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「古典芸能」和泉流狂言と日本人の心

日本浪漫学会副会長代理 河内裕二
2021年2月10日

日本浪漫学会は、先人が大切にしてきた日本人の心を世界と後世に伝えてゆく活動を行っている。濱野成秋会長は和泉流宗家とは三十年に及ぶ親交を続けられており、この度神田明神で開催された和泉流宗家狂言会に私も同行した。古典芸能である狂言は約六百年の歴史を持つ。伝統を守り継承してゆくとはどういうことなのか。「オンライン万葉集」の活動の一環として公演を鑑賞した。以下はそのコメントである。

公演前に二十世宗家と。左から濱野成秋会長、二十世宗家和泉元彌氏、河内裕二副会長代理。

令和3年1月31日午後2時より、東京都千代田区外神田にある神田明神内の文化交流館EDOCCO 4階「令和の間」にて、和泉流宗家EDOCCO狂言会が行われた。昨年7月から始まったこの狂言会は今回が13回目となる。
 天平2年(730)創建の神田明神は東京で最も歴史ある神社の一つで、江戸時代より江戸総鎮守として江戸の人々を守護してきた。公演当日も御社殿前には参拝者の長い列ができていた。

公演の副題には「睦月~コロナと闘う皆様に感謝を込めて」とあり、演目に新作狂言小舞「アマビエ」も加えられている。もともとは神事であった狂言をこの場所で行うことには、和泉流宗家の皆様や関係者の方々の、新型コロナウィルス感染症の一日も早い終息を願う強い思いが込められている。年明け早々に緊急事態宣言が再び発令された。社会に重苦しい空気が広がる中、狂言の「笑い」で人々の心を明るくしたいという厚情にも感動したが、何より和泉流宗家全員で力を合わせ万難を排して伝統を守り続ける姿に感銘を受けた。とくにご子息、ご息女がみな狂言の道を歩まれ、逞しくご成長されていることに心を打たれた。一切の妥協や迷いを感じさせない堂々とした謡や舞を披露された。芸は体で覚えるしかない。無形の芸術である狂言を受け継いでゆく覚悟と日々の努力は大変なものであろう。

公演ポスター

舞台芸術は劇場という生きた空間がなくては成立しない。とくに狂言は最小限の演出により観る側が想像力を働かせて舞台を作り上げる。演者によって披露される「型」には六百年の歴史があり、観衆はその重みを厳粛に受け止める。張り詰めた空気が場を包む。その空気が笑いによって一瞬にして和らぐ。空気は「肌」で感じるもので、生の舞台でなければ味わうことはできない。現在は外出自粛やテレワークで直接人と会う機会が減り、人や場の発するエネルギーや空気を身体で感じることも少ない。たいへん貴重で心豊かな時間となった。

公演終了後は場所を移して和泉流宗家の皆様と濱野会長、河内で歓談。宗家会理事長の和泉節子氏から和泉流宗家の歴史を始めご自身の死生観や宗教観など様々なお話を伺った。いつも明るくお元気な節子氏だが、今年で嫁いで54年が経ったとのこと。多くの苦難を乗り越え、強い家族の絆を築いて和泉流宗家をここまでにされた。伝統の継承は如何に大変なことか。節子氏のお人柄に触れて温かい気持ちになった。

第13回公演内容

狂言のおはなし

公演プログラム

十世三宅藤九郎氏による「狂言のおはなし」では、約六百年の伝統を持つ狂言の特徴や今回の演目の解説があった。その中で筆者はとくに松の木についての話が印象に残った。舞台の松は神様が現れる影向の松がモデルで、狂言はその松に向かって捧げられていた芸能であったので、現在でも狂言師は舞台上には神様がいらっしゃると思って演じているとのこと。これまで和泉流狂言を何度も拝見したがその演技には一度も小過どころかわずかな綻びすら感じたことがない。喜劇として滑稽な登場人物を演じながらも、常に緊張感が伴うのは、神事だった頃の精神が受け継がれているからであろう。狂言は神様とともに生きてきた日本人の心を観衆に伝えている。

