三崎白秋会
白秋「城ケ島の雨」によせて
       令和二年八月二日   濱野成秋
 
1.城ケ島の雨と三崎白秋会
 
 歌は友をつくる。歌心は受け継がれて花開く。
 まさにこの思いで筆者は三崎白秋会の方々とあいまみゆることとなった。白秋の歌碑を守り心を受け継いで研究部会まで作り、そこに招かれたのである。
 白秋が道ならぬ恋の果て、この三崎に来て鬱々たる思いで作った「城ケ島の雨」の詩が僕の寄る辺なき人生を思い起こさせたのも、行く気になった理由かもしれない。この詩が僕の心に最初にずしんと響いたのは、まだ二十歳代だった。生涯かけてやるべきは何か。一生に一回の人生を何に捧げるべきか。一向に見定まらない迷妄の日々だった僕は迷い心を奥底に秘め、さる高校に非常勤で勤めていた。そこの校長が宴席でこの暗い調子の歌を華やかであるべき宴席で歌ったのだ。周りはしいんと静まる。彼は甲府の出で、古武士の風格。日頃お会いする折に語られる説諭は胸に沁みるがごときで、一々納得できたから、僕にはこの歌の一節、一節が心に沁みて居たたまれない思いさえした。
 古武士のように胸を張り御老体が歌いだすと、音程が見事。歌詞も間違える懸念もない。人生を達観しておられた風貌で迷妄中の僕を諭す。これを作った白秋はまだ二十代後半だったが、僕とて同じ世代だから、白秋の偽らざる心と、目の前の、心から敬愛している校長の心とが、僕の胸の奥でしんしんと鳴るのである。
 その後、色々な機会にこの歌を聴くが、そのたびごとに、校長の声音を思い出す。自らの未熟さと迷妄に恥じ入り自分が情けなくて切なくて。文学を見つけ直して真正面から取り組んだのはこの頃からだった。
 後年の白秋もまた、おもえば三崎で己と対して作詩の後、小田原時代へと、進むことが出来たのではないか。若気の恋人と実家柳川の家運の傾きとの両方を背負って、三浦にもとほり訪れたのが人生の曲がり角か。三浦漁港の、その突端の海辺に立って沖を臨めば、城ケ島は折から驟雨にけぶる。暗雲垂れこめた驟雨は濃緑色にけぶる。
 人生、こんな八方ふさがりの気持ちは察するに余りある。
 私でなくともこの歌を聞いた者はだれしも、自分にもあった迷妄の日々を想起するはずだろう。今は大橋も出来て三崎や城ケ島の情景は白秋の時代ほどには人の心を曇らせないかもしれないが、この街に住み住人(まちびと)と触れ合えば、己が心もまた三崎にこそ息づくことを知るだろう。
 白秋はこの地に長くは逗留せず、むしろ小田原の地で数々の童謡をしたためたが、ながらえばまたこの頃やしのばれむで、初めての歌碑が三崎に建てられたのも、彼にはよかった。ここが第二のまほろばのはずだ。
2.白秋は入寂たへなむが
 
昭和十六年。折しも日本は太平洋戦争にさまよい出でる年。眼前に暗雲の垂れ籠めるさまを、歌人はその繊細な感覚でとらえ、無謀な奈落を肌で感じ押し留めようもなく瀬川に浮かぶ小笹舟の心境か。眼も不自由、身体も重い。老境の體でこの地に歩を運んだ。この若気の至りの地に。その心境や如何に。左の一首は彼のやるせなさを察して詠んだ私の作。
  このいのちおぼろ入寂たへなむひととせ
     超へて伏す身の耐へ難かりき 成秋
 
老い人と言へば茂吉もこんな恋歌を綴ってはゐるが、
 
  老びととなりてゆたけき君ゆゑに
     われは恋しよはるかなりとも
 
 白秋もまた歌詠みなれば、茂吉の心情に近いかも知れぬ。その心底に去来するは推測の域外であろうけれども、三崎は白秋にとって終生忘れがたい地であったことは否めない。
 だからこそ、こんにちも、三崎白秋会もあり三浦短歌会も脈々と生き続けているのであろう。
 僕は郷里堺にいて白秋の「帰去来の辞」に初めて接した中学時代を思い起こし、口ずさみながら白秋記念館へと急ぐ。
  山門やまとはわが産土うぶすな
  雲騰がる
  南風はえのまほら…
 
