日本浪漫歌壇 春 弥生 令和五年三月十八日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 東京の桜の開花発表は平年より十日ほど早い三月十四日であった。最高気温が二十度を超える日が数日続いたのが、早い開花に影響したのだろう。暖かい日が続き、すっかり春になった気分だったが、歌会当日には雨が降り、風は冷たかった。桜の花が長く楽しめると思えば、少々寒いのも我慢できる。入学式にまだ桜の花は見られるのだろうか。
 歌会は三月十八日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の七氏と河内裕二。
 
  包丁を毎日曜日研ぎくれし
     夫の心情十年後ととせご気づく 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。亡くなったご主人は、毎週日曜日の朝食後に何も言わずに包丁を研ぎ、終わるとご自分の部屋に戻って行かれた。その行動をずっと気にも留めなかったが、亡くなってから十年が過ぎて、ご夫婦での生活を振り返った時に、それはきっと旦那様の愛情だったのだと思われて歌に詠まれたそうである。
 
  ぬか床のきゅうりが苦い?宝物
     無くしてなるものかと手を入れる 弘子
 嶋田弘子さんの歌。お母様から受け継いだぬか床を現在も大切に使われている。嶋田さんにとってそれは宝物で、漬けた漬物をいつもご家族で美味しくいただいていたが、ある時きゅうりの味が苦くなった。このままではぬか床はダメになってしまう。「無くしてなるものか」という気持ちでできることはすべてやり必死に元のような状態にまで回復させた。かれこれ一か月もかかったとのこと。
 
  眼から鼻花粉は来たりくさめする
     年中行事の如く始まる 尚道
 
 作者は三宅尚道会さん。花粉症の方は共感できる歌である。まさに「年中行事」で、毎年同じ時期に苦しむことになる。三宅さんも花粉症になってもう二十年だそうで、それまで平気だった人もある日突然花粉症になると言われると、筆者のように花粉症でない者は不安な気持ちになる。花粉症の歌が詠めるとしても、この「年中行事」に参加するのは遠慮したい。
 
  在りし日の姿思ひて読むメール
     用件のみも言葉優しく 裕二
 
 筆者の歌。日々の仕事においては手紙ではなくメールでやり取りをすることがほとんどになった。過去のメールを確認することが必要になりキーワードで検索すると、探しているメール以外にも予期せぬメールが検索にかかることがある。先日も偶然に亡くなった方から生前にいただいたメールが出てきた。亡くなられてもう七年ほどになる。その方のことを思い出しながらメールの文面を読んでみると、用件のみを伝えるものであったが、言葉使いなどは生前にいつも優しくしてくださったその方のお人柄がにじみ出ていた。
  大阪は見所多しと息子より
     行く先々の写メール届く 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。大阪に転勤なった息子さんから送られてくる関西の様々な場所の写真を見ると、旅行気分になるそうである。楽しい気持ちを母親と共有したいと思う息子さんとその写真を楽しみにしている嘉山さん。心温まる歌である。
 
  思ふまま生きられぬとも年嵩ね
     なほ迫り来る波迎えなむ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。ある程度の年齢になれば、この歌に共感する人は多いのではないだろうか。「迫り来る波」をよけるのか、それとも迎えるのか。これまでの人生の経験を活かして「波を迎えて」よりよい人生を送りたいというお気持ちで詠まれたのだろう。筆者もそうしたいものである。
 
  いにし世を知らぬ存ぜぬ子らたちに
     すさむ思ひを語るも空し 成秋
  
 濱野成秋会長の作。「慌む思ひ」とは戦時中や終戦直後の大変な時期のことで、子供たちに話そうとしても、そんなことは関係ないという態度を取られてしまう。作者にとって非常に重要な現実も彼らにとってはただの歴史に過ぎない。歴史は繰り返すと言うが、再び戦争が起こらないようにするには、戦争とはどういうものなのか知る必要がある。しかし聞く耳を持たないのではどうしようもない。空しいお気持ちを歌に詠まれた。
  手の切れしヴィトンのバッグが買い取られ
     八千円にてらとランチす 員子
 
 作者は羽床員子さん。「手の切れし」というのは、縁が切れたのではなく持ち手が切れたという意味。そのような状態のバッグでも八千円で買い取られるとは驚きである。修理して中古品で売るのだろうが、持ち手が切れるほど使い込まれたものでも欲しい人はいるのだろうか。
  
  トンネルを越えれば雪国白銀に
     今一度会いたし待つ人なけれど 和子
 
 作者は清水和子さん。川端康成の「雪国」を思わせる上句に、下句は百人一首にある「小倉山」で始まる藤原忠平の歌の下句「いまひとたびのみゆきまたなむ」を思わせる。どこか聞き覚えのある歌になっているが、光景が目に浮かんできて、映画の一シーンを見ているようである。待つ人はいないけど会いたいという気持ちも理解できるし、三月とはいえ北国の山間部ではまだ雪が残っている場所もあるだろうから、現実の光景と言ってもおかしくない作品だろう。
 
 春夏秋冬、日本の四季は素晴らしい。季語を入れなくてはいけない俳句とちがい短歌は季節感を全面的に表す必要はないが、それでも季節感は歌に彩りを添える重要な要素である。今回は三宅さんと清水さんの作品が季節の歌であった。自然を描写すれば自ずと季節が現れる。次回は四月。春を迎え、桜を詠む歌は何首よせられるのであろうか。