投稿

日本浪漫歌壇 夏 文月 令和四年七月十六日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 七月中旬といえば平年では梅雨明けの時期であるが、今年は観測史上最速の六月二十七日に梅雨明けとなった。異例はそれだけでなく、梅雨が明けると最高気温が三十五度を超える猛暑日が続いた。七月に入ってようやく気温は一段下の真夏日まで下がったものの、三十度超えでは依然として暑い。幸いこの数日は雨天のためか三十度を下回る夏日が続いている。これほど最高気温を気にするようになったのは、外出時にマスクを着用するからである。身体に熱がこもれば熱中症になる。
 歌会は七月十六日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の七氏と河内裕二。三浦短歌会の清水和子氏も詠草を寄せられた。
 
  新聞はどこから読むのと聞く友に
     テレビ欄だと即答をする 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。ご友人との会話で新聞が話題となり、普通は一面から順に呼んでいくと思うが、ご自身は後ろから読んで最後に一面に行くと言って驚かれた。小説なども同様に結末を最初に読むことがあると伺ったが、推理小説には、ミステリーとサスペンスがある。最後まで犯人やトリックのわからないのが「ミステリー」で、すでに読者にはわかっている犯人を主人公が追い詰めていくのが「サスペンス」である。嘉山さんは『刑事コロンボ』がお好きなので、要するにサスペンス派ということである。
 
  子供のころ自転車屋さんあった場所
     今は軽自動車三台並ぶ 由良子
 加藤由良子さんの作品。子供の頃に近所にあった自転車屋さんはすでに無くなり今はその場所が駐車場になっている。その光景を見て昔あった自転車屋さんとその二階で生活していた店主のご家族を思い出された。近くには八百屋もあったがそれも無くなった。みんなよい人たちばかりだった。今はいなくなってしまった人たちのことを思い出されて詠まれた歌である。
 
  書く人に残日かぞへと責める身に
     炎天傾かたぶき降る里しぐれ 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。一族についての歴史書を書き始められた方に、あるとき濱野会長がアドバイスをされた。その調子で書いていると、この先の残りの人生を考えて、完成できないと自戒の念も込めて助言された。しかしすぐにその発言を後悔された。下句にそのお気持ちが表現されている。「降る里」は「古里」と掛詞で「炎天」とあるのでお盆を連想させる。先祖のお墓参りもしていない自分が、先祖の歴史を一所懸命に書いている方に無神経な助言をして、お天道様がお怒りになった。素晴らしい表現である。
 
  列島が真赤に染まる天気予報
     梅雨は明けしもいまだ六月 員子
 
 羽床員子の作。今年の六月は異例だった。早々と梅雨が明け、六月とは思えない真夏のような暑い日が続いた。その厳しい暑さを天気予報で表現された。日差しで「真赤に染まる」のではなく、テレビの天気予報に映し出される色が真赤というのが面白い。
  御社みやしろの白木の門にやおら触れ
     病むおとおもふ薄月の夜 裕二
 
 筆者の作。弟の具合が最近よくないと聞いていたので、地元の神社の近くを夕方に通りかかった際にお参りしようと寄ってみた。ところがすでに拝殿に入る門が閉まっていて、仕方なく門前で拝礼した。「薄月夜」は俳句では秋の季語なので七月の歌会には相応しくないのではとも思ったが、短歌であるのと内容として季節感がとくに重要ではないことから、歌のイメージ合う「薄月の夜」とした。
 
  梅雨開けて常ならぬ世となりしとも
     なほ常なりし日々を楽しも 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。今の世情や心情をストレートに詠われた。どこか哲学的で深みのある歌である。岩間さんのお話では、少し前に行かれたご旅行で、ある方から「天の声」についての持論をうかがったそうで、その方の考えでは、神様は口をきかないので、人を使ってその声を伝えている。人が語るのを聞いてそれをありがたく思えば、その言葉は「天の声」であり、その「声」を拾って生きるとよい。本作は「天の声」は日常の中にあるとご自身に言い聞かせるように詠まれた歌なのかもしれない。
 
  さまざまな人は過ぎ行く空港に
     我も過ぎゆく那覇の夏空 尚道
  
 作者は三宅尚道さん。実際に那覇空港で多くの人が行き交うのを目にされて、歌のように思われた。本作は旅が人生の喩えであるかのようで、一読すると、「月日は百代の過客にして」で始まる松尾芭蕉の『奥の細道』の序文が思い浮かぶ。芭蕉が北に向かうのに対し、三宅さんは南の沖縄へ。結句の青く眩しい空のイメージがどこまでも広がってゆく。
  「足音で育つ」と云われる野菜哉
     長靴履いてサクサク豊作 弘子
 
