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日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」
 
歴史探訪
  出雲尼子氏の源流を求めて
             日本浪漫学会 福田京一
 
   近江の海夕波千鳥汝が鳴けば
      心もしのに古思ほゆ     柿本人丸
   さざなみや志賀の都は荒れにしお
      昔ながらの山桜かな     平忠度
   定めなき世をうき鳥の水隠れて
      下やすからぬ思ひなりけり  道誉法師
 
 月山富田城にて
 
 もし一五七八年六月二十八日信長が羽柴秀吉に播磨国上月城に籠城している尼子軍を見捨てずに、共に毛利軍と戦い続けるように命じておれば信長の庇護の下、尼子氏は復活できたかもしれない。しかし、秀吉が引き上げたのち孤立した上月城は毛利軍に降伏した。尼子氏最後の大将・勝久が兄・氏久と共に自害したとき、全ては終わった。
 月山の頂上に立つ山中幸盛塔を見ると、戦国時代の末期に歴史の舞台から消えた尼子一族の結末に戦国武将の皮肉な運命を見ることができる。尼子氏は歴史の一時期、中国地方では守護大名大内氏と毛利氏を凌ぐ大大名であった。この尼子氏の約百五十年の歴史が主君の跡を追うように非業の死を遂げた幸盛で幕を閉じたのである。
 幸盛自身の本家である尼子氏は遥か昔近江から来たのである。ところが調べてみると、出雲の尼子氏についてはかなりの史実が明らかにされているのに、彼らの出身地である近江の尼子氏については不明な点があまりにも多い。近江は京都に隣接する地域として古代から近世の初めまで、朝廷、貴族、豪族、寺社、武士団、幕府の間で抗争が途絶えることはなかった。おそらく応仁の乱頃から戦国時代にかけて戦乱のなかで尼子氏関連の史料が焼失してしまったのではないかと考えられる。それはさておき、近江の尼子氏の源を現地にも足を運んでできる限りたどってみた。先ずは参考のため系図を提示しておく。
 
 尼子氏の由来
 
 六六七年に近江大津宮に遷都した第三八代天智天皇(在位六六八―六七一)の弟・大海人皇子は第四十代天武天皇(在位六七三―六八六)として六七三年に即位した。同天皇が六七二年に飛鳥浄御原宮に遷都するまでの間、近江は政治の中心地であった。
 天武天皇は天智天皇の皇女鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)を皇后にしたが、彼にはすでに皇后の姉である太田皇女との間に大津皇子をもうけていた。また中臣鎌足の娘氷上娘(ひかみのいらつね)を夫人とした。さらに額田王との間にも十市皇女がいた。そして尼子郷の由来となる尼子娘(あまごのいらつめ)がいた。
 彼女は筑紫国宗方群の豪族・胸形徳善の娘で尼子娘と称し、天皇の嬪(妃、夫人の下位を占める身位。寝所に仕える女官)となり、高市皇子の母となった。現在の犬上郡甲良町尼子は彼女がその辺りに移り住んだので尼子という地名になった。
 
 宇多源氏から佐々木氏へ
 
 第五九代宇多天皇(在位八八七―八九七年)の第八皇子敦実親王の三男・雅信は九三六年臣籍降下の際、源姓を賜って宇多源氏の始祖となる。雅信の孫の成頼が守護代となって、近江に下向して、その孫の経方のとき、蒲生郡佐々木庄の下司職となって小脇に住み、そこで佐々木の姓を称した。
 安土町にある佐々木氏の氏神・沙沙貴神社は敦実親王を祀っている。源経方が佐々木庄に入った頃、蒲生には昔から沙沙貴山という豪族がおり勢力拡張には困難を極めた。しかし徐々に佐々木氏は沙沙貴山氏との関係を深め、姻戚関係になって吸収合併していった。
 経方の孫・秀義は平治の乱のとき源義朝に属したが、義朝が敗れ、平氏の政権になってから、追われて相模國の渋谷荘まで逃れた。その後、一一八〇年源頼朝が兵を上げたとき秀義は四人の息子と共に頼朝の元に駆けつけ、源平の合戦で大いに活躍した。鎌倉幕府が発足すると佐々木氏の一族(定綱、経方、盛綱、高綱の四兄弟)は各地の守護職に任ぜられた。その地域は近江をはじめ、長門、石見、隠岐、淡路、阿波、土佐、上野(群馬)、越後、伊予、備前、安芸、周防、因幡、伯耆、出雲、日向にまで及んだ。
 しかし、承久の乱(一二二一年)では佐々木氏一族の多くが後鳥羽上皇側に付いて敗れたため、ほとんどの守護職を失った。ただ、定綱の嫡男・信綱は北条泰時の妹婿であり、幕府側についたので、その後幕府に厚遇され近江国守の地位を得た。再び佐々木氏は鎌倉幕府と親密な関係になったが、同時に在京御家人として朝廷との関係も維持し続けていた。幕府は朝廷との良い関係を保つために、朝廷につながりのある佐々木氏の存在は貴重であった。
 
 佐々木六角氏の盛衰
 
 信綱には四人の息子、重綱・高信・泰綱・氏信がいて、それぞれ始祖とする大原・高島・六角・京極の四家が分かれ、三男泰綱が佐々木六角氏として家督を継いで近江守護職についた。泰綱は三男であったが、兄弟のなかでただひとり北条家からきた正室の子であったからである。さらにそれぞれの庶子家はその分家が独立していき、鎌倉中期以降、佐々木氏の諸流は近江全域に根付いていった。
 佐々木六角氏が京極氏の二人(京極高氏と持清)の時期を除いて一貫して近江守護職を継承していった。この六角氏が守護として蒲生を中心とする近江南部で、守護ではなかった京極氏が近江北部で守護職を執行するという変則的な形で近江は統治されていった。
 六角泰綱は佐々木氏の大黒柱として佐々木一族をまとめ上げることはできなかったが、近江で独立国のように一大勢力をなしていた。そして南北朝期には朝廷と足利幕府との複雑な関係や一家の内紛、京極氏との対立などを経ながら戦国時代を迎えた。六角義賢と義治父子は、一五六八年織田信長の進軍を前にして、戦わずして居城である観音寺城を見捨て、甲賀の石部城に拠点を移した。そこで抵抗を続けたが、柴田勝家が率いる織田軍の攻勢によって一五七四年石部城は落城し、一族は敗走した。その後六角氏の子孫は紆余曲折を経て、江戸時代には加賀藩の藩士となり明治まで続いた。
 佐々木京極氏の流れ
 
 一方、京極氏はどうなったか。信綱の四男・氏信は父から現在の米原市柏原辺りの柏原荘に所領を与えられ、京極氏の始祖となってその地に本拠を置いた。氏信の曾孫で、のちに婆娑羅大名といわれた佐々木(京極)高氏(道誉)(一三〇三―一三七三)は幕府の在京御家人で六波羅探題に仕えると同時に、朝廷から検非違使に任ぜられていた。彼は後醍醐天皇の行幸の際には警護役を担った。承久の乱の後、一三三二年上皇を隠岐に連れいくときにも警護の責任者となった。高氏は忠臣として足利尊氏のために戦い続け、幕府の創設に大きな貢献をなした。そして京極家は室町時代に赤松・山名・一色とともに交代で務める侍所の所司(軍部の長官)になり、さらに出雲国、隠岐国、飛騨国の守護に任ぜられ、北近江の三郡(浅井・伊香・坂田)の守護にもなった。こうして京極氏は本家の近江國守護六角氏を凌ぐほどの権勢を振るった。背景には室町幕府が近江における六角氏の権勢を牽制するために京極氏を厚遇したとも言われている。
 京極高氏(道誉)の時代から下って、一四四九年持清が近江守護職に復帰したものの家督争いが続くなか、京極氏の威信は次第に衰えていった。一四七〇年持清の死後、家督相続をめぐって京極政経は兄の政光と甥・高清と争うことになった(京極騒動)。相続したのは政経であったが、両者の戦いは一五〇五年まで続き、同年政経とその子材宗は美濃守護土岐氏らの援軍を受けた高清軍に敗れた。その後、政経は出雲の尼子清定の元に身を寄せ、その地で一五〇八(?)年に亡くなったと言われている。
 京極家の当主となった高清は伊吹山の太平寺城から麓の上平寺に城郭を築いて移り住んだ。しかし、今度は彼の息子兄弟が家督を巡って争う事態に陥って、北近江での京極氏の権勢は下降線をたどった。
 一五三二年頃からは家臣の浅井亮政が北近江で支配権を強めていった。京極氏の反攻を抑えるために亮政は六角氏の臣下となって、京極高清・高延父子と和睦をした。嫡男・久政、その子・長政も六角氏の庇護のもと、京極氏を抑えつつ北近江での地盤を固めていった。一五六三年六角氏にお家騒動(観音寺騒動)が起きると長政は六角氏から離れたので、六角氏は北近江に侵攻した。だが長政は六角氏の軍を撃退した。
 一五六七(?)年長政は信長の妹・市を妻として迎えて浅井・織田は同盟関係になった。長政は信長が近江に侵攻する前に、京極高次と浅井長政との間には確執があったが、本家筋の京極氏をたてて和睦を結び、実質的に北近江の盟主になっていた。したがって、信長が一五六八年に佐和山城から高宮に軍を進めて、上洛に際して観音寺城にいる六角氏に協力を求める書状を送り、その返事を待っている間、京極氏は浅井長政とともに信長に従っていたことになる。高宮の目と鼻の先にある尼子はその時、浅井氏の支配下にあったと考えられる。
 ただ京極氏は本能寺の変のときは明智光秀に加担した。そのため苦境に陥ったが、高次は姉竜子を秀吉の側室に差し出して許しを得た。代わって秀吉は高次の正室に元京極氏の家臣だった浅井氏の三姉妹(茶々、初・江)のうち初を与えた。高次の妻・初は淀君の妹であり、京極家と豊臣家は強い絆で結ばれ、京極氏は大津六万石を得た。その後、関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、寝返って東軍につきその勲功によって若狭八万五千石の大名になった。さらに出雲の松江の城主になった後、讃岐丸亀藩六万石の城主になった。京極高次は秀頼の義理の叔父であり、のちに江を娶った徳川秀忠の義理の兄になった。こうして戦乱の世の中をしぶとく生きながらえた京極氏の直系もまた明治まで生き延びた。
 
