雨月物語 断章 朽木篇
                   橘かほり
  
 人の世は断章で出来ている。
 起承転結がありそでない。
 世の中が騒乱の渦の中で生きる家族なんぞ、気の毒だが、そこに確かな拠り所など、縋れる糸口さえ見当たらぬ。
 古今東西、人は断章の、脈絡ない繋がりに調和を求め、或いは調和を施さんと足掻くが、思い通りには運ばぬ。投げ出して諦めるほか、手立てがないのが普通である。
 
 上田秋成の『雨月物語』のプロトタイプは千葉県の真間の手児奈だというが、その奇態な妖怪霊魂は能楽に端を発する。それをそっくり湖北にして再生した溝口健二の『雨月物語』もまた彼の独占物に非ずして、ここに描く『雨月物語』朽木編もまた然り。その誘因地帯を異にして、日本の古典にみる愛欲憎悪のどろどろ地帯を描くものなり。
 
  一、誘因地帯
 
 賤ケ岳や湖北といえば、今では写真家の聖地である。峩々たる岩山から下れば葦の湿原。茫漠たる湖の岸辺に立てば、戦国時代に戻れる。だがこの霊地では世人の侵入をゆるさない怖さを宿しているばかりではない。
 賤ケ岳は今も鬱蒼たる山々。朽木の隠れ里は村全体が妖気に包まれている。だから憑りつかれて二度、三度と行きたくなる。誘因の怪地である。
 本当か?
 疑うなら行ってみるといい。むら外れの卒塔婆群の前で耳を聳(そばだ)てよ。ずだん、ずだん! 今も鈍重な種子島の炸裂音が響き渡る。
 賤ケ岳は古戦場として名高い。急峻すぎて分け入れない。いまだ片づけられない折れた刀やちぎれた具足が散らばる。種子島の音が今日も岩々に響き渡る。 
 朽木では、狐雨となり、斜陽の中に朽ちた御殿が浮かび上がる。夕刻。薄明を突いて絶え絶えに聞こえる姫の声が渓谷を這い上る。
 もう四百年も前に潰えたはずだ、この地の集落跡は。だが今も物見岩では断首刑の血潮が飛沫となって君の顔面に降り注ぐ。逆転の歴史に打ち震える戦慄は君を現実社会というフェイクな空間から救ってくれよう。
 
  二、火と炎の地
 
 柴田の軍勢が自分の領地に飽き足らず踏み込んで来た?
 北国へ追いやったのも束の間、勢力を盛り返したらしい?
 柴田や羽柴の名を借りたありきたりの歴史を拭い捨て、鉄砲野盗(のぐさり)が凌辱を恣(ほしいまま)にする現象社会に降り立つとよい。生暖かい霊気が毎夜のごとく枕元に立つ。
 朽木や賤ケ岳だけではない。湖北一帯の村々に人を吸い寄せるには、そこに人間臭い生活以上の愛憎がなくてはならぬ。
 離れんとして吸い寄せられる。それにはわけがある。
 土地と火だ。
 良質の粘土が採れる。丹波や信楽系の粘土はやたら高度な焼き上がりを好む。赤松の、脂(やに)をたっぷり含んだ丸たんぼうは登り窯で千度の高温で燃え盛る。焼いた茶碗や皿は土気臭くない。灰が釉薬となり、窯変を創って好まれる。
  三、妖魔の錬金術
 
 ここに登場する源十郎はその虜になった。彼の一家や、その弟の藤兵衛夫婦は朽木とは深山を隔てた山里に住み着いた。ここなら軍勢も来まい。焼き畑で米も出来る。登り窯で陶器を焼いて、坂本や大津、果ては長浜まで運んで売れば、結構な金になる。粘土と赤松。ここでも狐雨。薪あるところ、生活にゆとりが出来る。
 だが浅井、朝倉を巻き込んで秀頼と勝家の戦となれば…
 「ここは危ない。今に俺たちも襲われるぞ…」
 村人にとって怖いのは勝家でも秀吉でもない。
 飢えた侍どもが村々を襲って食い物を漁る。拒まれると槍で一刺し。娘はかどわかす、若者は忍苦に。捨て石に使われる。高台に登って遠く、琵琶湖の方に目を凝らす。
 