嶋田弘子さんの歌。嶋田さんは家庭菜園を始めるときに農家の方から野菜は「足音で育つ」と教わった。半信半疑だったが、たしかによく通って育てた野菜はできがよい。実際に音が影響するのかはわからない。ただ今年も手をかけ、愛情をかけて育てるとよい野菜ができるのを実感された。インパクトのある言葉で始まる上句に対し、下句は言葉の響きとリズムがよく、野菜作りの楽しさが大いに伝わってくる。
  
  床並べ語り疲れて寝返れば
     娘の寝顔に幼な見えたり 和子
 
 作者は本日欠席の清水和子さん。久しぶりにふたりの娘さんとホテルに泊まり、三つの布団を並べてお休みになった最近のご経験を詠まれた。本当に楽しい時間を過ごされたのでしょう。子供はいつまでたっても子供で、寝顔を見て昔を思い出されたのでしょうか。よい親子関係であればこそ生まれてくる歌である。
 
 今回の歌会では掛詞について考えた。掛詞とは、同音異義を利用して情物と心情の二つを表す技法で、和歌ではよく用いられる。濱野会長が「降る里しぐれ」という結句で効果的に使用された。和歌では掛詞はほとんど仮名で表記されるが、現代の短歌においては仮名で表記すると全体のバランスを悪くし、不自然さが出てしまう場合もある。漢字で書いてもう一方の漢字を想像させるのが現実的である。
 筆者も今回の自作の結句を掛詞にしようとした。しかしうまくいかずに諦めた。具体的には、神社に行ったが閉まっていた不運を「運のない夜」とし、「運」を「付き」と言い換えて「付きのない夜」とする。それと掛けて「月なしの夜」とすれば掛詞になるのではと考えてみたが、全体として適切な言葉とは思えず、歌の内容や雰囲気から最終的に「薄月の夜」とした。もちろん「付き」という言葉は「ある」や「なし」とは言っても「薄い」とは言わないので「薄月の夜」は掛詞にはなっていない。それでも「あまり付いていない夜」というのが結句から強引ではあっても連想される気がして筆者は満足している。
日本浪漫歌壇 春 皐月 令和四年五月二十一日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会の開催された五月二十一日は二十四節気では小満と呼ばれる。『大辞泉』によると「草木が茂って天地に満ち始める」という意味である。雨が降ったり止んだりの天気になったが、午後一時半より三浦勤労市民センターに九名が集まった。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の八氏と河内裕二。三浦短歌会の櫻井艶子氏も詠草を寄せられた。
 
  花終へて赤く色づくさくらんぼ
     鳥ついばめば種散乱す 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。ここでいう「さくらんぼ」とは山桜とか吉野桜の実のことで、今の時期はその実を鳥が食べて種を落としていくため、洗濯物を干すのに注意されているそうである。世の中は変わっても自然の営みは変わらず、時が来れば花は咲くし、鳥も飛び交う。そんなお気持ちで詠まれたとのことである。
 
  フロントに花びら四、五片はりついて
     病院帰りのわれを迎へり 由良子
 加藤由良子さんの作。耳が痛くなり心配になって病院に行って診てもらうと、とくに何でもなかった。医師によると、耳掃除をしすぎるとよくないとのこと。ホッとして帰ってきたら車のフロントガラスに桜の花びらが張り付いていた。もしかすると行きにも付いていたのかもしれないが、気にする余裕はなく、帰ってきてはじめて気がついた。その花びらに心が癒やされたとのことで、安堵されたお気持ちを詠まれた。
 
  春よ春 おごれる心はちれて
     上京せしは十八の春 艶子
 
 本日欠席の櫻井艶子さんの作品。櫻井さんは松竹歌劇団(SKD)のメンバーだったそうなので、オーディションに合格して上京された時のことを詠まれたのだろうか。「驕れる心」とあるが、加藤さんは「三浦のような田舎からSKDのメンバーに選ばれて花の東京に行くのはすごいことで、当然自信に溢れ、選ばれし者という気持ちになったのだろう」と仰る。今振り返ると当時のご自身は何故に驕っていたと思われたのだろうか。ご本人にうかがえないのが残念である。「春」が三度も使われて、当時の喜びに満ちた様子が伝わってくる。
 
  喪中なる我も明るきマニキュアを
     つけて歩めば足取り軽し 員子
 作者は羽床員子さん。旦那様を亡くされて半年が経った。暗く沈む心を明るくもっていこうと明るいマニキュアをし、明るい色の服を着たりされているそうで、歌の内容にみなさんも共感された。
 