狂言 福の神

福の神を二十世宗家和泉元彌氏、参詣人を史上初女性狂言師和泉淳子、三宅藤九郎の両氏。舞台は出雲大社。
 毎年暮れに出雲大社に参詣し、豆まきをして年を越す二人の男の前に福の神が現れる。富貴繁盛を祈願する参詣人に福の神は富貴になるには元手がいると言う。元手がないから来たのだと言い返す参詣人に福の神は元手とは金銀米銭のことではなく、五常の徳を守り、神を敬い、慈悲を持ち正直でいることだと諭す。話したらのどが渇いたと福の神。参詣人に神酒を催促し、日本大小の神祇と酒神である松の尾の大明神に神酒を捧げ、自らも飲む。富貴になりたければ、早起きし、慈悲を持ち、夫婦仲や人付き合いを良くせよ、さらに私のような福の神にたくさん神酒を捧げれば楽しくなることは間違いないと言って笑いながら福の神は帰ってゆく。
「笑う門には福来たる」と言うが、福の神は笑いながら現れ、笑いながら去ってゆく。役を演じた元彌氏の明るい笑い声が今も耳に残る。

狂言「福の神」を演じた三氏。
左より十世三宅藤九郎、二十世宗家和泉元彌、史上初女性狂言師和泉淳子の各氏。

狂言小舞 鮒

和泉采明、和泉慶子の両氏による連舞で地謡を和泉元彌氏が務める。
 狂言の所作の基本となるのが狂言小舞で、「鮒」では勧進聖の一行を乗せた舟の前に現れた琵琶湖の水神である鮒が舞う。
 「狂言のおはなし」で三宅藤九郎氏が説明されたが、小舞は役柄を演じないので装束は着ず、今回は正月で特別な会ということで正装である紋付、裃を着用して舞を演じる。
 美しい所作と躍動感。若い二人の息の合った連舞に鮒が飛び跳ねる光景が目に浮かんだ。

狂言小謡 景清

謡は和泉元聖、和泉元彌の両氏。
 狂言の台詞の発声の基礎となるのが狂言小謡。「景清」は平家物語の一節で、坂東武者に崇敬された神田明神とのご縁に因んで選ばれた演目。
 親子とはいえここまで一糸乱れぬものか。二人の息の合った謡は見事であった。

新作狂言小舞 アマビエ

和泉和秀氏が舞を和泉淳子氏が地謡を務める。
 新型コロナウィルス感染症の終息と疫病退散を願って作られた小舞。
 この小舞でアマビエが肥後国の海に出現したとされるのを知った。和秀氏の立派な体格を活かしたダイナミックな舞と力強い台詞にコロナも退散するはず。頼もしさを感じた。後で伺ったが、和秀氏はまだ12歳とのこと。驚いた。

和泉流宗家の皆様。中央でご挨拶するのは和泉元聖氏。左より十世三宅藤九郎、和泉采明、二十世宗家和泉元彌、和泉和秀、和泉慶子、史上初女性狂言師和泉淳子、和泉流宗家宗家会理事長和泉節子の各氏。

故郷の御心

February 8, 2021
by Seishu Hamano

 
故郷の友人を亡くし、その御心を讃へて詠める。
Dear Ikuo Yasumoto
You passed away from this weary world
Not leaving any massage to me.
It was only yesterday when I was writing a last Words note to my family and
Wished to hear your frank comments.
Calling you up by phone, but unexpectedly Heard your beloved wife reluctantly saying that he is no more in this world…
On the last day in January this year,
You vanished away to the unknown world
never coming back again.
Alas! I had no idea what to say, what to do,
Only because you were so reliable and healthy,
Un-comparable with me.
 
親愛なる安本郁夫君
貴君は吾人に何ほどの 言葉も遺さず唐突に
この浮き憂き世から去り給ひぬ。
昨日のことであった、我は遺言書を書いていて君のコメントが欲しくて電話した。と、
奥方出られ神妙に 打ち明けられしに驚きぬ
夫君は何処もはやこの世の人に非ずと。
今年になりてこの1月、最後の日に
夫君は未知の黄泉へと旅立ちて
二度と還らぬ人となりしと。
何と! 我は茫然自失、
君は実に頼もしく健康で
吾人とは比べ物にならぬほどでありたるに。
 
Dear Ikuo, we often joked
Our grave very close and even after death
Let’s meet often and enjoy karaoke after dark
Which might cause claim from neighbors.
Ikuo and I were in the same class in Tomioka Higashi Elementary School, growing up to be a farmer and I a teacher and writer, both were
Creatures benevolent to this life world.
You’re actually very benevolent and faithful.
 
