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三浦短歌会  令和二年十一月二十一日  濱野成秋
 
 歌会と講演『浪漫歌人山川登美子によせて』
 
 三浦半島の突端、城ヶ島を間近に三崎港がある。そこは北原白秋が駆け落ちして隠れ住んだところでもある。当時、白秋は傷心の果て。駈け落ちは絶望の日々でもあって、暗澹たる心境であった。ところがここに、彼の歌碑が最初に建てられ、白秋自身が懐かしさを胸に訪れた。昭和十六年、真珠湾攻撃の年である。
 人生、はかなき出来事が次々起こると、人は旅をしたくなる。
 住み慣れた地で同じ顔ばかりに向かうのが辛い。天国のような住みやすい処でなくてよい、地獄の果ての、わが身の細る境遇に置かれても良い、どこか遠くに行きたい。そんな夕陽や月夜を視たければここにお出でな。筆者は山川登美子の講演も兼ねて車を飛ばした。
 歌会は午後1時半、勤労市民センターで。
 「今日はフルメンバーです」と声を弾ませる三宅尚道師匠が迎えてくれる。
 会場は料理教室のようなテーブルがあり、隣室から詩吟が聞こえる。
 
  ナラ枯れて赤茶に染まる樫の木に
     リスが登れば枯葉舞い散る  光枝
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
 これまた秋の風情にて、先ほど誘うた三崎の浜近く、割烹旅館の女将らしい気風がある。明暗と天地が見える。ブルームーンはハワイの装い。六十年前、この地に嫁に来た加藤由良子さんには、もはや三崎は第二の故郷以上の親しみ。恋しかるべき夜半の月かな、が脳裏に。
 ところが筆者の葉山は第二の故郷。こここそ安住の地と定めたる吾を嗤うのは、座敷に侵入して来た大蜘蛛で、加藤さんの心には程遠く、
 
  が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
     大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し  成秋
 
と詠みたるを思い起こせど、口にせず女将の言に聞き入る。
  雨上がり菊葉の珠の輝きは
     朝の空気の為せる業なり   弘子
 
 久々に静謐なお作にお目にかかった。静寂そのものである。前二作には動きがあり人の息遣いがあるのと対照的にこのお作は静止状態。Staticそのもの。正詩型というべきか。
 
  新型の肺炎ゆゑに天国へ
     旅立つときもマスクしてゆく  尚道
 
 これは狂歌ですかと言えば、このひと月の間に入院したので、とのこと。これを深刻に捉えずにギャグとして詠むしたたかさ。却って真剣になる思いである。マスクといえばコロナ感染症ゆえの流行ものと捉えるか。否。高峰秀子主演の映画『浮雲』のワンシーン、彼女が仏印から引き揚げて来る、そのボロ船からボロリュックを背負って上陸して来る姿を視よ。誰も可も、全員、マスク姿なり。
 
  てらてらと輝く背中踊らせて
     仕事に励むイルカたくまし 和子
 イルカショーは何とも気の毒。どう見ても知能は人間もイルカも同格。どこが違うかと言えば、人間はずるいから安全な役についていて、イルカは正直者だから身体を張っている。ひとたび着水が着地になれば、それでお陀仏。だから、「たくまし」より「いたまし」と変えたいと作者。至極もっともなり。
 
  庭の木に伸びたるツルを引きゆけば
     冬瓜三つ実をつけてをり  良江
 
 結構な収穫でした。三崎は平和なり。これぞ桃源郷。桃源郷とは義理の家族や夫と細君との仲たがいがあっては成り立たぬ。
 いや、もしもですよ、もしも次の歌のような家族関係もあるなら、歌にするもよし。短歌の世界に身を投じて、一首、
 兄と一緒に駅に父を迎へに来たものの
 
  腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわ
     父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 続いて山川登美子の話となる。
 日本の浪漫主義文学は現代文学史では明治25年に夏目金之助のちの漱石がアメリカの詩人ホイットマンを日本に紹介したことに始まる、とよくまことしやかに書いているが、これは間違いである。いや、むろん、有島武郎でもない。そんな現代人ではなく、千年も前、額田王の頃に遡らねばならない。ここから説いて、古今、新古今と辿らねばならないが、それは次の機会にということで、登美子がなぜ日本女子大に来たか、なぜ晶子や雅子が名誉回復したのに、登美子だけが薄命にしてその生涯を閉じたかを語った。小浜の方々も短歌の会か盛ん。
 いつの日か、あい集う日が来ることを。
 三浦半島の三崎も小浜も、港町。
 その三崎で、筆者は良い子でいましたが、白秋もそうであったように、筆者も心は漂泊の思いにて、その果ての旅のごとく、会のあと、宵闇にキーコーヒーのカフェに行こうということになり、皆でお茶を。
 誰にも言わなかったが、その情景は、原田康子の『挽歌』に出て来る釧路の喫茶店「ダフネ」のようでありました。
三崎白秋会
白秋「城ケ島の雨」によせて
       令和二年八月二日   濱野成秋
 
1.城ケ島の雨と三崎白秋会
 
 歌は友をつくる。歌心は受け継がれて花開く。
 まさにこの思いで筆者は三崎白秋会の方々とあいまみゆることとなった。白秋の歌碑を守り心を受け継いで研究部会まで作り、そこに招かれたのである。
 白秋が道ならぬ恋の果て、この三崎に来て鬱々たる思いで作った「城ケ島の雨」の詩が僕の寄る辺なき人生を思い起こさせたのも、行く気になった理由かもしれない。この詩が僕の心に最初にずしんと響いたのは、まだ二十歳代だった。生涯かけてやるべきは何か。一生に一回の人生を何に捧げるべきか。一向に見定まらない迷妄の日々だった僕は迷い心を奥底に秘め、さる高校に非常勤で勤めていた。そこの校長が宴席でこの暗い調子の歌を華やかであるべき宴席で歌ったのだ。周りはしいんと静まる。彼は甲府の出で、古武士の風格。日頃お会いする折に語られる説諭は胸に沁みるがごときで、一々納得できたから、僕にはこの歌の一節、一節が心に沁みて居たたまれない思いさえした。
 古武士のように胸を張り御老体が歌いだすと、音程が見事。歌詞も間違える懸念もない。人生を達観しておられた風貌で迷妄中の僕を諭す。これを作った白秋はまだ二十代後半だったが、僕とて同じ世代だから、白秋の偽らざる心と、目の前の、心から敬愛している校長の心とが、僕の胸の奥でしんしんと鳴るのである。
 その後、色々な機会にこの歌を聴くが、そのたびごとに、校長の声音を思い出す。自らの未熟さと迷妄に恥じ入り自分が情けなくて切なくて。文学を見つけ直して真正面から取り組んだのはこの頃からだった。
 後年の白秋もまた、おもえば三崎で己と対して作詩の後、小田原時代へと、進むことが出来たのではないか。若気の恋人と実家柳川の家運の傾きとの両方を背負って、三浦にもとほり訪れたのが人生の曲がり角か。三浦漁港の、その突端の海辺に立って沖を臨めば、城ケ島は折から驟雨にけぶる。暗雲垂れこめた驟雨は濃緑色にけぶる。
 人生、こんな八方ふさがりの気持ちは察するに余りある。
 私でなくともこの歌を聞いた者はだれしも、自分にもあった迷妄の日々を想起するはずだろう。今は大橋も出来て三崎や城ケ島の情景は白秋の時代ほどには人の心を曇らせないかもしれないが、この街に住み住人(まちびと)と触れ合えば、己が心もまた三崎にこそ息づくことを知るだろう。
 白秋はこの地に長くは逗留せず、むしろ小田原の地で数々の童謡をしたためたが、ながらえばまたこの頃やしのばれむで、初めての歌碑が三崎に建てられたのも、彼にはよかった。ここが第二のまほろばのはずだ。
2.白秋は入寂たへなむが
 
昭和十六年。折しも日本は太平洋戦争にさまよい出でる年。眼前に暗雲の垂れ籠めるさまを、歌人はその繊細な感覚でとらえ、無謀な奈落を肌で感じ押し留めようもなく瀬川に浮かぶ小笹舟の心境か。眼も不自由、身体も重い。老境の體でこの地に歩を運んだ。この若気の至りの地に。その心境や如何に。左の一首は彼のやるせなさを察して詠んだ私の作。
  このいのちおぼろ入寂たへなむひととせ
     超へて伏す身の耐へ難かりき 成秋
 
