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日本浪漫歌壇 春 弥生 令和三年三月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 毎年気象庁から東京の桜の開花宣言が出される。今年は三月十四日で、昨年と同日の二年連続の観測史上最も早い開花日となった。桜は開花より一週間から十日ほどで満開となる。歌会が開催された三月二七日はまさに花は咲き誇り、木によっては少し散り始めて花びらが慎ましやかに舞っていた。桜を愛でるには最高の日となった。地球温暖化の思わぬ恩恵か。歌会は三浦三崎の「民宿でぐち荘」で午前十一時より始まり、第二部には花見の宴が催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の加藤由良子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  コロナ禍で自粛の日々も桜咲き
    鶯鳴きて暫しの癒し 光枝
 
作者の嘉山光枝さんは自然豊かな場所にお住まいで、この時期にはご自宅の側に咲く桜の花を眺めていると鶯の鳴き声が聞こえてくると仰る。コロナ禍で自粛が求められる生活に変わってしまっても、自然の営みはいつもと変わらない。春になれば木々は芽吹き、鳥はさえずる。身近にある自然の美しさに癒やされ、安らぎを得ましょう。本作はコロナ禍でどこか窮屈で落ち着きを失った社会に対しての嘉山さんのメッセージだろう。
 鳥の中でも鳴き声が美しく印象的なのはやはり鶯である。容姿はメジロの方が「うぐいす色」で、鶯は緑よりもむしろ茶色っぽく、鑑賞するならメジロ、声を聴くなら鶯と皆の意見が一致。メジロの話が出たところで、濱野会長から「メジロ取り」という東京青梅市で聞いた慣習についてのお話があった。「メジロを取らせてください」と言って他人の庭に入って行くと、その家の奥様がどうぞどうぞと縁側に招き入れ、お茶が振る舞われる。しばし待っていると妙齢なお嬢さんが出てきて挨拶をする。実はこれは結婚の聞き合わせで、メジロ取りに扮して言うと相手もそれを心得ていて応対する。梅で有名な青梅市ならではの慣習である。
 梅の花にはどこか可愛らしさがある。「梅」といえば確かに「メジロ」が似合う。「桜」にはどんな鳥が似合うのか。「桜」と「鶯」というのであれば、こんな歌はどうだろう。
 
  世の中に絶えて桜のなかりせば
     春の心はのどけからまし 在原業平
 
 業平の有名な桜の歌を良寛が本歌取。
 
  鶯のたえてこの世になかりせば
     春の心はいかにかあらまし 良寛
 
 続いても桜の一首。
  潮風とお湯の温度が絶妙と
     露天に入る桜と共に 由良子
 
 作者は本日ご欠席の加藤由良子さん。海を望む露天風呂には桜の花びらが浮かび、潮風で温度は絶妙。そこまで言われてしまうと誰もが今すぐ行きたくなる。ご本人から寄せられたコメントによると、「新聞のチケット案内が当たり油壺の温泉ホテルに行って露天風呂を楽しんで詠んだ歌。春とは名ばかりで外は寒くお湯は熱い。目の前の桜の大木は散り始め、前方に海を見ながら入る露天は最高だった」とのこと。出席者の皆が羨ましく思うとともに加藤さんのますますのご健勝をお祈りした。
 
  あの人もこの人も「いい人ね」って
     思える今日の元気な証拠しるし 弘子
 
 作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
 濱野会長より上田三四二の短歌論『短歌一生』に「心の色」と題する文章があることを教わった。上田三四二は謡曲「熊野ゆや」で覚えた「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」という文句はまさに短歌に当てはまると述べている。短歌の技法とはこの内なる思いをどう形にあらわすかの工夫に他ならず、作品の高低は、作者のその時期における生き方の気息に照応しているとする。「思ひうちにあれば、色ほかにあらわる」すなわち歌には心の色があらわれる。これほど明解な短歌論があるだろうか。紀貫之が『古今和歌集』「仮名序」に書いた「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」にも通づる。
 嶋田さんの歌は心の色がストレートに出ていて素晴らしい。
 
  春は惜しみまかる師の影時移り
     桜吹雪の日和も疎まし 成秋
 
この春に敬愛する二人の恩師と小学校のクラスメートを亡くされた濱野会長がお詠みになった歌。春といって思い出されるのは西行法師の歌だそうで、同じ死ぬなら花が咲いているその下で自分は死にたいと西行法師は言うが、いくら春でも大切な方がこんなに多く一度に亡くなられてはたまらない。春が散らすのは桜の花だけではないのだとしんみり仰る。
 
  願はくは花の下にて春死なむ
     そのきさらぎの望月のころ 西行
 先生との良き思い出の時が移り師の薨る姿に手を合わせなくてはならない日が来た。それも春に。薨る人がこんなに多いと桜の花を見てもよい日和だなんて思えない。本日この会に来てその暗い気持ちからようやく抜け出せて桜を愛でて春になってよかったと思える心境になれたと濱野会長。
 筆者は「薨」という漢字を初めて見た。「身罷る」の漢字表記が普通だが、「夢」の下の部分に「死」と書いて「みまかる」となるのは知らなかった。調べてみると、「薨去」という言葉があり、皇族などが亡くなった際に使われるとのこと。「身罷る」ではなく「薨る」。濱野会長がいかに恩師を敬愛されていたのかが漢字一字で表現される。日本語は奥深い。
 
