」も気分的に異なるだろう。
 おぼろに霞んだ月の美しさに日本人はずっと魅せられてきた。『新古今和歌集』にも朧月夜の歌がある。
 
  照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
     朧月夜にしくものぞなき 大江千里
 
 この柔らかな光の感じを好むからこそ日本家屋では障子が使われるのではないだろうか。谷崎潤一郎の随筆に『陰翳礼讃』というのがあるが、日本人はあまりギラギラ明るいのを好まない。陰影の中で映えるものを美しいと思うのである。
 
  満人の近くの店から漂へる
     食欲そそる中華の匂ひ 光枝
 
 作者の嘉山光枝さんのご自宅の近所には中華料理屋があり、お昼時に美味しそうな中華料理の匂いが時々風に乗ってやって来る。その何気ない日常を詠った一首。
 初句の「満人の」によって歌のイメージが膨らむ。お店をされているのは中国の方だそうだが、東北部の満州出身かどうかは不明とのこと。そこをあえて満州出身とすることで彼らに対して興味を抱かせる。満州というと満鉄や満州国さらに終戦後に命がけで日本に引き上げてきた引揚者のことなどが頭をよぎる。ある時はロマン、またある時は悪夢。日本人にとって「満州」は中国の他の地名にはない特別な意味合いを持っている。
 「雪の降る夜は楽しいペチカ」という歌詞で始まる作詞北原白秋、作曲山田耕筰の『ペチカ』という童謡がある。筆者はずっとロシアについての歌だと思っていた。ペチカとはロシアの暖炉のことだからである。しかしこの歌はもともと一九二四年に発行された『満州唱歌集』に収められた唱歌で、当時の満州を舞台にしている。歌を依頼された白秋と耕筰の二人は満州まで行って制作した。今回その事実を知った。
 
  病超へ遂げし娘の記録見て
     揺れる母御の心測れり 和子
 
 作者は清水和子さん。白血病を克服し日本選手権で優勝を果たした水泳選手の池江璃花子さんの話を聞いて詠まれた歌。池江さんご本人ではなく彼女のお母様の心境を歌われたのは、清水さんご自身がいつも母親としてお子さんのことを心配しているからで、お子さんが重い病気になった池江さんのお母様の気持ちを考えずにはいられなかったとのこと。
「今の若いお母さんは気持ちが強くて娘を絶対に勝たせてあげたいと思うかもしれないが、自分などは水泳が続けられなくてもオリンピックに出られなくても体を大事にしてただ元気でいてくれたらそれでよいと思ってしまう」と清水さんは仰る。食糧事情が悪く戦争もあって多くの人が亡くなった時代を生き抜いてきた清水さんの「ただ元気でいてくれたらよい」というお言葉には重みがある。たとえ清水さんの仰るように世代によって考え方に違いがあるにしても、わが子を想う親の気持ちは変わらないだろう。『万葉集』にも次のような歌がある。
  
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 
  銀も金も玉も何せむに
     まされる宝子にしかめやも 山上憶良
 山上憶良の「子等を思う歌」の一首である。
 
  この世をば散りて去りたるさくらばな
     実をば結ばめ春は来ずとも 成秋
 
 濱野成秋会長の歌。桜の花でご自身の気持ちを表現されている。一般的な桜であるソメイヨシノは、花は美しいが実を結ばない。桜の花のように自分も散ったら終わりなのだろうか。たとえ散ってしまって春が来なくとも実を結んで次の世代に残してほしいというお気持ちがある。ご自身のお仕事などを振り返ってみても、たいして実を結んでいない気がして、この歌が出てきたと仰る。参加者の皆さんもそれぞれ歩んでこられた道は違えど同じ気持ちであると共感された。
 『新古今和歌集』に後徳大寺左大臣の桜の歌が収められている。
 
  はかなさをほかにもいはじ桜花
     咲きては散りぬあはれ世の中 後徳大寺左大臣
 
 世の儚さは桜の花の他には喩えようがないと言っているが、濱野会長の歌にも通ずるところがあるだろう。
 
  だんボール入りし柔らか春キャベツ
     家族総出の収穫すすむ 良江
 作者は玉榮良江さん。玉榮さんの作品はいつも鮮明に情景が浮かんでくる。描写が巧みだからだろう。三浦はキャベツ畑が多く、春にはこの歌のようなシーンがよく見られる。キャベツは夏にも収穫されるが、収穫のスピードが要求されるのか家族総出で行うのは春だと仰るのは嘉山さん。柔らかくて甘い春キャベツも採れたては鮮度がよく当然美味しいのだろう。
 
