日本浪漫歌壇 夏 文月 令和五年七月二十二日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 日本の福岡で水泳の世界大会が行われている。水泳では競泳に注目が集まることが多いが、飛込や水球など他にも競技はある。数日前に日本人選手が金メダルを取った競技がアーティスティックスイミングだった。テレビのニュースでアナウンサーが発したその聞き慣れない競技名に新競技かと思えば、何のことはないシンクロナイズドスイミングであった。二〇一八年に名称がアーティスティックスイミングに変更されたようである。デュエットやチームの息の合った一糸乱れぬ演技を見ると「シンクロナイズド」という言葉がまさに競技の特徴をよく表していてわかり易いと思うのは素人だからだろうか。略して「シンクロ」というのも呼びやすくてよかったのだが、現在は英語の頭文字のASだそうである。名称変更が競技にプラスとなるとよいと思うが、果たしてどうだろうか。
 歌会は七月二二日午前十一時より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長の六氏と河内裕二。三浦短歌会の清水和子氏も詠草を寄せられた。
 
  今時は暑中見舞いもスマホなり
     私まだまだ手書きで便り 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。最近はご友人からの暑中見舞いも音楽や動画が入った「デジタル」版がスマホから送られて来るようになったそうである。それはそれで楽しいが、嘉山さんは今でも昔ながらの手書きのハガキを送られている。ご自身を「アナログ」な人間とおっしゃる嘉山さんは、実際に自分で書かれた方が相手に気持ちが伝わるのではないかと思って手書きをしているとのことで、用事や連絡はメールで済ませることが多くなった現在では、受け取った方もきっと特別感を得られて、うれしい気持ちになることだろう。
  「人工骨入れているに夫逝きぬ」
     友の言葉に相づち打つのみ 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。ご友人から退院して家に戻ったとの連絡があった。お家を訪ねてみると、今回は足の回復具合が思わしくなく再入院だったとのことで、人工骨を入れたなどその話は聞くに堪えないもので、とても気の毒であった。最後にご主人のことをうかがうと、大変な事実を知らされた。彼女が手術を受けるためにその期間はご主人には施設に入ってもらったとのことだったが、まさに手術を受けている最中に、ご主人が施設で亡くなったのである。それを聞いて加藤さんはかける言葉も見つからず、友人の言葉にただ相づちを打つことしかできなかったそうである。筆者は歌を一読した際に、ご主人が人工骨を入れる手術で亡くなったと勘違いしたが、そうでないとわかると、その事実の衝撃で作者と同様に言葉を失う思いがした。
 
  梅雨晴れの嬉しさかくせず夕空に
     二羽のとんびが追いつ追われつ 和子
 
 本日欠席の清水和子さんの歌。光景が目に浮かぶ。とんびは海岸に多く生息している印象があるが、なぜだろうか。餌の関係だろうか。翼を広げると驚くほど大きく、上空を風に乗って旋回している姿は、どこか優雅な感じさえする。そのようなとんびが二羽で楽しく遊んでいるような様子なのは、梅雨晴れだからだろう。雨が続き、しばらく存分に空を飛ぶことができなかったに違いない。青空でなく夕空とするところが素晴らしい。夕空の色味は温かみがあり、のどかな感じもして、自由に飛び回るとんびを見て、何だか心が癒やされる。
  炎昼の日差し照らせる停留所
     汗をぬぐひて待つ人の列 裕二
 
 筆者の歌。普通なら天気が良くなるとうれしいものだろうが、この歌のように毎日通勤で炎天下でバスを待つ生活をしていると、逆に曇りや小雨のような太陽の出ていない天気の方が喜ばしく思えてしまう。長雨や日照不足は農作物に影響が出て困るだろうが、晴天ばかりが続くのもまた考えものである。今年は暑さの厳しい夏になると予想されている。最近、緊急出動の救急車によく出くわすが、熱中症患者だろうか。暑さには十分気をつけたい。
 
  朝咲きて夕べに散りゆく沙羅双樹
     はかなかなし白き小花は 員子
 
 作者は羽床員子さん。あじさい寺に行った際に、青いあじさいがひしめく中にひっそりと咲く沙羅双樹の白い花を見つけられ、詠まれたとのこと。筆者は沙羅双樹と言えば、仏教の聖樹で、平家物語に花が出てくるとしか認識しておらず、日本の身近なところに花が咲いているとは思わなかった。夏に白い花を咲かすあのナツツバキが沙羅双樹とのことであった。
  葉月待つ麦酒旨しと友柄の
     一人没すと言の葉届く 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。暑い八月になったら冷えたビールをまた飲もうと友人と楽しみにしていたのに、その一人が亡くなったという葉書が届いた。やりきれない気持ちになるが、年をとると友人もだんだん亡くなってゆく。会長はかなり頻繁に故郷に戻られて、ご友人にも会われているそうである。「葉月」に「言の葉」が届くというさりげない表現の言葉のセンスが素晴らしい。葉が散る悲しいイメージすら内包している。考えてやろうとしても簡単にできる表現ではないだろう。
 
  初穫りはシシトウ十こナス三つ
     夏の福分け夕餉を飾る 弘子
 
 嶋田弘子さんの作品。書かれているとおりで、家庭菜園で育てた夏野菜の初取りを夕食で美味しくいただいたことを詠んだ歌である。「福分け」と言うと、どなたかからいただいたものを他の人にもお分けするイメージだが、「夏の」という言葉を付けることで、人ではなくさらに大きな「自然」からいただいたという自然の恵みに対する感謝だったり、作者の謙虚なお気持ちだったりが、たった三文字で表現されている。太陽、土、水、シシトウにナス。菜園の情景がカラーで浮かんでくるところも素晴らしい。
  真夏日の昼はソーメン菜園の
     茄子と青紫蘇加えて食べる 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。手の込んだ料理もよいが、暑い夏にはこのようなさっぱりした昼食が一番である。自分で作った野菜なら旬で取れたて、安全性も間違いない。思わず歌にも詠みたくなるだろう。
 
 「そうめん」や「ひやむぎ」といえば夏が来たという感じになる。どちらもいわゆる「夏の風物詩」である。夏の風物詩といって思い浮かべるものは、そうめんや花火のような大定番のものもあるが、実は人によって少しずつ異なるのではないだろうか。筆者は海水浴や高校野球などをすぐ思い浮かべてしまうが、生まれ育った環境に蛍は全くおらず、動物園のような場所でしか見たことがなかったので、「夏の風物詩」で蛍狩りを思い浮かべることはなく、夏の生き物といえばカブトムシやクワガタである。これらも街の外れの雑木林や里山に行かなければ、見つからなかったが、子供の頃には夢中になって探した。現在では、私の故郷もそのような場所もなくなっている。誰もが共感できるような夏の歌を詠むことも、特に自然を題材にすると、だんだん難しくなるのではないだろうか。