親愛なる安本君、生前よく冗談
飛ばし合ひたるぞ、彼我の墓所も近隣ゆえ
墓友達ともなりし故 日暮れと共に会ひ交え
歌会なるも一興ぞ。宵ともなれば彼の双墓は
騒がしきやと近所から
クレームありても然るべき。
君とは登美丘東小学校でも同級ぞ、
長じて汝は農家にて 吾は教師で物書きに。
されど生きとし生けるもの
かけたる愛に代わりなし。
貴君はいつも誠実で思いやりに満ち溢れ。
 
Human is mortal. Even a shogun
Nobody in Edo period stay alive.
Nevertheless always expecting eternity
Never could we realize but in the end
Stay under the cold stone.
Drums in the village festival sound pity
‘Cause no pedestrians are my acquaintance
But so far as our home village is same,
Our friendship will last forever in our mutual heart
Even after our flesh decayed away.
 
人間誰しもいずれは死ぬるもの。
江戸期の人で今もって生存する者誰もなし。
将軍様とて現身の果てぬを願ひて神仏に
永遠の生をば希いつつ気づけば冷たき墓の下。
ふるさとの祭り太鼓は哀しけれ
路ゆく人のみな変はり居て
されど故郷よ奥津城よ互いの心に宿れるは
同じ思いぞ変りなし
たとえ血肉は尽きるとも。
 
Joroku, a cozy utopia, filled with mercy,
Every summer tapping drums singing Kawachi-ondo
Good memory not only to the living but also to the dead,
Mercy, mercy is the best alive forever.
Ikuo Yasumoto and I do believe
We are so happy
Born and brought up here
In this Kawachi country,
Staying forever together with our ancestors.
 
丈六こそは桃源郷。慈悲の心に満ち溢れ
夏ともなれば太鼓の音。河内音頭の
想い出は死しても変はることなしに
人は変はれど思いやる心は朽ちず果てもせず。
安本君よ、君も吾も幸せぞ 河内に生まれし
先達と 共に永劫暮しをる。  合掌

三浦短歌会 一月歌会詠草 令和三年一月三十日  濱野成秋
 
 短歌の結社としてはもう古い方に属するだろう。今年で七十四年になる三浦短歌会。神奈川県の三浦半島を城ケ島に向かったところにある。
 正月三十日、宗匠の三宅尚道氏の車で料理屋旅館「でぐち荘」に向かう。随行は日本浪漫学会の副会長代理河内裕二氏。詠草を寄せられた三浦短歌会の会員は嘉山光枝、加藤由良子、三宅尚道、桜井艶子、三宅良江、嶋田弘子、清水和子の各会員に日本浪漫学会から河内裕二と濱野成秋が加わる。
 今は昨年春先より猛威を揮うコロナ感染症の最中で集会が出来にくい。だが意を決して集まった歌人たちは意気軒高である。
 
  初日の出畑道に立ちて手を合わせ
     コロナ感染終息願ふ   光江
 
  久々に息子は帰省せりなにげなく
     吹く口笛に時は戻りぬ  由良子
 
  短歌会七十四年経過して
     三浦の短歌二集歩ませ  尚道
 
  時経れば百年なりとも親しきに
     父母兄みな逝くそを如何にせむ 成秋
  息詰めて来光の時唯待ちぬ
     去りしあの時われのみぞ知る 艶子
 
  駅ホームの点字ブロックに人立ちて
     障害者への場所と知らさる 良江
 
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
  感染者五千人超え続いても
     八時になれば朝ドラ始まる 弘子
 
  今日も又何とはなしに日は暮れて
     ふくらむお餅を眺めて待ちぬ 和子
 
  厳冬の心に咲きし寒椿
     花弁ちりばむ春待つ君に 裕二
 右の歌で特に皆が心を寄せたのは「エデンの園」というホームに住んで今年九十一歳の清水和子会員の歌。本日は足止め欠席。ホームでは与えられぬ餅を密かに焼いて頃合いになるのを待っているご本人は、ほんとうに待っているのは何? 訪れる身内? それともやり甲斐のある何か? いや業平のいう、昨日けふとは思はざりしをの…? とは誰も口には出さねど、他人ごとではないとはこのことで。
 