 京極尼子氏はどこへ
 
 近江尼子氏はこうした流れのなかで生まれた。京極氏の始祖である佐々木氏信より五代目、高氏(道誉)の孫・京極高詮(たかのり)の弟高久は家臣として甲良荘尼子郷を与えられた。高久は一三四七年頃本家京極氏の勝楽寺の前衛城として尼子城を築き地名の尼子を姓とした。高久の嫡男詮久(のりひさ)が近江尼子氏の始祖となった。その弟・持久が京極氏の守護代として出雲に赴き、雲州尼子氏の始祖となった。
 出雲の尼子氏の場合と違って、本家筋の近江尼子氏については、十分な史料がないのである。尼子郷を含む甲良荘、を京極氏が治めていたことを示す史料でさえ道誉の時代から百五〇年くらいまで、つまり応仁・文明の乱(一四六七―七七)までである(太田、136-37)。尼子氏に関しては甲良町ホームページに「近江尼子氏は二代氏宗の頃に戦乱で落城し、当時としては広大な尼子城(館)と共に歴史上から消えていった。」とあるのみである。
 では、氏宗が居城を失ったあと何処へ行ったのか。
 後述する土塁公園に立っている説明板(一九九六年尼子むらづくり委員会作成)によれば一四二八年氏宗は「甲良荘円城寺に築城しその後数代居城する」とある。氏宗から数えて次の四代の記述はなく、七代宗光は「織田信長の近江乱により以降甲良荘雨降野に築居する。」つまり、尼子氏は一四二八年から一五六八年の間、円城寺に居住していたことになる。これが事実だとして、では尼子氏は応仁の乱から戦国時代、強大な氏族間の覇権争いのなかをどのようにして生き延びてきたのか。また尼子氏の分家はどうなったのか。
 説明板によれば八代宗貞は石田三成の「幕下に居する」とあり、かなり低い地位の家臣になったとみられる。九代宗成は「彦根藩主井伊直孝の家臣となる 故あって尼子氏から外戚樋口氏に改姓」したという。だが支流も含む確かな系図がないので、二代氏宗以降の尼子一族の消息は謎のままである。
 今は、いくつかの状況証拠を元に憶測するのみである。
 戦国時代には、尼子のある犬上郡は基本的には六角氏の統治の下にあったと考えられている。しかし、一五三〇年頃から北近江に台頭した浅井氏は京極氏と共に南近江の六角氏との間で覇権争いが続いた。両陣営の狭間にある犬上郡の佐和山城(一二世紀後半頃、佐々木定綱の六男時綱が山麓に館を構えたのが始まり)をどちらが占拠するかが勝敗の分かれ目になった。一五三五年六角定頼が浅井亮政・京極高延を攻めて佐和山城を奪った。一五五二年京極高広(高延改め)が反撃して六角義賢から城を奪還した。実際に入城したのは京極氏ではなく、浅井氏が城代として送り込んだ百々内蔵介であった。
 五六三年には浅井長政が甲良三郷などを勝楽寺に安堵しているところから京極氏の尼子郷における支配権は消失していたことは確かである。
 江北と江南の間に位置する甲良荘の近江尼子氏は一五五〇年頃まで生き延びていたとしても、どのような形であったにしろ六角氏・京極氏・浅井氏の三つ巴の権力闘争に巻き込まれたのは間違いない。そこで考えられる仮説のひとつは、近江尼子氏は二代氏宗以後、本家の京極氏に吸収されたのではないか。そうだとすれば、彼ら一族は織豊時代以後、江戸末期まで京極氏と運命と共にして無事に生きながらえたことになる。
 あるいは、戦乱で離散した一族の何者かは京極氏にとって代わった浅井氏の家臣になって、一五七〇年の姉川での負け戦で散ったのか。それとも、戦国時代、京極高清の頃、京極氏は犬上郡での支配権を失っていたので、六角氏の配下になった者もいたのでは、と想像もできる。従って信長が佐和山城に入城したとき、すでに南近江に逃げていったと考えられる。
 大きな勢力同士が争った戦乱の時代に弱小武士団であった尼子一族がとりえたもうひとつの選択は、雲州尼子氏が支配する出雲か岡山(備前・備中・備後・美作)に移住することだったのではないか。鎌倉幕府の初めより佐々木氏一族は近江をはじめ隠岐、出雲、因幡、石見、伯耆の国の守護となり、現地には守護代を配置していた。佐々木氏の末裔が頼れるいくつもの支流がその方面にあったと考えて不思議ではない。
 一四四七年応仁の乱が終わると六角氏が近江守護として近江を支配するようになったが、覇権を巡って北近江の京極氏や浅井氏との抗争は絶えることはなかった。このような状況のもとで、両陣営の中間に位置していた京極氏支流の近江尼子氏が応仁の乱から戦国時代にかけて戦火を逃れて、中国地方に移り住んで雲州尼子氏の家臣に組み入れられたのではないかと言われている。このようなことは一部事実であったようだが近江尼子氏一族が山陰・中国地方に移住したことを示す確かな史料はないらしい。
 確かなことは、信長が一五七〇年に同盟を破棄した浅井・朝倉連合軍を姉川で打ち破ったのち、佐和山城に丹羽秀長を入城させたとき、北近江と南近江の狭間にある犬上郡は平定された。丹羽秀長のあと、羽柴秀吉、石田三成の所領となってその領主を次々に変えながら、関ヶ原の戦いの後は明治まで彦根藩に属した。
 
 出雲尼子氏の興亡
 
 尼子高久の次男持久は一三九五年出雲国守護京極高詮の守護代として出雲の月山富田城に入城し、雲州尼子氏の始祖となった。経久のとき京極氏の支配から完全に脱却し、一五〇八年頃には出雲を平定して、中国地方で毛利氏、大内氏と覇権を競うほどの戦国大名になった。
 しかし一五六六年尼子義久のとき毛利元就によって難攻不落の富田城も落城し、尼子氏は滅亡した。そして義久・倫久・秀久の三兄弟は毛利家の家臣になった。義久には跡継ぎがいなかったので倫久の子を養子にむかえ、久佐元和と名乗らせ。時が経って一六二四年その子就易より、姓を佐々木に戻した。
 一方、富田城落城後、山中鹿助幸盛が雲州尼子氏支流の勝久を擁して一族の再興を企て、一五六九年に毛利氏が支配する富田城奪還を試みたが失敗した。その後体制を立て直して強力な毛利軍に再度挑戦したが、一五七八年に上月城で再興の夢は途絶えた。ついでながら、鹿助幸盛もまた佐々木氏の末裔のひとりであった。
 このように、一五七〇年代には近江源氏の末流は西国と近江で領地を完全に失ったのである。
 
 近江尼子氏の遺跡
 
 応仁の乱の頃、京極氏と六角氏は東軍と西軍に分かれ、敵同士になって戦った。勝楽寺の山城からみて正面の位置にある尼子郷は、両勢力の分岐点に位置していたので、戦場になった。また両氏とも一族内で内紛が絶えず、相手側に寝返ることもあって、周辺の尼子氏のような弱小の領主たちはその時々の複雑な力関係のなかで生きる道を選ばねばならなかった。このような歴史の流れのなかで近江尼子氏は、どこかに散っていったのだろう。
 一九八八年滋賀県教育委員会が土塁と堀跡を発見し、それが尼子氏宗の頃に落城した尼子城の跡の一部であると認定した。そして築城後六五〇余年経過した一九九六年に尼子集落の村づくり事業としてその一部が修復され、現在土塁公園となって保存されている。その近くにある住泉寺の一隅に尼子氏の墓石らしきものがあると田中政三氏は著書で書いているが、確認できなかった。

 
 夢幻の如し、されど
 
 稀有の戦略家であり、教養人であり、その破天荒な立ち振る舞いと身なりで「バサラ風流ヲ尽シテ」と『太平記』で形容され、波乱万丈の生涯を終えた佐々木(京極)高氏(道誉)は次の句を残している。
 