  初孫の初給料のお誘いは
     大好物のあんかけうどん 弘子
 
 嶋田弘子さんの歌。一読しただけで作者のうれしさが伝わってくる。子供が初任給で親に何かをするというのはよく聞くが、孫となれば喜びもひとしおであろう。嶋田さんは行きつけのお店のあんかけうどんが大好きで、そのことをお孫さんは覚えておられて、初任給が出た際に行こうと誘ってくれたとのこと。高価で気取ったものではなく庶民的な「あんかけうどん」というのが微笑ましいと仰ったのは清水さん。作者だけでなく読者も幸せに包まれる歌である。
 
  いほは仮寝の宿よと天の声
     されどふすまはやはらかぬくきぞ 成秋
  
作者は濱野成秋会長。「天の声」とはもうひとりの自分の声であり、いま毎日寝ている温かい布団は仮住まいに過ぎず、いずれ長い眠りにつくのは冷たい場所だとささやく。このような気持ちになるのは、体が弱かったために子供の頃からいつも死を意識していたことやご両親を案じながら自分の生きる場所を求めて故郷を後にしたことがあるからであり、心地よく暮らす現在の地にあっても「汝が庵は仮寝の宿」と思えてくるとのこと。文学の道を歩む者の心は、安住することのない永遠の旅人のようなものなのかもしれない。
  見つめたるわれの視線を感じてや
     雲に隠れし春の夜の月 裕二
 
 筆者の歌。仕事の帰りなどに夜空を見上げると晴れた日には星や月が見える。星は変わらないが、月は見るたびに「表情」を変える。悲しそうなときもあれば、力強く見えるときもある。先日気持ちが沈んでいたときに見上げた月は優しげで美しかったが、しばらく見ていると雲に隠れてしまった。まるで見つめられて恥ずかしくなったかのようであった。その夜の月を思い出して詠んだ歌である。
 参加者から百人一首の紫式部の歌にどこか似ているというご指摘があった。言われてみれば、たしかにその下句「雲隠れにし夜半の月かな」と似てなくもないが、筆者はただ単純に「雲に隠れた月」を描写しただけで、とくに意識したものではなかった。
  
  杜若池端かきつばたいけはたに立つ人影の
     業平に似て憂いを誘う 滿美子
 
 岩間滿美子さんの作品。根津美術館で開催された特別展「燕子花図屏風の茶会」に行かれて経験されたことを詠まれた。かきつばたの咲く頃になると、『伊勢物語』の主人公とされる在原業平のことを思われるとのことで、有名な尾形光琳の燕子花図屏風を観た後に、美術館の庭園を散策すると、池のほとりに実際にかきつばたが咲いていた。そこにひとりの男性が立っていた。その光景が三河の国の八橋で美しく咲くかきつばたを見て「かきつばた」の歌を詠んだ業平を想像させた。
 
 「かきつばた」の歌とは、句頭に「かきつばた」を置いた業平の次の望郷の歌である。
  唐衣きつつなれにしつましあれば
     はるばる来ぬる旅をしぞ思ふ 業平
 
  誰も来ぬ一日なれど裏山に
     来たる狸を猫に教はる 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。実際のことを詠まれたのだとすれば、狸は夜行性なので、誰の訪問もなく一日が終わろうとしていたところに狸がやって来たのだろう。狸は日本の昔話や民話では人を化かす動物として登場する。近年は、農作物を荒らす招かれざる客としてあまり歓迎されていないようであるが、筆者などは見かけるのが実物の狸ではなく、信楽焼のたぬきの置物ばかりなので、狸に対して勝手にひょうきんでプラスなイメージを抱いてしまう。猫は警戒心から狸の登場を嫌がったのかもしれないが、作者は狸であっても来てくれたことにどこかうれしい気持ちになったのではないか。
 
  ビートルズ流して飛ばした第三京浜
     あの頃のわたし何着てたっけ 和子
 
 作者は清水和子さん。最近目の具合が悪くて手術をされたりして、あまりよいこともなく歌が考えられなかったときに、なぜかふっと浮かんできたとのこと。どうしてこの歌なのかわからないが、ただ、若いときのことはよく思い出されるそうで、それが年をとることなのでしょうと清水さんは仰った。
 流れていた曲も周りの風景もはっきり覚えているのに、自分のことだけは覚えていない。ご自身はお洋服がお好きなのに、なぜかその時着ていた服も思い出せない。歌謡曲の歌詞になりそうな上句は筆者でも思いつきそうであるが、下句は清水さんならではの表現でとても出てこないと思った。
 
