投稿
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
歌会前日に気象庁が関東甲信地方の梅雨明けを発表した。今年は梅雨入りが平年より一週間ほど遅かったが、明けるのは三日ほど早かった。歌会当日は気持ちの良い晴天となり、先月よりも駅や電車には人が多かった。最近よく耳にするようになった言葉に「人流」がある。「人の流れ」という語は普通に使われていたが、「人流」はコロナ禍になって初めて聞いた。流れを表す意味で「電流」「水流」「物流」などはよく聞いても「人流」は聞いたことがなかった。国語辞典を引いてみても「人流」だけ載っていない。「流」という漢字には「流れ」以外にも多くの意味がある。例えば「女流」のように類という意味もあるし、「流行」のような伝わり広がるという意味もある。最近よく使われる造語「韓流」は韓国の流行という意味である。「流派」や「流暢」の「流」もまたそれぞれ別の意味である。これまで「人の流れ」は使われても「人流」が使われなかったのは、この「流」の多義のためで、それがコロナ禍によって人の移動が注意点としてあまりに強調され、「人」と「流」の組み合わせで「流れ」以外の意味など想像もされなくなったために「人流」が突然使われ始めたのではないか。そうだとすれば、コロナは言葉にも影響を与えている。
今回の三浦短歌会と日本浪漫学会の合同歌会は、七月十七日の午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、桜井艶子、嶋田弘子、玉榮良江の六氏、日本浪漫学会から河内裕二。三浦短歌会の清水和子氏と日本浪漫学会の濱野成秋会長も詠草を寄せられた。
「なれましたよと」と花を供へる 光枝
嘉山光枝さんの作。ご主人が亡くなって今月で十年になる。ひとりの不安や寂しさはあるが、現在は自由な時間をいただいたと思うようにしている。ただ、自由を感じているとはいえ、夫婦はやはり喧嘩をしているうちが華であると嘉山さんは仰る。わかりやすく表現されていて嘉山さんのお気持ちがよく伝わってくるというのが皆さんの共通する感想だった。パートナーを亡くされた方にはとくに共感できる歌であろう。
梅雨はしり仙台秋保あざやかな
みどりと藤とあたたかき人と 由良子
作者は加藤由良子さん。五月に秋保温泉に旅した時の一首。秋保温泉までは仙台からバスで四十分ほど。新緑を眺めながら向かっていると、その緑に天然の藤が美しい彩りを添えていた。秋保温泉の美しい風景とさらに地元の人たちの温かさに感動されたとのことで、梅雨前のぐずついた天気を吹き飛ばすような爽やかな歌である。
早朝のバスの人々会話なく
マスクを付けて皆前を見る 尚道
産土の宮に飛びかうつがい鳥
おいかけおいこしいずこへか消ゆ 弘子
作者の嶋田弘子さんのお話では、実際には鳥ではなく蝶だったそうだが、ご自身が目にした光景を詠まれたとのこと。ご主人の手術前に神社に寄ってお願いをした際に、二匹の蝶が追いかけ合うように飛んでいて、しばらくするとどこかに消えていった。その蝶を見て、何だかご夫婦の人生と重なるように感じてこの歌を詠まれた。映像が目に浮かんでくるというのが皆さん共通のご意見であった。
衣笠の寓居手放す日も近し
十歳の哀歌も幻と化す 成秋
薔薇一輪咲いて衣笠売りて去る 成秋
夫婦じアない夫婦以上のカップルの
声弾みおり朝の食卓 和子
作者は清水和子さん。ホームにお住まいの清水さんが朝の食堂の光景を詠まれた歌。ホームには、伴侶を亡くされひとりで入居されている方で、ここで知り合ってカップルになられた方がいらっしゃるそうで、「夫婦じアない夫婦以上のカップル」とはその方がテレビのドキュメンタリー番組の取材の際に自ら語った言葉とのこと。筆者は高齢の方が暮らすホームにどこか静かで暗い印象を持っていたが、明るくはつらつとした入居者の姿を描く清水さんの歌を拝読し、ホームのイメージが変わった。