  ことし猶花を見するは命にて
  古郷は月や主になりぬらん
  人はむかしの秋にかわらず
 
 佐々木六角氏の重臣伊庭氏の出であるといわれている連歌師・宗祗法師(一四二一―一五〇二)には次の三句がある。
 
  はなにしてしりぬ世のはるかぜ
  世の中よいづれが先といひいひ
  世にふるもさらにしぐれのやどりかな
 
 これらの句は、武士(もののふ)が激動の中世に生きることをどのように捉ええていたのか、その一端を教えてくれる。
 武士は生き抜くために、二君に仕えたり、主君を次々に変えたり、親戚同士、兄弟同士が争い、子や姉妹を人質に差し出すこともしばしば。時に部下をも見捨てて敵に命乞いをする。それでいて、その時々に命をかけて戦い、大義に生きた。花、うき世、命の三重奏がその土地、その時、その人によって奏でられたのだ。その歌には過酷な現実から逃避することなく、ありのままの世と短い命を凛とした倫理性をもって受け止め、短い一生を生き抜く強い意志が秘められているように思う。それはよく言われる風流とは一味違った感受性が創り出したものだといえよう。
 近江は昔も今も美しい湖と豊穣な土地に恵まれている。だが北陸、東山、東海の道から都への入り口に位置する近江は古代から近世にかけて常に日本の政治の要衝であったので、たえず戦場となり、実に多くの血が流れた。無辜の農民の血は言うに及ばず、大きな力に滅ぼされた数々の武士団の血もまた大地を赤く染めた。
 現在の平和な風景からは想像できない激しい生存競争が近江を舞台に繰り広げられた。だが耳を澄ませば歴史の記憶から落ちこぼれた死者たちの呻き声が聞こえるようだ。現下の世界情勢をみれば、その声に耳を傾けることはあながち無意味でもあるまい。
和歌・連歌出典と参考資料・文献
『万葉集』
『小倉百人一首』
『千載和歌集』
『新撰古今集』
『菟玖波集』
『新撰菟玖波集』
『信長公記』
「中世の石部 第一章第一節近江守護佐々木氏の成立」、『新修石部町史通史篇』湖南市デジタルアーカイブ、一九八九年
『近江源氏と沙沙貴神社』安土城考古学博物館、二〇〇二年
『図録 戦国大名尼子氏の興亡展図録』島根県立古代出雲歴史博物館、二〇一二年
『甲良町誌』甲良町史編纂委員会、一九八四年
『法養寺誌』甲良町法養寺誌編集委員会、二〇〇四年
山田徹・他『鎌倉幕府と室町幕府』光文社新書、二〇二二年
田中政三『近江源氏』 二巻 弘文堂、一九八〇年
徳永眞一郎『近江源氏の系譜』創元社、一九八一年
林屋辰三郎『佐々木道誉』平凡社、一九九五年
村井裕樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』思文閣、二〇一二年
寺田英視『婆娑羅大名佐々木道誉』文春新書、二〇一九年
下坂守「京極氏の系譜と事歴」、『室町幕府守護職家事典 上巻』所収、新物往来社、一九八八年
北村圭弘「南北朝期・室町期の近江における京極氏権力の形成」、『滋賀県文化財保護協会紀要31』所収、二〇一八年
太田浩司「京極家の流れと京極道誉」『甲良の賜』所収、甲良町教育委員会、二〇〇九年
妹尾豊三郎『尼子物語』ハーベスト出版、二〇〇三年           
妹尾豊三郎『尼子氏関連武将事典』ハーベスト出版、二〇一七年

福田京一

2020年7月18日現在、世界の新型コロナ・ウイルスの感染患者数が約1400万人に、死者は60万人に達したとニュースが伝えている。感染が収まっているように見える地域では、第2波、第3波が必ず来るだろうと感染症の専門家は警告している。中国で最初に感染が報告されてからわずか半年間で感染がこれだけの規模で世界中に蔓延したことはまさにペスト以来の「歴史的事件」と言って良い。この事件によって生まれた様々な分野における新しい現象について、各界の識者はすでに様々な意見をメディアに発表している。気の早い人のなかには「ポスト・コロナ」の世界とか生き方とか言っている。なかには傾聴に値する説もないではないが、まだ終息してもいないのに「ポスト」とはこれ如何に、と考えてしまう。そこで、少し立ち止まってコロナ現象を本質的な枠組み、つまり病気を生と死の問題のなかに据えて考えてみたい。そのために、ペストが大流行した16世紀から17世紀のイギリスの文学に表象された死と生のあり方を出発点として、パンデミックの時代に生きる私たちの生のあり方について考えてみたい。

1.ペスト流行の惨状とエリザベス朝の詩人

病気の原因が科学的に究明され始める近代まで、古代から中世まで疫病(plague)は共同体を襲う災害であり悪であり天罰であるとみなされてきた。では、有効な対処法がなかった時代に疫病がもたらす死の影に人が捕らえられたとき、人はどのように行動したのか。どのように考えたのか。何百年も人類を苦しめてきたペストの流行を巡って詩人たちが残している作品は、私たちに大事なことを教えてくれる。

古代ローマの詩人ホラチウスの有名な一行「今は飲む時だ、今は気ままに踊る時だ」が表している「今を生きろ!」(carpe diem)のモットーは「我(死神)アルカディアにもあり」(図1)、つまり「死を想え」(memento mori)と意味の上で表裏をなしている。ペストの代わりに結核だろうと心臓病だろうと、エイズだろうと、コロナ・ウイルス感染症だろうと、有効な治療法が見つからない限り同じ。時代によって不治の病は異なるが、病気が生の意義を考えさせる死の暗喩であると理解すれば、それは生の問題と切り離すことはできない。ここに死と生の基本的な関係がある。

中世のヨーロッパは、死の恐怖を前にした生の儚さをキリスト教教義のなかに取り込んで、絶対的な存在への信仰を組織化して盤石な社会を作った。その礎石を崩した原因のひとつが後期中世の14世紀から断続的に流行した黒死病(ペスト)と名付けられた疫病である。推計7000万人が14世紀の第1次ペスト大流行によって死亡したと言われている(村上、132)。もともと中央アジアで発生したペスト菌が、ヨーロッパとの交易や交通の発達と侵略などによってヨロッパ全土に広がったという。

ホイジンガは『中世の秋』のなかで、人びとの心に死の思想が重くのしかかり、「死を想え」の叫びが、生のあらゆる局面に絶えず響きわっていたと述べている。それは、三つのメロディーとなって後期中世に流れていた。その一つは、昔の栄華は今いずこ、という嘆き、二つ目は、この世の美しいものが腐れ崩れるのを見て震える恐怖、三つ目は、知らぬ間に死に連れ去られていく運命にある自分への恐怖である。このうち一番目の嘆きは、後の二つに比べて軽い悲哀の感情でしかない。それに比べると、死後に美人の肉体が腐乱し、悪臭を放つ様は単に美の儚さを思い起こさせるだけではなく、美そのもの存在を疑わせた。また、木版画や絵画や劇で繰り返し表現された「死の舞踏」(danse macabre 図2)のイメージは、死の具象化を通して見るものに彼もその犠牲になることから逃れられないという戦慄を与えた。このような死のイメージから後期中世における人々の思想は、ホイジンガによれば、二つの極端な方向に別れた。一方は、権力、名声、享楽、美は儚いものであるという嘆きであり、他方は、彼岸における魂の救済を信じて、至福の喜びにあづかることであった。そして、その間にある考えや感情は無視され、「生きた心の動きが石と化している。」

図1 N. プッサン「アルカディアの牧人たち」1637
図2 M.ヴォルゲムート「死の舞踏」1493

 では、その後、つまりルネッサンス期に、石と化した心はどのように生き返ったのか。死のテーマを中心にして考えてみよう。黒死病(図3)は、イギリスに限って言えば、1360-63年、1471年、1479-80年、1603-11年、1665-66年に大流行した。厳密な記録がないために、これも推計にしか過ぎないが死者数は約15万人から18万人ほどだと言われている(ウキペディア「ペスト」のリストに依る)。また当時の記録によれば、1570年から1670年までに66万人が死亡したと推計しているものもある。ただし、大流行した時期以外にもペストは頻繁に発生したのである。たとえば1592年から1594年の間もイギリスの各地ではペストが蔓延し、ロンドンでは15,000人が亡くなったという。まさに日常生活は黒死病と隣り合わせであった。当然のことながら、当時の詩人は愛を死と結びつけて作詩した。

エリザベス朝を代表する詩人エドモンド・スペンサーは『神仙女王』( 1590-96)で、足早に過ぎゆく時の残酷な仕打ちに対して恋人たちに、たとえ無常な人生であっても愛に生きるようにと次のように歌っている。 

So passeth, in the passing of a day,
Of motall life the leafe, the bud, the flower;
Ne more doth florish after first decay,
That earst was sought to deck both bed and bowre
Of many a lady, and many a paramowre!
Gather therefore the rose, whilst yet is prime,
For soon comes age, that will her pride deflower;
Gather the rose of Love, whilst yet is time,
Whilst loving thou mayst loved be with equal crime.

Book 2, canto 12, sanza 75.

一日が過ぎていくうちに 過ぎていくのです
人の命の葉も 蕾も 花も
一度枯れれば咲くこともない
かつては求められてベッドと寝室を飾ったのに
多くの婦人の、そして多くの愛人の
だから 薔薇を摘みとりなさい 盛りのうちに
すぐに花の誇りを奪いとる老年がやってくるのだから
愛の薔薇を摘みとりなさい まだ時があるうちに
お前が愛するとき 同じ罪で愛されるのだ

神の愛(アガペ)でない人間の愛(エロス)は、愛することも愛されることも所詮は人の世の罪にしか過ぎないとスペンサーは認めている。しかし、それでも愛の喜びに生きることを咎めているわけではない。ルネッサンスの理想は、美と愛と徳の三美神(図4)が手に手をとっている調和的な世界にあった。この世界観、理想化されたアルカディアにも死の影が潜んでいたのである。そして死が災害、戦争、疫病など様々な姿をして人々の目の前に現れると、調和の世界は揺らいだのである。愛は消え去る美に対して、また喜びを抑える徳(貞節)に対してより強く自己を主張し始めたのだ。

図3 P. ブリューゲル「死の勝利」(一部) 1562(?)
図4 S.ボッティチェリ「春」(部分)1482年(?)