  雨は降る舟よ動けと念じても
     舟は繋がれ 白秋を恋う 和子
 
 今回も外出許可が下りずにご欠席の清水和子さんの作品。コロナ禍で外出できないご自身を舟に喩えられたのでしょうか。嘉山さんによると清水さんがお住まいのホームはすぐ前が諸磯湾とのことなので、湾の船を見てお詠みになったのかもしれない。「白秋を恋う」という結句から白秋と何か関係があるのかと思っていたら、三宅さんが白秋の作詞した『城ヶ島の雨』という歌があり、詩には「雨はふるふる」や「舟はゆくゆく」という言葉もあるので、その歌で白秋を思って詠んだのだろうと推断。
調べてみると『城ヶ島の雨』は大正二年に三崎に住んでいた白秋が作った詩に「どんぐりころころ」などを手掛けた梁田貞が曲をつけた舟歌である。詩は当時の白秋の苦しい心境を表していると思うが、舟歌にしたのは自らの新たな船出を願ってのことではないか。現在城ヶ島大橋のたもとには白秋直筆の詩碑がある。
 
  病む友の恢復願ひ宮参り
     梅の匂ひのけふは柔らか 裕二
 
 知人が病気で治療中と聞いて、一日も早く完治してもとの生活に戻って欲しいと願いお宮に参拝した。その時に筆者が詠んだ一首。病気がよくなるという意味では「快復」という漢字が使われるが、知人は行動的な人でいつも忙しくしていた。病気はもちろんその活動的な生活も元に戻って欲しいとの思いから「恢復」にした。
 下句の柔らかい印象から作者の友人を思う気持ちが伝わってくるとのご感想を皆さんからいただいた。菊は香るが梅は香らない。梅の「香り」ではなく「匂ひ」としているところが良い。この歌には気品さえあるとは濱野会長のお言葉。
 
  枇杷の花、梅の花へとくる野鳥
     しばらく群れて直ぐに飛び立つ 良江
 三浦は野鳥が多い。先日もとんびの行動が印象的だったと作者の玉榮良江さんは仰る。玉榮さんのお話では、ご自宅の近所の山にとんびが巣を作っていた大木があり、その木が伐り倒される際に作業員に向かってとんびが飛んできた。まるで伐採に抗議するかのようだった。山には小さいとんびも飛んでいたので、その木で生まれて巣立ったのかもしれない。なぜ木が切られたのかは伺わなかったが、巣を失ったとんびはどこへ行ったのだろうか。
 「しばらく群れて直ぐに飛び立つ」の部分はまったくその通りで、鳥というのは、いるのは一時で直ぐにいなくなる。よく俳句は写生と言われるが、短歌も自然やものをよく見ることが基本だろうと三宅さん。写生歌といえば正岡子規の有名な一首が思い浮かぶ。
 
  瓶にさす藤の花ぶさみじかれば
     たゝみの上にとゞかざりけり 子規
 
 何気ない客観描写のようだが、子規が晩年病床に伏していたことを知る者ならば、花をどこから見ているのかと視線の位置を考え、歌に描かれていない作者の姿さえ見えてくる。さらに描写自体がどこか彼の心の声のようにも思えてくる。優れた写生歌は多くのことを物語る。
  五十円大根二本求めると
     傷ある大根一本おまけ 尚道
 