蓮華の薄紅白く移ろひて
待ちたるのみや散りて枯るるを 裕二
夫忍び保安林保護呼びかけむ
故里の海永遠の碧さを 艶子
作者は桜井艶子さん。櫻井さんのご主人は生前よく寄付をされていた。若い世代の助けになればと地元の高校の保安林にも助成され、その森が三浦の海さらに世界の海を守ってくれることを祈っておられた。保安林を守るために高校では生徒のクラブ活動の一つにしようとするが、活動費不足が問題となっている。現在、櫻井さんは保安林の整備のための資金を集める募金活動に協力されておられ、お話を伺って歌の意味がよく理解できた。
鶯の声がしきりに響く朝
まねして口笛吹きて返せり 良江
歌会で皆さんのお話をうかがい作品背景などを知ると、三十一文字で思いや感情をいかに表現したのかがわかり勉強になる。テーマ、リズム、イメージを効果的に作用させる言葉や語順を探すのは簡単ではない。一言変えるだけで歌が劇的に良くなることもあるが、その一言になかなか気づけない場合もある。歌人の皆さんと議論できる機会は大変貴重であり、細心の注意を払ってコロナ禍でも歌会を続けているのは立派だと思う。今回も有意義で充実した歌会となった。
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
歌会の当日は雨だった。関東地方も数日前に梅雨入りが発表されていたので雨が降るのも仕方がない。雨が続くことで逆に六月になったことを実感する。梅は春の季語だが六月に雨が続くことを梅雨と書くのはなぜだろう。しかも梅雨と書いて「つゆ」と読む。気になったので辞典で調べてみた。花ではなく実に関係していた。梅の実が熟す時期に降る雨を中国の長江流域で「梅雨」と読んでいたのが江戸時代に日本に伝わったとされるようだ。しかし諸説あるとのこと。この時期の雨をもともと日本では五月雨と呼んでいた。梅雨の字を「つゆ」と呼ぶようになったことについても「梅の実が熟して潰れる『潰ゆ(つゆ)』からや「カビで物が損なわれる『費ゆ(つひゆ)』からなど諸説あって、要するにはっきりわからないのである。今年は例年より一週間ほど遅い梅雨入りとなったが、明けるのはいつになるのだろうか。
今回の三浦短歌会と日本浪漫学会の合同歌会は、六月十九日の午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子の四氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子、清水和子、玉榮良江、田所晴美の四氏も詠草を寄せられた。
東海の益荒男成りしマスターズ
亡き夫ならばいかに思ふや 由良子
最近では野球の大谷選手やテニスの大坂選手など世界の第一線で活躍する日本人アスリートも登場しているが、体型によるものなのか長い間スポーツ界では日本人が活躍できなかった。いわゆる「世界の壁」があった。加藤さんによれば、とりわけ男子ゴルフはこの「壁」が高く、これまで幾多の日本人トップ選手が挑戦しても誰もメジャー大会で勝つことはできず、マスターズ制覇は男子ゴルフ界にとって祈願だったとのこと。
ワクチンの接種予約は成功も
スマホ操作に奮闘五時間 光枝
この歌を詠まれた嘉山光枝さんはワクチン接種の予約にとても苦労された。嘉山さんのお話では、予約電話は混み合って一切つながらないため、スマホによるネット予約を行ったが、操作法がわからなかったり不具合が出たりして完了するまでに五時間もかかったそうである。
この歌においては、他でもない「五時間」というのが秀逸である。結句にキレを出すためには一音になる数字を選ぶことになるが、二、四、五、九とある中でさすがに九では長すぎる。次に長く、奇数の五が最善だろう。筆者の私感だが、偶数は奇数よりも安定感があり優しい印象を受ける。奇数の「五」という数字が「奮闘」という言葉と相まって、慣れない作業への不安や苛立ち感を上手く醸し出している。