  四、源十郎一家
 
 「おうい、どうだ、攻めて来よるか」
 「暗くてよく見えん」
 「おい、あっち、見てみぃ、稲を踏みつけやがって、こっちに向かってやってくるぞ…」裸足で駆け降り、「この勢いじゃ、村の衆もみな殺しじゃ、山に逃げるしかないぞ!」
 草葺き屋根の家々から赤子を抱き子供の手を引き…庄屋さんの指示に従い、里山に向かう。
 ところが逃げもせず、見送りながら平然としている奴がいる、「へっへ何の心配が要るか!、俺は羽柴様につくぞ。羽柴の殿様の家来になって出世してやる」
 ぼろで肩綿を縫い足した男の独り言に脇の男が顔を顰(しか)める。
 「藤兵衛! この馬鹿野郎、刀の扱い方も知らんで…お前なんぞ苦役にこき使われるのが関の山じゃ」
 言ったのは兄の源十郎だった、「藤兵衛、そんな夢より、食い物が先、出世より女房子供が大事だ」「わかってるよ、兄い、じゃが俺は百姓はもう懲り懲りじゃ…いくら作っても何もかも持って行かれる」
 「さあ、そこでじゃ…藤兵衛、百姓じゃ食えんが、ほうれ、今焼いとる瀬戸物があるぞ」と目の前の登り窯を指す。小窓から炎がめらめら燃え盛る。それに赤松の薪を放り込み、炎を泥板で塞いで、「この中にゃ小判の元がある…湖(うみ)を渡って向こう岸は長浜じゃ。お前の好きな羽柴様のひざ元じゃ。ええ商売ができるぞ」
 「そうか、小判になるか」
 「なるとも。それで阿浜を喜ばせてやれ…阿浜も子供が欲しいんじゃ。母親になりゃお前にも優しくもなる」
 藤兵衛は我が家に目をやり、いましも凄い剣幕で出てきた女房を見ながら、
 「いいや兄い、俺は兄ぃみたいに、優しい、美人の嫁に恵まれなんだ…同じかかあでも阿浜は怒鳴るばかりじゃ…それよか侍がええ。これからは槍じゃ、鉄砲じゃ…偉くなりゃ、いくらでも優しい女子(おなご)に惚れられるわい」
 「おい、阿浜に聞こえるぞ。…足軽鉄砲隊になったぐらいじゃ、女から相手にされんわい」 
 
  五、妻の秘密
 
 兄の源十郎には好きあって添い遂げた妻の宮木とまだ三つの息子がいる。
 宮木は湖尻の大津から故あって着の身着のまま逃げてきた素性の判らぬ女子だったが、色白で指の流れも百姓の手とはちがう。握ると源十郎の掌(たなごころ)の中でもがく白魚のよう。もしや遊女? そのうち女衒が探しにくるか…いいや、この物言い、気品のある薄化粧…何もかも見知った村娘とはちがう妖艶さだ…
 宮木は元は姫さま? 巫女? それとも雪女?
 用心せい、源十郎よ、素性の悪い女は子を作ってもすぐ他所へ
 という親の反対を押し切って夫婦になっただけあって、幸せな家族を作らねば死んだ親に申し訳が立たない。
 「宮木さんは高貴な家柄…あの白い肌をみれば…」
 死に際に父親(ててご)はそう言う、「身分不相応な…源十郎…あるいはもしや…」
 あとは言わないが、聞かんでも判る。戦乱の果てに苦界に…と言いたいらしい。「そんなに気にいったのなら、お前が働いていい着物(おべべ)でも着せてやらにゃ…」
 宮木に手の汚れる百姓をさせては、折角の夫婦も続くまいと言い遺した父親の言葉を思い出す。
 