なんとも個性的な歌である。「五十円」「二本」「一本」と数詞が多く使われ、出てくるのは「大根」だけ。普通ならばただの説明になるところだが、これが歌になっているから不思議である。
 本作は以前にも「五十円大根」を詠んだことがあると仰る三宅尚道さんの歌。今年は野菜が豊作なのにコロナの影響で需要が減り売れなくて農家は困っている。捨ててしまうくらいなら五十円でも売った方がよい。形が悪かったり傷ついたりしたものは出荷ができないからおまけで付けられているそうだ。三浦なので三浦大根だろうか。筆者の暮らす東京のスーパーでは青首大根ばかりで三浦大根は見かけないが、煮物にすると美味しいですよと皆さんが教えてくださった。
 大きくて美味しい大根が五十円とはなんとお得かと思ってしまった筆者はこの地では「よそ者」の証拠だろう。誰にとっても安いのはありがたいが、地元の誇りの大根が投げ売りされていれば、どこか悲しく切ない気持ちになる。そうさせる社会に対しての疑問や怒りの感情も静かに湧いてくる。スーパーの広告文句のように淡々と述べられるとなおさらである。作者はそこまで計算している。
 充実した歌会を終えて別室に移り春の宴が始まる。地元で評判の「でぐち荘」さんのお料理をいただく。筆者は三度目だが、皆さんはよく来られているようで、三浦は海と山の両方の幸に恵まれた土地ゆえに地の食材を活かしたお料理はどれも絶品だった。三崎の鮪も入ったお造りに金目鯛の煮付けやサザエの壺焼きなどの海のものに加え、和え物や煮豆に天ぷらや茶碗蒸しなどの山のもの。美味しいだけでなく品数も多い。天ぷらの盛り合わせには蕗もあった。蕗の天ぷらをいただくのは初めてだったが、歯ごたえがあってとても美味だった。大根のはりはり漬けはもしかすると三浦大根だろうか。目の前の諸磯湾の天草で作った自家製のところてんをデザートにいただき大満足でお食事を終了。
 前回の歌会で嶋田さんから伺った十三塚に皆で向かう。車でしばらく坂を上がって行くと四方を見渡せる見晴らしの良い丘の上にある嶋田さんの菜園に到着。とにかく景色が素晴らしい。なるほどここに立って空を見れば歌を詠んだ嶋田さんの気持ちもよく分かる。
 十三塚に関しては三宅さんが調べて資料をくださった。みうらガイド協会が発行する『三浦の散歩道』に田中健介氏による十三塚への言及がある。田中氏によると『新編相模国風土記稿』(一八四一)に十三塚は「村の東方に相並て在り、高さ六尺許」と記されているとのことで、田中氏は地元の歴史研究家の案内で一箇所だけ塚を見つけることができたと書かれている。
 嶋田さんはすでに塚の土地の所有者の方から話を伺い塚についてお詳しい。嶋田さんの案内で私たちは三箇所を訪れることができた。そのうちの一つは残念ながらそこにあったと伝え聞くのみで塚の痕跡はなかった。他の二つは高さ一メートルにも満たない小さな塚が確認でき、一つには卒塔婆も立っていた。『新編相模国風土記稿』の高さ六尺となると百八十センチぐらいになるので、この塚ではないだろう。
 十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚だと言われているが、彼らが亡くなってから約五百年が経過し、現在わずかにいくつかの塚が残るのみである。実際に塚に家臣は埋葬されたのか。他の塚はどこにあるのか。歴史家であれば事実も重要だろう。しかし事実よりも先人を思う気持ちが重要ではないかと筆者はこの場所に来て実感した。先人も同じ空を見たのだろうかと思って嶋田さんは「時の動きを中宙に視ゆ」と詠んだ。上田三四二は「歌には心の色があらわれる」と言うが、人を思う気持ちが歌になる。濱野会長は恩師を、筆者は病気の友を、清水さんは白秋を、より広く植物まで含めた衆生となれば、本日の詠草はすべて彼らへの思いを詠んだものだ。晴天の空の下、眼下に広がる風景と畑に咲く花を眺めながら催されたノンアルコールの「酒宴」の席でそんなこともふと考えた心洗われる佳き日であった。
嶋田さんの菜園にて。左より嶋田弘子氏、嘉山光枝氏、濱野成秋会長、玉榮良江氏、三宅尚道氏。
別の塚。草に覆われて見えにくいが卒塔婆も立つ。
十三塚の一つ。畑の中ほどにある突起が塚。
日本浪漫歌壇 冬 如月 令和三年二月二七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春を思わせる陽気が続いたかと思うと真冬のような寒さに逆戻り。三寒四温とはよく言ったものである。晴れ渡るも風はまだ冷たい。二月二七日、午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、玉榮良江の五氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子の二会員も詠草を寄せられた。
 
  初春に涙腺ゆるむ孫の書く
    はねだしそうな「新たな決意」 由良子
 
 お孫さんのお習字を見たときにその伸びやかな字を見て思わず涙が出たそうで、作者の加藤由良子さんは「最近はこんなことで涙腺が…」と仰る。お幸せな証拠である。元気に育つ孫とそれ温かく見守る祖母。参加者もみな温かい気持ちになった。「はねだしそうな」の言葉遣いが秀逸というのが皆の共通した意見であった。
 
  「歩いてる?」娘に訊かれ生返事
        愛犬逝きて運動不足 光枝
 娘さんに尋ねられ生返事でごまかす様子は微笑ましいが、その分愛犬を亡くした寂しさも伝わってくる。昨年愛犬が亡くなるまでは犬の散歩が日課だったとのこと。毎日時間になると、散歩を待ちきれない愛犬に催促される。そんな光景も目に浮かんでくる。
 若山牧水にもこんな歌がある。
 
  枯草にわが寝て居ればあそばむと
     来て顔のぞき眼をのぞく犬 牧水
 
 筆者は犬を飼っていないが、飼っている人を見ると犬の方が主導権を握っているように思えてしまう。気のせいだろうか。
 
  アネモネは信仰の花 花言葉
     「信じ従ふ」ラジオより聞く 尚道
 
 作者の三宅尚道氏の話では聖書には「野の花を見よ」という言葉が出てくるが、この花はアネモネだと言われている。毎日その日の花と花言葉を紹介するラジオ番組があり、アネモネの日があったことで生まれた歌。クリスチャンの三宅氏ならではの一首。調べてみると、赤いアネモネはキリストの受難を象徴するようだ。ギリシア神話ではアフロディテの愛したアドニスの血がアネモネに変わったとされる。
 筆者はこの歌に散文的な印象を受けたが、作者の三宅氏ご自身もどこかしっくり来ないと感じていて、皆で忌憚なく意見を述べあった。議論が行き詰まった時、絶妙なタイミングで濱野会長がユーモアを込めた本歌取りを披露。作者を愛する奥様がちょっぴり皮肉を込めて詠んだ歌との設定で、
 
  ナルシスは夜更けの花よあなたなら
     アネモネのごと信仰一途に 成秋
 
 この一首で場の雰囲気が一気に和んだ。
 
  お水取り越えねば春は来ぬといふ
        母の冬里思へば幾歳 成秋
 
 「お水取り」とあるので「冬里」は奈良だと判断できるが、作者の濱野会長のお母様は奈良のご出身。「お水取りが済むまでは春は来ない」とよく仰っていたそうで、奈良は盆地で冬はしんしんと冷えると伺って冬の奈良を知らない筆者も納得。「古里」や「故郷」では寒さは伝わらない。
 「思へば幾歳」と、お母様の出身地に対しても長い間欠礼していて申し訳ないと思えるのはお母様への深い愛ゆえ。中村憲吉にもお水取りを詠んだ歌がある。
  時雨して奈良はさむけれ御水取
     なほ二月堂に行を終らざる 憲吉
 