 当代を代表するもう一人の詩人フィリップ・シドニーは17歳になった1572年、ペストの発生により閉鎖されたオックスフォード大学を後にした。そして一時ケンブリッジに移ったとき、そこでスペンサーと知り合ったらしい。1580年代に自伝的な『アストロフィルとステラ』を書いた。そこで、アストロフィルは人妻ステラへのプラトニックな愛を語る宮廷愛の伝統を踏まえながら、精神的な愛と徳と美を讃えたが、その一方で自分のなかに抑えがたいエロチックな欲望を認めた。

So while thy beauty draws thy heart to love,
As fast thy virtue bends that love to good:
But “Ah,” Desire still cries, “Give me some food!” (Sonnet 71)

だから 貴女の美しさが心を愛へと引き寄せるとき
すぐさま貴女の徳がその愛を善行に向かわせる
だが、嗚呼 それでも欲望は叫ぶ 「もっと食べものをくれ」と

かつてジョバンニ・ボッカチオは、猛威をふるうペスト禍を避けてフィレンチェの郊外の別荘で男女10人が語った艶笑譚中心の物語集『デカメロン』(1353)を書いた。そこで語り手たちは笑いと悲哀の混じった性的な欲望を直截に語ることによって、かた時も忘れられない死の恐怖に対して生の喜びを語り合った。いわば死神が見守るなかで、人はそうあって欲しい人生のありようを本音で表現したと言ってもよい。同様に、エリザベス朝時代の詩人や劇作家もまた、宗教が教える愛と徳と美についての建前を繰り返すのではなく、死と隣り合わせの生命を直視して表現に工夫を加えて新しい作品を作り出した。良家に生まれ、教養と才能に恵まれ、穏健な宗教観をもち、宮廷でも地位を得たシドニーが欲望に「もっと食べものをくれ」と叫ばせた。それは彼自身の個人の声というより、時代の声と言わずして理解できないだろう。

1592年には、トーマス・ナッシュは風刺パンフレット『ピアス・ペニレス』を出版し、クリトファー・マーローは悲劇『フォースタス博士』を、シェイクスピアは喜劇『間違いつづき』を上演した。同年の後半、ロンドンの劇場は閉鎖されたが、その時までに上演されたナッシュの寓話的喜劇『夏の遺言と遺言書』のなかで、のちに「ペストの時の連禱」(1600)として出版された次の詩が唄われている。

Beauty is but a flower
Which wrinkles will devour ;
Brightness falls from the air,
Queens have died young and faire,
Dust hath closed Helen’s eye,
I am sick, I must die.
Lord, have mercy on us!
美は一輪の花
やがて皺が食い尽くすだろう
明るさは大気から消えて
女王たちも若く美しいまま死に
塵がヘレナの瞳も閉ざした
わたしは患い 死なねばならぬ
主よ われらを憐み給え

 ルネッサンス期のヨーロッパで流行した田園詩をもとに、自然と人生の儚さを神の救済への願いと結びつけた詩であるが、ロンドンのペスト禍を思うとき、その願いは切実であった。カトリック教、ピューリタニズム、無神論の間の緊張が政治と絡んで、波乱含みの状況にあったエリザベス朝時代において、ナッシュは女王の権威と社会的秩序と英国教会を擁護する側に立っていた。しかし、女王の美しさも命も長くは続かず、塵は塵にかえるという聖書の教えに変わりはなかった。1568年以降ロンドンではペスト患者の家は戸口に「主よ われらを憐み給え」と書かれた張り紙が貼られて閉された。こういう点で、七つの大罪が神の怒りを招きペストが持たされたのだという当時広く受け入れられた考えを彼も持っていた。

2.3人の劇作家とペスト

1592年に『フォースタス博士の悲劇』を上演したマーローは、無神論者ではないかと嫌疑をかけられて、一時当局に逮捕されたこともある進歩的思想の持ち主であった。劇のはじめフォースタスは自問する。「お前の医療のおかげで多くの町はペストを免れ、何千もの命を落とす病を治めたではないか・・・それでも俺はただのフォースタス、ただの人間にしかすぎない。お前は人間に永遠の命を与えたか。また、死んだものを生き返らせたか。もしそうならこの仕事も尊敬されるだろうが。医学よさらば。」彼は学問に行き詰まり、奇蹟で病人を治すという教会も信じられず、悪魔から魔術を学ぶ。24年間メフィストフィリスを従えて、思いのままに人生を送る権利と交換に魂を差し出す契約を結んだ。

彼は魔術によって七つの罪の世界へ案内され、そこで快楽や権力や偽りの信仰を体験する。そして、やがて己の選択が間違っていたことを悟る。しかし、救いを求めるには遅すぎて、約束の24年が過ぎる。もともと魂のない動物なら、死ねば土に帰るだけだが、「だが、俺の魂は地獄でペストにかかって生きながえねばならぬ。俺を産んだ親に呪いあれ。いや、フォースタスよ、己を呪え、天国の喜びを奪った悪魔を呪え」と言いながら、地獄に落ちる。最後にコーラスが「天の力が許す以上のことを行った」から、と歌う。

1603年のペスト大流行に先立つ15年間、すでに経済不況、凶作、スぺインとの戦争、増税に苦しでいたロンドンのスラム街の貧しい人びとに、信仰心が欠けているので罹患したのだと責める聖職者たちに義憤を覚えたマーローが、この劇を作った。この劇は、ルネッサンスの人文主義思想にある人間中心の世界観の理想と限界をよく表している。形骸化したキリスト教会を批判しながら、惨憺たる生の現状を前に無力な医学にも絶望する。近代は、フォースタスが捨てた学問、つまり科学あるいは合理的思考によって、徐々に神の領域に立ち入って、現世における人間の幸福を追求していく歴史である。ルネッサンスの異端児マーローは信仰と学問の間でさ迷う近代の端緒に位置していたと言える。

シェイクスピアの生涯もいつもペストの脅威に晒されていた。1564年彼が生まれたストラットフォードで200人以上がなくなっている。彼が洗礼を受けた日の教会の記録に「ペストここで始まる」(hic incepit pestis)とある。ロンドンの彼の劇場グローブ座も何度かペストの感染拡大を恐れて閉鎖された。上演できない期間彼は作詩に没頭したらしい。1592年から1594年までイギリスの各地でペストが流行った。シェイクスピのみならず当時の詩人や劇作家たちシドニー、ナッシュ、マーローはロンドンでペスト感染の拡大を防ぐために患者の家は閉ざされ、その中に彼らが閉じ込められた光景を目の当たりにしたのである。

『ロミオとジュリエット』(1595)は二人の恋人の悲劇で終わるが、その直接の原因はペストであった。僧ローレンスは若い恋人を一緒にするために計画をめぐらし、その仔細を説明した手紙をマンチュアにいるロミオに届けるために使者僧ジョンを送った。しかし僧ジョンが道連れに選んだ僧がちょうど病人を見舞に行ったところだった。運悪くそこで検疫官に見咎められ「われわれ二人を、恐ろしい伝染病患者の出た家に居合わせたという疑いで、戸口は封印するし、一切外出を禁止してしまったのです。そんなわけで、肝心のマンチュア行きが、すっかり遅れてしまったのです。」(中野好夫訳、5幕2場)その結果、一時的に眠っているジュリエットが本当に死んでしまったと思い込んだロミオは、悲嘆にくれ自害する場面へと劇は一直線に進む。

ペスト禍への言及が彼の作品に多くないのは、観客にわざわざ凄惨な生活状況を思い起こさせるのではなく、儚い人生の一瞬を楽しませるのが観劇の目的であったからだろう。言及するにしても軽く触れる程度で済ますのは、死を無視したからではない。むしろ感染による死の恐怖が、生の喜びを強調する方に反転したと考えるべきだろう。それはボッカチオが『デカメロン』を黒死病の蔓延するフィレンツェで書いた事情と同じだろう。

例えば『恋の骨折り損』(c1596)の冒頭で、ナヴァール王は儚い人生と長続きしない美を嘆くのではなく、また人の情念と世俗の欲望に誘惑されることなく、すべてを刈り取る「時」の鎌に対抗するために宮廷を不滅の学芸を極めるアカデミーにする理想を語る。そのために、王は三人の貴族とともに学問に打ち込むために、3年間は女性と接触しないと誓いを立てた。しかし、美しいフランス王女と三人の貴婦人に会うなり恋をし、あの誓いは破られる。その際、貴族のひとりビローンは彼が恋焦がれるロザラインに恋の病をペストに喩えて、誓約を破ったことを弁明する。彼は自分と同様に「あの三人の身の上に“主よ憐み給え”と書いてくれ。彼らは感染し、彼らの心は病に取り憑かれている。ペストに罹っているのだ。あなたたちの目からうつされたのだ。彼らは罰を受けているが、あなたたちも感染してないわけではないぞ。主の徴[ペスト感染]がお前たちの身の上にも見えるじゃないか」(5幕2場)。確かに、美しい女性に見つめられて、恋の病に青ざめ喘いでいる男たちを熱病の患者に喩え、また男に恋煩いさせた女性を感染元と喩える言い回しは特に珍しいわけではない。しかし、おぞましいペストがロンドンの人々を震え上がらせている真只中にあっても、シェイクスピアにとって、恋の苦悩はペストの苦しみと本質的に同じ性質のものであった。