 この詩の最後のほうで、白秋は、
 
  帰らなむ、いざかささぎ
 
 と、白秋は異郷の地に立つ陶淵明の心境で遠く柳川の地に思いを馳せる。
 流離の地か。
 浪漫詩人の藤村も流離の日々を台町協会や小諸義塾で過ごし、そこをその時々の、心の住処としていた。白秋も三崎をこよなく愛し、閃光のように過ぎ去った日々を懐かしんだに違いない。
 吾人もまたここに腰を落ち着けて思いを過去に馳せよう。意を強く持つべきだ。そう考え、今や世界規模に発展拡大しつつある吾らの「オンライン万葉集」がこの三崎の街で開花する思いで先を急いだ。
 そんなわけで三崎白秋会とはご縁ができた。
 勉強会は潮騒の聞こえる城ケ島の「白秋記念館」で行われ、加藤会長様の温かい御心のあらわれで、自作の農園で採れた立派なメロンをお土産に頂戴することになった。
 「オンライン万葉集」について、日本の和の心を西洋に伝える大切さを語り、どの言の葉も朽ちて埋もれ木となる書籍の宿命を打ち破って、永久とこしえに読まれる可能性を語り続けた。人間の想念もまた肉體という有機体の死と共にこの世から掻き消えるが、オンラインに書きつけた言の葉は遺る。それも、いつ何時でも読めるゆえに活性化して生き続ける…。
 されど書籍も人工品。
 オンラインも人工品。
 中に想念が言の葉となってたゆたい
 人間ヒューマン不可解イニ有機体グマ
 がこの人工品に生命を吹き込む。
 未来永劫は誰の手に渉る
 創る者だけが守り人か?
 イニグマは無残な破壊者か?
 創るが故に
 破壊を歓ぶか?
 かくして壊れものとしての人間が破壊者ならぬ創造者として、ここに「オンライン万葉集」を造り上げ、白秋が縁で創設されたこの短歌会のお作を掲載する運びとなった。
3.心の命は永遠に
 白秋の取り持つ縁かいな、というわけで、温かい心の交流が三崎白秋会の研究部会と三浦短歌会とのご縁ができた。
 三宅尚道氏はこの度の講演の機会を設けられた世話人だが、「三浦短歌会」の維持についても長年にわたり努力しておられる。
 沿革を聞くと大事に継承される訳もよく分かった。今まで五回も「合同歌集」を出された会なのである。
 第一輯(昭和二三年)、第二輯(昭和二四年)、第三輯(昭和二七年)、第四輯(『群礁』、昭和五十年)、第五輯(平成二六年)。
 初期の方々はみな故人となられた。
 この会には規定があって、次のような約束事がある。
 「結社の如何を問わず、特定の指導者をおかず、あくまでもその作品を中心とし、批評と鑑賞を通じ、独善に陥ることなく、作歌の勉強と懇親を続けていく会である」としている。
 さっそく先人の歌を紹介しよう。解説は長崎三郎氏。
 
