日本浪漫歌壇 冬 如月 令和八年二月二十一日
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
イタリアで「ミラノ‘コルティナオリンピック」が開催されている。日本選手は冬季オリンピックでは最多のメダルを獲得する活躍をしている。最近のオリンピックには地球温暖化の影響が現れていて、夏季オリンピックでは猛暑、冬季オリンピックでは雪不足が問題となっている。前回の百パーセント人工雪を使用した北京冬季オリンピックよりは少ないが、今回も一部で人工雪が使われている。人工雪を作るためにエネルギーを消費すれば、温室効果ガスを排出することになり悪循環となる。カナダの大学の研究チームによれば、このままではこれまでに冬季オリンピックを開催した都市の中で今世紀末に開催できるのは札幌だけになると予測されている。今後オリンピックはどうなっていくのだろうか。
歌会は二月二十一日午前一時半より初声市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、羽床員子、安田喜子の五氏と日本浪漫学会の濱野成秋会長と河内裕二。さらに欠席の嶋田弘子、清水和子、ジュン葉山の三氏も詠草を寄せられた。
今日もリス走りぬけてく窓際に
お忘れ物の樫の実一つ 光枝
作者は嘉山光枝さん。心温まる歌である。リスも人によっては作物を食べる厄介者かもしれないが、作者は温かい目で見ている。現れるリスは人に慣れていて、毎日のように家にやって来て窓際を走っていくが、たまたま窓を開けるとそこに樫の実が一つ立っていた。日常のささやかな出来事を詠んだ歌であるが、リスが走り抜ける動的な上句と残された樫の実が一つある静的な下句の対比が絶妙である。野生のリスに対して「お忘れ物」という丁寧語を使うことでユーモアや愛情をにじませ、この歌に親しみと詩的な奥行きを与えている。
病にて家に戻りし息子が朝に
マイ針箱でほころびを縫う 由良子
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
イタリアで「ミラノ‘コルティナオリンピック」が開催されている。日本選手は冬季オリンピックでは最多のメダルを獲得する活躍をしている。最近のオリンピックには地球温暖化の影響が現れていて、夏季オリンピックでは猛暑、冬季オリンピックでは雪不足が問題となっている。前回の百パーセント人工雪を使用した北京冬季オリンピックよりは少ないが、今回も一部で人工雪が使われている。人工雪を作るためにエネルギーを消費すれば、温室効果ガスを排出することになり悪循環となる。カナダの大学の研究チームによれば、このままではこれまでに冬季オリンピックを開催した都市の中で今世紀末に開催できるのは札幌だけになると予測されている。今後オリンピックはどうなっていくのだろうか。
歌会は二月二十一日午前一時半より初声市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、羽床員子、安田喜子の五氏と日本浪漫学会の濱野成秋会長と河内裕二。さらに欠席の嶋田弘子、清水和子、ジュン葉山の三氏も詠草を寄せられた。
今日もリス走りぬけてく窓際に
お忘れ物の樫の実一つ 光枝
作者は嘉山光枝さん。心温まる歌である。リスも人によっては作物を食べる厄介者かもしれないが、作者は温かい目で見ている。現れるリスは人に慣れていて、毎日のように家にやって来て窓際を走っていくが、たまたま窓を開けるとそこに樫の実が一つ立っていた。日常のささやかな出来事を詠んだ歌であるが、リスが走り抜ける動的な上句と残された樫の実が一つある静的な下句の対比が絶妙である。野生のリスに対して「お忘れ物」という丁寧語を使うことでユーモアや愛情をにじませ、この歌に親しみと詩的な奥行きを与えている。
病にて家に戻りし息子が朝に
マイ針箱でほころびを縫う 由良子