  六、血脈の秘密
 
 「兄やん、また上等(ええ)小袖、買うてやるのか、姉さまに。ええな、ええ嫁御でな、こっちの嫁は…」
 言いかけたところで阿浜に見つかった、「藤兵衛! 藤兵衛! このぐうたら野郎」と、首根っこを掴まれた。
 「兄ぃ、ほらこの調子じゃ、村娘を貰うと毎日怒鳴りよる」
 「元気で何よりだ、阿浜は」
 俺はな、兄い、と語りだした。「俺が一国一城の主になりたいのはな、阿浜よか、宮木みたいな、別嬪がええ…
 「馬鹿なこと言うもんじゃないわい」と阿浜は藤兵衛の頭を叩く。「兄さま、許してやっておくんなさい、この人は宮木さんを盗ろうなんて思うとるわけじゃない…だけんど、わたしって者がありながら…」とまた藤兵衛の頭を小突きまわす。
 藤兵衛は頭を抱えて「わしにはもっと優しい南殿がええ」
 「南殿? あの竹生島の?」と、阿浜。
 「ああ」と答え、「…いかんか? お前もあん娘(おなご)のようにならんか」
 「あはは。ありゃあ…お姫様ぞな、今じゃ…もう人の妻」
 「知っとる、羽柴秀吉様のお妾さん」
 「しいっ」と、源十郎は口に指を立て、「…聞こえたら首が飛ぶぞ」
  七、里山の兄弟
 
 そうこうするうちに村人は大半が里山に入ったらしい。
 宮木が出てきた。「藤兵衛さん阿浜さん、ここは直ぐ見つかる…」
 遠くから走ってくる村人。おい、早くせんと…さすがの源十郎も藤兵衛も行きかける。
 「おい源十郎!藤兵衛! 早うせんか!」名主の顔が藪の間から見える。「村の衆が隠し畑で飯を炊いておる…早う! 早う!」と手招きする。
  二人は顔を見合わせ、走り出す。
 里山に潜り込めばよそから来た雑兵は撒ける。「おっと…宮木だ…坊主も一緒だ」と源十郎は弟を待たせて家に跳び込み、子が首にぶら下がる妻を連れて出てきた。あれ? ではさっきの宮木は?
 宮木は先をゆく。今出てきた宮木も小太郎も同じだとすれば…わからない。
 まるで狐に摘ままれたようじゃ…
 「ほらもう握り飯を作りましたよ」宮木の声。「竹の皮の一つが藤兵衛にもわたる。それを懐に、細い獣道(けものみち)をよじ昇る。
 後を追って阿浜は鍋一杯の稗と味噌、塩…袋づめの米も。
 「姉さん、この袋…」
 手渡されて宮木は目に一杯涙を浮かべて、ほんとにありがと、阿浜さまのお陰で…と、頭を下げると、それを抱き支えて、源十郎に目をやり、「兄さん、後生だからこの藤兵衛に小判、やったらあかん、この男、ろくなもの買わんでな…」
 「長浜へ行ったら…なあ、兄い、たっぷり儲けて、具足を買う、手柄立てて
 阿浜、腰抜かすぞ、家来と一緒に里帰りしたら…」
 「この馬鹿め、また言うとる。百姓は…」「秀吉さまを見ろ、百戦百勝…」
 里山の雑木林を燃やして作った隠し畑で村の衆は家族ごとに夕餉の支度。隣の畑から煮干しが来た。こっちから黍団子を返す。百姓は何だかんだ言うても、この助け合いで生き永らえるで、と村長が見回りに来ていう。「そうですとも、宮木、うちの村さ嫁に来てよかったな、あすは長浜じゃ、ここでいつまでもおれん、宮木も阿浜も来るか?」
 源十郎がいうと、阿浜はおずおず、「舟で渡る?」
 「阿浜、漕ぐのは得意だろう?」
 「海賊が出よるぞ、昔のようなわけにいかん」と阿浜。
 結論が出ない。
 見ると藤兵衛が居眠りし始めた。阿浜は源十郎の子をあやしていたが、宮木と一緒に藁しべを重ねて寝床を造り、明日のことは、明日考えよう…
 焚火を消して暗闇になる。
 