  その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
     ふるさとに来て咳せし男 啄木
 
 啄木はコロナウイルスで死んだわけではない。だが、肺を患い心細い足取りで飄然と故郷に姿を見せては咳をする男。ここなら死に場所にしてよいとする心情は今も昔も変わりはない。
 終わって持参せし河内裕二副会長代理の五首を披露して勉強会。
歌会の後は別室にて新年会。地魚に鮑に本場のマグロに。天下の三崎港の御膝元である。終わって海辺。対岸に富士の霊峰。いましも暮れゆく夕凪の彼方を酔眼にて望みをり。未だ脈打つことのせつなさを噛み締めて。

濱野成秋

これは会心の作だ

とにかく、英語の勉強になる本である。口語というのは、常日頃から意思疎通するのに頻繁に用いる伝達手段だから、知れば知るほど役立つ。そうは思えど、日本は不利この上ない。国土は欧米諸国から遠く離れたアジアの一角だし、外国人としてアメリカ国内に住んでいるだけで自然と身に付くはずの口語には、いつまで経っても親しめない。悲しい。切ない。コンプレックスだらけ。

僕の場合、子供の頃に父親が進駐軍をたくさん呼んでダンスパーティをしょっちゅう自宅でやった関係で口語表現が飛び交い、そいつが役立って今日の仕事に繋がる。しかし外人教師の来る教会で学んだ高校時代やステークハウスで基地の外周に住んでいるGIとのやり取り以外、アメリカ行きまで、苦労の連続だった。だからこの本は会心の作である。買って毎日バッグの中に入れ、1時間といわず、暇さえあらば声出して覚えるとよい。

使い分けが大事です

日本語抜きの英語論文などは、工夫をすればそれなりに上達するけれども、口語語法はだめ。結局ACLSという、フルブライトより難関と言われた大学教師だけのテストに筆者は食いついてトップ当選。おかげでNY州立大の客員教授に。だがそこで自分が喋っていたのは、おそろしく丁寧で上品な正調英語だった。Would やcouldなど、仮定法がざらの表現である。気取らぬ会話がランチ会話というのが普通のはずだが、やはりProfessor Hamanoと普段から呼ばれていると、窮屈だが正調ばかりの英語を使う。Wannaなんで表現など使わないように、get in touch withというような表現も避けてmake contact with などと言ってみたりで、大人社会とはそういうものなのだった。

だから日本語でいえば「お金魚がお元気で水泳してらっしゃる」というような英語を真面目くさって話していたんだろう。これが外国人というものなのだ。

英語学習法の本を幾つ書いた

僕は英語学習本で研究社から「合格ラインシリーズ」と称して、単語、熟語、英文法の3点セットを出し、単語集はミリオンセラーだった。それはNY州立大でディベートをやったり、車を売るの売らないので揉めた時の弁護士の卵との電話での猛烈な論戦の果てに、大雪のなか、ダウンタウンへ行き、和解をして大いに語り合った、そんな想い出も綯い交ぜになって出した。忘れもしない僕が州立大バッファローの大学院でポストモダンのアメリカ文学を院生に教えていた年とほぼ同時期だが、Malamud, Barthelme, Fiedler, Brautigan, Vonnegut…数え上げれはきりがないほど沢山の作家たちとインタビューしており、研究社の『英語青年』に原語で連載。中公の月刊文芸誌『海』に発表していた。自分でも恐れ入るが、これが僕の英語人生だったが、口語表現を大分使ったかというと、さほどでもない。

学習書としてのこの本

「日米口語辞典」は、辞書として使うのではなく、学習書として使いたまえ。

そのやり方を伝授しよう、すべてQ&A方式で、「声だし」でやること。それもゆっくり考えているようではダメ。0.1秒以内で答えられるまで間髪を入れず英語を言う。大声を出せ。小声でもぞもぞ言っているようではモノにならない。見出し語だけやったのではだめ。例文がたくさんあるだろ、それをまず日本語を先に読んで、英語を自分で作る、声出し式でね。このQ&A即声方式は、僕が非常勤で教えていた一橋大でも、早稲田でも、生徒たちにしっかりトレーニングしたよ。受験勉強だけして来た学生を、たった1年で通訳が出来るように仕立て上げたわけだ。そういうことなら出来るだろう。