  外灯をめぐりて翔べる夜の蟲
     灯を消さばいずこにのがれん  飯島誠司
 作者、最晩年の歌。外燈を巡って、虫が飛んでいる様子を見ての感慨。灯を命と受けとめると、体の命がなくなると自分は何処へ行ってしまうのだろう。目に見える具体から、眼に見えない普遍的世界へと導く歌、と長崎氏は読み解く。飯島さんは代々三崎で医院を営む家柄とも聞いた。
 医師は常に死と向き合う職業であるから、街燈に蝟集する蛾の、無心に生き、無心に死ぬる命にも無関心ではいられないのであろう。
 文学を生きる糧として生涯を送っている私など、幼児の昔から、道端で転がるミミズや虫けらを、いとおしんだ。みな乾涸びて死んでいる。
 大人は「虫けらのように死ぬ」とか「犬死」とかいうが、そんな野卑な言い方を蟲や犬に与えるでないと、子供心に抵抗を感じた。自分もこのミミズ以上に弱い身体で近々このように乾涸びて死ぬるのだと、つくづく人生の儚さを幼時からかみしめたものである。
 その目でこの歌を再読すると、全身、だるさに襲われる。
 肉體が枯れ果てた後に吾が魂の行き場がどこか、やたらと気になったが、子供の頃は、わからんでいい、まだ先やと思い、成人すると、もうちょっと先や、もうちょっと先やで自分を誤魔化す。
 誘蛾灯に蝟集する蛾は自分の次の生まれ変わりだと真剣に思う。それも最近のことである。
 自分の命なんか、もう終わりや、次は蛾になって登場するのだろう。だからそんな運命を辿った奴らと自暴自棄になって、先を争って火に飛び込み、回生のライセンスを掴み取って、次の、もちっとましな生に駆け込む気なのだ。人間をいっぺんやってみると、その生命、なかなかによい。やっぱり人間で生まれ変わりたい、蛾は嫌だぜ、神様、と僕。蛾も、全蛾も人間になることを希っているのだろう。そうはいくものか、魚になってクジラに食われたり、ミミズになって魚の餌にされたり。いや待てよ…第一、人間って、そんなにましな生物なのか? それは疑問だ。人間なんて、虫けらの一体形かもしれん。この、根源的な疑問にも答えが出ない。いまも回答がなきまま、刻一刻と死に向かっているくせに、時間を浪費して短歌づくりなどに精を出している。…
 次の作。
 
  石油危機きびしき日々に獣糞を
     焚く草原の生活たつきを憶ふ   水谷みずたに壽子かずこ
 
 作者は戦時中、中国の満州にいた。満州から引き揚げてきて、戦後の生活が始まり、石油危機にみまわれた。石油による生活は便利であるが、便利さは不便さに繋がっており、前の満州生活を思い浮かべている。
 右のコメントは長崎氏のもの。
 満州と言えば思い出す、戦時中、満州では俳句や短歌が大流行り。今でいうオンライン万葉集に当たる全国ネットの詩歌集には満州からの応募がわんさとあった。それがあの引き揚げの悲劇の直前まで続いたのに、戦乱でずたずたになった。平和は有難い。有難いから我々は平和ボケではいけない。
  ふるさとに汀つながる海の声
     やさしく今日の目ざめを誘ふ 松本文男
 
 松本文男さんは東日本大震災で三浦に避難されてきました。若い時より短歌に取り組み歌歴の長い人でした。震災の歌が多くありますが、この歌は短歌会に出された最後の詠草です。大津波に遭われても最後に海を歌われ、慰められます。 長崎三郎
 
 ふるさとに汀つながると詠むと思い出す光景がある。今から二十年ほど以前にハワイ諸島の一つカウアイ島でのことだが、僕は日系移民史の調査でお寺に泊まり、戦後に日本に来たという二世を紹介された。彼は例の二世部隊の勇士だが、もう八十歳近くになられ、それでも青年のように精力的だ。僕の研究内容を聞いて、それでは一世のお墓に案内しましょうとジープを飛ばす。猛烈なスピードでサトウキビ畑の赤土の中、真っ赤な砂塵を上げて疾駆する様はさながら戦時中だが、そのカーラジオでガンガン鳴るのはなんと坂本冬美の「火の国の女」だった。やくざ調の、ドスの利いた歌がこの臨場感にぴったりだった。やがて前方の視界が広がる。と、ドドドドドド…逆巻く大海原だ。東映映画のタイトルバックだった!
 「何でこんな断崖絶壁に、大海原に向かって墓標が立っていると思いますか?」と、元二世兵士。「そ、それは…そうか、この怒涛逆巻く向こうに…」
 「そう、ジャパンがある。故郷があるから、死んだらみな、海伝いに田舎に帰りたいからですよ!」
あの時の海鳴りは忘れられない。
 大詩人でもなんでもない、明治初年にハワイに渡り、明治時代に早くもこの異郷で果てる、大正初めに死んだ人も、昭和の人も…次々墓標を読んで、二度、三度、四度、荒海を眺める。
 もはや墓参に訪れる人もなくなり、どの墓標も粛然としてそそり立つ。
 これが死なのだ。俺も近々こうなるのだ。
 東日本大震災で異郷の汀にいても、思うことは故郷のことばかり。
 白秋の言うように、汀づたいに帰りなむ、いざ鵲、である。
 三崎白秋会よ、三浦短歌会よ、永遠に。
 遺された歌は重い。実に重く、深い。       (第1回は以上)