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日本浪漫歌壇 秋 霜月 令和四年十一月十九日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 ロシアによるウクライナ侵攻で始まった戦争は、およそ九か月が経った現在も終わる気配がない。数日前にはついに隣国ポーランドの村にミサイルが着弾して死者が出た。NATO加盟国への攻撃と見なされれば、集団的自衛権が発動され大変な事態となり得るが、結局、ウクライナ軍がロシアのミサイルを迎撃したものと判断されて事なきを得た。このような緊張状態がいつまで続くのだろうか。一日も早く終結してほしい。
 歌会は十一月十九日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の八氏と河内裕二。
 
  ではなく孫よりたまに電話くる
     用はないけど「安否確認」 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。この歌に詠まれたように、地震や雷などがあると娘さんではなくお孫さんが心配して電話を掛けてくるとのことで、祖母を気にかけているお孫さんの優しさが伝わってくる。離れて暮らしているからこそ、年齢が離れているからこそ、心の距離は近くなるのかもしれない。心温まる歌である。
 
  まなかいににじ色号より見る生家
     幼い頃の私が居そう 由良子
 
 加藤由良子さんの歌。「みさき白秋まつり」の一環として先月、北原白秋ゆかりの地を三崎港から船で巡る「港から巡る白秋文學コース」が開催され、加藤さんも参加された。加藤さんの生家は海沿いにあり、毎日海を見て暮らしていたが、海から生家を見るのは初めてで、懐かしい家の玄関が見えた時には、幼い日の自分が出てくるような錯覚に陥ったとのこと。思い出の詰まったその家は、もはや幼い頃の自分の一部なのだろう。誰にとっても生まれ育った場所は特別である。この歌の「にじ色号」という語をかりに船名だと思わず、海から生家を見ていると解釈しなかったとしても、読者がそれぞれの生家を思い浮かべたときに、この歌には命が宿る。
  二つ三つとヨット数える日曜日
     老いの心も何か弾みて 和子
 
 作者は清水和子さん。お住まいから見える海には、日曜日に休日を楽しんでいる人たちのヨットが行き交う。清水さんはもうお仕事もされておらず、日曜日も他の日と変わらないが、ヨットを見ると気持ちが弾んでくるそうで、コロナ禍でずっとヨットの数が少なかったが、ここに来て制限が少し緩和され、数が増えてきて嬉しく思っている。「一艘二艘」や「一艇二艇」ではなく「二つ三つ」と数えていることが、束の間であれコロナの緊張感から解放されてリラックスしている様子を表している。穏やかな一日になりそうな歌である。
 
  父母ちちははよ千代もと祈る心もて
     未だ帰らぬ吾身責め病む 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。大学入学で上京し帰郷せずに現在に至るご自身のお気持ちを詠まれた歌である。たとえ故郷を離れて暮らした年月の方が長くなろうとも、未だ心はどこか故郷にある。両親がそこにおられればなおさらで、再び一緒に暮らせたらどんなによいか。それが叶わないなら、いつまでも生きていてほしい。同じ思いを詠んだ歌は『古今和歌集』と『伊勢物語』の「さらぬ別れ」にもある。
 
  世の中にさらぬ別れのなくもがな
     千代もといのる人の子のため 業平
 
  じいさまの鼻歌流るる施術室
     我目を閉じて共に歌わん 弘子
 嶋田弘子さんの歌。ぎっくり腰をされて接骨院に通われたときに実際に体験されたことを詠まれた。その接骨院では施術中に患者さんの好みの音楽を流してくれる。ある年輩の男性が来られると「赤城の子守唄」のような古い歌がいつもかけられる。カーテンで仕切られていてその姿は見えないが、鼻歌が聞こえてくる。嶋田さんも流れてくる歌を歌うことができるのは、彼女のお父様が昔よく歌っていて覚えてしまったからである。カーテンの向こうの男性とお父様の姿が重なる。男性は父と同年代なのだろう。どこにお住まいで、どのような毎日を過ごされているのかと想像されたとのこと。
 歌が人の心をつなぐことを示した作品で、「じいさまの鼻歌」という言葉使いが秀逸である。この一言が作品の味わいを決定づけている。
 