 今回の歌会では三宅さんの仰った「感情表現を直接書かずに感情を伝えるのが短歌である」という言葉が印象に残った。というのも、筆者が短歌を始めたばかりでなかなか歌が詠めなかった頃に、濱野会長も同じことを仰ったからである。その時は、つまり論文ではなく小説を書くということかと思い、文学研究者の筆者は少々気が重くなったが、先人の歌を読んだり、歌会に参加して勉強させていただいたりしているうちに、少しずつコツがつかめてきた気がしている。しかしながら清水さんのように、歌が自然に浮かんでくるようになるには、まだまだ作歌が必要である。
日本浪漫歌壇 春 卯月 令和四年四月十六日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春に三日の晴れなしと言われるが、歌会当日は前日の雨も上がり晴天となった。四月十六日午後一時半より三浦勤労市民センターで三浦短歌会と日本浪漫学会の合同歌会が開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の八氏と河内裕二。三浦短歌会の清水和子、櫻井艶子の二氏も詠草を寄せられた。
 
  星のふる観覧車で吹く早春賦
     オカリナ聴きし友も逝きたり 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。以前オカリナに夢中になった時期があり、いつでも持ち歩いて時間があるとオカリナを吹いていたとのこと。ある時ご友人とご一緒に出かけられ、帰りが遅くなった際に、ご記憶ではお台場だそうだが、観覧車の中で皆さんとの思い出に早春賦を吹いた。そのオカリナを聴いてくれたご友人ももう二人も亡くなってしまい、加藤さん自身も今ではオカリナを吹くこともなくなってしまったそうである。
 
  一人旅初体験の孫待てば
     駅降り立ちて手をふり笑顔 光枝
 嘉山光枝さんの作。お孫さんが春休みに遊びに来られたことを詠まれた歌。いつもご両親の車で来られていたお孫さんが、初めて一人で電車を乗り継いでやって来るため、嘉山さんは心配してドキドキされたが、お孫さんは車中で風景の動画撮影を楽しまれ、まったく平気だったとのことである。上句から嘉山さんの、下句からはお孫さんの気持ちや様子が伝わってくる。
 
  芳春の喜びさへも消し去りぬ
     異国の街に砲弾の雨 裕二
 
 筆者の歌。「芳春」とは花ざかりの春のこと。ロシア軍による侵攻でウクライナの街が破壊され、多くの犠牲者が出ている。歌を詠むに当たって、まずウクライナのことを考えたが、過去から現在に至るまで戦争が起きればいつでも同じく悲惨な状況になるという思いから固有名詞は使わなかった。
 
  在りし日にそっと作りし品々よ
     何処いずこに消ゆるこの身の後は 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。嶋田さんはものを作るのがお好きで、縫い物をしたり木像を作ったりいろいろされている。「そっと」という言葉によって、誰に見せるのでもなく丁寧に一生懸命心を込めて作っていることを表現される。自分が作ったものや大切にしているものも、他人にとっては何てことのないものであり、自分が亡くなったらそれらはどうなってしまうのだろうかと思われ、どこか寂しい気持ちで詠まれた歌である。
 母の時代に戻りて
  の便り受くるも苦界ぞ包みたる
     つぼみの梅が枝咲かせと乞うや 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。「香の便り」とは色里から来た香水のにおいのする手紙で、夫が居ないときにそれを受けて開けた妻も色里ではないがやはり苦界である。「梅が枝」は梶原源太景時の長男景季かげすえの側女が遊女として名乗った源氏名で、彼女が体を売ったお金で景季が戦に出るための鎧などの武具を揃えたという話がある。下句は、貢いで支えているのは他でもない私だと梅が枝が正妻に対して主張していると読める。濱野会長によれば、このような痴話喧嘩は戦中や戦後には何度もあり、先生のお母様も辛い経験をされたとのことで、詞書きにあるように、この歌はお母様の気持ちになって詠まれたものである。
 
  立つ瀬なき我が身の上の苦しきに
     春の宵なる月を眺むる 滿美子
  
 岩間滿美子さんの作品。ご自身を見つめられた歌であろう。上句の苦しい状況に対し、下句の美しい春宵の情景。「春宵一刻値千金」という言葉もあるように、春の宵は趣があって素晴らしい。初句の「立つ瀬」という言葉で意識や視線が足元の下方に向くが、結句「月を眺むる」では一気に上を向く。おそらく心の動きも表しているであろう。
 
  「いん」の字を「かず」と読む人増えしかも
     大河ドラマの比企能員見て 員子
 作者は羽床員子さん。ご自身のお名前を「かずこ」と読んでもらえたことがなく、高校の歴史の授業で武将の比企能員の名前を初めて見たときに、自分の名前があると思われたそうである。現在放送されている大河ドラマに比企能員が登場し、とてもうれしくなって詠まれたとのことである。
  