老い人と言へば茂吉もこんな恋歌を綴ってはゐるが、
 
  老びととなりてゆたけき君ゆゑに
     われは恋しよはるかなりとも
 
 白秋もまた歌詠みなれば、茂吉の心情に近いかも知れぬ。その心底に去来するは推測の域外であろうけれども、三崎は白秋にとって終生忘れがたい地であったことは否めない。
 だからこそ、こんにちも、三崎白秋会もあり三浦短歌会も脈々と生き続けているのであろう。
 僕は郷里堺にいて白秋の「帰去来の辞」に初めて接した中学時代を思い起こし、口ずさみながら白秋記念館へと急ぐ。
  山門やまとはわが産土うぶすな
  雲騰がる
  南風はえのまほら…
 
 この詩の最後のほうで、白秋は、
 
  帰らなむ、いざかささぎ
 
 と、白秋は異郷の地に立つ陶淵明の心境で遠く柳川の地に思いを馳せる。
 流離の地か。
 浪漫詩人の藤村も流離の日々を台町協会や小諸義塾で過ごし、そこをその時々の、心の住処としていた。白秋も三崎をこよなく愛し、閃光のように過ぎ去った日々を懐かしんだに違いない。
 吾人もまたここに腰を落ち着けて思いを過去に馳せよう。意を強く持つべきだ。そう考え、今や世界規模に発展拡大しつつある吾らの「オンライン万葉集」がこの三崎の街で開花する思いで先を急いだ。
 そんなわけで三崎白秋会とはご縁ができた。
 勉強会は潮騒の聞こえる城ケ島の「白秋記念館」で行われ、加藤会長様の温かい御心のあらわれで、自作の農園で採れた立派なメロンをお土産に頂戴することになった。
 「オンライン万葉集」について、日本の和の心を西洋に伝える大切さを語り、どの言の葉も朽ちて埋もれ木となる書籍の宿命を打ち破って、永久とこしえに読まれる可能性を語り続けた。人間の想念もまた肉體という有機体の死と共にこの世から掻き消えるが、オンラインに書きつけた言の葉は遺る。それも、いつ何時でも読めるゆえに活性化して生き続ける…。
 されど書籍も人工品。
 オンラインも人工品。
 中に想念が言の葉となってたゆたい
 人間ヒューマン不可解イニ有機体グマ
 がこの人工品に生命を吹き込む。
 未来永劫は誰の手に渉る
 創る者だけが守り人か?
 イニグマは無残な破壊者か?
 創るが故に
 破壊を歓ぶか?
 かくして壊れものとしての人間が破壊者ならぬ創造者として、ここに「オンライン万葉集」を造り上げ、白秋が縁で創設されたこの短歌会のお作を掲載する運びとなった。
3.心の命は永遠に
 白秋の取り持つ縁かいな、というわけで、温かい心の交流が三崎白秋会の研究部会と三浦短歌会とのご縁ができた。
 三宅尚道氏はこの度の講演の機会を設けられた世話人だが、「三浦短歌会」の維持についても長年にわたり努力しておられる。
 沿革を聞くと大事に継承される訳もよく分かった。今まで五回も「合同歌集」を出された会なのである。
 第一輯(昭和二三年)、第二輯(昭和二四年)、第三輯(昭和二七年)、第四輯(『群礁』、昭和五十年)、第五輯(平成二六年)。
 初期の方々はみな故人となられた。
 この会には規定があって、次のような約束事がある。
 「結社の如何を問わず、特定の指導者をおかず、あくまでもその作品を中心とし、批評と鑑賞を通じ、独善に陥ることなく、作歌の勉強と懇親を続けていく会である」としている。
 さっそく先人の歌を紹介しよう。解説は長崎三郎氏。
 