 同じくお水取りが終わらないと春は来ないと言っているが、母への思いを詠んだ濱野会長の作と比べると写実的である。
 実際の「母の冬里」は、神通力で空を飛んでいる時に若い女性の脛を見て墜落した久米仙人の話で有名な橿原の久米とのこと。それを伺ってにわかに親しみが湧いた。面白い仙人もいるものだ。
 
  西の空父母の顔あり悔ゆるのみ
     八十路往く身に老いのしかかる 艶子
 
 本日欠席の桜井艶子さんの作。人生を振り返り、今になって両親の存在が大きかったことを痛感し、感謝の気持ちともっと親孝行をしておけばよかったと悔やむ気持ちになられているのだろう。参加者の皆さんからこの気持ちはよく分かるとの声。
 作者の桜井さんは三崎の入船ご出身で加藤由良子さんとは幼なじみ。加藤さんのお話では桜井さんのお父様は県会議員をされていてお母様も旦那様を支えながら一生懸命働いておられたから、その姿を思い出されるのではないかとのこと。
 「西の空」とは西方浄土のことであろう。浄土が西にあるとされたのは、太陽も月も最後は西に沈むのですべてのものが最後は西に帰するとされたとする説が有力。美しい夕日が沈むのを見れば誰でもその先に浄土があると思うのではないか。そんなことを思っていたら、次の作、夕焼けの歌に。詠んだのは筆者である。
 
  冬夕焼赤く染めたる故郷の
     夕べの雲はどこへ向かふや 裕二
 
 場所が議論になった。作者はどこにいるのか。故郷に戻って詠んでいるのか。故郷を思って詠んでいるのか。また夕焼けも同様で、故郷の夕焼けか、今住んでいる場所の夕焼けか。両方の解釈が出て、どちらかと尋ねられた。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で始まる室生犀星の詩の「詠んだのは故郷か否か」問題が一瞬頭をよぎったが、著者としては、読者がどちらにでも解釈できるように意図して書いたので、どちらでもよいとお答えした。とくに夕日や夕焼けは、人それぞれが自分のイメージを持っている。現在住んでいる東京で見る夕焼けはオレンジ色とお話したら、三浦は真っ赤ですよと皆さん仰る。「夕焼け小焼け」の歌は八王子の恩方の情景だったが、もはやそこでは見られない。最近三浦で沈む夕日を見てここではまだ見られると思ったと仰ったのは濱野会長。嘉山さんによると諸磯湾に沈む夕日が最高に美しいとのこと。夕焼け話で盛り上がった。
 冬の夕焼けを表す言葉には「冬夕焼」「寒夕焼」「冬茜」「寒茜」がある。初句は「冬夕焼」と「冬茜」で迷い、音の並びですっきり聞こえる「冬茜」を考えていたが、濱野会長より「あかね」と言えば万葉集の額田王の有名な一首がある。
 
  あかねさす紫野行き標野行き
     野守は見ずや君が袖振る 額田王
 
 この歌は月光の中という解釈があり「あかね」が夕焼けを表さない場合もあるとのご指摘をいただいた。「冬茜」という語があまり使用されないために意味が分かりにくいことも考慮して「冬夕焼」にした。
 
  愛すれど猫は巧みに家を出で
     畑や山をグルグル回る 良江
 
 家猫がすきを見て時々逃げ出すので、作者はそのたびに探し回り、猫に振り回されている。先日も五時間探されたそうだ。
 「畑や山をグルグル回る」というどこかコミカルな後半部分が、飼い主になど全くお構いなしに自由奔放に行動する猫の特性と何となく人を馬鹿にしているような印象を上手く表現している。憎たらしいけど猫好きにはそれがたまらないのだろう。
  いにしえの塚の遺れる丘に立ち
     時の動きを中宙に視ゆ 弘子
 
 作者の嶋田さんは、三浦市火葬場を更に上った見晴らしの良い丘の上に畑をお借りになっていて、近くに十三塚がある。人から聞いた話では、十三塚は三浦道寸の十三人の家臣の塚で、彼らは新井城が燃えているのを見ながらそこで亡くなった。落城は一五一六年。北条に敗れ三浦氏は滅ぶ。
 作者が塚のある丘から見た空はとても美しかった。自刃した家臣たちが見た空もきっと美しかったのだろう。空は変わらないが時は変わると感じお詠みになったのがこの一首。
 嶋田さんのお話を伺い、次回の歌会後にぜひ皆で十三塚を訪れようという話になった。三浦半島には史跡が多い。最近濱野会長が見つけた戦跡は、海軍水上特攻隊の特攻艇「震洋」の格納庫。場所はカインズホーム三浦店近くの海岸の崖を降りた所。付近の丘陵地帯も戦争当時は零戦基地だったとの説明。
 
  ”推し“などと粋な言葉を使われて
     吾人はたじろぎ若者を見る 和子
 前回に続きホームの外出許可が下りずにご欠席となった清水和子さんの作。三宅氏のご説明では、第一六四回芥川賞の受賞作である宇佐美りん『推し、燃ゆ』(二〇二〇)を踏まえて詠まれた歌とのこと。
 現在、宇佐美氏は大学生で二一歳。清水さんは九一歳と伺ったので、年齢差だけを見れば大きい。「推し」という言葉は、若者が使う場合「応援しているアイドル」といった意味で使われることが多く、かなり意味が拡大されているが、逆に「一推しアイドル」が略されて「推し」になったと考えたほうが適切かもしれない。「推し」は辞書的には「一推し」の意味なので、使われても「たじろぐ」ほどではないだろう。
 『推し、燃ゆ』のタイトルの二語で言えば、「推し」よりも「燃ゆ」の方がわかりにくい気がする。「燃ゆ」とはネットで炎上すること。「”推し“など」と「など」が付いているので、あるいは「推し、燃ゆ」という言葉にだじろがれたのだろうか。清水さんに伺えないのが残念である。
 『推し、燃ゆ』の主人公は、好きなアイドルの応援に心血を注ぐ女子高生だそうだ。では、同じ「燃ゆ」でもこの歌はいかがだろう。
 