  シベリアに送られ戻りし人の短歌うた
     再び読めりロシアの戦争 尚道
 
 三宅尚道さんの歌。三宅さんのご両親の世代はみな戦争体験者で、お知り合いには実際にシベリアで抑留された方もおられる。その世代にはシベリア抑留体験を歌にされた人たちがおられ、その歌を読むとロシアの行動は昔も今も変わらない気がしたとのことである。
 
  安定剤心も体も支配して
     ほんとの自分はどこにいるのと 和子
 
 作者は本日欠席の清水和子さん。三宅さんによれば、清水さんのこの歌は、目を手術され、術後に安定剤の薬を飲まれたときの状態を詠まれたものとのこと。
 
  春浅く夕日輝き波寄せて
     鴎鳴くなよ、過ぎし日うつつ 艶子
 本日欠席の櫻井艶子さんの作品。結句「過ぎし日うつつ」は「過ぎ去った日が現実となる」といった意味でしょうか。そうだとすると、夕日が沈む美しい海の風景と結句がどのようにつながるのか。ご本人に伺えないのが残念である。
 
 短歌は五七五七七の五句三十一音で構成されるが、短歌の調べが保たれていれば、字余りや字足らずでもとくに問題はない。筆者は思い浮かんだ言葉が字余りや字足らずの場合は、別の言葉に置き換えて何とか定型に収めるようにしている。定型であれば、少なくとも音の調子は整う。歌会で拝読する皆さんの歌の中には時に字余りの歌もあるが、どれも自然な調子で違和感がない。内容も含めて全体でバランスがとれているからだろう。ぜひ見習いたい。
 ところで、逆に大きな字余りや字足らずによって定型では出せない効果を狙った「破調」と呼ばれる短歌もある。斎藤茂吉に次のような歌がある。いつかこのような破調の歌にも挑戦してみたい。
 
  夜をこめて鴉いまだも啼かざるに
     暗黑に鰥鰥くわんくわんとして國をおもふ 茂吉
日本浪漫歌壇 春 弥生 令和四年三月十九日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春の訪れを感じられる三月十九日、午後一時半より三浦勤労市民センターで三浦短歌会と日本浪漫学会の合同歌会が開催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、櫻井艶子、嶋田弘子、清水和子、羽床員子の七氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長、岩間滿美子氏と河内裕二。三浦短歌会の玉榮良江氏も詠草を寄せられた。
 
  早咲きの桜まつりの取り止めも
     人出は多く桜満開 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。河津桜のまつりが新型コロナウイルスの影響で昨年に続き今年も中止された。まつりが中止になっても桜は咲き、桜が咲けば人は集まる。嘉山さんが行かれたときにも人はたくさんいて、人をかき分けるようにして歩かれたそうである。
 
  高齢の姉の誘いで梅見の会
     思い出話し亡き兄若し 由良子
 
 加藤由良子さんの作。お姉様のお宅の庭に亡くなったお兄様が若いときに植えた梅の木があり、その花を見ながらお兄様の思い出話をされた時の歌。加藤さんは三十一文字に自分の思いを込めるのは難しいと仰ったが、下句から思いは十分伝わってくる。
  北条のたけ女子おなごを想はせて
     梅花流るる鎌倉の春 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。この歌の「春」は時期を表すのではなく「春景色」という意味である。鎌倉は囲い女の街で、春になると男は若い女を求めて別宅に行き、妻は鬼になって怒る。濱野会長は江戸小唄「春風がそよそよと」に言及された。
 
  春風がそよそよと 福は内へと この宿へ
  鬼は外へと 梅が香 添ゆる
  雨か 雪か ままよ ままよ
  今夜も明日の晩も 居続けしょ 生姜酒
 
 この小唄のような情景を思い浮かべて詠まれた歌だとすれば、男は頼朝で女は愛妾の亀の前、鬼は政子である。政子は怒って亀の前を襲撃させる事件まで起こしている。この歌はただ春を詠んだのではなく、鎌倉の歴史を詠んだ一首である。
 
  枕辺に『三浦うた紀行』最期まで
     置きて逝きしと身内に聞けり 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。笹本朝子さんへの悼歌である。笹本さんは三浦短歌会に初期から参加されていた方で、昨年亡くなられた。三浦短歌会は昭和二二年に始まり七十五年の歴史がある。『三浦うた紀行』は三宅さんの歌集である。
  「いいことない?」「何もないのがいいことよ!」
     青日の談斯く沁みる今 弘子
  
 嶋田弘子さんの作品。「青日」とは若い日のことで、若い時に退屈して交わした何気ない会話が、今では本当にその通りだと思えるという歌である。「斯く沁みる」の「斯く」は「本当にこのように」という実感を表現されたとのこと。
 