  相模湾一望にして春霞
     湯舟につかり友と語らむ 艶子
 
 今回はご欠席の櫻井艶子さんの作品。ご友人と熱海に行き楽しい時間を過ごして幸せを感じた時に詠んだとのことで、この作品も玉榮さんの作品と同様に情景がはっきり浮かんでくる。まるで絵画を見ているかのようで描写に無駄がない。友と語らふ声までが聞こえてきそうである。「相模湾」という具体的な場所を示す固有名詞の使用もこの歌では成功している。作品に現実感を与えるとともに、この辺りを知る者なら海には何が見えるのか。伊豆大島か伊豆半島か三浦半島かなどと想像できるのもまた楽しい。。
 
  花時に自粛求むる時の
     太子偲びて現在いまを生きゆく 裕二
 今年は聖徳太子の千四百回忌の年で、四月の初めに奈良の法隆寺で法要が行われた。百年に一度の節目だったが、新型コロナウイルス感染症の影響で感染防止対策を行って規模を縮小しての実施となった。その様子をニュースで見て筆者が詠んだ歌である。
 美しく桜が咲いても昨年に続き花見はできす、接触や蜜を避けるため人に会うこともままならない。この生活はいつまで続くのだろうか。日本のように人びとの自粛に任せてそれなりに行動が抑えられている国は珍しいと言われている。国民性と言えばそれまでだが、なぜそうなったのか。聖徳太子が作った十七条の憲法は第一条「和を以って貴しと為す」で始まる。日本人はその精神を現在まで受け継いできたのではないか。聖徳太子は当時猛威を奮った流行り病で亡くなったとされている。三宅さんのお調べになったところでは天然痘のようだ。太子はちょうど今の筆者の年齢で亡くなった。千四百年の時を越えて、今一度太子の教えに耳を傾け、コロナ禍を生き抜いてゆかねばならない。そんな気持ちでこの歌を詠んだ。
 
  夫とゆく揃いのマスクでコロナ禍を
     浮世さだむや総合病院 弘子
 
 上句を読んで仲の良いご夫婦が一緒にご旅行にでも出かけられるのかと思って下句に進むとお二人で通院されることがわかり一気に緊張が高まる。本作は先日夫に病気が見つかりご夫婦で病院に行かれたという嶋田弘子さんの歌。二人で通えるのは嬉しいが、その場所が病院でしかもコロナ禍。夫の病気とコロナの両方が心配になる。どうしたものか。その浮き世を定めてくれるのが大きな総合病院というまとめ方はお見事である。
  自衛隊訓練生はひたすらに
     パドル動かす春のうしほに 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。自衛隊武山駐屯地に陸上自衛隊高等工科学校があり親元を離れて全国から学生が集まってくる。今の時期は学校前の長井の湾でカヌーをやっている姿をよく見かけるそうで、学生は必死にパドルを漕いでカヌーを進めるが、腕力の違いが如実に現れると仰る。まだあどけなさが残る新入生も厳しい訓練を受けて卒業する頃には心身ともに逞しくなり立派な自衛官になって巣立ってゆく。在学中は給与が支給されるのだから規律や訓練は相当厳しいだろう。三宅さんの歌からもその厳しさが伝わってくる。
 「春の潮」という言葉から受ける温かい海でみんながのんびり遊んでいるような印象とそのような場所で「ひたすらにパドル動かす」と彼らが真面目に厳しい訓練に取り組んでいるという二つの言葉の組み合わせが秀逸であると仰るのは清水さん。たしかにその通りである。遊びたい盛りの若者たちが楽しくしている人たちを横目にストイックに訓練に打ち込むその姿が目に浮かんでくる。
 歌会を終えていつものようにカフェ・キーに移動する。お茶をいただきながらしばらく歓談する。
 今回の勉強では、五・七・五・七・七で各句を前後逆転させたり言葉を少し変えたりすることで短歌としてとても引き締まったように思う。その助言をされた濱野会長は後で申し訳なかったと言われたけれど、散文の調子から詩的な短歌に仕上がった感があり、皆さんに参考にしていただけた。筆者自身も皆さんの歌を読ませていただき、その歌をどのような思いで詠まれたのかを伺って、その思いを伝える表現を工夫するやり方を濱野会長の助言から学ぶことができて大変勉強になった。
 コーヒータイムを終え、お店を出るころには雨も小ぶりになっていた。港の向こうには城ヶ島が見える。今日はまさに「雨はふるふる」である。新型コロナウイルス収束の兆しは見えないが、これまで外出許可が下りずにご欠席されていた清水さんに初めてお目にかかることができた。今回も実りの多い大変充実した一日となった。
日本浪漫歌壇 春 弥生 令和三年三月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 毎年気象庁から東京の桜の開花宣言が出される。今年は三月十四日で、昨年と同日の二年連続の観測史上最も早い開花日となった。桜は開花より一週間から十日ほどで満開となる。歌会が開催された三月二七日はまさに花は咲き誇り、木によっては少し散り始めて花びらが慎ましやかに舞っていた。桜を愛でるには最高の日となった。地球温暖化の思わぬ恩恵か。歌会は三浦三崎の「民宿でぐち荘」で午前十一時より始まり、第二部には花見の宴が催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の加藤由良子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  コロナ禍で自粛の日々も桜咲き
    鶯鳴きて暫しの癒し 光枝
 