  八、船幽霊
 
 朝もやを突いて、湖畔に出る。子供がぐずる。宮木がおっぱいをやる。
 「おい、あった!…ああ、御仏様のお陰じゃ」
 源十郎は破船ばかりの岸辺に腐りの少ない、櫂のある伝馬船を探し出す。
 風だ、雨交じりの。
 この船、漕ぎだして、持ち主の漁師に見つかれば…と、宮木は懐から革袋を出す。源十郎はその口にきらりと光るものを見た。小判か? 頷く宮木。有難い、お前様のために…
 藤兵衛と二人で村に取って返して窯の土を壊して、中からこぼれ出た茶碗、皿、壺、「…おお、見事な窯変…」
 薄明に晒して源十郎は藁しべでまだ熱を持つ焼き物を車に乗せる。
 海賊も明け方は寝ている。それを見越して一跨ぎすれば明け方は長浜だ。皆で行くべし。
 源十郎の誘いに応じて二家族が漕ぎだした。朝もやの中、ゆるゆる進む。どっちが東か…下手をすると大きな円周を描いて、同じ岸辺に着く。だが、幽かな明かりを頼りに進むほかない…
 小半時も漕ぐ。向こうから舳先がこっちに向かって…海賊に見つかったか?
 「いや、誰も乗ってない…」
 …と、顔を擡(もた)げた。その形相! 血だらけ…
 「船幽霊…」宮木の喉から上ずった声。俯いて…「なぜにそなたは私に憑りつくぞ!」
 そのまま顔を伏せる宮木の肩を両手で抱いて「姉さましっかりされませ…」阿浜は「怨霊よ去れ!」
 気強く叫ぶと相手は「幽霊じゃない…」
 血だらけの形相で口をゆがめ、「やられた、海賊に…俺は竹生島の漁師だ…姫を夜陰に乗じて島から連れ出せと殿様が…湖北の朽木まで行けば味方が待つはず…だが、やられた」
 後ろの積み荷にかけた莚(むしろ)が動く。
 「姫というたか?」と藤兵衛。「…ではもしや南殿?」
 と、莚の下から、衣笠を被った女が青白い顔をみせた。
 「おお、忘れもしない、おぬしは姫じゃ、姫じゃ!」源十郎は小躍りせんばかり。「俺を覚えているか、まだ小女だったみぎり、溺れていたのを、俺が舟で引き上げた…ああ、その目、そのくちびる…わしは一目でお前さまのことが…」
 「何という、はしたないぞ藤兵衛! わたしって者がありながら」阿浜は怒る。「今更そんな…あっ!」
 顔を覗き込んで阿浜はそなた…なんと宮木姉さまにそっくりではないか!」
 と、宮木の顔を覗く。ぐったりした宮木は目を閉じたまま。「お姉さま!」と頬を叩く阿浜。「気を失われたか…」
 宮木は目を閉じたままだ。もしやこと切れたかと阿浜が顔を叩くと、宮木は切れ切れに…「そなた…そなた、秀吉さまの長浜城に行かれたのでは?」
 「いいや、あれは替え玉じゃ、お姉さま」
 「それではお二人は…」源十郎はあらためて自分の妻の生い立ちを知ってたじろぐ。「しかし、もう俺たちには小太郎という子まで…引き離されてなるものか、と我が子を抱きすくめる。いくら秀吉が金持ちでも妻ある身、側女(そばめ)をとるなんぞ、なんとも無体な。許すまじ…わしはいやじゃ」
 「当たり前よ、兄さま、宮木さんには次の子まで…」
 「本当か? わしは聞いておらん、宮木、それは…」と蒼白な宮木の顔を覗く。朝霧の中、わが妻よ、子よ…
 舟のゆれるも構わず抱き寄せる源十郎。
 「宮木、身分のことは忘れてわしと小太郎と生まれて来る子と貧しいながら一緒に暮らそう」というと、宮木は何度も頷いて、わたしもその積りでござりますると、薄目を開いて源十郎を見上げる。「そうか、そうか…良い嫁をもろうた、御仏のお導きじゃ…」
 言いながらも不安なのであろう、源十郎ははらはら涙を流し続けた。(了)