親鳥ひたすら餌をはこびくる 尚道
三宅尚道さんの作で実際に目にした光景を詠んだもの。誰もが一度はつばめの巣を見たことがあるだろうが、さすがに防犯カメラの上の巣はないだろう。「防犯カメラという人間が同じ種族の人間を疑って取り付けている装置にお構いなしにつばめが巣を作るのが、人間をあざ笑っているかのようでとても面白い」というのは濱野会長のお言葉。
くちびるや歯牙にまとひし言の葉を
秋風に舞ふ瞳に告げをり 成秋
濱野成秋会長の作。この歌は次の松尾芭蕉の俳句の本歌取り。
物いへば唇寒し秋の風 芭蕉
濱野会長によると、芭蕉はこの句の詞書で、余計なことを言うと災いを招くので言葉を発するときは注意しなさいと説いたそうで、俳聖ともあろう人物が詩歌でごく当たり前の市井の道徳を説いていることにがっかりしたと仰る。自分をさらけ出してこそ文学であろうと。
スーパーの入口にある貼り紙に
「トンビに注意」今日は梅雨入り 良江
作者は本日欠席の玉榮良江さん。ご本人に伺うこと出来なかったので、歌の内容についてはわからないが、実際に張り紙がされていたのをご覧になったのだろう。三浦ではとんびはよく見かけるそうだが、さすがにスーパーという場所との組み合わせは意表を突くもので、強く印象に残ったために歌に詠まれたのではないか。
夕空に生気みなぎる点描画
騎虎の勢ひむくどりの群れ 裕二
筆者の作。毎年この時期になると住んでいる街の駅前にむくどりの群れがやって来る。その数たるや驚くほどで、鳴き声も大きくて人の話し声も聞こえないほどである。何かの拍子に一斉に飛び立つと右に左に旋回し、その光景は巨大な点描画が動いているかのようでその迫力に圧倒される。実際にむくどりの群れをご覧になったことのある嘉山さんより「まさにこの歌のようだった」というお言葉をいただいた。
万葉の歌父と捧げん 弘子
作者は嶋田弘子さん。筆者は太平洋戦争の激戦地としてガダルカナル島という名は何度も聞いたことがあるが、同じソロモン諸島のブーゲンビル島については初めて聞いた。嶋田さんのお父様は戦争中にこのブーゲンビル島におられたので、戦後は島を訪れることなく亡くなられたが、きっと訪れたかったのでは。そう思われた嶋田さんは今から十二年ほど前にお父様の魂と一緒に行くつもりで、ブーゲンビル島に慰霊の旅をされた。本作はその旅の歌である。「万葉の歌」とは『万葉集』にある大伴家持の歌から詩が採られた『海行かば』のことだろう。
九時に寝る忙しき頃の夢を見て
五時四〇分 今日も日曜 和子
清水和子さんの詠まれた歌であるが、ご本人が本日は欠席されていて内容について詳しく伺うことはできなかった。五時四十分というかなり細かい時間に何か特別な意味があるのだろうか。忙しくしていた頃には夜は九時に寝て翌朝早く起きていた。今は早く起きる必要がないのにその頃の夢をみて五時四十分に目が覚めてしまったという実体験を詠った歌だろうか。
木漏れ陽の光鋭く空を裂く
心ふるえる白内障オペ 艶子
クラス会年重ねたる老の身を
忘れ乙女にもどるひと時 晴美
加藤さんのご友人の田所晴美さんの歌。田所さんは千葉にお住いで、三浦で行われる歌会に参加することは難しいため投稿でのご参加となった。クラス会では皆が当時に戻ってしまうのは、クラス会に出席すれば誰もが経験することではないだろうか。クラス会での楽しい笑い声が聞こえてきそうな誰もが共感できる素晴らしい一首である。
今回も皆さんの歌から多くを学ぶことができた。とくにお父様と戦争・平和への思いが込められた嶋田さんの歌を拝読して、平和であることが当たり前のように生きてきた筆者やさらに若い世代は戦争の記憶を風化させてはいけないと思った。戦没者追悼式で現在の上皇と天皇が「おことば」で毎回「過去を顧み、反省し、再び戦争が繰り返されないことを願う」と述べられていることを思い出した。本日も充実した歌会であった。