作者は加藤由良子さん。病気などの理由で家に戻ってきた息子とのひとときを詠んだ歌である。ある朝の息子の行動が描かれているが、その描写には深い意味が込められている。上句が文語的であるのに対し、下句は「マイ針箱」のような現代的で口語的な表現を用いており両者は対照をなしている。世代的に見れば、上句は母親としての立場にあり、下句はそこから息子の方へ視点が移っているとも読める。作者の世代では、男性が縫い物をすることは一般的ではなかったが、息子は自らの裁縫道具を持ち、自分でほころびを繕っている。その様子に対して、驚きとともにどこか不憫さを感じている作者の心情をこの歌から読み取ることもできる。しかし、それだけでは、この歌の多層的な意味を十分に汲み取ったことにはならない。「ほころびを縫う」とは衣服を修繕していることだけではなく、病気などにより生じた人生の「ほころび」を自らの手で修繕していることを象徴的に表しているだろう。その証拠にこれが行われる時間は、始まりを象徴する「朝」なのである。息子の回復を願い、静かに見守る作者の情愛が込められた一首である。
春の陽をいちまいいちまい包み入れ
畑のキャベツまるくなりけり 喜子
作者は安田喜子さん。読んだ瞬間に春の畑の光景が目の前に広がる歌である。キャベツの成長過程を、春の光を一枚一枚包み込むものとして捉えた発想には感嘆させられる。普通は「光を浴びる」といった植物にとって受動的な表現が用いられることが多いが、光を自らが包み入れるという能動的表現により、意思を持った主体として描いている点は見事である。しかも「いちまいいちまい」と平仮名で表記することで、キャベツのふんわりとして柔らかい質感が繊細に伝わってくる。さらに結句の「まるくなりけり」も詠嘆で終わることで、気がつけばこんなに丸くなっていたという発見や感動が込められ、読者にもその驚きと喜びがしみじみと伝わってくる。
お麩のみの会席料理に満腹す
くるま麩、巣ごもり、唐揚げ、治部煮 員子
春の陽をいちまいいちまい包み入れ
畑のキャベツまるくなりけり 喜子
作者は安田喜子さん。読んだ瞬間に春の畑の光景が目の前に広がる歌である。キャベツの成長過程を、春の光を一枚一枚包み込むものとして捉えた発想には感嘆させられる。普通は「光を浴びる」といった植物にとって受動的な表現が用いられることが多いが、光を自らが包み入れるという能動的表現により、意思を持った主体として描いている点は見事である。しかも「いちまいいちまい」と平仮名で表記することで、キャベツのふんわりとして柔らかい質感が繊細に伝わってくる。さらに結句の「まるくなりけり」も詠嘆で終わることで、気がつけばこんなに丸くなっていたという発見や感動が込められ、読者にもその驚きと喜びがしみじみと伝わってくる。
お麩のみの会席料理に満腹す
くるま麩、巣ごもり、唐揚げ、治部煮 員子
作者は羽床員子さん。思わす笑みがこぼれるようなユーモアに満ちた一首。作者が金沢を旅行したときに食べた料理について詠んだとのこと。下句で四つの料理名が羅列される大胆な構造を持っているのが特徴で、読者もその場にいてお品書きを読んでいるような気にさせられる。金沢の代表的郷土料理の治部煮が最後に置かれていることからも四つの順番も計算されている。どうしても下句に目がいってしまうが、上句の「お麩のみの会席料理」という着眼点こそこの歌の核であり、豪華で多彩なイメージの会席料理が、脇役食材と見なされる麩のみで構成されているという意外性が、独自の面白さを与え、この歌の魅力を際立たせている。
冬の夕明かり灯してママを待つ
吾子を母にしてくれた君居り 弘子
嶋田弘子さんの歌。吾子は作者の娘、君は孫である。三世代にわたる時間と作者の愛情が息づいている歌である。この歌の核心は「吾子を母にしてくれた」であろう。作者にとって娘はいつまでもわが子である。しかし孫という存在が生まれたことで、わが子は作者と同じく「母」という新しい顔を持つことになった。目の前の孫を見て、それに気づいたときの感動が静かに語られる。「してくれた」という言い方に孫への感謝の気持ちが表れている。家族という存在の意味を改めて考えさせる一首である。