学問も宗教もペストだけでなく恋の病も治せないとなれば、学問を神聖化することも、自然の情に背いて禁欲的に生きることも、欲望のままに生きることと同じ程度に「罪」である。芸術の意義を認めないプラトンのアカデミーを模範とする国を作ろうとしたナヴァール国王の夢が、彼自身の心に生まれた恋愛感情によって脆くも崩れ去るという皮肉は当然シェイクスピアの、そして時代のものであった。その恋愛感情が神の怒りの暗喩としてのペストであったとしても、それは人が人である限り避けようのない生の現実である。この現実を再現するために「いわば自然向かって鏡を差し出す」(『ハムレット』3幕2場)ことによって、時代のあるがままの姿を映し出すのがシェイクスピア劇の目的であった。

『十二夜』(1602)のなかで、トービィとアンドルーに歌を所望された道化は「愛の歌、それとも良き生活の歌、どちらを?」と尋ねる。前者は「愛の歌だ、愛の歌だ」と、後者は「そうそう、良き生活の歌なんて気に入らないね」と言うので道化は次のように歌う。

O mistress mine, where are you roaming?
Oh, stay and hear, your truelove’s coming,
That can sing both high and low.
Trip no further, pretty sweeting,
Journeys end in love meeting,
Every wise man’s son doth know.
私の恋人よ どこへ行くの
ここに居て聞いておくれ 愛する人がくるよ
高い声でも低い声でも歌えるのだよ
どうか遠くに行かないで 可愛い人よ
旅は愛の出会いで終わるもの
賢い人の子ならみんな知っているよ
What is love? ‘Tis not hereafter,
Present mirth hath present laughter,
What’s to come is still unsure.
In delay there lies no plenty,
Then come kiss me, sweet and twenty,
Youth’s stuff will not endure.
          (Act. II, sc. iii)
愛とは何でしょうか 来世にはないよ
今の喜びに今の笑いがあるのだよ
未来などあてにならないよ
遅れたら何も残らないよ
さあここへ来てキスしておくれ 可愛い人
若さは長くは続かないから

 当時、「良き生活」といえばカトリック教であれ、プロテスタントであれ、贖罪と救済の教義に基づいて、神の恩恵を得るために備える現世の生活を意味した。とりわけ、ピューリタンたちの禁欲的な現世否定のカルヴァン主義は社会を根底から揺り動かす大きな影響力を発揮した。このような状況を背景にして、欲望を押し殺し、表面だけ品行方正な生き方を取り繕っている執事マルヴォーリオを「ピューリタンの一種だ」とトービーたちはからかうのである。ある意味で、シェイクスピアにとってピューリタンはペストでもあった。それはイデーを遠ざけるという理由で芸術を忌避したプラトンと同様に、ペストや災害や戦争や陰謀に毒されたイギリスの現実を見つめないで、観念や理想主義によって目を曇らせる人たちこそがペストであると言っているに等しい。実際、国教会に弾圧されて、浄化することを諦めて国外に新天地を求めた分離派も、また教会内にとどまって制度と礼拝様式を改革しようとする非分離派の人たちも、広い意味で、ピューリタンと呼ばれた。彼らの一部は、よく知られているように新大陸に「良き生活」の場としてニュー・イスラエルを建設するために移住した。

一方イギリスでは、1640年カトリック教徒のチャールズI世が処刑され、ピューリタン革命が成功した。そして、ピューリタンは劇場を閉鎖した。その理由は、演劇は人生の真実から目をそらす無秩序な、有毒な病とみなされた。また、偶像崇拝を助長した中世のカトリック教の堕落とペストが関係づけられて、さらに現世の偽りの生活を再現して観客を毒する演劇がペストと結びつけられたのであった。しかし、革命の熱病も1760年の王政復古とともに消える。それでも、ペストは不死身であった。

14世紀の大航海時代の幕開け以降、交易のため人の移動空間が拡大し、かつ頻繁になることによって、さらに長引く戦争(30年戦争、100年戦争、7年戦争など)によって人同士の接触が増加した。感染症の蔓延は人の動きと接触が増えるにつれ断続的に起こることとなった。このような中世世界の延長線上に近代があるとすれば、感染症が含意している文化的意味はより広範な広がりを持つのは必然であった。

人はそれぞれに与えられた役割をほんの短時間演じた後、舞台から消えていく。それなら、楽しめる限り楽しくやろうじゃないか、という訳である。人生は喜びと希望に満ちた喜劇の舞台。しかし、一方で、舞台で楽しく踊り終わった後に何が待ち受けているのか、と考えた場合、マクベスが告白するように人生は阿呆が語る「響と怒りの話」にしかすぎず、何の意味もないことになる。人生は、喜びと希望に満ちた生の饗宴であってほしいと願う喜劇であると同時に、そこに「死の舞踏」を見る人に受難と憐みを喚起する悲劇でもある。この二つの間を行きつ戻りつ、人の意識はどこに向かおうとしたのか。17世紀の死生観が内在している二つの方向のその後の展開を見ると、ペストが中世後期からルネッサンス人に受け継がれた実存への不安は近代後期にある現在のそれといかに酷似していることか、驚かざるを得ない。

ベン・ジョンソンはシェイクスピアの同時代人として同じ文化的境遇のなかにいた。彼は1603年7歳の長男をペストで亡くした。その直後、彼は最愛の息子の死を悼むエレジー「初めての息子へ」(1603)を書いた。

Farewell, thou child of my right hand, and joy;
My sinne was too much hope of thee, lov’d boy,
Seven yeeres thou’wert lent to me, and I thee pay,
Exacted by thy fate, on the just day.
O, could I lose all father, now. For why
Will man lament the state he should envy?
To have so soone scap’d worlds, and fleshes rage,
And, if no other miserie, yet age?
Rest in soft peace, and, ask’d, say here doth lye
Ben. Jonson his best piece of poetrie,
For whose sake, hence-forth, all his vows be such,
As what he loves may never like too much.

さらば わが大事の子、喜びの子
お前に望みをかけ過ぎたのは俺の罪 愛する子よ
七年俺に貸し与えられたお前、いまお前を返すのだ
運命によって取り立てられたのだ 期限が来たので
おお いま父のすべてを失うことができればよいが なぜ
羨むべき状態を嘆き悲しむのか
こんなに早くこの世の煩いと肉体の狂気から逃れたのに
ほかに不幸がないとしても 少なくとも老年からは
安らかに休め もし尋ねられたら答えよ ここに
ベン・ジョンソンの最良の詩が眠っていると
お前のために俺がこれから立てる誓いは
愛することはあっても決して愛しすぎないこと

あまりにも大きな喪失感をもたらした最愛の息子の死が彼の信仰を深める契機になったようには読めない。また、普通のエレジーに見られる穏やかな諦念と慰めによって彼の悲しみが和らげられたようにも見えない。その後の彼の作品に対する世間の良い評判とは別に、彼の自己評価は息子という「最良の詩」に匹敵できる作品は残せなかったということだ。ここには風刺、皮肉、諧謔、哄笑、冷笑に充満した彼の劇のなかに込められた説教じみた教訓は見られない、死への深い悲しみがあるのみである。

「今を生きろ」のモットーに関連して言えば、喜劇『ヴォルポーネ』(c1606)なかで詐欺師ヴォルポーネが人妻を誘惑する時に歌った詩はのちに「歌:シーリアへ」(1606)として出版された。それは次のように始まる。

Come my Celia, let us prove,
While we may, the sports of love;
Time will not be ours forever:
He, at length, our good sever.
Spend not then his gifts in vain:
Sun that set may rise again;
But if once we lose this light,
‘Tis with us perpetual night.
Why should we defer our joys?
おいでシーリア 楽しもうよ
いまのうちに 恋の遊びを
時はいつまでも居てくれないよ
われらの恩恵もやがて終わらせる
彼の贈り物を無駄にしないように
沈む陽はまた昇るが
ひとたびわれらがその光を失えば
残るのは永遠の闇だけ
楽しみを先に延ばしてどうするのか

 劇中では、己の欲望を満たすことしか考えていない誘惑者の甘言として、あるいは、中世のロマンスの主題である人妻へのプラトニックな愛をパロディにした歌として聞くことができる。シーリアの夫は高貴な騎士でも貴族でもなく、金銭欲に囚われた俗物ブルジョワであるが、彼女は貞節を守り抜く。そして、最後にその貞節は報われる。一方、劇から切り離してこの詩だけを読む場合は、違う解釈が成り立つ。道徳に縛られ、短い人生を愛なく無駄に過ごす若い女性を口説く恋の歌として、あるいは「命短し恋せよ乙女」と切々と訴える求愛の詩として読める。シーリアは「永遠の闇」が訪れる前に束の間の愛あるいは快楽を楽しもうとする男の欲望の対象である。そして彼女は男が仕掛ける「恋の遊び」に生きがいを見つけるかもしれない。

徳と愛の葛藤は、中世の騎士道物語のなかで理想化された男性の苦悩の源であった。そして、現在から見れば自由がなかった時代に女性は愛を選ぶことは許されず、徳のみを押し付けられたのである。このような意味で、この詩をいずれの文脈で解釈する場合でも、美が無常にも足早に消え去っていくなら、中世の世界はもとより、徳と愛の葛藤を美が仲裁することで成り立っていたルネッサンスの理想的世界も崩れているという意識がある。近代への過渡期にあるルネッサンス後期には、徳に囚われない男は愛つまり欲望に生きることができるが、以前と変わらず徳を押しつけられた女性は徳と愛の葛藤に苦しむ。偏在する死神の足音がその葛藤を一層強く意識させたのだ。こうして男の「死を想え」は徳を忘れて「今を生きろ!」という女性へのメッセージに変換されたのだ。