  みちのくの海傾かたぶきてたおれける
     ひとのもとにも春は来るらむ 裕二
 
 筆者の作。二〇一一年三月十一日に起こった東日本大震災の犠牲者への鎮魂の歌。「海傾きて」とは津波のことで、鴨長明の『方丈記』に出てくる言葉である。
  
  春の野に若草色や心浮き
     何とは当ての無き身なれども 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。窓の外を見ると、きれいな若草色の春蘭が生えていて、それに心を奪われロマンチックな気持ちになった。春だからといって何かあるわけではないが、それでも心は浮き立つもので、そのようなお気持ちを詠まれたとのこと。
  亡き夫と約束したる「湯楽ゆらの里」
     親族うからと連れたち朝風呂に入る 員子
 
 羽床員子さんの歌。「湯楽の里」は横須賀にある温泉施設で、以前ご主人とお仕事でその前を通られたときに、一度入ってみたいと話していたそうである。その温泉に行かれたことを歌に詠まれた。
 
  戻らずにじっと海見る鳥一羽
     ああ、日が落ちる一緒に見ましょう 和子
 
 作者は清水和子さん。清水さんはお部屋から屋根に止まっている鳥をよくご覧になるが、たくさんの鳥がみな山側ではなく海側を見て止まっていて、さらに夕暮れになると必ず一羽だけが残っていることが不思議だそうである。鳥を見るのを日課のようにしていると鳥が友達のように思えてこの歌が生まれたとのこと。
 
  一ツずつ重荷下しつ黄昏の
     時を歩みて父母の影みゆ 艶子
 
 作者は櫻井艶子さん。ご主人を亡くされて四年目。本当なら主人の顔を思い浮かべなければいけないでしょうけど、と櫻井さんは笑いながら仰った。なぜか夫よりも両親のことを思うことがある。櫻井さんだけでなく、連れ合いを亡くされた皆様も同様だそうである。「血は水よりも濃し」だろうか。
  外出のままにならない家猫は
     くしゃみ激しき抱きて歩めば 良江
 
 作者は本日欠席の玉榮良江さん。家の中で飼っている猫を外に連れて行ったら、くしゃみをしたということでしょうか。くしゃみが激しいとなれば、犬や猫にも花粉症はあるようなので、花粉症かもしれない。
 
 今回の歌会では、嶋田さんや清水さんの歌のような会話表現を用いた手法について考えさせられた。どちらの歌も口語の持ち味が活かされている。筆者の場合、短歌は文語の方がしっくりくる。初めて俵万智の『サラダ記念日』の非常に口語的な歌を読んだ時には違和感を持った。現在ではさらに三十一文字すべてが会話になっているような歌も珍しくない。そのような極端に口語的な歌にはやはり抵抗がある。今回お二人の歌で、会話表現によって臨場感や情感が生まれ、作品世界が広がることを教えていただいた。口語でも使い方によっては厚みがでる。自分も挑戦してみたい気持ちになった。
濱野家治家記録(エッセイ)
 
 まぼろしの御座所 濱野成秋
 
  大正初期、山持ちの惣領息子が養子に出され
 
 父濱野定雄は1907年岐阜県揖斐郡小島村にあった所家の長男として生まれた。祖父の姓は所。名は弥太郎。生前、高さ五メートルにもなる墓碑を自分で建てる奇人である。
 
 日本は日露戦争で超大国ロシアと闘い、日本海海戦で勝利して世界を驚かせたのが明治38年で、その2年後の生まれである。国威盛んな時期の大地主の長男だから、さぞ期待も大きかっただろう。屋敷の背後の山々は皆自分が相続すべき数百万坪の山林。ほかに田畑が何十枚も。といえば典型的な田舎のおだいじんとなる身だった。筆者の幼児期の記憶では、岐阜の家には柿の木もあり門前には小川があった。その流れを利用した水車小屋が門を入った右、隅っこにあった。
 
 この屋敷と僕の誕生はかなり稀有な運勢で彩られている。父はなぜ、大阪府南河内郡長曾根村の濱野家に養子にだされたのか。この経緯については別にかくが、いずれの家系も彦根の井伊家と通底する。
 岐阜県揖斐郡の、そんな田舎地主の男の子と、山深い奈良県高取藩の藩校教授の末裔だった石井家の、上から5番目の子女秋野との縁組は、思えばあり得ない奇縁である。しかも堺の中心部から離れた、野田村丈六という田園の村落で僕は誕生した。まだ日米戦の前のことである。届を出す母に、役場はネルの布一巻きを祝にくれたそうだ。その年の12月、帝国海軍は真珠湾を攻撃しているが、僕は虚弱体質で隣室の茶棚の上の3球ラヂオから襖のすき間を通して聞こえて来る臨時ニュウスが鳴る…「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋上で米英と戦闘状態に入れり…」
 