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
四月二十日頃のことを二十四節気で「穀雨」と言う。穀物を潤す春雨が降ることから名づけられた。この時期に降る雨について調べてみると、穀物を潤す雨で「穀雨」と同義の「瑞雨」、草木を潤す「甘雨」、菜の花が咲く頃に降る「菜種梅雨」、春の長雨の「春霖」、花の育成を促す「催花雨」、卯月に降る長雨の「卯の花腐し」など多くの名前がある。
歌会当日はあいにくの雨だったが、三浦は畑が多く野菜の栽培が盛んである。植物にとっては恵みの雨になっただろう。四月十七日は午後一時半より三浦短歌会の皆様と日本浪漫学会が合同で歌会を行った。会場は三浦勤労市民センター。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、玉榮良江の六氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長と河内裕二。三浦短歌会の桜井艶子氏も詠草を寄せられた。
ゆく春の橋の上なるおぼろ月
黄砂のせいとつれないラジオ 由良子
作者は加藤由良子さん。「おぼろ月」というと唱歌『朧月夜』を口ずさんでしまうのではないだろうか。『朧月夜』は作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、このコンビは他にも『故郷』『春が来た』『春の小川』などの素晴らしい日本の歌を作っている。「白地に赤く日の丸染めて」で始まる『日の丸の旗』も彼らによるものである。
おぼろに霞んだ月の美しさに日本人はずっと魅せられてきた。『新古今和歌集』にも朧月夜の歌がある。
照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
朧月夜にしくものぞなき 大江千里
この柔らかな光の感じを好むからこそ日本家屋では障子が使われるのではないだろうか。谷崎潤一郎の随筆に『陰翳礼讃』というのがあるが、日本人はあまりギラギラ明るいのを好まない。陰影の中で映えるものを美しいと思うのである。
満人の近くの店から漂へる
食欲そそる中華の匂ひ 光枝
作者の嘉山光枝さんのご自宅の近所には中華料理屋があり、お昼時に美味しそうな中華料理の匂いが時々風に乗ってやって来る。その何気ない日常を詠った一首。
「雪の降る夜は楽しいペチカ」という歌詞で始まる作詞北原白秋、作曲山田耕筰の『ペチカ』という童謡がある。筆者はずっとロシアについての歌だと思っていた。ペチカとはロシアの暖炉のことだからである。しかしこの歌はもともと一九二四年に発行された『満州唱歌集』に収められた唱歌で、当時の満州を舞台にしている。歌を依頼された白秋と耕筰の二人は満州まで行って制作した。今回その事実を知った。
病超へ遂げし娘の記録見て
揺れる母御の心測れり 和子
作者は清水和子さん。白血病を克服し日本選手権で優勝を果たした水泳選手の池江璃花子さんの話を聞いて詠まれた歌。池江さんご本人ではなく彼女のお母様の心境を歌われたのは、清水さんご自身がいつも母親としてお子さんのことを心配しているからで、お子さんが重い病気になった池江さんのお母様の気持ちを考えずにはいられなかったとのこと。
あの人もこの人も「いい人ね」って
思える今日の元気な証拠 弘子
作者の嶋田弘子さんは、最近短歌は必ずしも古典的でなくてもよいのではないかと思われたそうで、俵万智や若い歌人の自由な歌からご自身も「五・七・五・七・七」の定型に縛られない歌をお詠みになったとのこと。他人を良く思えない時は、自分の調子があまり良くないと経験から感じておられて、そのご自身のバロメーターを歌にされた。誰でも自分のことを知るのは難しい。他人に対する気持ちから自分の状態を知る。たしかに自分の心に余裕がないと、人に対して優しくなれないものだ。