1600年頃ロンドンの人口は約25万人で1650年には40万人になり、ヨーロッパ最大の都市になりつつあった。1603年に派生したペストが広がると、国王の諮問機関である枢密院は121の教区に対してペストによって死亡した人数を報告させた。週に121人に達した時、集会と劇場の開催を禁じた。こうして1608年7月頃から1610年1月まで劇場は封鎖された。その間ジョンソンは再開される劇場で上演する風刺喜劇『錬金術師』(1610)を書いていた。そこで観客に当時のロンドンの社会的状況、政治、宗教、演劇界を詳しく反映させた。富裕層はペストを恐れて郊外に逃げだした後、町に残った人たちを相手に罪を悔い改めよと説く説教者、インチキな薬を売るいかさま医者たち、浅薄な劇で観客から高い切符を売りつけて大儲けする劇場主や作家を風刺した。彼のこの風刺の精神の根っこに、死の側から見た現世の悲しくも愚かしい人間の営みへの激しい倫理的怒りがあった。

2020年7月19日

参考文献

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Ingo Berensmeyer ed. Handbook of English Renaissance Literature. 2019.
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Holly Kelsey, “Pestilence and playwright.” Shakespeare Birthplace Trust, 07 Sep. 2016.
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Nigel Wheale, “A Constant Register of Public Facts 1589-1662” in Writing and Society. 2005.
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ジャーコブ・C・ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』1860.
ヨーハン・ホイジンガ『中世の秋』1919.
高階秀爾『ルネッサンスの光と闇』1971.
村上陽一郎『ペスト大流行』1983.

(考現学エッセイ)

男の「浪漫」と「挫折」

日英にみる二人のマクベス

福田京一

はじめに

卒業式と聞けば思い出すのは昭和29年(1954年)の春、小学校の講堂で唱った「仰げば尊し」(1884年)である。

この年、日本は朝鮮動乱から刺激を得て創設した警察予備隊を保安隊に、さらには自衛隊へと昇格させ、終戦直後の混乱から抜け出そうとする兆しを見せた。また経済の再建も本格化し、神武景気(1954〜57年)によって「もはや戦後ではない」 (「経済白書」1954年)などと言われると同時に、男のロマンたる出世主義も復活する様相を呈し始めた。この歌には、今では滅多に耳にしない「互いに睦し日ごろの恩 別るる後にもやよ忘るな 身を立て 名をあげ やよ励めよ 今こそ別れめ いざさらば」といった出世主義が濃厚で、この掛け声に背中を押されて頑張った者は実に多い。彼らが卒業後どうなったか、話をそこから始めたい。

1.「身を立て名をあげ」は男の浪漫だったが

戦後、GHQによってアメリカ型の民主主義が奨励され、並行して個人主義が喧伝されたにもかかわらず、大方の日本人は戦前同様の家族主義や出世主義に縛られ、根本的なところで旧来の道徳や慣習は生き続けていた。とりわけ出世主義の教えに煽られて社会へ追い出された若者の多くは、厳しい現実を前にして挫折の憂き目に喘ぐことになった。

明治以来、土地を持たず、資産なく、有力な親戚もいない若者たちは師と親への恩を忘れず、立身出世の人生訓を胸に抱いて巣立っていった。かつて末は博士か大臣か、それとも乃木大将や東郷元帥のような立派な軍人になれと励まされ一念発起したものの、彼らの大志は実現できるわけもなく、夢と現実とのギャップの大きさに絶望せざるを得なかった。大多数の若者は零細企業の使い走りや低賃金で長時間働く労働者として、その日その日精一杯働いて疲れて眠る、このような彼らの姿は男のロマンにほど遠く、痛々しい限りだった。

また、大志に向かって奮励努力を続けたものでも、病や不況に見舞われ、志なかばでその願い叶わず、失意のままに人生を終えた者も多数いた。なかには師や親の教訓を守り、実直に働いて、運にも恵まれて財をなし、故郷に錦を飾った者もいるにはいたが、それは例外で、ほとんどの男たちは質素で平穏な生活を手に入れるのに精一杯で、彼らのロマンは色あせていたと言ってよい。

言い換えれば、明治維新以来、「仰げば尊し」にみる出世主義は大正、昭和そして太平洋戦争後も若者たちを苦しめ続けてきたのである。彼らは相変わらず日本社会の二重構造の下に組み込まれながらも、「身を立て 名をあげ」るために無益な努力を強いられてきた事実は歴史を一瞥すれば明白である。

昭和5年(1930年)、たとえ大学は卒業しても、京都、大阪、東京に就職口はなく、京都から遠く岩手の寒村の中学校に教員の職を見つけたわが先輩の昔話を思い出す。それでも幸運な方だった。世界恐慌の中、日本だけが満州景気で湧いていたという評価もあるにはあったが、小津安二郎の『大学は出たけれど』(1929年)や『一人息子』(1936年)に見る主人公の屈折した心情は多くの若者に共通していた。そこには明らかに浪漫より挫折感が充満していた。同じ頃、村の少女たちは小学校を出るとすぐに彦根の製糸工場に働きに出されて、数年後肺病に罹って村里に帰り、間もなく血を吐いて死んだ。そんな事は珍しくなかったと母は死んでいった同級生のことを思い出しながら話してくれた。

昭和34年(1959年)私より一歳上の従兄は彦根の工業高校をでた時、就職口が見つからず、やっと担任の先生の口利きで埼玉県の川越にあるゴム製造工場に職を得た。五年後、大学生であった私は彼に会いに行ったが、彼が住む粗末なアパートの一室を見て、悲しく切なく涙が出そうになった。

昭和35年安保闘争が終わって後、かつて「貧乏人は麦飯を食えば良い」(参院での実際の発言は「所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うというような経済原則に沿った方へ持っていきたい。」)と言った大蔵大臣が首相になって所得倍増論を唱えた。日本は経済の高度成長期に入ると(1954年から1970年の間と言われているが、実感としては1960年頃からではないか)、全国から中学を出たばかりの少年少女たちを刈り集め列車で都会に送った。それは集団就職と呼ばれた。当時の交通機関を考えれば、東京と九州や東北の間には果てしない荒凉とした闇が横たわっていた。彼らはいつか父母の元に戻ることを願いながら、慣れない都会で孤独に耐えていた。あの少年少女たちの物語は『女工哀史』(1925年)の昭和版であろう。彼らの辛い別れ、涙、故郷、夜汽車は当時の流行歌、たとえばそれを努めて明るく歌った井沢八郎の「あゝ上野駅」(作詞・関口義明、作曲・荒井英一、1964年)にもよく現れている。

2.昭和30年代後半からの日本

幸にも大学まで進学し、卒業できた者、とりわけ男性社員は、戦時中の産業戦士にならってか、企業戦士と囃し立てられ、社員教育によって愛社精神なるものを叩き込まれて、必死で夜遅くまで働いた。東京五輪の年(1964年)に卒業して、いわゆる一流会社で戦士になった同級生の二人も40歳そこそこで月給とりの戦場で憤死した。そう言えば東京五輪マラソンで銅メダルに輝いた円谷幸吉選手は、メキシコ五輪が開かれる昭和43年(1968年)1月、剃刀で頸動脈を切って自殺した。「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切って走れません。何卒お許しください」と遺書にあった。

一方、こうした競争社会から予め排除されていたかのような人たちがいた。家業の手伝いで商品を配達していた学生時代に、いつも釜ヶ崎で目にする光景があった。朝からバクダン(安物の焼酎)を飲んで、道路脇に日雇い労務者たちが寝そべっていた。仕事にあぶれると血を売って、なかにはひと月に十回近くも売って、その日の飯と酒を買う人たちがいて、国会でも問題となった。

このように思い出を少し掘り起こしても、昔の若者は大志を懐いて世にでていったというのはウソではないにしても、それは例外的に恵まれた境遇とか才能を持っていたか、有力な庇護者かコネがあったものに限られていたと思う。有り体に言えば、ほとんどの日本の若者は「身を立て 名をあげ やよ励めよ」の歌を胸に頑張り、やがて恨めしく思いつつ、すっかり忘れさって、ただ食べるために一所懸命に働かざるを得なかったのだ。

昭和40年代になって日本人ががむしゃらに働いたお陰で、日本の中産階級にも経済的に少しゆとりが生まれた。今とは違ってまだ専業主婦が多かった時である。なんとか食べることに不自由しなくなったが、それまでとは少し違う光景が見られるようになった。男は相変わらずコツコツ働いて、ようやく課長になったとしても、やがて妻が夫に「あなたいつまで課長なの。お向かいのご主人は、お若いのにもう部長さんなのよ。わたし恥ずかしいわ。もっと頑張ってくださらなきゃ」と言い始めた。「俺はこのままでよい」と返答すると、「あなた、もっといい生活を望まないの。お向かいの奥さんと毎日顔を合わすわたしの気持ちも少しは分かってくださらないとね」と続く。苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、なんとか妻の愚痴を聞き流せる心のゆとりが残っておれば、その後はなんとかなった。大抵の夫はそうしてやり過ごしてきたはずだ。
このような実情に人間はいかに苦渋するか。男はそのロマンと欲望をどう処理するか。