申告をすませて帰る海の道
令和七年の夕日が落ちる 和子
作者は清水和子さん。確定申告をしている人であればこの歌に詠まれた作者の気持ちに共感できるだろう。申告を済ませると肩の荷が下りたような解放感が生まれる。その解放感が、「海の道」という海辺の開けた風景や落ちる夕日が「令和七年」であることで表現されている。作者の心の中では申告が終わるまで、令和七年は終わらなかったのだろう。申告を済ませてようやく終わるのだが、夕日が「沈む」ではなく「落ちる」と表現されていることから、それは瞬時に終わるのである。確定申告というおよそ短歌の題材になりにくい内容を見事に短歌として結実させている。
冬の夕明かり灯してママを待つ
吾子を母にしてくれた君居り 弘子
嶋田弘子さんの歌。吾子は作者の娘、君は孫である。三世代にわたる時間と作者の愛情が息づいている歌である。この歌の核心は「吾子を母にしてくれた」であろう。作者にとって娘はいつまでもわが子である。しかし孫という存在が生まれたことで、わが子は作者と同じく「母」という新しい顔を持つことになった。目の前の孫を見て、それに気づいたときの感動が静かに語られる。「してくれた」という言い方に孫への感謝の気持ちが表れている。家族という存在の意味を改めて考えさせる一首である。
申告をすませて帰る海の道
令和七年の夕日が落ちる 和子
作者は清水和子さん。確定申告をしている人であればこの歌に詠まれた作者の気持ちに共感できるだろう。申告を済ませると肩の荷が下りたような解放感が生まれる。その解放感が、「海の道」という海辺の開けた風景や落ちる夕日が「令和七年」であることで表現されている。作者の心の中では申告が終わるまで、令和七年は終わらなかったのだろう。申告を済ませてようやく終わるのだが、夕日が「沈む」ではなく「落ちる」と表現されていることから、それは瞬時に終わるのである。確定申告というおよそ短歌の題材になりにくい内容を見事に短歌として結実させている。
国会に提言者要るこの国に
五輪の夢も空しからずや 成秋
濱野成秋会長の歌。政治への問いとオリンピックという夢舞台を並べ、現在の日本の政治の在り方を問い直している。党利党略を超えて国を良くしようとする政治家がいない現状の空しさを、オリンピックで懸命に戦う選手たちの姿と対比させることで、いっそう際立たせている。政治がしっかりしてこそオリンピックの夢も意味を持つというメッセージは重みを帯びて読者の心に響いてくる。
散りぬとも花また匂ふ春の世に
あらたな色がまたかさなりぬ 裕二
筆者の作。二月になると、梅をはじめさまざまな花が咲き始める。ある花が散っても、また別の花が咲く。物理的には、散った花は消え、新たに咲いた花に置き換わっていくはずだが、筆者には、散った花もなおそこに何かをとどめているように感じられ、新たに咲いた花はそれに取って代わるのではなく、むしろ重なり合い、彩りをいっそう豊かにしていくかのように思われる。花だけでなく人の世も同じではないか。
老い知らず二度の手術も乗り越えた
生きるお手本卒寿の父は 潤
作者はジュン葉山さん。父親への敬愛を飾らない言葉でストレートに詠んだ一首。卒寿、すなわち九十歳の父親を「老い知らず」と形容するのは誇張ではなく、二度の手術も乗り越えたその強さが、作者の目には実際に衰えを知らぬ驚嘆すべき姿として映っているのだろう。その父親を「偉大」や「立派」といったありきたりな言葉ではなく「生きるお手本」とする言葉のセンスは、作者の非凡な詩的表現力を示している。この父親を持った作者の誇りや感謝の気持ちが伝わってくる温かく清々しい歌である。
五輪の夢も空しからずや 成秋