銀も金も玉も何せむに
まされる宝子にしかめやも 山上憶良
この世をば散りて去りたるさくらばな
実をば結ばめ春は来ずとも 成秋
濱野成秋会長の歌。桜の花でご自身の気持ちを表現されている。一般的な桜であるソメイヨシノは、花は美しいが実を結ばない。桜の花のように自分も散ったら終わりなのだろうか。たとえ散ってしまって春が来なくとも実を結んで次の世代に残してほしいというお気持ちがある。ご自身のお仕事などを振り返ってみても、たいして実を結んでいない気がして、この歌が出てきたと仰る。参加者の皆さんもそれぞれ歩んでこられた道は違えど同じ気持ちであると共感された。
『新古今和歌集』に後徳大寺左大臣の桜の歌が収められている。
はかなさをほかにもいはじ桜花
咲きては散りぬあはれ世の中 後徳大寺左大臣
世の儚さは桜の花の他には喩えようがないと言っているが、濱野会長の歌にも通ずるところがあるだろう。
だんボール入りし柔らか春キャベツ
家族総出の収穫すすむ 良江
相模湾一望にして春霞
湯舟につかり友と語らむ 艶子
今回はご欠席の櫻井艶子さんの作品。ご友人と熱海に行き楽しい時間を過ごして幸せを感じた時に詠んだとのことで、この作品も玉榮さんの作品と同様に情景がはっきり浮かんでくる。まるで絵画を見ているかのようで描写に無駄がない。友と語らふ声までが聞こえてきそうである。「相模湾」という具体的な場所を示す固有名詞の使用もこの歌では成功している。作品に現実感を与えるとともに、この辺りを知る者なら海には何が見えるのか。伊豆大島か伊豆半島か三浦半島かなどと想像できるのもまた楽しい。。
花時に自粛求むる時の疫に
太子偲びて現在を生きゆく 裕二
美しく桜が咲いても昨年に続き花見はできす、接触や蜜を避けるため人に会うこともままならない。この生活はいつまで続くのだろうか。日本のように人びとの自粛に任せてそれなりに行動が抑えられている国は珍しいと言われている。国民性と言えばそれまでだが、なぜそうなったのか。聖徳太子が作った十七条の憲法は第一条「和を以って貴しと為す」で始まる。日本人はその精神を現在まで受け継いできたのではないか。聖徳太子は当時猛威を奮った流行り病で亡くなったとされている。三宅さんのお調べになったところでは天然痘のようだ。太子はちょうど今の筆者の年齢で亡くなった。千四百年の時を越えて、今一度太子の教えに耳を傾け、コロナ禍を生き抜いてゆかねばならない。そんな気持ちでこの歌を詠んだ。
夫とゆく揃いのマスクでコロナ禍を
浮世さだむや総合病院 弘子
上句を読んで仲の良いご夫婦が一緒にご旅行にでも出かけられるのかと思って下句に進むとお二人で通院されることがわかり一気に緊張が高まる。本作は先日夫に病気が見つかりご夫婦で病院に行かれたという嶋田弘子さんの歌。二人で通えるのは嬉しいが、その場所が病院でしかもコロナ禍。夫の病気とコロナの両方が心配になる。どうしたものか。その浮き世を定めてくれるのが大きな総合病院というまとめ方はお見事である。
パドル動かす春の潮に 尚道
作者は三宅尚道さん。自衛隊武山駐屯地に陸上自衛隊高等工科学校があり親元を離れて全国から学生が集まってくる。今の時期は学校前の長井の湾でカヌーをやっている姿をよく見かけるそうで、学生は必死にパドルを漕いでカヌーを進めるが、腕力の違いが如実に現れると仰る。まだあどけなさが残る新入生も厳しい訓練を受けて卒業する頃には心身ともに逞しくなり立派な自衛官になって巣立ってゆく。在学中は給与が支給されるのだから規律や訓練は相当厳しいだろう。三宅さんの歌からもその厳しさが伝わってくる。