  真昼日のひかり青きに燃えさかる
     炎か哀しわが若さ燃ゆ 牧水
 歌会を終え、コーヒーショップ・キーという名のカフェに移動してお茶をいただく。しばし歓談し、カフェを後にする頃には西の空は冬夕焼。充実した一日であった。今日は皆さんが仰っていたほど赤くはない。残念。
 帰り道、夕焼けを見て無意識のうちに浮かんできたのは「夕焼け小焼け」の歌だった。なぜ自分の「冬夕焼」の歌でない?歌人としてまだまだ修行が足りないようだ。
 
◎次回の合同歌会は三月二七日午前十一時より。この日は新人も加わっての花見の宴も用意されています。場所は三浦三崎の「民宿でぐち荘」(電話042‐881‐4778)。地元では定評のある魚介類が楽しめます。当日会費は三千三百円。入会希望者は、info@romanticism.jp または 090‐2735‐7495濱野成秋会長までご一報ください。年会費五千円。
三浦短歌会 一月歌会詠草 令和三年一月三十日  濱野成秋
 
 短歌の結社としてはもう古い方に属するだろう。今年で七十四年になる三浦短歌会。神奈川県の三浦半島を城ケ島に向かったところにある。
 正月三十日、宗匠の三宅尚道氏の車で料理屋旅館「でぐち荘」に向かう。随行は日本浪漫学会の副会長代理河内裕二氏。詠草を寄せられた三浦短歌会の会員は嘉山光枝、加藤由良子、三宅尚道、桜井艶子、三宅良江、嶋田弘子、清水和子の各会員に日本浪漫学会から河内裕二と濱野成秋が加わる。
 今は昨年春先より猛威を揮うコロナ感染症の最中で集会が出来にくい。だが意を決して集まった歌人たちは意気軒高である。
 
  初日の出畑道に立ちて手を合わせ
     コロナ感染終息願ふ   光江
 
  久々に息子は帰省せりなにげなく
     吹く口笛に時は戻りぬ  由良子
 
  短歌会七十四年経過して
     三浦の短歌二集歩ませ  尚道
 
  時経れば百年なりとも親しきに
     父母兄みな逝くそを如何にせむ 成秋
  息詰めて来光の時唯待ちぬ
     去りしあの時われのみぞ知る 艶子
 
  駅ホームの点字ブロックに人立ちて
     障害者への場所と知らさる 良江
 
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
  感染者五千人超え続いても
     八時になれば朝ドラ始まる 弘子
 
  今日も又何とはなしに日は暮れて
     ふくらむお餅を眺めて待ちぬ 和子
 
  厳冬の心に咲きし寒椿
     花弁ちりばむ春待つ君に 裕二
 右の歌で特に皆が心を寄せたのは「エデンの園」というホームに住んで今年九十一歳の清水和子会員の歌。本日は足止め欠席。ホームでは与えられぬ餅を密かに焼いて頃合いになるのを待っているご本人は、ほんとうに待っているのは何? 訪れる身内? それともやり甲斐のある何か? いや業平のいう、昨日けふとは思はざりしをの…? とは誰も口には出さねど、他人ごとではないとはこのことで。
 
  その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
     ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
 啄木はコロナウイルスで死んだわけではない。だが、肺を患い心細い足取りで飄然と故郷に姿を見せては咳をする男。ここなら死に場所にしてよいとする心情は今も昔も変わりはない。
 終わって持参せし河内裕二副会長代理の五首を披露して勉強会。
歌会の後は別室にて新年会。地魚に鮑に本場のマグロに。天下の三崎港の御膝元である。終わって海辺。対岸に富士の霊峰。いましも暮れゆく夕凪の彼方を酔眼にて望みをり。未だ脈打つことのせつなさを噛み締めて。
三浦短歌会  令和二年十一月二十一日  濱野成秋
 
 歌会と講演『浪漫歌人山川登美子によせて』
 
 三浦半島の突端、城ヶ島を間近に三崎港がある。そこは北原白秋が駆け落ちして隠れ住んだところでもある。当時、白秋は傷心の果て。駈け落ちは絶望の日々でもあって、暗澹たる心境であった。ところがここに、彼の歌碑が最初に建てられ、白秋自身が懐かしさを胸に訪れた。昭和十六年、真珠湾攻撃の年である。
 人生、はかなき出来事が次々起こると、人は旅をしたくなる。
 住み慣れた地で同じ顔ばかりに向かうのが辛い。天国のような住みやすい処でなくてよい、地獄の果ての、わが身の細る境遇に置かれても良い、どこか遠くに行きたい。そんな夕陽や月夜を視たければここにお出でな。筆者は山川登美子の講演も兼ねて車を飛ばした。
 歌会は午後1時半、勤労市民センターで。
 「今日はフルメンバーです」と声を弾ませる三宅尚道師匠が迎えてくれる。
 会場は料理教室のようなテーブルがあり、隣室から詩吟が聞こえる。
 