濱野成秋会長の歌。政治への問いとオリンピックという夢舞台を並べ、現在の日本の政治の在り方を問い直している。党利党略を超えて国を良くしようとする政治家がいない現状の空しさを、オリンピックで懸命に戦う選手たちの姿と対比させることで、いっそう際立たせている。政治がしっかりしてこそオリンピックの夢も意味を持つというメッセージは重みを帯びて読者の心に響いてくる。
散りぬとも花また匂ふ春の世に
あらたな色がまたかさなりぬ 裕二
筆者の作。二月になると、梅をはじめさまざまな花が咲き始める。ある花が散っても、また別の花が咲く。物理的には、散った花は消え、新たに咲いた花に置き換わっていくはずだが、筆者には、散った花もなおそこに何かをとどめているように感じられ、新たに咲いた花はそれに取って代わるのではなく、むしろ重なり合い、彩りをいっそう豊かにしていくかのように思われる。花だけでなく人の世も同じではないか。
老い知らず二度の手術も乗り越えた
生きるお手本卒寿の父は 潤
作者はジュン葉山さん。父親への敬愛を飾らない言葉でストレートに詠んだ一首。卒寿、すなわち九十歳の父親を「老い知らず」と形容するのは誇張ではなく、二度の手術も乗り越えたその強さが、作者の目には実際に衰えを知らぬ驚嘆すべき姿として映っているのだろう。その父親を「偉大」や「立派」といったありきたりな言葉ではなく「生きるお手本」とする言葉のセンスは、作者の非凡な詩的表現力を示している。この父親を持った作者の誇りや感謝の気持ちが伝わってくる温かく清々しい歌である。
二階にて一人眠れば家猫は
階下に来たりて朝を告げをり 尚道
作者は三宅尚道さん。作者と飼い猫の関係を示す日常を描いた歌である。とくに大きな出来事が起こるわけでもなく、おそらくは昨日も今日も明日もくり返されるであろうことが描かれているが、口語ではなく「来たりて」や「告げをり」といった文語で書かれることで、どこか日常を超えた朝の儀式のような趣を帯びて感じられる。「朝を告げをり」とは作者によれば、実際には猫がえさを求める行動にすぎないとのことだが、見方を変えれば、日常にささやかな意味を与える存在として捉えることもできるだろう。
今回の歌会で強く印象に残った歌は、羽床さんの会席料理の歌だった。ときどき破調の歌を見ることもあるが、料理名を並べているのは初めてで、筆者には新鮮だった。このようなインパクトのある表現ができるのなら、これもありだと思った。残念ながら筆者はこれらの料理を知らないが、知っている人であれば、具体的な料理名から視覚や味覚までも喚起されるであろう。短歌としてのまとまりを失わないような工夫をすれば、定型にとらわれすぎなくてもよく、表現の幅はさらに広がっていくのではないかと感じた。
階下に来たりて朝を告げをり 尚道
作者は三宅尚道さん。作者と飼い猫の関係を示す日常を描いた歌である。とくに大きな出来事が起こるわけでもなく、おそらくは昨日も今日も明日もくり返されるであろうことが描かれているが、口語ではなく「来たりて」や「告げをり」といった文語で書かれることで、どこか日常を超えた朝の儀式のような趣を帯びて感じられる。「朝を告げをり」とは作者によれば、実際には猫がえさを求める行動にすぎないとのことだが、見方を変えれば、日常にささやかな意味を与える存在として捉えることもできるだろう。
今回の歌会で強く印象に残った歌は、羽床さんの会席料理の歌だった。ときどき破調の歌を見ることもあるが、料理名を並べているのは初めてで、筆者には新鮮だった。このようなインパクトのある表現ができるのなら、これもありだと思った。残念ながら筆者はこれらの料理を知らないが、知っている人であれば、具体的な料理名から視覚や味覚までも喚起されるであろう。短歌としてのまとまりを失わないような工夫をすれば、定型にとらわれすぎなくてもよく、表現の幅はさらに広がっていくのではないかと感じた。
