歌謡『夜のプラットホーム』に見る
  別れの背景  橘かほり
 
  壱.星はまたたき 夜深く
    鳴り渡る 鳴り渡る
    プラットホームの 別れのベルよ
    さようなら さようなら
    君 いつ帰る

 
 別れの歌は切ない。殊に戦場に送り出す場合は複雑だ。愛する人を死ぬか生きるかの世界に送り出すわけだから。
 戦争とは運次第。隣が死んでも自分は無傷。今の子は戦争を知らないから、こう思うだろう。当時も日中戦争当時やハワイ奇襲の頃はそんな楽観論が多かった。だから送り出す側も陽気だった。「手柄頼むと妻や子が、ちぎれるほどに振った旗」なんて歌まで平気で唄っていた。「露営の歌」では、勝ってくるぞと 勇ましく 誓って故郷を 出たからは 手柄立てずに死なれよか 進軍ラッパ聴くたびに 瞼に浮かぶ 旗の波…と歌うのである。
 ところが昭和17年6月のミッドウェー海戦の大敗北いらい情報作戦で日本は敗戦の連続。それを大本営がいくら大勝利と喧伝しても、帰還兵から漏れ来る情報は悲惨な負け戦ばかり。
 こんな国家ぐるみの操り作戦で鼓舞される民は不幸だが、現代もその種の政策で民を操る国は色々。日本も何もかも真実かどうか、人は公的政策にもっと疑念を持つべしと助言したい。
 歴史談に戻るが、兵隊生活のいいところは飯がたらふく食えることだという発想が濃厚にあった。貧農家庭では次男三男を続々と立派な兵隊にと志願させ、戦場に送り出した。大学生には兵役猶予があったが、それは不公平だと無くなる。インテリ層の大好きなタンゴ調で「夜のプラットホーム」が出た頃はまだ日米開戦以前だったが、暗に反戦? と、軍部は神経を尖らせた。
 
  弐.人は散り果て ただ一人
    何時までも いつまでも
    柱によりそい 佇むわたし
    さようなら さようなら
    君 いつ帰る

 
 機関銃でバタバタ倒れる。生きて帰ったのは、俺一人だよ、という話が毎日のように届くと、単発歩兵銃の兵隊になる戦意が萎える。が、召集令状は絶対だ。予科練に合格した子まで、行くの、いやや、いややと家族にごねて入隊する始末。殉国型の特攻も盛んだった。「別れ」の背景は二つに割れる。当時は多分に公的で、いまのような個人主義では考えられない義務が伴う。「顔で笑って、心で泣いて」となるから、昭和19年の後半ともなれば、神州不滅、連戦連勝は、ウソだろうと多きは思ったが、口に出せないから、切ない。送り出される若者から笑みも消え、送る側も「勝ってくるぞと勇ましく…」の歌もやらなくなる。やがて昭和20年となると、軍部がいくら連戦連勝のニュースをNHKに強制して流しても、東京も大阪も都市部は焼け野原。空しい虚言が「別れ」の背景だった。
  参.窓にのこした あの言葉
    泣かないで 泣かないで
    瞼に焼き付く さみしい笑顔
    さよなら さようなら
    君 いつ帰る

 
 この歌が出たのは日米戦に至る以前で、時の日本では、「出征」とはソ満国境辺りに無理無理行かされることで、後年、外地とは南方を意味した。ところが多くは船倉でぎゅう詰めで寝ていてドカン! 潜水艦に穴を空けられ、闇の海に放り出されて、終わり。
 生死の「別れ」には、そんな闇までくっついていた。筆者は思う、国防は絶対必要だが、この種の「闇」を隠し持つ内国事情ではろくな国防はできん。十中八、九、戦わずして勝つ武士道精神をもって世界中から貴ばれ、東西両方から認められる国力を発揮し続ける以外、存続のすべはない。「夜のプラットホーム」の三番を聴くと涙が出て仕方がないが、そう思う。戦時中に淡谷さんが唄うはずが唄えず、戦後、述懐してNHKのステージでやっていた。気の毒だったが、神々しかった。(了)