  ナラ枯れて赤茶に染まる樫の木に
     リスが登れば枯葉舞い散る  光枝
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
 これまた秋の風情にて、先ほど誘うた三崎の浜近く、割烹旅館の女将らしい気風がある。明暗と天地が見える。ブルームーンはハワイの装い。六十年前、この地に嫁に来た加藤由良子さんには、もはや三崎は第二の故郷以上の親しみ。恋しかるべき夜半の月かな、が脳裏に。
 ところが筆者の葉山は第二の故郷。こここそ安住の地と定めたる吾を嗤うのは、座敷に侵入して来た大蜘蛛で、加藤さんの心には程遠く、
 
  が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
     大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し  成秋
 
と詠みたるを思い起こせど、口にせず女将の言に聞き入る。
  雨上がり菊葉の珠の輝きは
     朝の空気の為せる業なり   弘子
 
 久々に静謐なお作にお目にかかった。静寂そのものである。前二作には動きがあり人の息遣いがあるのと対照的にこのお作は静止状態。Staticそのもの。正詩型というべきか。
 
  新型の肺炎ゆゑに天国へ
     旅立つときもマスクしてゆく  尚道
 
 これは狂歌ですかと言えば、このひと月の間に入院したので、とのこと。これを深刻に捉えずにギャグとして詠むしたたかさ。却って真剣になる思いである。マスクといえばコロナ感染症ゆえの流行ものと捉えるか。否。高峰秀子主演の映画『浮雲』のワンシーン、彼女が仏印から引き揚げて来る、そのボロ船からボロリュックを背負って上陸して来る姿を視よ。誰も可も、全員、マスク姿なり。
 
  てらてらと輝く背中踊らせて
     仕事に励むイルカたくまし 和子
 イルカショーは何とも気の毒。どう見ても知能は人間もイルカも同格。どこが違うかと言えば、人間はずるいから安全な役についていて、イルカは正直者だから身体を張っている。ひとたび着水が着地になれば、それでお陀仏。だから、「たくまし」より「いたまし」と変えたいと作者。至極もっともなり。
 
  庭の木に伸びたるツルを引きゆけば
     冬瓜三つ実をつけてをり  良江
 
 結構な収穫でした。三崎は平和なり。これぞ桃源郷。桃源郷とは義理の家族や夫と細君との仲たがいがあっては成り立たぬ。
 いや、もしもですよ、もしも次の歌のような家族関係もあるなら、歌にするもよし。短歌の世界に身を投じて、一首、
 兄と一緒に駅に父を迎へに来たものの
 
  腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわ
     父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 続いて山川登美子の話となる。
 日本の浪漫主義文学は現代文学史では明治25年に夏目金之助のちの漱石がアメリカの詩人ホイットマンを日本に紹介したことに始まる、とよくまことしやかに書いているが、これは間違いである。いや、むろん、有島武郎でもない。そんな現代人ではなく、千年も前、額田王の頃に遡らねばならない。ここから説いて、古今、新古今と辿らねばならないが、それは次の機会にということで、登美子がなぜ日本女子大に来たか、なぜ晶子や雅子が名誉回復したのに、登美子だけが薄命にしてその生涯を閉じたかを語った。小浜の方々も短歌の会か盛ん。
 いつの日か、あい集う日が来ることを。
 三浦半島の三崎も小浜も、港町。
 その三崎で、筆者は良い子でいましたが、白秋もそうであったように、筆者も心は漂泊の思いにて、その果ての旅のごとく、会のあと、宵闇にキーコーヒーのカフェに行こうということになり、皆でお茶を。
 誰にも言わなかったが、その情景は、原田康子の『挽歌』に出て来る釧路の喫茶店「ダフネ」のようでありました。
三崎白秋会
白秋「城ケ島の雨」によせて
       令和二年八月二日   濱野成秋
 
1.城ケ島の雨と三崎白秋会
 
 歌は友をつくる。歌心は受け継がれて花開く。
 まさにこの思いで筆者は三崎白秋会の方々とあいまみゆることとなった。白秋の歌碑を守り心を受け継いで研究部会まで作り、そこに招かれたのである。
 白秋が道ならぬ恋の果て、この三崎に来て鬱々たる思いで作った「城ケ島の雨」の詩が僕の寄る辺なき人生を思い起こさせたのも、行く気になった理由かもしれない。この詩が僕の心に最初にずしんと響いたのは、まだ二十歳代だった。生涯かけてやるべきは何か。一生に一回の人生を何に捧げるべきか。一向に見定まらない迷妄の日々だった僕は迷い心を奥底に秘め、さる高校に非常勤で勤めていた。そこの校長が宴席でこの暗い調子の歌を華やかであるべき宴席で歌ったのだ。周りはしいんと静まる。彼は甲府の出で、古武士の風格。日頃お会いする折に語られる説諭は胸に沁みるがごときで、一々納得できたから、僕にはこの歌の一節、一節が心に沁みて居たたまれない思いさえした。
 古武士のように胸を張り御老体が歌いだすと、音程が見事。歌詞も間違える懸念もない。人生を達観しておられた風貌で迷妄中の僕を諭す。これを作った白秋はまだ二十代後半だったが、僕とて同じ世代だから、白秋の偽らざる心と、目の前の、心から敬愛している校長の心とが、僕の胸の奥でしんしんと鳴るのである。
 その後、色々な機会にこの歌を聴くが、そのたびごとに、校長の声音を思い出す。自らの未熟さと迷妄に恥じ入り自分が情けなくて切なくて。文学を見つけ直して真正面から取り組んだのはこの頃からだった。
 後年の白秋もまた、おもえば三崎で己と対して作詩の後、小田原時代へと、進むことが出来たのではないか。若気の恋人と実家柳川の家運の傾きとの両方を背負って、三浦にもとほり訪れたのが人生の曲がり角か。三浦漁港の、その突端の海辺に立って沖を臨めば、城ケ島は折から驟雨にけぶる。暗雲垂れこめた驟雨は濃緑色にけぶる。
 人生、こんな八方ふさがりの気持ちは察するに余りある。
 私でなくともこの歌を聞いた者はだれしも、自分にもあった迷妄の日々を想起するはずだろう。今は大橋も出来て三崎や城ケ島の情景は白秋の時代ほどには人の心を曇らせないかもしれないが、この街に住み住人(まちびと)と触れ合えば、己が心もまた三崎にこそ息づくことを知るだろう。
 白秋はこの地に長くは逗留せず、むしろ小田原の地で数々の童謡をしたためたが、ながらえばまたこの頃やしのばれむで、初めての歌碑が三崎に建てられたのも、彼にはよかった。ここが第二のまほろばのはずだ。
2.白秋は入寂たへなむが
 