  外灯をめぐりて翔べる夜の蟲
     灯を消さばいずこにのがれん  飯島誠司
 作者、最晩年の歌。外燈を巡って、虫が飛んでいる様子を見ての感慨。灯を命と受けとめると、体の命がなくなると自分は何処へ行ってしまうのだろう。目に見える具体から、眼に見えない普遍的世界へと導く歌、と長崎氏は読み解く。飯島さんは代々三崎で医院を営む家柄とも聞いた。
 医師は常に死と向き合う職業であるから、街燈に蝟集する蛾の、無心に生き、無心に死ぬる命にも無関心ではいられないのであろう。
 文学を生きる糧として生涯を送っている私など、幼児の昔から、道端で転がるミミズや虫けらを、いとおしんだ。みな乾涸びて死んでいる。
 大人は「虫けらのように死ぬ」とか「犬死」とかいうが、そんな野卑な言い方を蟲や犬に与えるでないと、子供心に抵抗を感じた。自分もこのミミズ以上に弱い身体で近々このように乾涸びて死ぬるのだと、つくづく人生の儚さを幼時からかみしめたものである。
 その目でこの歌を再読すると、全身、だるさに襲われる。
 肉體が枯れ果てた後に吾が魂の行き場がどこか、やたらと気になったが、子供の頃は、わからんでいい、まだ先やと思い、成人すると、もうちょっと先や、もうちょっと先やで自分を誤魔化す。
 誘蛾灯に蝟集する蛾は自分の次の生まれ変わりだと真剣に思う。それも最近のことである。
 自分の命なんか、もう終わりや、次は蛾になって登場するのだろう。だからそんな運命を辿った奴らと自暴自棄になって、先を争って火に飛び込み、回生のライセンスを掴み取って、次の、もちっとましな生に駆け込む気なのだ。人間をいっぺんやってみると、その生命、なかなかによい。やっぱり人間で生まれ変わりたい、蛾は嫌だぜ、神様、と僕。蛾も、全蛾も人間になることを希っているのだろう。そうはいくものか、魚になってクジラに食われたり、ミミズになって魚の餌にされたり。いや待てよ…第一、人間って、そんなにましな生物なのか? それは疑問だ。人間なんて、虫けらの一体形かもしれん。この、根源的な疑問にも答えが出ない。いまも回答がなきまま、刻一刻と死に向かっているくせに、時間を浪費して短歌づくりなどに精を出している。…
 次の作。
 
  石油危機きびしき日々に獣糞を
     焚く草原の生活たつきを憶ふ   水谷みずたに壽子かずこ
 
 作者は戦時中、中国の満州にいた。満州から引き揚げてきて、戦後の生活が始まり、石油危機にみまわれた。石油による生活は便利であるが、便利さは不便さに繋がっており、前の満州生活を思い浮かべている。
 右のコメントは長崎氏のもの。
 満州と言えば思い出す、戦時中、満州では俳句や短歌が大流行り。今でいうオンライン万葉集に当たる全国ネットの詩歌集には満州からの応募がわんさとあった。それがあの引き揚げの悲劇の直前まで続いたのに、戦乱でずたずたになった。平和は有難い。有難いから我々は平和ボケではいけない。
  ふるさとに汀つながる海の声
     やさしく今日の目ざめを誘ふ 松本文男
 
 松本文男さんは東日本大震災で三浦に避難されてきました。若い時より短歌に取り組み歌歴の長い人でした。震災の歌が多くありますが、この歌は短歌会に出された最後の詠草です。大津波に遭われても最後に海を歌われ、慰められます。 長崎三郎
 
 ふるさとに汀つながると詠むと思い出す光景がある。今から二十年ほど以前にハワイ諸島の一つカウアイ島でのことだが、僕は日系移民史の調査でお寺に泊まり、戦後に日本に来たという二世を紹介された。彼は例の二世部隊の勇士だが、もう八十歳近くになられ、それでも青年のように精力的だ。僕の研究内容を聞いて、それでは一世のお墓に案内しましょうとジープを飛ばす。猛烈なスピードでサトウキビ畑の赤土の中、真っ赤な砂塵を上げて疾駆する様はさながら戦時中だが、そのカーラジオでガンガン鳴るのはなんと坂本冬美の「火の国の女」だった。やくざ調の、ドスの利いた歌がこの臨場感にぴったりだった。やがて前方の視界が広がる。と、ドドドドドド…逆巻く大海原だ。東映映画のタイトルバックだった!
 「何でこんな断崖絶壁に、大海原に向かって墓標が立っていると思いますか?」と、元二世兵士。「そ、それは…そうか、この怒涛逆巻く向こうに…」
 「そう、ジャパンがある。故郷があるから、死んだらみな、海伝いに田舎に帰りたいからですよ!」
あの時の海鳴りは忘れられない。
 大詩人でもなんでもない、明治初年にハワイに渡り、明治時代に早くもこの異郷で果てる、大正初めに死んだ人も、昭和の人も…次々墓標を読んで、二度、三度、四度、荒海を眺める。
 もはや墓参に訪れる人もなくなり、どの墓標も粛然としてそそり立つ。
 これが死なのだ。俺も近々こうなるのだ。
 東日本大震災で異郷の汀にいても、思うことは故郷のことばかり。
 白秋の言うように、汀づたいに帰りなむ、いざ鵲、である。
 三崎白秋会よ、三浦短歌会よ、永遠に。
 遺された歌は重い。実に重く、深い。       (第1回は以上)
 