TPOをわきまえて使おう

著者の皆さん、編集部のみなさん、ご苦労さま。自分の長くて短かった人生とこの本の完結とを一緒にしては気の毒だが、僕は敗戦後の負けじ魂をもってアメリカでは朝鮮戦争の元軍人だった男を猛烈に議論して打ち負かした。つまりそういうのに使っていた表現がいっぱいあるから、君らTPOに気を付けて使いたまえ。今夜は呑みたい気分である。(京都外大客員教授)

キルケゴール哲学反論

濱野成秋

1.「倫理」を解脱して「存在」を究明すべし

哲学者はどいつもこいつも勝手気儘な存在である。自己流の考察だけがこの世界を支配し、自己流を唯一正統な規定機関であると主張して譲らない。天候になぞらえれば彼らの主張は「どしゃ降り」である。晴天を目指して心を入れ替えよと命じても、降り続く大雨は止むことを知らない。キルケゴールの「絶望論」は特に傍若無人であり酷い。解釈上の飛躍、逸脱、暴論が乱れ錯乱している。『死に至る病』(日本語訳1949)がその典型で、彼の代表的著書ではあるが、勝手気ままに過ぎて留めようがない。かれは中心課題「絶望」を巡って、持論を縦横に展開するけれども、そのロジックには例証が偏頗であり一面の照射に終始する。それは常日頃から多少なりとも「絶望」を味わい、それを超克することに慣れた都会人なら、「絶望」の持つ多面体的特色の複雑さを会得しているから、キルケゴールの敷いた路線通りには進行せずかくも極論へと突っ走ることはしないと思われる。本論はその主旨で論考する。

人間生活において、誰しも「絶望」を幾度か経験するが、「絶望」に陥るとき、それを「罪」という善悪勘定で規定すること自体、間違っている。「希望が絶たれた時」をもって「絶望」というなれば、希望を断絶せしめた張本人は罪深いとも考えられるが、絶たれた者は「絶望」を押し付けられた被害者であるから「罪人」ではない。

また、ある、余生いくばくもない「老作家」がたった一つの希望である「息子と暮して作品を後世に遺す」ことが希望である場合、その息子が別居し、終生同居しないと断言した時、老作家は「絶望感」に覆われて余生を送るであろう。だが、その息子が後年、その科(とが)に気づいて改心し、父親の元に帰ってくれば、「絶望」はたちどころに解消し、長期にわたる過去の苦悩はもはや苦痛を消滅させている。この場合、父も息子も罪人でも咎人でもない。しょせん、道徳律の問題ではないのである。

2.多面体的ファクターを導入せぬキルケゴール

キルケゴールは聖書のようなケース・スタデイをせず、「プロディガル・サン」のような逆説も成り立つことにも斟酌しない。『死に至る病』の冒頭で、キルケゴールは「死に至る病とは絶望である」と規定する。この着想というか、テーゼは異論も含蓄しているとはいえ、言い得て妙な定義ではある。彼は言う、「絶望」は自己における病であり、それには3つの場合がある。一つは「自己」を自覚していない場合。二つ目は「絶望」して自分自身であろうとしない場合。三つ目は自分自身であるとする場合。この3つである。この段階では、「絶望」は善悪や倫理問題とは異なる「認識論」であるから頷ける。また「可能性」や「現実性」が絶たれる状態を「絶望」というとする規定も、ある場合には当を得ているであろう。

だが彼は「絶望」に、「必然性」と「有限性」を持ち込む。「可能性の絶望は有限性の欠乏」にあり、「必然性の欠乏は可能性の欠如にある」とするロジックも一面の真理である。但し「可能性」も「必然性」も、possibility とnecessity だけでなく、probabilityも介在することを考慮に入れなければならない。さもないとロジックとしては充足されない。