  武士もののふの聖地となりし衣の城
     勝鬨の声空に響かむ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。「衣の城」とは衣笠城のこと。実際には戦いに敗れて落城し勝鬨はあがらなかったが、一族を逃がしてひとり城に残り討たれた当主義明の心の中では、きっと勝鬨の声が響いていたに違いない。あるいは三浦の魂の宿る衣笠城址に立てば、岩間さんには勝鬨の声が聞こえてくるのだろうか。いずれにしても衣笠城と『吾妻鏡』で伝えられるような義明の最期は、三浦一族にとっては永遠の誇りである。
 どこか幻想的な雰囲気を持ち、歴史のロマンを伝える歌であり、使われている言葉のバランスは、優れた彫刻のように美しい。
 
  一分間の壁立ち三年継続し
     狭窄症の再発の無し 員子
 
 作者は羽床員子さん。狭窄症で二か月ほど入院された時に、リハビリのつもりで壁立ちをやり始め、病気が治った現在も続けられている。頭の体操になるかもと思われて、最近では一分間を数えるのに「ワン、ツー」と英語を使われているそうである。健康第一。健康を維持するには日々の努力が必要なことは誰もがわかっているが、実際にはなかなかできない。「再発の無し」という自信のこもった結句に、読者は自分も何かせねばと思うだろう。
  あだし世によせる嘆きは絶えねども
     堪えて待ちたし夜が明けるのを 裕二
 
 筆者の作。少し前に悲しい事故があった。ようやく世界的にコロナ感染防止のための制限が少し緩和され始め迎えたハロウィーンの日に、韓国の繁華街で密集した若者が転倒して圧死する事故が起こった。犠牲者は百五十六人。ただハロウィーンを楽しもうと街を訪れただけなのに、将来のある若者が一度にこれほど亡くなったのを見ると、なんとはかない世なのだろうと思ってしまう。それでも希望を捨てずに生きてゆくしかない。「世」と「夜」、「絶え」と「堪え」を掛詞にすることで作品に和歌の雰囲気を出した。
  
  暑き日々終はりていきなり真冬なり
     今年の秋刀魚まだ食べてない
 
 作者は三宅尚道さん。ユーモアのある歌である。まだ食べていない理由がどうしてなのか気になってしまう。最近秋刀魚はあまり取れないようだが、上句にあるような気候変動が影響しているのだろうか。安くて美味しい庶民の魚というのはもう過去のことになってしまったのか。秋といえば秋刀魚。もし「秋刀魚」ではなくて「松茸」だったら、この歌も親しみがなくなってしまう。
 
 歌会を終えて、三浦市民ホールに移動する。三浦市文化祭の催しの一つである「三浦市文化展」を見学する。私たちの作品も含めた短歌を始め、俳句、書道、絵画、写真など多くの作品が展示されていた。どの作品からも作者の思いが強く伝わってくるのは、それぞれが真剣に作品と向き合った証拠だろう。中には完成度の高さに驚嘆するものもあった。良い刺激を受け、短いながらも充実した時間となった。

河内裕二

日本浪漫学会主筆

 

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日本浪漫歌壇 秋 神無月 令和四年十月十五日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 これまで全く気にしたことがなく、十月の祝日といえば「体育の日」だと思っていたら、いつの間にか「スポーツの日」になっていた。驚いて十一月三日をカレンダーで見ると「文化の日」はそのままで、「カルチャーの日」にはなっていなくてほっとした。そもそも祝日が英語の名称というのはどうなのだろう。調べてみると、二〇二三年から「国民体育大会」は「国民スポーツ大会」に名称が変更され、略称も「国スポ」になる。明らかに「体育」という言葉が避けられている。時代錯誤ということなのだろうか。今後この言葉が使われるのはおそらく学校においてだけである。
 歌会は十月十五日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の八氏と河内裕二。
 