西野先生ありがとう(完結編)
Many Thanks, Mr. Nishino (Concl.)

=先生が遺された激烈な戦時体験記=
With Old Notes of his Young Days’ Struggle

日本浪漫学会会長 濱野成秋
By Seishu Hamano, Japan Romanticism Academia

完結編を書くに当たり

登美丘中学在籍中、私たちに国語や歴史をご教授くださった西野龍男先生が他界されてから久しい。郷里を仰げば未だ先生の元気なお顔が目に浮かぶ。早いもので、教え子たちも先生の御年に追いつく年齢にならんとしている。ご焼香に上がった時、奥様から頂戴した先生のご遺稿のコピーを元に、前編、中編と書いて、今完結編を書く段階となった。まるで登美丘劇場で観た笛吹き童子のような連載になったが、それほどに戦中戦後、中学の教室での一日一日も含めて劇的に展開した戦後史の哀歓は多彩である。昭和20年代から30年代の中学時代は戦後でも依然として戦中の空気が濃厚に漂っていた感がある。

達意の肉筆で淡々と綴られた西野先生の遺稿は戦中の苛烈な日々を蘇らせる。今更ながら何度涙したことか。戦後の、生半可は自分自身の生きざまに照射して、僕らの少年期がもし、西野先生のお立場と同じであったなら、果たして先生のように確たる視点をもって書き続けることが出来たか。そんな思いに駆られてならない。

登美丘中学は大阪平野の南部に位置する。南海高野線「北野田駅」で下車、真ん中を通るバス道路を大美野方向へ。堺市の東区に現存する公立中学である。今でこそ設備の整った中規模の中学であり、立派なブラスバンドも活躍する豪華な中学だけれども、当時は戦後まもなく誕生した木造長屋型モルタル仕上げの平屋校舎であり、それでも我々は「白亜の殿堂」と読んで、床に塗り込んだコールタールの強烈な臭気も厭わず、戦時中なら禁忌された男女同席で平等いや女性尊重の気風を当然として、与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」を先生と暗唱した、そのもっとも初期の新制中学であった。生卵が最高の栄養で貴重品だった点では戦前と変わりない。

授業はしかし先生方の大半が軍隊経験者か軍事教練を受けた方々ばかりであったから厳格そのもので、直立不動の姿勢で軍隊式に整列し番号を大声で掛け合うなど当然と思って励行したものだった。 
西野先生は格別厳しかった。反抗期の僕らは当然、街に出れば見かける行き過ぎた民主主義の乱れた物質主義に毒されていたから、いや筆者だけかもしれないが、戦犯のパージやそれに続いたレッドパージの雰囲気に毒されてか、よけい憎まれ口に向かい、西野先生には藤村や晶子に関する当惑させるような質問を投げ掛けた覚えがある。

それが青春の蹉跌だったか。彼の記憶に私の存在がつよく刻まれていたことは後年の余談で判ったけれども、申し訳ない態度だったと悔やんでいる。

だが成人し、自分も40代、50代、60歳代になった頃には西野先生はみごとに清明な気持ちで筆者を眼中に入れてくださった。筆者は新作を発刊するたびに一部を送り、ご講評を賜り、帰郷すれば登美中時代の仲間と集い会って先生方とまみゆれば昔の言動を詫びる有様であったが、西野先生は車で迎えに来て下さったこともある。叔母上の立派な茶道具が今は郷土美術館に収納されたと聞き、拝見に向かったのである。その日一日、武者小路実篤流にいうと、好日を得たわけだが、西野先生の胸に絶えず去来していたのは、私が中学時代に教室にいた顔色のすぐれない痩せた少年のことだった。両親を亡くして欠食状態のその子を先生はつきっきりで心配されており、私ごとき生意気盛りの文学少年との問答なんぞは、さしたる厄介ごとでもなかったのである。