「春の潮」という言葉から受ける温かい海でみんながのんびり遊んでいるような印象とそのような場所で「ひたすらにパドル動かす」と彼らが真面目に厳しい訓練に取り組んでいるという二つの言葉の組み合わせが秀逸であると仰るのは清水さん。たしかにその通りである。遊びたい盛りの若者たちが楽しくしている人たちを横目にストイックに訓練に打ち込むその姿が目に浮かんでくる。
歌会を終えていつものようにカフェ・キーに移動する。お茶をいただきながらしばらく歓談する。
今回の勉強では、五・七・五・七・七で各句を前後逆転させたり言葉を少し変えたりすることで短歌としてとても引き締まったように思う。その助言をされた濱野会長は後で申し訳なかったと言われたけれど、散文の調子から詩的な短歌に仕上がった感があり、皆さんに参考にしていただけた。筆者自身も皆さんの歌を読ませていただき、その歌をどのような思いで詠まれたのかを伺って、その思いを伝える表現を工夫するやり方を濱野会長の助言から学ぶことができて大変勉強になった。
シンポジウム資料 開催:初芝体育館 2021.5.9
地元出身警鐘作家 濱野成秋
☆八ヶ岳構想で出発した政令都市堺市はこれで躍進する
[筆者略歴]登美丘中学4期生。慶大アメリカ文学専攻卒。東大アメリカ研究所研究員。東北大助教授を経てニューヨーク州立大客員教授。日本女子大大学院教授。早大・青学・一橋大講師、京都外大大学院教授。警鐘作家としてTVや新聞論評。著書編著30点。主要著書『日朝、もし戦えば』(中央公論社)、『日本の、次の戦争』(ゴマブックス、電子書籍キンドル)、『ユダヤ系アメリカ文学の出発』(研究社)、『愚劣少年法』(中公)、『ビーライフ!白亜館物語』(中公)、短編集『別れる季節』ほか文芸選書5点ほか学術書多し。現在ネット検索できる『オンライン万葉集』を主宰し、「日本の和の心」を世界に発信中。登美丘中学創立50周年記念式典卒業生総代。
[開催目的]今を去る15年前の2006年4月、堺市は政令指定都市に移行しましたが、当時、東区の中心であった登美丘町北野田の商店街はシャッター通りとなり、疲弊の極にありました。私共と町内会連合会は市民の意向を重視して大規模再開発を提起し、市政も協力体制にあって4本の高層ビルを建設でき、文化会館を始め多くの施設を導入できました。あれから早くも15年が経過。果たして現在も活性化が継続中か? あるいは停滞が著しいのか。その原因は何なのか?
Ⅰ文化会館の活用で強力な求心力を持とう
[経緯概説]今までの15年間の前半(市民活動によるもの、2007~2015)と後半(行政OBの運営によるもの、2016~2021)に分けてルックバックしてみよう。
⑴15年前の文化産業構想:池崎守氏と筆者がペンクラブの早乙女貢氏、越智道夫氏らを招聘して堺区でシンポジウムを開催。堺市長も積極的に同調されて、市政を「富士山構想」から「八ヶ岳構想」へ。東区を文化村の中核都市と位置づけた。これは東京都渋谷区のBunkamura the Museum に匹敵する。発信型イコール集中型。「遠心力」centrifugal force→「求心力」centripetal force
⑵「界隈」は消滅しても住民の団結は続いた:北野田シャッター通りは高層ビル4本の建築へ。地蔵さんはじめ「界隈」が消滅する無念さはあったが、市民の生活を支える施設をもって町全体の崩壊は救われ、近代化に変身できたとき、市民の大活躍が復活した。
⑶東区の文化会館・図書館のオープン:前期つまり市民の自主運営・自主企画が次々成功。NHK大河ドラマ主演中の伝統狂言宗家和泉元彌氏が登美丘中学創立50周年祝賀行事に。文化会館開設後、FM局が開局。カフェの賑わい顕著。ところが後期、市民のNPOから旧市役所OBによる運営に移行。貸舞台・貸ホールとなり、館内は灯が消えた如し。
提言:地元住民が企画運営し市の財政的予算を得て、採算・損益分岐点で不可能とならぬ運営で次々と発信、東区の求心力を。また登美中・登美高の大活躍にみるように、吹奏楽部・ダンス部の目覚ましい活躍を堺の文化村の宝にして文化活動の未来を担う人材となって欲しい。