作者の嘉山光枝さんは自然豊かな場所にお住まいで、この時期にはご自宅の側に咲く桜の花を眺めていると鶯の鳴き声が聞こえてくると仰る。コロナ禍で自粛が求められる生活に変わってしまっても、自然の営みはいつもと変わらない。春になれば木々は芽吹き、鳥はさえずる。身近にある自然の美しさに癒やされ、安らぎを得ましょう。本作はコロナ禍でどこか窮屈で落ち着きを失った社会に対しての嘉山さんのメッセージだろう。
 鳥の中でも鳴き声が美しく印象的なのはやはり鶯である。容姿はメジロの方が「うぐいす色」で、鶯は緑よりもむしろ茶色っぽく、鑑賞するならメジロ、声を聴くなら鶯と皆の意見が一致。メジロの話が出たところで、濱野会長から「メジロ取り」という東京青梅市で聞いた慣習についてのお話があった。「メジロを取らせてください」と言って他人の庭に入って行くと、その家の奥様がどうぞどうぞと縁側に招き入れ、お茶が振る舞われる。しばし待っていると妙齢なお嬢さんが出てきて挨拶をする。実はこれは結婚の聞き合わせで、メジロ取りに扮して言うと相手もそれを心得ていて応対する。梅で有名な青梅市ならではの慣習である。
 梅の花にはどこか可愛らしさがある。「梅」といえば確かに「メジロ」が似合う。「桜」にはどんな鳥が似合うのか。「桜」と「鶯」というのであれば、こんな歌はどうだろう。
 
  世の中に絶えて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし 在原業平
 
 業平の有名な桜の歌を良寛が本歌取。
 
  鶯のたえてこの世になかりせば
     春の心はいかにかあらまし 良寛
 
 続いても桜の一首。
  潮風とお湯の温度が絶妙と
     露天に入る桜と共に 由良子
 
 作者は本日ご欠席の加藤由良子さん。海を望む露天風呂には桜の花びらが浮かび、潮風で温度は絶妙。そこまで言われてしまうと誰もが今すぐ行きたくなる。ご本人から寄せられたコメントによると、「新聞のチケット案内が当たり油壺の温泉ホテルに行って露天風呂を楽しんで詠んだ歌。春とは名ばかりで外は寒くお湯は熱い。目の前の桜の大木は散り始め、前方に海を見ながら入る露天は最高だった」とのこと。出席者の皆が羨ましく思うとともに加藤さんのますますのご健勝をお祈りした。
 
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 濱野会長より上田三四二の短歌論『短歌一生』に「心の色」と題する文章があることを教わった。上田三四二は謡曲「熊野ゆや」で覚えた「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」という文句はまさに短歌に当てはまると述べている。短歌の技法とはこの内なる思いをどう形にあらわすかの工夫に他ならず、作品の高低は、作者のその時期における生き方の気息に照応しているとする。「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」すなわち歌には心の色があらわれる。これほど明解な短歌論があるだろうか。紀貫之が『古今和歌集』「仮名序」に書いた「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」にも通づる。
 嶋田さんの歌は心の色がストレートに出ていて素晴らしい。
 