晩年の先生は同窓会にも毎回欠かさず出席され幹事の苦労を誉め談笑し、再会を誓ってお別れしたが、頑健そうに見えた先生も遂に帰らぬ人となられた。

我々はご冥福を祈るために富田林のご自宅まで上がったが、そこで奥様から、若き頃の先生の壮絶な日々をお聞きし、これは世界中に知らせねばならぬと考えた結果、この日英両方の言語で書いた記録集になったわけである。

現在に戻れば、世界中がコロナウイルスの恐怖に見舞われているが、戦後間もない頃を知る者にとっては、この種の疫病はあって当然の現象であった。南方帰りの軍人さんはマラリヤに罹患したままで帰国し、屡々発作を引き起こしているし、不衛生な、冷凍処理なしの魚や防疫処理なしのバナナを食って、腸チフスやパラチフスになり、結核で青年がバタバタ死ぬといった現象が巷に溢れていた。銭湯に行けば湯舟で放尿する淋病患者もいてその細菌で失明した子もいた。

このような状況下で日本について語るとなれば、日本という東洋の孤立した島国は260年の鎖国を解いて世界の国々へ門戸を開いて無我夢中で近代的工業国として自立できるまで頑張ったけれども、必ずしも順調な道のりを辿ったわけではない。西欧型コロニアリズムの転換期が第二次世界大戦であったと考えても、惨禍は相変わらず否応なく受け続けている。

While writing this essay, as a writer, I have gradually got to know
that Mr. Nishino’s wartime extraordinal hardships are all factors of the past, meaningful struggles of our nation. As was described in the old days’ Manyoshu, Japan was and is to be regarded as a nation of good fortune, but the reality is not so easily overwhelmed.

Tomioka Junior High School was established after WW2, when people were all suffered from poverty. In the wooden-built, one-story white school houses we were instructed by ex-soldiers or young, military-experienced stern male teachers, and epidemics were prevailed everywhere in our area, too.

Mr. Nishino was a teacher of Japanese language and literature, and very stern, therefore, I remember, I often took very rebellious attitude and asked some, captious questions on a poet and poetess like Toson Shimazaki and Akiko Yosano.

In our age, say, in our 40s, 50s, 60s our nerves turned friendly and mild, and each time I published new novel and essay book, I sent it to him. Mr. Nishino gave me nice comments and when I went back to my hometown, he came to pick me up in his car and took me to the museum of tea-ceremony utensils. But while driving, he was looking back to the past old days, whose subject was on my classmate. He was an orphan, helpless lonesome boy. Miserable but we did not know how to give benevolent words, when we had so many patients of ropical fever and epidemic disease. We could not afford to either give good care nor treat him or her. It was what we called post-war Japan. Mr. Nishino, having much experience of such disaster, while he was at college, could make it natural to decide helping them.

To him our relationship was one of the nice talks, neither complicated nor troublesome but comparatively easy topic to worry about.

Mr. Nishino attended our class reunion and gave nice, nostalgic talks but though strongly-built he at last passed away recently. Tother with my old bunch mentioned in the last page, I paid a visit to his home for praying, when his wife talked his young days experience during the last war. It was so impressive.

Nowadays however we are in the midst of Coronavirus pandemic. This overwhelming natural disaster has brought us lots of lessons but, as you are already aware, postwar Japan’s government has always been in the lack of leadership policy and, this time, too, I was afraid of the government would be at a loss having no idea of how to solve such bio-terror type epidemic. Medical malpractice should be avoided but the government itself is ignorant on this sense and as the result they have come to be convinced that the only way to get rid of or along with this virus is not to cure patients but to let the nation keep social distance wearing masks and/or shields. Their accountability seems to be meaningless. Historically, such a phenomenon should be considered a waystation generally seen in the lost government.

