「湯の町エレジー」と大戦直後の日本人
                   橘かほり(作詞家)
 
  古賀メロディの歴史歌謡を受け継いで
 
  はじめに
 
 その熱意にほだされて筆者は何曲作詞したことか。そのどれもが、爆発的に歌われ出したことが、筆者には当然のこととも思える。「なぎさ橋ブルース」、「涙の観音さま」、「ノストラダムスの魂」…筆者の詩に作曲するジュン君。彼女はつねに浪漫歌手らしく、感情を體全体を籠めて謡う。大磯の坂田山にて「天国に結ばれた恋」の昭和一桁の悲恋の歌も、戦後に大流行した「湯の街エレジー」も、淡谷のり子の歌も涙ながらに唄うからである。かてて加えて、この度は『伊豆の踊子』の舞台伊豆の里で、淡い恋心をこめて歌う機会が来るかも しれないが、これは未確定である。
 
  さまよう戦後の日本人は
 
 古賀さんの哀愁に満ちたギターが鳴って導入される「湯の町エレジー」は昭和23年に出て、近江敏郎の甘い調子で大ヒット。伊東あたりの酒場が舞台でも、全国的に拡がった。こんなに拡がった歌もめずらしい。そのわけは、、流しギター弾きも回って歩いた、まだカラオケなど全くない路地裏には似合ったことももちろんだが、当時の日本の社会事情を良く掴んだ歌詞に起因する。
  伊豆の山々 月淡く
    灯りにむせぶ 湯のけむり
  ああ 初恋の 君を訪ねて 今宵また
    ギター爪弾く 旅の鳥
 
 この4行で、情景も、わけあり男の身の上も、見事に出ている。作詩の妙は格別に上手い。聞いていて、さて、それからどうした? 見つかったのか? この未練がましい男の相手は? と、誰しも惹き込まれて、2番につながる。
 
  風の便りに 聞く君は
    出湯の街の 人の妻
  ああ 相見ても 晴れて語れぬ この思い
    せめて届けよ 流し唄
 
 そうか、可哀そうに、奴は上海か蘇州か、いや南方かもしれん、その辺りで恋をして、引き揚げで離れ離れに。戦後になって3年、いまだに居所が分からず、ギター抱えて彷徨い歩く身の上か。終戦が昭和20年だが、復員や引き揚げは相変わらず多く、NHKラジオでは戦争孤児を何十人と保護せんと、必死に働く姿をドラマにした『鐘の鳴る丘』を毎日放送しているし、同名の主題歌は全国の小学校の校庭に流れていた時代。「尋ね人の時間」もあって、「吉林省にお住まいだった何某さん、何某さんがどこそこにおられます…」と、毎日長時間にわたって放送していた時代だった。
 だからこの歌のように、外地からの引き揚げ者が「風の便りに…」と、流しをやりながら酒場を一軒ずつ回る。その脇では、「軍隊酒場」が大流行で、「貴様のお陰で助かったと、戦友同士が軍歌を大声でやる。だが寂しげなギター流しが、もう人妻になってしまった恋人とぱったり出会っても、大っぴらには語れない。せめて歌でも…。
 
  淡い湯の香も 路地裏も
    君住むゆえに 懐かしや
  ああ 忘られぬ 夢を慕いて 散る涙
    今宵ギターも 咽び泣く
 
 『青い山脈』の主題歌の2番には、こんなくだりがある。
 
  古い上着よ さようなら
    さみしい夢よ さようなら
 
 という一節があるが、古い上着とは、カーキ色の、時代名「国防色」の「軍服」や「国民服」を脱ぎ捨てて、勝てもしない大戦争に「ほしがりません勝つまでは」と耐乏生活を強いられた、そんなさみしい夢なんか、捨てちまえ、というわけだが、だからといって、果たせぬ恋も、棄てちまえとは言えない。忘れられないのである。
 これが浪漫であり、激戦地で重症を負い、遂に息を引き取るとき、人は愛する人を想い天国を夢見て草生す屍となり、水漬く屍となる。
 戦後3年、世間では尋ね人をやっている。日本人はマッカーサー元帥の機転でララ物資を何万トンと貰って、食することで、大した餓死者も出ずに生き延びられた。
 昭和25年には朝鮮動乱が始まってジャパンは壊れた戦車の修理工場になるなど、特需景気に沸いた。産業界も息を吹き返した。今の小中学校ではこの時代の日本史はさらりと流す程度。だが、当時の代用食で生き永らえた少年少女たちは、がむしゃらに働いて、貧乏ジャパンをGDPでアメリカに次ぐ世界第二の繁栄国にして、アメリカの経済学者エズラ・ボーゲルをしていま「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」と言わしめた。今、平均年金20万円で細々暮らす90代の老人たちがその世代である。