Ⅱ日本初「世界防災センター」World Anti-disaster Centerの開設を堺市東区で実現しよう
未発達の法整備:コロナ禍でWHOがクローズアップされているが、日本はバイオだけでなく、自然災害や原発公害など、多様な問題を抱えている。ハイウエイの大雪対策一つ取ってみても、我が国は、いまだ十分な組織化がなされないままである。コロナ対策もワクチンづくりも遅々として進まず、急場しのぎの施設で外国製ワクチンに頼る始末。特に遅れが目立つのは、先進国では当たり前となっている産官学協同体が機能する組織づくりがないこと。法整備がなく、国会においてでさえ、的確な議員立法として上程するに至っていない。標記センターは法整備の在り方を含め、世界の最新情報で対応策を政府に提示できます。
筆者の阪神淡路:阪神淡路大震災のさい夙川にあった友人宅の救出に向かい、知事部局と協議の上、時の自治大臣の野中広務氏と永田町の大臣室で協議し、6800億円の緊急支援を取り付けた。これは成功したが、二重ローンの問題をはじめ、読売新聞と日赤本社の協力で1兆円基金創設を進めたが、損保事業とのバッティングで省内が難航。基金制度だけでは自然災害抑止は困難となった。標記センターは災害に伴う財政問題の打開策も実働可能なファクターを入れて提示できる。
NBCR対策推進機構:その後、筆者はこの機構の特別顧問となり、日本医師会や自衛隊幹部と長年地道な活動を共にすることになった。日本医師会の支援、消防・自衛隊・地方自治体の理解と協力で全国の医師を対象に治療法教育で成果を上げた。日本における防災センターが不可欠だと判断したのは、この活動から得た教訓からであった。すなわち、折しも東京五輪パラを目前に、日本は保健所・警察・自衛隊・医師団・消防がコロナと闘いながら各領域ごとに努力するけれども、いまだに領域をまたぐ連係プレイが出来てないまま五輪開催に突入するわけである。
提案⑴:堺市東区は国も認める危機管理機構として「世界防災センター」を開設しよう
「世界防災センター」を東区に開設し、①国の防災機構と直結して情報収集と「防災士」教育を行う。②bio-, chemi-, nuc-, radio- 対応の最新知識教育。医師・看護師の最新教育。③WHO(世界保健機構)、ユニセフ(unicef、公益財団法人日本ユニセフ協会)、国連安全保障理事会とのドッキング。もちろん、区議会、市議会、国会、国連、各国大使館や研究機関とのパイプも構築する。筆者はNBCRと並行して、青山学院大学では長年公官庁館員のリカレント教育を担ってきたが、このセンターは国庫援助でカリキュラム化し修得単位を普遍化させる。
提案⑵:Civilian Controlはつねに財政支援政治と行政の協力がなければ結実できない。予算を順当にもらい、消化して市民のためになる住民主導型組織の運営で実効を上げよう
民主主義国家におけるcivilian control は19世紀末のアメリカで台頭したindustrialization(産業主義)で本格化しました。discretion(自由裁量)を最大限に。但しdiscretionary zone(自由裁量の権限範囲)の規定なし。それでも産業主義が統制型の国家主義より繁栄したのは、市民の着想が繁栄に結びついて欧州経済圏を凌駕できた。我が国の公共機関においては、とかく管理第一主義になるか特殊法人のように全面的に任せた結果資金管理不能となった。コントロールに必要な方式は、法人化させた上でdiscretionary zoneを決め、次々と出る企画の損益分岐点を診て、さらにzoning(権限範囲)を拡大させ予算組に反映させる方式がよい。市民と行政の人事比率は7対3と決め、以上を「東区方式」として堺市のパワーアップに役立ててほしい。(以上)