Let us look back again to the Meiji restoration period, when old Samurai Japan has inaugurated to be a nation of industrialism. 70 years after her opening ports to west European nations and America, Japan always tried to pay the best attention to protect our land and its independency, but the result was miserable. Ruins, ruins, ruins, everywhere. But, ironical to say, it brought us ethnic independency avoiding European colonization. Taking this history into consideration, I could point out that Mr. Nishino’s painstaking personal days symbolically followed the same track as our country did.

7. 西野先生の手記から

「東海大地震」
 昭和19年12月7日、東海大地震勃発。M7.9。震度6.死者998人。家屋倒壊26,000戸。工場の煙突折れる。
「米軍の空襲」
 昭和19年12月13日、米軍の本格的な本土空襲がはじまる。B29爆撃機80機が名古屋へ。陸海軍の航空機の生産量が全国の6割を占める名古屋は、これ以降しばしば空襲を受ける。とくに昭和20年3月から5月には昼夜を問わず空襲が激化した。この間、愛知時計や名古屋城も爆撃を受けた。目の前で日本機がB29に体当たりした光景や寮のまわりの民家が直撃を受けるのを目撃したり、逃げ回って田の溝に飛び込んで難を逃れたことや、B29が高射砲にやられて落ちた現場を見に行った友からの話を聞いたりした。

昭和20年5月17日未明、B29468機来週。笠寺寮全焼。全員の荷物焼失。その前夜は工場勤務であったため、高台の工場から燃え盛る眼下の様子を見ていたが、朝、寮に帰ると、総てが灰になっていた。その日、一人一升の米を貰い、ドンゴロスのような服を着て、着の身着のまま乗り継いで大阪に帰った。途中、空襲に遭い、舞鶴公園での空襲を目撃して、その悲惨な光景は筆舌に尽くしがたい。着のみ着のままで家に辿り着いたときには、父親からお前は誰だと言われるほど痩せて垢だらけで、変わり果てていた。ところが家に着くや学校に呼び出されて、8月15日の終戦の日まで、大阪第一師範の教室で寝泊まりし、運動場の開墾や芋づくりに従事した。

Big Earthquake
December 7, 1944. Tokai Big Earthquake. M7.9. Died 998. Fell-down houses 26,000. Factory chimney broken down. Tokai and Nagoya area, with 60% weapon industry was so frequently attacked by such air bombardments.

Air raids in Nagoya area
December 13, 1944. American air force began big air raid, sending 80 bomber B29 troops. They attacked Nagoya city area so frequently, day and night, so violent, Aichi Clock Industry and Nagoya Castle were crushed and burnt to ashes. In Nagoya prefecture there used to be more than 60% military crafts industry of Japan, and some B29 was crushed by Kamikaze attack and fell down together. This was very piteous tragedy, not a matter to be boasted about.

On May 17th of 1945, dawn, 468 B29 bombers came and our Kasadera dormitory was burnt to ashes and our belongings were all burnt, which we watched from the factory. This was the last day. We were given some rice and cloths and came back to Osaka. On the way back, air raid attacked us repeatedly and I saw at Maizuru Park lots of the dead and the wounded. The spectacle was so miserable that I didn’t know how to depict them at all. When I at last arrived at my home, my parents, watching me in shabby rug, asked who I was. So thin, so dirty, nobody could identify me. After coming back home, my classmates were ordered again to work at factory, and I was ordered to come back to the Osaka Daiichi Teachers’ College, and lodging in the classroom we were engaged to cultivate playground to grow sweet potato until August 15, 1945, the very day when US-Japan War was over.

8.戦後の虚脱感

終戦後の虚脱状態は国民の誰しもが味わったことだが、西野先生はこう書いておられる。

「終戦と共にやっと勉強できる文字通り学生に帰ったわけであるが、世の中が混乱を極めており、生活が安定していないこの頃は食べていくのがやっとという状況。教師も生徒も同じ境遇であった。その上、終戦後兄二人が中国(北支・南支)から復員してきて家族が増えたため、食糧難はさらに厳しく山を切り拓いて畑にしたり、米づくりに必死に勢出したものである。この状態は昭和23年3月の卒業時までずっと続いたのであり、私の青春時代、特に勉学すべき大切な時期に勉強できず、多感な十代後半から20代にかけて、戦争のために青春を奪われ夢も希望も失いがちな暗い時代であった」と。