これを考える時、中世から近世へと移行するイギリスで生まれたシェイクスピアの『マクベス』と黒澤明監督の『蜘蛛の巣城』に描かれた出世欲とその瓦解が意味するものとが、奇しくも合致点を見出す。

3.マクベスの野望と絶望

面白いことに、高度経済成長期の日本の家庭で見られた夫婦の会話の場面によく似た場面が『マクベス』(初演推定1606年)とそれを元に製作された『蜘蛛の巣城』(監督・黒澤明、1957年)に見られる。この二つの場面を参照しながら日本の企業戦士のことを考えてみよう。

マクベスは荒野で魔女から「万歳!やがて王となられるお方」との予言を受けて「運命によって王になれるものなら、自ら行動しなくとも王になれるかもしれぬ」と密かな望みを抱く。戦いで手柄を立てたマクベスは、予言通りにコーダアの領主に取り立てられると、スコットランドの王になる望みも叶えられるのではないかと期待を膨らます。彼は使者を送って、魔女の予言とダンカン王がマクベスの居城に立ち寄ることを夫人に知らせる。それを知った夫人は、王を殺して夫が王になる千載一遇の機会が訪れたと喜ぶ。

帰ってきた夫に「今夜の大事な仕事はわたくしにお任せになればよろしい」と言い放つ。しかし、マクベスは逡巡する。「こういうことをすれば、この世でいつも裁きを受けるものだ」と。そこで夫人に「今度の計画はこれ以上前に進めないでおこう。最近も恩賞は頂いたし、あらゆる人から黄金の褒め言葉ももらった。この輝いている真新しい衣装をそんなに急いで脱ぎ捨てることもなかろう。」夫人「ではあのとき身に纏った希望は酔っ払ってしまったのですか。それからずっと眠っていたの。そしていま目覚めて、あんなに大きく膨らんでいた望みを思い出して青ざめていらっしゃるの。これからはあなたの愛はその程度のものと考えますよ」(1幕7場。日本語訳はすべて拙訳)と。この強烈な反駁にマクベスは精一杯抵抗する。

「男としてふさわしいことなら何でもやるさ。それ以上のことをやろうとするのは男ではない」と言い返す。それに対して夫人は「では、あの時わたしに計画を打ち明けさせたのはどんな獣だったの。勇気を出して実行してこそ、男になれるのよ」と畳み掛ける。こうしてマクベスは夫人の強い意思に降参せざるを得なくなった。

一体、マクベス夫人が求めた愛とは何だろうか。中世ヨーロッパのロマンス(騎士道物語)に登場する騎士は、トリスタンやランスロットのように宮廷愛の規則に従って、聖母マリアを崇めるように意中の恋人を慕う。彼女の愛を得るために困難を恐れず、勇気を持って試練に立ち向かい、そして自己犠牲さえも厭わぬ求愛者のその行動が本来人間的、性的な欲求である愛(エロス)をキリスト教の愛にまで高める。このような理想的な、プラトニックな中世の愛の作法はエリザベス朝時代にもまだ残っていた。

クリストファー・マーロウの『ヒーローとレアンダー』(1598年)の一行「一目惚れでなければ恋でなし」(Whoever lov’d that lov’d not at first sight?)は、『お気に召すまま』でフィービが受け継いでいる(3幕5場82)。そして、ロザリンドと付き合っていたお坊ちゃんのロミオも、ジュリエットを一目見るなり、ロマンスの騎士に豹変した。彼らの愛は運命的であり宗教的である。「愛も憎しみもわれらの力では御し難し/なんとなれば意志は運命に支配されているから」(マーロウ)。運命的で神聖な愛、なんというロマンティックな愛か。

ところがマクベス夫人は、夫が彼女の欲望を充たす男、つまり「獣」になれるかどうかによって彼女への彼の愛情の深さを測っている。彼女は夫にもはや騎士道精神も無私の宗教的愛も求めてはいない。いや、こう言い換える方が適切ではないか。母の乳を無心にねだる赤子に対するように、夫人はマクベスを忠実な従僕として彼女の欲望に奉仕させようとしているのだと。そうだとすれば謎の予言をマクベスに授けた魔女はマクベス夫人の分身であったと読める。いずれにしても人生の選択の場で運命としての「愛」を持ち出されては中世の武将マクベスには選択の余地はなかった。

4.高度成長期に作られた『蜘蛛の巣城』では

次に高度経済成長期の入口に入った頃に製作された『蜘蛛の巣城』の夫婦のやり取りを見てみよう。「俺はこのままでよい」は主人公・鷲津武時が妻・浅茅に言った台詞である。「この館の主人として大殿に忠勤を励むのだ。分相応に安らかさが好ましい」と続ける。心の底に出世の野心を潜ませながら、「俺の心には何もない」と言い張る夫に対して「それは嘘です」と妻は言い、夫の意気地無さを責め立てる。夫の僚友・三木義明が森で聞いた予言を主君・都築国春に告げれば、大殿は夫に謀反心ありと疑って攻めてくるだろうと唆す。だが彼は彼の武功に対して正当に報いてくれた大殿を信頼し、子供の頃から仲の良い友を信じていると言い返す。それに対して妻は「出世功名のためならば、親が子を殺し、子が親を殺す世の中です。人に殺されぬためなら人を殺す末世です」と諭す。その時、主君が思いもかけずわずかの手勢を従えて武時の館に来て、一夜の宿を願いでた。浅茅は今が予言通り蜘蛛の巣城の城主になる絶好の機会であると夫に主君を殺すようにと促す。ここで、昭和のマクベスである武時は「お前は、俺がこれまで真面目に頑張って、やっと手に入れた今の暮らしに満足できないのか」と一喝してもよかった。しかし、武時は「大望を抱いてこそ男子」と駄目を押されて観念し、妻の指図に従う。なぜか。

武時を高度成長期の日本の企業戦士に置き換えてみればよくわかる。昭和の戦士の多くは会社で忠勤に励みささやかな報酬と幸福を手にして満足している。しかし、もし彼に浅茅のような現状に満足しない妻が家で待っているとすれば、どんな選択があるのだろうか。こう考えてみれば、『蜘蛛の巣城』は立身出世の神話が揺らぎ始めた時期の物語であることがはっきりする。実力があり、懸命に励んできたのだから、もっと報われてもいいのではないか。家族のために十分に働いてきたつもりだが、それでも妻が満足していないというのなら、世の中の方が理不尽なのであろう、と。だったら不正な手段を使って欲しいものを手に入れても悪かろうはずがない。露見しなきゃ幸い、これも生きるためなのだ、と。だから、この映画は日々家族のために身を粉にして働いている高度成長期の月給とりの心の底に眠っている善(忠誠、勤勉、節約、節制、貞節の倫理)と悪(欲望の充足)の葛藤を夫婦の対話を通してメロドラマ風に表出した物語映画として解釈できる。

日本には元々愛の観念、神の愛に同化される絶対的な愛の観念はない。だから、浅茅はマクベス夫人のように「これからはあなたの愛はその程度のものと考えますよ」と夫に詰め寄りはしなかった。なぜなら「日本人にとっての夫婦の愛情は、赦(ゆる)しあうという実質を持つかまたは真の執着そのものである」からだ(伊藤整「近代日本における「愛」の虚偽」1958年)。日本のマクベス夫人・浅茅は夫の不甲斐なさに愛想を尽かすのではなく、さりとて赦すわけでもなく、あくまで自我に執着する。「出世功名のためならば、親が子を殺し、子が親を殺す世の中です。人に殺されぬためなら人を殺す末世です」と乱世の道理を語って、わが欲望を充たすために夫をわが身に引き寄せる。その際、彼女が説得の切り札に使ったのが「大望を抱いてこそ男子」という明治以来の人生訓であった。

20世紀も末になれば、近代日本の神話、つまり儒教思想に明治以降移入されたプロテスタントの労働倫理が合わさってできた立身出世の物語は流行らなくなった。近代化の歪みが各所に現れ、下克上の戦乱の時代に似てフェア・プレイでは成功できない時代が到来したのである。こうして努力や勤勉が報われない世の中で、ごく僅かの勝ち組と多数の負け組に二分化され、固定化される理不尽な現実が定着した。このような世になると、「少年よ、大志を抱け!」(“Boys, be ambitious!”)の掛け声も若者には遠く虚しく響くのみであった。なぜ、俺が負け組なのか。おかしいではないか、とマクベス夫妻の昭和の末裔たちは自問する。このように過渡期の混沌、荒野で魔女たちが「綺麗は汚い、汚いは綺麗」(“Fair is foul, and foul is fair.”1幕1場)と不気味に予言したあの終末的世界が経済の高度成長期の浮ついた世相の底に見え隠れしていたのである。

5.ポストモダニズムの解釈で切ると

中世と近代がないまぜになったエリザベス朝時代(1558-1603年)という過渡期に生まれたシェイクスピアの悲喜劇には、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」と唱える魔女の感性が浸透している。この感性は、奇妙にも現在のわしたちの感性とも符合している。

近代が、進歩と幸福を約束した啓蒙時代、そして産業革命から情報革命に至る資本主義の発展と成熟の段階を経て、衰退期に差し掛かった20世紀後半に、ポストモダンと呼ばれる感性の時代がやってきた。一般に、近代の次に来る時代が何かまったく見通せない時期がポストモダンと曖昧に呼ばれている。現在も私たちはこのモラトリアムを通過していない。だから、イギリス・ルネサンスの最盛期でもあるエリザベス朝時代は中世から近代への過渡期という意味で、ポストモダンと共通した点が見られるのだ。特徴は、反合理主義、権威への懐疑、キャンプ、パロディ、秩序へのチョッカイ、コラージュ、秩序と無秩序の接合、バロック的装飾、ゴチック的グロテスクの味付けなどである。