昭和十六年。折しも日本は太平洋戦争にさまよい出でる年。眼前に暗雲の垂れ籠めるさまを、歌人はその繊細な感覚でとらえ、無謀な奈落を肌で感じ押し留めようもなく瀬川に浮かぶ小笹舟の心境か。眼も不自由、身体も重い。老境の體でこの地に歩を運んだ。この若気の至りの地に。その心境や如何に。左の一首は彼のやるせなさを察して詠んだ私の作。
  このいのちおぼろ入寂たへなむひととせ
     超へて伏す身の耐へ難かりき 成秋
 
老い人と言へば茂吉もこんな恋歌を綴ってはゐるが、
 
  老びととなりてゆたけき君ゆゑに
     われは恋しよはるかなりとも
 
 白秋もまた歌詠みなれば、茂吉の心情に近いかも知れぬ。その心底に去来するは推測の域外であろうけれども、三崎は白秋にとって終生忘れがたい地であったことは否めない。
 だからこそ、こんにちも、三崎白秋会もあり三浦短歌会も脈々と生き続けているのであろう。
 僕は郷里堺にいて白秋の「帰去来の辞」に初めて接した中学時代を思い起こし、口ずさみながら白秋記念館へと急ぐ。
  山門やまとはわが産土うぶすな
  雲騰がる
  南風はえのまほら…
 
 この詩の最後のほうで、白秋は、
 
  帰らなむ、いざかささぎ
 
 と、白秋は異郷の地に立つ陶淵明の心境で遠く柳川の地に思いを馳せる。
 流離の地か。
 浪漫詩人の藤村も流離の日々を台町協会や小諸義塾で過ごし、そこをその時々の、心の住処としていた。白秋も三崎をこよなく愛し、閃光のように過ぎ去った日々を懐かしんだに違いない。
 吾人もまたここに腰を落ち着けて思いを過去に馳せよう。意を強く持つべきだ。そう考え、今や世界規模に発展拡大しつつある吾らの「オンライン万葉集」がこの三崎の街で開花する思いで先を急いだ。
 そんなわけで三崎白秋会とはご縁ができた。
 勉強会は潮騒の聞こえる城ケ島の「白秋記念館」で行われ、加藤会長様の温かい御心のあらわれで、自作の農園で採れた立派なメロンをお土産に頂戴することになった。
 「オンライン万葉集」について、日本の和の心を西洋に伝える大切さを語り、どの言の葉も朽ちて埋もれ木となる書籍の宿命を打ち破って、永久とこしえに読まれる可能性を語り続けた。人間の想念もまた肉體という有機体の死と共にこの世から掻き消えるが、オンラインに書きつけた言の葉は遺る。それも、いつ何時でも読めるゆえに活性化して生き続ける…。
 されど書籍も人工品。
 オンラインも人工品。
 中に想念が言の葉となってたゆたい
 人間ヒューマン不可解イニ有機体グマ
 がこの人工品に生命を吹き込む。
 未来永劫は誰の手に渉る
 創る者だけが守り人か?
 イニグマは無残な破壊者か?
 創るが故に
 破壊を歓ぶか?
 かくして壊れものとしての人間が破壊者ならぬ創造者として、ここに「オンライン万葉集」を造り上げ、白秋が縁で創設されたこの短歌会のお作を掲載する運びとなった。
3.心の命は永遠に
 白秋の取り持つ縁かいな、というわけで、温かい心の交流が三崎白秋会の研究部会と三浦短歌会とのご縁ができた。
 三宅尚道氏はこの度の講演の機会を設けられた世話人だが、「三浦短歌会」の維持についても長年にわたり努力しておられる。
 沿革を聞くと大事に継承される訳もよく分かった。今まで五回も「合同歌集」を出された会なのである。
 第一輯(昭和二三年)、第二輯(昭和二四年)、第三輯(昭和二七年)、第四輯(『群礁』、昭和五十年)、第五輯(平成二六年)。
 初期の方々はみな故人となられた。
 この会には規定があって、次のような約束事がある。
 「結社の如何を問わず、特定の指導者をおかず、あくまでもその作品を中心とし、批評と鑑賞を通じ、独善に陥ることなく、作歌の勉強と懇親を続けていく会である」としている。
 さっそく先人の歌を紹介しよう。解説は長崎三郎氏。
 