さらに、「兄たち二人には、自分だけが学校に行かせてもらっているという引け目というか負い目があり、家での労働、とくに農作業や山の仕事に容赦なく駆り出されて、辛い思いもあった」と記される。家にいても、学徒動員で駆り出されても、青春の歓びなど得られようもなかったわけです。

私たちはこのような境遇にありながらも、いや、このような、八方ふさがりの状況に置かれた西野先生だからこそ、決して希望を諦めはしなかった。この向上心は自助の精神から生まれたものであり、我々生徒は教室にいて、爆撃の不安もなく、学べたのです。ともすれば安逸に逃れる吾らを戒めて鍛えて頂けたお陰で、私たちの今日があると思えば、西野先生にはいくら感謝しても感謝しきれない思いでおります。

9.Dispondency after the War

Everybody after the war was filled with despondency. Mr. Nishino wrote as follows.

It was not until the war was over when we regained the proper position of studying freely as a student, but the society of our country was too chaotic to do so and those under terrible condition could do nothing but only eat and drink to keep our body alive. Further more after the war two older brother returned back to Japan from China. One is from the Northern China, another from the Southern. This caused food shortage, and we developed deep in the hillside area to get paddy field. Such bad condition lasted till the graduation year, viz. March, 1948. My young days, the most important period for studying were totally lost. War was apt to deprive us of our dream and hope.

Mr.Nishino in addition, mentioned that thanks to both elder brothers hard work, I could go to college, and this sense of obligation was so severe that I had to feel very severe hardships. He had no chance to find any hope of his own aspiration.

Even under such severe hardships, Mr. Nishino never gave up aspiration. Aspiration, in his case, was a self-help independency, never giving up hope to the future, and his emotion actually opened big flower not only in his heart but in our heart. We are apt to be inclined into indolence, but I would like to keep in touch with him deeply enough to encourage myself in our heart.

西野先生、有難うございます。

上記の一文を捧げることのできたこと、何より嬉しく存じます。

奥様には資料提供ほか色々とご高配を賜り、この場を借りて心より御礼申し上げます。先日のご焼香にお伺いしたおりに奥様からお聞きした思い出話が機縁になってこの原稿が生まれました。どうか西野先生に捧げてください。奥様にはこれからもご健勝で過ごされますよう、一同祈っております。

昭和31年3月 堺市立登美丘中学校卒業
   内山孝治
   大浦実夫
   芝埼幹男
   西田毅
   濱野成生(筆名:濱野成秋)

郷里の畑はいまや何処に。父母の墓地より見ゆる丈六の家並を眺めて
  戦負け父母哭き稚児の稲田里
    いま不知火の我勝ちに住み

           オンライン万葉集   濱野成秋

北原白秋のゆかしき城ケ島より秀歌一首を頂きて。
  三崎城の跡地と言はるる学校の
    閉校を聞く真夏日の中

           白秋三崎短歌会   三宅尚道

何処の学び舎も会う瀬は格別楽しければ
  朝の空見上げて嬉しや五月晴れ
    三年B組同窓会なり

           万葉を読む会 三浦短歌会   八潮多可

はかなき人をしみじみ思ひて
  病みながら三崎に行くと話されし
    言葉が最後となりたる悲し

           三浦短歌会 歌集「沖空」、「パンの生地」   大賀正美

この三崎に嫁に来て船宿の女将となりて早や八十路
  嫁ぎしは米二升とぐ大家族
    かまど火絶えて一人御飯めし

           三浦短歌会   加藤由良子

人はみなさすらいのうちに果てる。ここぞ永遠に住まへる場所と思へども、いつかはこの世と別れて旅立たねばならぬ。

日本人の「わび」や「さび」の心はきっと世界中の人々に解って頂けるはず。

三浦半島をこよなく愛した三浦按針は旅を住処としたがゆえに、この地に長く心の根を下ろしたのであろう。

松江に根を下ろした小泉八雲の心情も同じ。
白秋も三浦や小田原に住んで想うは郷里柳川のこと。

私は大阪は河内の郡。野田村丈六。いずれは自分も。心もまた同じにして虚空を舞うか。三崎の方々、佳き短歌をありがとう。