 もう耳慣れた「臨時ニュースを申し上げます…」の音声の初発を天皇の赤子として誕生した僕は寝床の中で聴いたのである。
 
 読者諸君もゼロ戦が未明の空に向けて空母の甲板を蹴って飛び立つニュース映画を何度も見たことだろう。歴史としてゴミだらけの画面に空戦にやたら強い軽戦闘機が母艦から飛び立つ雄姿は僕の脆弱な身体とは凡そ不似合いな取り合わせだが、一緒にこの世の1ページになったのだった。アーカイブズの画像と真空管ラヂオの音声が歴史の証言者で、それを何回も聞かされ、勇ましく、大勝利を予感させる大国に誕生した僕と、一足早くこの、大日本帝国に登場した父定雄は野田村丈六の暗い奥の畳の間で、雪見障子の彼方、中庭の、石灯篭の左側にみえる白壁土蔵の扉を見ながら生きていた。
 その頃の父はまだ三十代半ば。岐阜からほうりだされて三十年後。早くも軍需工場の社長で会社員を何人も抱えて軍と業界との間で走り回っていた。岐阜にはマンガン鉱を持ち、村人を何百人と使って、村長より上座に座って床の間をしょって座り、村のお歴々と酒を酌み交わしては崇められていたのである。父は僕に似て、筋骨は脆弱で甲種合格の下士官と並べ座ると馬鹿にされそうなほど女々しい姿だったと想像する。だが村民は皆、父を、岐阜出身の、誰よりも立派な人物として頭を下げていた。それには訳があった。
 
 軍との関係は秘密裡に続く
 
 父は軍需一辺倒の中で政府に直結していた。彼の作るワイヤーロープはゼロ戦の胴体を走り、高性能でドッグファイトにうってつけ。切れ込みが良いのでグラマンに連戦連勝、戦艦武蔵の主砲を巻く特殊鋼も濱野はん、と言われていたから一目置かれる存在だった。軍も気を遣う。誰にでも威張り腐る軍人でも、濱野はん、濱野はん、とペコペコしていたという。父自身、根っからの愛国者で、二十歳そこそこで鉄鋼業界に入り、持ち前の作戦才覚で八幡製鉄(現在の日本製鉄)や日立製作所と取引先を開拓する。二十歳の後半には早くも独立して大東亜機工という名称で特殊鋼を一手扱う、ソウル・エージェントになっていたという。安来ハガネは有名だが、少量の出産だけで奪い合いになる。日本国内に特殊鋼は少ない。ドジョウ掬いの踊りで有名な「安来節」で誰もが知る島根県安来町に出かけては、原料となる安来ハガネの調達までやっていた。父は当然考え方が変わる。
 マンガン鉱脈を村人全部を使って
 
 特殊鋼と鉄はどう違うか。全く違う。父の話だと、先ず、値段が桁違いで、鉄なら拳大で今のお金にしてせいぜい500円ぐらい。特殊鋼なら百万円。なぜなら、特殊鋼はぐるぐる回転する旋盤に円形の鉄を置き、それを削って丸棒状にするには、削るしかない。その刃は特殊鋼で摩耗しない硬度の高いものを使う。分子の組成が違うのであって、焼き入れをして硬度を上げただけの鉄とは土台、出来が違う。鋼材は伸び縮みしない。だからワイヤーロープにすると、伸びないから、零戦に追いつく敵機を躱して急上昇するには、ペダルを力一杯踏んで、尾翼の昇降舵を跳ね上げたまま急上昇し、空中で宙がえりをやって、あっという間にグラマンの背後にピタリと付け、ダ、ダ、ダ…と、ペラとペラの間から撃ちだす7・7ミリ機銃で…というような話を、父とお風呂に入って聞かされる。戦後も、ハイスの3種とかハイスの4種だとか、そんな呼称のハガネはもの凄く高い値段で取引されると父から聞いた。
 
 もし昇降舵を固定するワイヤーロープがただの鉄のハリガネだったら、風圧に負けて伸び切り、零戦の性能も悪くなる…と、父は愛国心から純度の極めて高いワイヤーロープを納入していたから、海軍からは非常に請けが良かったという。
 安来には軍刀作りの工人たちが群がる。軍刀も戦争には欠かせない。だが父は太刀に使うより、零戦だ、戦艦だ、これからは鋼板を戦車に貼らねば敵弾が貫通するぞと説得して買い占めていたが、それは玉鋼といって、安来には鉱脈はあるが量産できない。味方同士が原料の争奪戦を国内でやっていては戦争に負ける。
 
