濱野成秋の世論正論⑴
 
 NHKドラマの出鱈目でたらめと戦後風俗 警鐘作家 濱野成秋
 
  NHKは俗悪番組制作会社か
 
 俗悪番組が実に多いNHK。でたらめ主義を全国に知らしめている態度が濃厚。『鶴瓶の家族に乾杯』、『サラメシ』、『ブラタモリ』が三大マンネリ、長時間番組。止めてもまたやるしつっこさ。この三つ、長時間番組で、出たとこ勝負の構成。工夫も裏打ちも教化心もなく、主役の諸君も当意即妙どころか、口をついて出たアドリブと行き当たりばったりの会話で時間をつぶす。そこにはかつての教育理念もなく、当節流行りの迎合主義が目立つ。それが大都市圏に巨大なビルを幾つも運営するNHKの、事業維持哲学か。その体質の一環が読み取れて悲しくさえなる。国民の平均的知能レベルをここまで下に捉えるか。俗悪レベルに迎合してさえおれば、食っていける主義が露に見えるが、どうか。
 鶴瓶君は中河内出身で京産大中退だが果たして大阪人の神髄をご存知か。下品なセンスのお笑いさえ振り撒けば、それで大衆の間でヒットするという、低級な見下し視線か。目線が低く、差別主義者の感さえ感じる。本来ならPがカットするべき低俗センスだが、そこに犯罪性がないから、オール生かすのか。NHKはその程度の選球眼しかないのか。残念である。
 
  大阪の華麗な精神文化を振り返ろう
 江戸時代に引き続いて、明治大正昭和の三時代、空襲で丸焼けになる昭和20年8月までは、大阪の都市部は、谷崎の『春琴抄』に出て来る繊細高尚な地唄や清元、小唄端唄の家元そのものとも言える。一大高品位文化都市のレベルにあった。その豪華絢爛な大合奏の実態は昭和一桁代に高田浩吉が佐助、琴女を田中絹代が演じた映画にも表れている。戦後の作品では、京マチ子が琴女を演じた同原作の映像作品にも、その賢覧ぶりは如実に出ている。
 だが戦争末期、度重なる空襲で壊滅状態となり、気の毒にも吉本の庶民向け漫才や松竹新喜劇の路線だけが戦後残存した。道頓堀の中座と千日前の大劇が火の粉を被らず生き残った昭和20年代、バタやんこと、田畑義男が大劇で「帰り舟」を唄うと、聴衆はみな涙を流して聴く、そんな時代であった。
 松竹新喜劇は道頓堀の中座で曾我廼家重伍や渋谷天外の人情物で家族のほかにお妾さんや小粋な姑さんも出て、笑いと涙も誘う中々の出来栄えで、客席には森光子さんもしばしば勉強に来ておられ、家族的で上品な空気がいつも流れていた。これが大阪であり、大阪の洗練性であったから、笑福亭鶴瓶君の持ち味とは似ても似ない気品差がある。
 
  朝ドラのモデルとなった笠置シヅ子のブギウギ心配
 
 ブギウギが流行ったのは横浜の杉田劇場が初舞台の美空ひばりの登場と相前後するが、この二人は見事に時代の人情を掴む演出で庶民の人気者になったし、それはそれで、この時代の、ともすれば退嬰的かつ厭世的な太宰治調の絶望感を拭うに当たる存在意義があった。それだけに、知的センスを謳うNHKならば、それなりに制作面での最低の知識を持つべきなのに、それがこれから先も欠落していては笑い物になる。
 今度出て来た『ブギウギ』の戦後描写もその典型の一つである。この朝ドラは牧野冨太郎をモデルにした前作を受継いで登場したのだが、前作でも時代考証は不十分で東京帝国大学教授の会話一つを採り上げても、その偉らそぶった東大教授といった、愚かなパターンを全国民に示す場面など、東大の歴史を侮り見苦しく、つまらない。
 ブギウギの時代考証では、NHKの良識の欠落ぶりが堂々と発揮されていて、視ていて情けなくなる。当時、大阪の小学生は和服を着ていない。焼け野原で着るものもないから、兵隊さんのくれた服を着たり、ボロボロに汚れた御下がりを着て学校に行った。大阪をはじめ、周辺の大都市圏は空襲で焼け野原であり、小中学生が新品の和服を着て学校通いなど、そんな姿は見たことがない。ウソの風景であるから、視ていて白ける。
 
 これからもこの朝ドラの出鱈目を注視していこう
 
 筆者は『鐘の鳴る丘』、『君の名は』、『三つの歌』、『話の泉』、『バス通り裏』、『20の扉』など、NHKの黄金番組を明確に覚えている。どこには戦争孤児がいた、戦争で離れ離れになった男女がいた。どこの地方でも歌の世界があり、日本全国友達だの気持ちがあった。都会の庶民生活の良さもあった。NHKが映し出す人間の心に視聴者側は感激し拍手した。だが今はどうだ?
 NHKもかような出鱈目制作が罷りとおり、現クロも当初の、問題提起の精神を排除して中途半端な番組に終始している限り、池上彰のズバリ指摘の民法番組以下である。まともな銭を取る放送とは、上記のような出鱈目制作の上に成り立っているのか。情けない。今後も注視しようでないか。立派な制作姿勢をもって銭を取る巨大メディアと成れと祈りつ、改善計画を要求して。