たとえば、映画『ニッポン無責任時代』(監督・古澤憲吾、1962年)の挿入歌「無責任一代男」(歌・植木等、作詞・青島幸男、作曲・萩原哲晶)はその好例ではないか。「人生で大事な事は/タイミングにC調に無責任/コツコツやる奴はごくろうさん/ハイ!ごくろうさん」。まだ、立身出世の神話の残像が残っていた時期、つまり日本経済の高度成長期にこの歌は流行った。粉骨砕身働けば幸福が手に入るという成功神話が完全にパロディ化されている。同じように、「ハイそれまでヨ」(1962年)では、頑張って手にした結婚生活によって男は想像していた安寧を得られず、こんなはずではなかったのにと、戯けて嘆いてみせる。「私だけがあなたの妻/丈夫で永持ち致します/テナコト言われてソノ気になって/女房にしたのが大まちがい/云々」(1962年)。もちろん、男が立身出世の神話に苦しめられてきたのと同様に、良妻賢母の鋳型に押し込められてきた女の側にも相当の言い分はあったのも確かなことである。

一方、表舞台には、1972年(昭和47年)立身出世の手本として今大閤と賞賛された田中角栄首相が登場した。新潟の貧しい農家の少年は明治生まれの母の教えを忘れず、15歳で上京。奮闘努力の甲斐あってか、政界の頂点に登った後、彼は日本人全体を豊かにしようと「日本列島改造論」の実践に乗り出した。その結果、大規模なインフラ整備に伴って生じた地価高騰とインフレ、さらにオイルショックに対応しながらも国民の所得の向上に貢献した。その彼も1976年に汚職事件で逮捕された。それでも経済は昭和の終わりから平成にかけてGDP世界第2位と言われるまでに成長した。しかし、バブル経済(1986-92)はあっと言う間に破綻した。バブルがはじけた頃、卒業式では「仰げば尊し」に代わって「旅立ちの日に」(作詞・小嶋登、作曲・坂本浩美、1991年)や「贈る言葉」(作詞・武田鉄矢、作曲・千葉和臣 1979年)などが歌われ始めた。

おわりに:浪漫は蘇るか

このように成長から破綻まで、さながら運命の糸車に翻弄されたマクベスの半生に似て、明治以来、日本の近代化の流れは一気に終末まで進んだ。その間、日本のため、功名のため、家族のため、そして生活のために一所懸命に働くことに虚しさを感じ、生きることに疲れた人たちが増えた。実話に基づいた『人間蒸発』(監督・今村昌平、1967年)や『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』(監督・山田洋次、1975年)には、ある日突然、なんの前触れもなく妻の前から姿を消す男が登場する。当時、今では死語になった「蒸発」と言う言葉が流行った。70年代から80年代にかけて毎年10万人以上の行方不明者がでたが、その中には女性も男性と同じくらい含まれていた。彼女たちもまた社会の急激な変化によって、女性の居場所であると言われてきた家庭に生きがいを見いだせない人たちであった。平成になってもやや人数は減ったものの、「蒸発」は続いている。

平成から令和になると、職場でのパワハラや親による子供と配偶者への虐待、子供同士の陰湿ないじめなど、全ての年齢層で弱い者をいじめて、たびたび死に至らしめる殺伐とした風景が日常的に見られるようになった。立身出世であれ、良妻賢母であれ、明治から昭和まで生きながらえてきた神話が消滅するとともに、従来のような働く意義と目的が失われ、付随していた倫理の核も壊れ、そして当然のように、人間として生きることを律する精神の衰退を招くことになった。加えて、地震、津波、水害、そして世界に蔓延する新型コロナウイルスの脅威など様々な外敵に囲まれて、これから子供たちはこの混沌とした状況の海を航海しなければならない。いや、漂わねばならない。

仕事を終えて家に帰ってきた炭治郎少年—-漫画『鬼滅の刃』(作・吾峠呼世晴、2016年–)の主人公—-が見たのは、親兄弟が鬼に殺され、生き残った妹は血を吸われて鬼になって生死の狭間にいる惨事であった。そんな彼は妹を人間に戻すため、そして家族の仇を討つために鬼との戦いの旅に出る。鬼は必ずしも鬼の姿をせずに突然襲ってくる。また敵か味方もはっきりしない不可解で、グロテスクな、滑稽なまでに錯綜した現世で、彼は勇気と優しさを失わず、鬼に打ち勝つために技を修得し、自己を鍛え成長していかねばならない。いつか彼も鬼に喰われて鬼になるかもしれない。貧しい炭焼き農家の倅に過ぎないが、彼は中世の騎士のように次々に現れる悪鬼と闘う旅を続ける。これも現代のロマンス(騎士道物語)のひとつと言えまいか。

2020年5月10日

令和二年二月、JR横浜駅西口キリンシティにて集い会う
宵闇のグラス弾ける春今宵ロウマンの風友と語らふ  港区白金 紅竹みずほ
 
国鉄からJRへ。この異郷の街ヨコハマにて集ひて
夕暮れのビルの二階でのむ麦酒ばくしゅ行方定めむ春ゐたりなば  東京府中 河内裕二
 
萌黄立つ京の街四条の酒舖楽庵にて朋友成秋と杯傾けし日を想ひ
ひさかたの都の春を楽しまん友と庵で肴喰ひつ  古都から 福田京一
 
この集いを聞き及んで伊豆から詠める
殿を伊豆の山なる神の虹しろ薔薇手折りて捧ぐ集いに  伊豆山系 三井茂子
 
ポート横浜はあくまで異郷の地なれば
啓蟄を歓びとせむこの命他国の駅舎であおる独酒  葉山 濱野成秋
 
 令和二年二月十五日、この歌の群れを編集しをる折に鈴木孝夫先生より架電あり。亜米利加合衆国の成り立ちにつき語り合ふ。読者の方々もこぞって応募をされたし。

同志社女子大名誉教授 福田京一

合理主義、理性、物質主義、科学、慣習と制度と法律、伝統、古典主義、現在、他者などに対する反措定として感情の発露を原動力とするエゴ(自我)の営みがロマンチシズムであると大雑把にとらえてみれば、芸術に限らず哲学や社会思想、さらに政治の分野においてその創造力が生み出した影響は計り知れないほど深く広い。創造に携わる人なら、程度の差こそあれ、この力を糧にしないものはないだろう。究極において創造行為とは抑圧からの自我の解放であり、病める自我の救出の暗喩であると納得すれば、ロマンティシズムとはさしずめ創造の神と言ってもよいのではないか。

とりわけ近代になって、世界が劇的に変化するなかで自我が強く意識にのぼるようになった。それ以来、芸術はロンティシズムと深く関わるようになった。自我を抑圧から解放する営みが様々の領域での革命と結びついたのは感情の力のせいであり、それが戦いの場で強力な武器となった。愛も嫉妬も、憎悪も義憤も憐憫の涙も慚愧の涙も、恐怖も畏怖も、哄笑も微笑も嘲笑も、その激しい感情によって人が我に帰り、同時に他人とつながるための手段になることを知ったのである。あとは表現をどうするか、であった。感情過多になってゲーテが言うように「病的」にならないために。18世紀も19世紀も、そして現在も、事情は変わっていない。

ここにエミリー・ディキンソン(1830-86)の詩がある。

This is my letter to the World
これはわたしからの世間への手紙
That never wrote to Me –
一通も私はもらわなかったけれど、
The simple News that Nature told –
自然が語ってくれた素朴な報せです、
With tender Majesty
優しく威厳をもって
 
Her Message is committed
託された彼女の言づては
To Hands I cannot see –
見知らぬ人たちに差し出されたもの、
For love of Her – Sweet – countrymen –
どうか彼女を愛するなら、心ある、皆さま、
Judge tenderly – of Me
優しく裁いてくださいね、私を

なんとチャーミングな言葉か。保守的な田舎町アーモストで、人知れずせっせとノートに短詩を書き貯めては、当時高名な文学者T. W. ヒギンソン先生に送って理解と支援を求めたが、夢叶わず、彼女は無名のまま消えていった。しかし、孤独と世間の無理解に悩みながらも、押しつぶされることなく、彼女は自我の営みを言葉によって紡ぎ続け、世間に、そして未来の世代に向かって、密やかに発信していたのである。やがて時と場所を超えて蘇った彼女の言葉は私たちの心にじかに語りかけてくる。

A word is dead
言葉は死ぬのだ
When it is said,
それが発せられた時に、
Some say.
そう言う人がいる。
 
I say it just
わたしに言わせて頂ければ
Begins to live
生きはじめるのです
That day.
その日にね。

「詩は力強い感情が自然に溢れたものである」(Poetry is the spontaneous overflow of powerful feelings)と言ったワーズワスの定義がロマンティシズムの理解を歪めてしまったのは残念であった。感情の発露は創造のための起爆剤として効果がある一方、その行く末のことに気づかず、往々にして独り善がりに陥った。感情に駆られて饒舌になるのではなく、もっと言葉の力を信じなさいとディキンソンは言っている。その意味では、もっと自由に詩を書くようにと忠告したエズラ・パウンドに「ネットなしでテニスをしてどこが面白いのか」と反論したロバート・フロストの作詩法はロマン派にとって含蓄のある忠告だと思う。

(2019.9.7)