  外灯をめぐりて翔べる夜の蟲
     灯を消さばいずこにのがれん  飯島誠司
 作者、最晩年の歌。外燈を巡って、虫が飛んでいる様子を見ての感慨。灯を命と受けとめると、体の命がなくなると自分は何処へ行ってしまうのだろう。目に見える具体から、眼に見えない普遍的世界へと導く歌、と長崎氏は読み解く。飯島さんは代々三崎で医院を営む家柄とも聞いた。
 医師は常に死と向き合う職業であるから、街燈に蝟集する蛾の、無心に生き、無心に死ぬる命にも無関心ではいられないのであろう。
 文学を生きる糧として生涯を送っている私など、幼児の昔から、道端で転がるミミズや虫けらを、いとおしんだ。みな乾涸びて死んでいる。
 大人は「虫けらのように死ぬ」とか「犬死」とかいうが、そんな野卑な言い方を蟲や犬に与えるでないと、子供心に抵抗を感じた。自分もこのミミズ以上に弱い身体で近々このように乾涸びて死ぬるのだと、つくづく人生の儚さを幼時からかみしめたものである。
 その目でこの歌を再読すると、全身、だるさに襲われる。
 肉體が枯れ果てた後に吾が魂の行き場がどこか、やたらと気になったが、子供の頃は、わからんでいい、まだ先やと思い、成人すると、もうちょっと先や、もうちょっと先やで自分を誤魔化す。
 誘蛾灯に蝟集する蛾は自分の次の生まれ変わりだと真剣に思う。それも最近のことである。
 自分の命なんか、もう終わりや、次は蛾になって登場するのだろう。だからそんな運命を辿った奴らと自暴自棄になって、先を争って火に飛び込み、回生のライセンスを掴み取って、次の、もちっとましな生に駆け込む気なのだ。人間をいっぺんやってみると、その生命、なかなかによい。やっぱり人間で生まれ変わりたい、蛾は嫌だぜ、神様、と僕。蛾も、全蛾も人間になることを希っているのだろう。そうはいくものか、魚になってクジラに食われたり、ミミズになって魚の餌にされたり。いや待てよ…第一、人間って、そんなにましな生物なのか? それは疑問だ。人間なんて、虫けらの一体形かもしれん。この、根源的な疑問にも答えが出ない。いまも回答がなきまま、刻一刻と死に向かっているくせに、時間を浪費して短歌づくりなどに精を出している。…
 次の作。
 
  石油危機きびしき日々に獣糞を
     焚く草原の生活たつきを憶ふ   水谷みずたに壽子かずこ
 
 作者は戦時中、中国の満州にいた。満州から引き揚げてきて、戦後の生活が始まり、石油危機にみまわれた。石油による生活は便利であるが、便利さは不便さに繋がっており、前の満州生活を思い浮かべている。
 右のコメントは長崎氏のもの。
 満州と言えば思い出す、戦時中、満州では俳句や短歌が大流行り。今でいうオンライン万葉集に当たる全国ネットの詩歌集には満州からの応募がわんさとあった。それがあの引き揚げの悲劇の直前まで続いたのに、戦乱でずたずたになった。平和は有難い。有難いから我々は平和ボケではいけない。
  ふるさとに汀つながる海の声
     やさしく今日の目ざめを誘ふ 松本文男
 
 松本文男さんは東日本大震災で三浦に避難されてきました。若い時より短歌に取り組み歌歴の長い人でした。震災の歌が多くありますが、この歌は短歌会に出された最後の詠草です。大津波に遭われても最後に海を歌われ、慰められます。 長崎三郎
 
 ふるさとに汀つながると詠むと思い出す光景がある。今から二十年ほど以前にハワイ諸島の一つカウアイ島でのことだが、僕は日系移民史の調査でお寺に泊まり、戦後に日本に来たという二世を紹介された。彼は例の二世部隊の勇士だが、もう八十歳近くになられ、それでも青年のように精力的だ。僕の研究内容を聞いて、それでは一世のお墓に案内しましょうとジープを飛ばす。猛烈なスピードでサトウキビ畑の赤土の中、真っ赤な砂塵を上げて疾駆する様はさながら戦時中だが、そのカーラジオでガンガン鳴るのはなんと坂本冬美の「火の国の女」だった。やくざ調の、ドスの利いた歌がこの臨場感にぴったりだった。やがて前方の視界が広がる。と、ドドドドドド…逆巻く大海原だ。東映映画のタイトルバックだった!
 「何でこんな断崖絶壁に、大海原に向かって墓標が立っていると思いますか?」と、元二世兵士。「そ、それは…そうか、この怒涛逆巻く向こうに…」
 「そう、ジャパンがある。故郷があるから、死んだらみな、海伝いに田舎に帰りたいからですよ!」
あの時の海鳴りは忘れられない。
 大詩人でもなんでもない、明治初年にハワイに渡り、明治時代に早くもこの異郷で果てる、大正初めに死んだ人も、昭和の人も…次々墓標を読んで、二度、三度、四度、荒海を眺める。
 もはや墓参に訪れる人もなくなり、どの墓標も粛然としてそそり立つ。
 これが死なのだ。俺も近々こうなるのだ。
 東日本大震災で異郷の汀にいても、思うことは故郷のことばかり。
 白秋の言うように、汀づたいに帰りなむ、いざ鵲、である。
 三崎白秋会よ、三浦短歌会よ、永遠に。
 遺された歌は重い。実に重く、深い。       (第1回は以上)