  春は惜しみまかる師の影時移り
     桜吹雪の日和も疎まし 成秋
 
この春に敬愛する二人の恩師と小学校のクラスメートを亡くされた濱野会長がお詠みになった歌。春といって思い出されるのは西行法師の歌だそうで、同じ死ぬなら花が咲いているその下で自分は死にたいと西行法師は言うが、いくら春でも大切な方がこんなに多く一度に亡くなられてはたまらない。春が散らすのは桜の花だけではないのだとしんみり仰る。
 
  願はくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ 西行
 先生との良き思い出の時が移り師の薨る姿に手を合わせなくてはならない日が来た。それも春に。薨る人がこんなに多いと桜の花を見てもよい日和だなんて思えない。本日この会に来てその暗い気持ちからようやく抜け出せて桜を愛でて春になってよかったと思える心境になれたと濱野会長。
 筆者は「薨」という漢字を初めて見た。「身罷る」の漢字表記が普通だが、「夢」の下の部分に「死」と書いて「みまかる」となるのは知らなかった。調べてみると、「薨去」という言葉があり、皇族などが亡くなった際に使われるとのこと。「身罷る」ではなく「薨る」。濱野会長がいかに恩師を敬愛されていたのかが漢字一字で表現される。日本語は奥深い。
 
  雨は降る舟よ動けと念じても
     舟は繋がれ 白秋を恋う 和子
 
 今回も外出許可が下りずにご欠席の清水和子さんの作品。コロナ禍で外出できないご自身を舟に喩えられたのでしょうか。嘉山さんによると清水さんがお住まいのホームはすぐ前が諸磯湾とのことなので、湾の船を見てお詠みになったのかもしれない。「白秋を恋う」という結句から白秋と何か関係があるのかと思っていたら、三宅さんが白秋の作詞した『城ヶ島の雨』という歌があり、詩には「雨はふるふる」や「舟はゆくゆく」という言葉もあるので、その歌で白秋を思って詠んだのだろうと推断。
調べてみると『城ヶ島の雨』は大正二年に三崎に住んでいた白秋が作った詩に「どんぐりころころ」などを手掛けた梁田貞が曲をつけた舟歌である。詩は当時の白秋の苦しい心境を表していると思うが、舟歌にしたのは自らの新たな船出を願ってのことではないか。現在城ヶ島大橋のたもとには白秋直筆の詩碑がある。
 
  病む友の恢復願ひ宮参り
     梅の匂ひのけふは柔らか 裕二
 
 知人が病気で治療中と聞いて、一日も早く完治してもとの生活に戻って欲しいと願いお宮に参拝した。その時に筆者が詠んだ一首。病気がよくなるという意味では「快復」という漢字が使われるが、知人は行動的な人でいつも忙しくしていた。病気はもちろんその活動的な生活も元に戻って欲しいとの思いから「恢復」にした。
 下句の柔らかい印象から作者の友人を思う気持ちが伝わってくるとのご感想を皆さんからいただいた。菊は香るが梅は香らない。梅の「香り」ではなく「匂ひ」としているところが良い。この歌には気品さえあるとは濱野会長のお言葉。
 
  枇杷の花、梅の花へとくる野鳥
     しばらく群れて直ぐに飛び立つ 良江
 三浦は野鳥が多い。先日もとんびの行動が印象的だったと作者の玉榮良江さんは仰る。玉榮さんのお話では、ご自宅の近所の山にとんびが巣を作っていた大木があり、その木が伐り倒される際に作業員に向かってとんびが飛んできた。まるで伐採に抗議するかのようだった。山には小さいとんびも飛んでいたので、その木で生まれて巣立ったのかもしれない。なぜ木が切られたのかは伺わなかったが、巣を失ったとんびはどこへ行ったのだろうか。
 「しばらく群れて直ぐに飛び立つ」の部分はまったくその通りで、鳥というのは、いるのは一時で直ぐにいなくなる。よく俳句は写生と言われるが、短歌も自然やものをよく見ることが基本だろうと三宅さん。写生歌といえば正岡子規の有名な一首が思い浮かぶ。
 
  瓶にさす藤の花ぶさみじかれば
     たゝみの上にとゞかざりけり 子規
 
 何気ない客観描写のようだが、子規が晩年病床に伏していたことを知る者ならば、花をどこから見ているのかと視線の位置を考え、歌に描かれていない作者の姿さえ見えてくる。さらに描写自体がどこか彼の心の声のようにも思えてくる。優れた写生歌は多くのことを物語る。
  五十円大根二本求めると
     傷ある大根一本おまけ 尚道
 