他方、相対性理論から言えば、「是」は時として「非」になり、「非」も時として「是」になる。たとえば茶事の準備を淡々と進め、開始5分前になったとき、はたと茶花を活けるのを失念したことに気づいた亭主は長年世話になった賓客に最大限の無礼を働いたことに気づいて「絶望」の境地に陥る。だが開始の直前に一番弟子が茶花を持参してくれたら、直後に到着した賓客は良き弟子をもったと誉めそやし、却って茶事が和んだとなれば、こうした不可抗力と珍事が急場を拭いとるというハプニングで「絶望」は解消される。長年努力を続けた自分の茶道人生も保証され、「絶望」という「苦悩」に代えて「幸せ」が支配する。この種の不条理はしばしば人為を転生させるファクターなる。キルケゴールはこの種の配慮には欠落する。これらは夏目漱石やアインシュタインがすでに言及したことであるが、状況がつねに多面体として存在する中で、キルケゴールの絶望論には外界の転変を無視した論考が目立つ。

3.キルケゴールは望まずして「生」を受けた

キルケゴールは自己の誕生につき、「必然性なき誕生」という、「因果律」を伴わない「出生」という「現存在」を問題にする。父と雇女との間の、社会的には不義の子としてこの世に出現したのである。筆者自身はしかし自分にもあった「因果律」の欠落を問題にしない。

歴史上の大人物で、望まれずしてこの世に生誕した人物は多い。キリストがそうであり、アメリカ独立の父といわれるベンジャミン・フランクリンも多産系の父母の家族として16人兄弟の13番目として生まれている。キリストは言うまでもなく、フランクリンもそれにめげず、若い頃からPoor Richard’s Almanac(1760)などを出版するなどして、彼自身の存在を植民地時代の北米在住の農民たちに染み渡らせている。人間の「無」から「有」への出現現象は家柄とは無関係に「重い」と筆者は受け止める。キルケゴールは身体虚弱という二重苦を受けたと言われるが、その不運が却って読者意識に彼の存在を刻み込むにプラスしたと看做し得る。

キルケゴールが生きた社会の政治状況はどうだったか。彼の存在を脅かすものであったか。これを考えるに、筆者は自分自身の生存状況に照らして考察したい。私もキルケゴールのような、不可解で臨まぬ条件下で生を受けた。彼同様に私も身体虚弱で幼い頃から「死」と共存していたし、我が国はまた激烈な戦時下にあり、いつ暗天で炸裂する業火に見舞われても当然とする幼児期であった。防空壕の湿った泥土が放つ異臭が真夜中充満していると、それが常態化してしまい、異臭なくしては熟睡できぬ生物となり果てた。闇夜に烈火を掻い潜り、死体もろとも爆風でどぶ川にふきとばされ、死体を視ることが常態化すると、アルベール・カミュが作品『異邦人』で描いた主人公ムルソーのように人間感覚さえも焼失せしめる。いやムルソー以上に虚脱化して生き抜くのが幼年時代であった。不条理が当たり前だった。私だけではない。20世紀という戦火の日々をアプリオリに甘受せねばならない状況下では街行く人はおしなべて、そんな「生」が常道であった。

4.「絶望」は罪である、の解釈をめぐって

筆者はこの不可解性の雑居状態から実存志向を好み、すなわち快楽主義や功利主義を排し、モラリストやニヒリストにもならず、少年期には生産的な努力を続けた。つまり従前から存する価値観には逆らわず理解を示しつつもそれに帰依もせず入信もせずして、「実存哲学」に進んで「生き方整理」をせっせと果たして大学という学府に進んだ。入学するやサルトルやカミュの生活が始まり、そこにキルケゴールが介在して、3者と同居してヘミングウエイやマルロー、サンテクジュペリ、フロイトを周辺に置いて暮らした。

『死に至る病』の第2部において、キルケゴールは「自己の罪について絶望する罪」という項目を容れているが、それを考察すれば、彼の言う「罪」の概念がよく解る。「自己の罪についての絶望」は自己の背後の橋が切り落とされていると知っている。だから自分自身だけにこだわり、頑なに自分自身だけに閉じこもろうとする。それゆえに、罪だとする。もはや「善」を欲することを不可能にしている。その結果というべきか、「罪の赦しに絶望する罪」を背負うとする。

ここら辺りの解釈は俗にいう「ひきこもり現象」の一典型でもあろう。精神病患者の形質はひとえにこのような「固形性」にあるが、筆者は「絶望」と多次元の状況との関係性を利用して「絶望回避」は可能であるとする。一元論であれかこれかと悩まねばならないわけではないのだから。(了)