 こう思って、原料から掘り出す方針に切り替え、それに乗った軍部や官僚が父の存在を大いに重宝したという。だが鉱石を掘り出しても精錬技術が良くないと良い製品にはならない。八幡製鉄に送り込んで精錬してもらう。そのころ、「岸さんがうちにちょくちょく来て、お茶漬けを食べてはったよ」という。
 
 その話は戦後もレジェンドとなったが、僕は話半分に聞いていた。父のほら話だろう。
 
 ところがアメリカがスペースシャトルの展示会を有楽町でやったとき、岸さんが招待してくれたことがあった。そのとき、あのレジェンドは本当だったのだと思った。招かれて儀式の日に行ってみると、岸さんが僕と握手しながらニコニコして「君のお父さんには色々、ほんとに親切にしてくれた」と相好をくずしておっしゃり、僕は未だ若くて周りに政治家たちが注視するなかで戸惑っていると、「遠慮せずにここに座りなさい」とすぐ横の席に座らされたのである。並んで腰かけること小一時間、岸元総理は僕と一緒だった。あの時ほど、父の遺徳の凄さを感じたことはない。戦中、あのマンガン鉱山に一度連れられて行った日のことがまざまざと蘇った。
 あわや坑道の暗闇で暮らす運命が
 
 坑道にはトロッコが敷かれ、裸電球が粗削りの岩面に点々と灯る。その中を奥へ、奥へ。ポタポタ…ポタポタ…頭上から落ちる雫。襟の中に落ちて来る水滴はあまり気持ちのいいものではない。この想い出は後でも書くが、その時、トロッコに同乗していた父は、
 「成生、ここで暮らすことになるんやで…」と事も無げにいう。
 「いやや、怖い、こんなとこ、いやや…」
 
 僕は泣きだしたが、間もなく終戦となり、軍の注文もなく、鉱山は閉山。操業停止で、本土決戦もせずに済んだからよかったが、もし天皇の終戦の詔勅を一日二日遅らせていたら、米軍の大部隊は神奈川県葉山町の海岸から上陸して、あっという間に水際作戦の機関銃部隊は蹴散らされて火炎放射器で焼土となり、そのまま横浜も焼土と化して首都は制圧されていたことだろう。僕らはその時分、まだ堺市の端に住んでいたので、岐阜まで逃げて、マンガン鉱山の洞窟で暮らしていた可能性が十分あった。
 
 それを想うと、父の予言は無視できない。
 あそこは天皇陛下の御座所まで造る積りやった。ほんまかいな? 御座所は松代だったはずだが、戦時中から松代は有名だったから、天皇陛下はこっちに来はる予定だった、という父の言葉には信憑性がある。岸総理は父に、天皇の御座所を頼んでいたのでは…?
 
 今となればその可能性を辿るよすがはない。
 
 御座所があり、「陛下! 敵軍が攻めて来ました!」
 
 父はそう言って山奥へ…一緒に…思っただけでぞっとする。戦争末期、マンガン鉱石の精錬もままならず、父の作るワイヤーロープは特攻機の餞別に使われた。知覧から飛び立ち、途中、グラマンに遭っても機銃弾一発も積んでないと可哀そうだと進言して銃弾をなるべく沢山積み込ませ、伸び切った鋼鉄線を新しいのに取り替えて離陸させる。「その線がな、物資の不足で、だんだん細くなりよるもんやから、伸びた古いのと捩じって使うたんや」
 
 岸さんと父は飛び立つ姿を涙で送り出したという。
 あれからもう80年。自分は今、葉山の御用邸付近の住まいで無事に、のうのうと生きている。人生なんて、先代の風変わりな曲がり角のお陰で生かして貰えてる。父のお陰で、戦後、家で何度もダンスパーティを催した父は、アメリカ軍を誤解しとった、ええ奴らばっかりや、こんな奴らと戦争してたとは情けない…父の口癖だった。が、応接間で僕は蓄音機係をやらされ、米軍の将校たちが母とブルースを踊る姿を視る父の胸中はと想うとぐっとこみ上げてくるものがある。
 
 すべては夢か。岸信介元総理は僕に、署名入りの分厚い個人史をくれた。毛筆の署名は日米安保のときと同じ筆致である。
 
 だが岐阜のマンガン鉱山の記述はない。父との交友録もない。
 
 陰の世界に生きたのか、岸さんと父は。その、誰にも言えない埋もれた友情は消えてしまったのか? いやいやお二人の友情は今も心なしか、そこはかとなく我が家の書斎の稀覯書棚の辺りに漂っている。
(以下次号)