なんとも個性的な歌である。「五十円」「二本」「一本」と数詞が多く使われ、出てくるのは「大根」だけ。普通ならばただの説明になるところだが、これが歌になっているから不思議である。
 本作は以前にも「五十円大根」を詠んだことがあると仰る三宅尚道さんの歌。今年は野菜が豊作なのにコロナの影響で需要が減り売れなくて農家は困っている。捨ててしまうくらいなら五十円でも売った方がよい。形が悪かったり傷ついたりしたものは出荷ができないからおまけで付けられているそうだ。三浦なので三浦大根だろうか。筆者の暮らす東京のスーパーでは青首大根ばかりで三浦大根は見かけないが、煮物にすると美味しいですよと皆さんが教えてくださった。
 大きくて美味しい大根が五十円とはなんとお得かと思ってしまった筆者はこの地では「よそ者」の証拠だろう。誰にとっても安いのはありがたいが、地元の誇りの大根が投げ売りされていれば、どこか悲しく切ない気持ちになる。そうさせる社会に対しての疑問や怒りの感情も静かに湧いてくる。スーパーの広告文句のように淡々と述べられるとなおさらである。作者はそこまで計算している。
 充実した歌会を終えて別室に移り春の宴が始まる。地元で評判の「でぐち荘」さんのお料理をいただく。筆者は三度目だが、皆さんはよく来られているようで、三浦は海と山の両方の幸に恵まれた土地ゆえに地の食材を活かしたお料理はどれも絶品だった。三崎の鮪も入ったお造りに金目鯛の煮付けやサザエの壺焼きなどの海のものに加え、和え物や煮豆に天ぷらや茶碗蒸しなどの山のもの。美味しいだけでなく品数も多い。天ぷらの盛り合わせには蕗もあった。蕗の天ぷらをいただくのは初めてだったが、歯ごたえがあってとても美味だった。大根のはりはり漬けはもしかすると三浦大根だろうか。目の前の諸磯湾の天草で作った自家製のところてんをデザートにいただき大満足でお食事を終了。
 前回の歌会で嶋田さんから伺った十三塚に皆で向かう。車でしばらく坂を上がって行くと四方を見渡せる見晴らしの良い丘の上にある嶋田さんの菜園に到着。とにかく景色が素晴らしい。なるほどここに立って空を見れば歌を詠んだ嶋田さんの気持ちもよく分かる。
 十三塚に関しては三宅さんが調べて資料をくださった。みうらガイド協会が発行する『三浦の散歩道』に田中健介氏による十三塚への言及がある。田中氏によると『新編相模国風土記稿』(一八四一)に十三塚は「村の東方に相並て在り、高さ六尺許」と記されているとのことで、田中氏は地元の歴史研究家の案内で一箇所だけ塚を見つけることができたと書かれている。
 嶋田さんはすでに塚の土地の所有者の方から話を伺い塚についてお詳しい。嶋田さんの案内で私たちは三箇所を訪れることができた。そのうちの一つは残念ながらそこにあったと伝え聞くのみで塚の痕跡はなかった。他の二つは高さ一メートルにも満たない小さな塚が確認でき、一つには卒塔婆も立っていた。『新編相模国風土記稿』の高さ六尺となると百八十センチぐらいになるので、この塚ではないだろう。
 十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚だと言われているが、彼らが亡くなってから約五百年が経過し、現在わずかにいくつかの塚が残るのみである。実際に塚に家臣は埋葬されたのか。他の塚はどこにあるのか。歴史家であれば事実も重要だろう。しかし事実よりも先人を思う気持ちが重要ではないかと筆者はこの場所に来て実感した。先人も同じ空を見たのだろうかと思って嶋田さんは「時の動きを中宙に視ゆ」と詠んだ。上田三四二は「歌には心の色があらわれる」と言うが、人を思う気持ちが歌になる。濱野会長は恩師を、筆者は病気の友を、清水さんは白秋を、より広く植物まで含めた衆生となれば、本日の詠草はすべて彼らへの思いを詠んだものだ。晴天の空の下、眼下に広がる風景と畑に咲く花を眺めながら催されたノンアルコールの「酒宴」の席でそんなこともふと考えた心洗われる佳き日であった。
嶋田さんの菜園にて。左より嶋田弘子氏、嘉山光枝氏、濱野成秋会長、玉榮良江氏、三宅尚道氏。
別の塚。草に覆われて見えにくいが卒塔婆も立つ。
十三塚の一つ。畑の中ほどにある突起が塚。