  お互いに檄を飛ばして電話切る
     残り少なし貴重な時を 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。先日友人から電話があった。話題はいつものように体調のことなり、最後は「頑張ろうね」と言って電話を切る。下句は心情がストレートに表現されている。切った瞬間に再び自分の日常に戻る電話という設定もこの心情を表すのには効果的である。「貴重な時」という言葉は、状況は異なっても万人に当てはまる。この言葉を使うことで誰もが共感できる歌にしている。
 
  塩強め娘の漬けし梅干しを
     めばなつかし昔の味す 光枝
 嘉山光枝さんの作品。娘さんが毎年梅干しを漬けていて、その塩味の強い梅干しを食べると、嘉山さんのお母様の漬けた同じく塩味の強かった梅干しを思い出されるとのこと。嘉山さんにとっては、市販の砂糖や蜂蜜の加わった甘いタイプではなく、今でも昔ながらの塩強めなのが梅干しなのである。一粒の梅干しに、家族の歴史や思い出を詠み込まれた。
 
  大漁か群れ飛ぶとんび窓辺まで
     大きな影が食卓を舞う 和子
 
 作者は清水和子さん。海の近くにお住まいの清水さんが実際に体験されたことを詠まれた。映像作品のような動きのある見事な歌である。かなり特殊な光景にもかかわらず、あたかも自分が目の前で見たような気になる。細かい説明は不要である。
 
  古戦場赤く染めたる夕焼けに
     負けじと咲けり曼珠沙華の花 裕二
 
 筆者の作。筆者の住んでいる地域は、鎌倉時代後期(一三三三年)に鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍が戦った古戦場である。この戦いで勝利した義貞は鎌倉に軍を進め、やがて幕府を倒す。駅前には新田義貞の像があってその顔は鎌倉の方角を向いている。普段古戦場なのを意識して生活している人はいないだろうが、先日筆者は曼珠沙華があちこちで咲き、さらに辺りが夕日で赤く染まるのを見た際に、赤色が血を連想させ、ここが古戦場であったことを強く意識した。どちらも見事な赤で、まるで色彩を争っているかのような気がしたのである。
 
  「デストロイ」と名付けし孫の作品は
     ミサイル握る巨大な拳 員子
 作者は羽床員子さん。お孫さんが作った像が県から賞を受けた。驚いたことにお孫さんは女性である。実際の作品の写真を見せていただくと、なるほど賞に輝くにふさわしい立派な芸術作品である。英語の「デストロイ」をタイトルに付けるところや作品モチーフから作者はある程度の年齢だと想像できる。高校生とのことで、作品を見れば納得である。
 
  腸削る手術の日取り傍らに
     青い蜜柑をむさぼり喰らふ 成秋
 
 濱野成秋会長の作。手術は百パーセント成功するとは限らないし、術後の経過もどうなるのかわからない。手術を受けるかと思うと、どこかやけになるような気持ちになり、食べるにはまだ早い青い蜜柑をむさぼり喰らう。そのように読むだけではこの歌の本質を掴んではいないだろう。人間にとって食べることはまさに生きることである。むさぼり喰らうのは、生に執着するからであり、絶対に生きるという強い表明である。歌を詠まれた時には、手術を受けるつもりだったが、その後お気持ちが変わられたとのこと。
 
  鴨遊ぶ川面に映る赤柿や
     穏やかなりし歳月語らむ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。秋の情景を描いた日本画のような歌であるが、作者によれば、実際に日本画を描くように秋のものを寄せて詠まれたとのことである。つまり本作は自然を描写した写実的な歌ではなく象徴的な歌である。鴨が遊ぶのも赤柿もすべて下句の内容の象徴になっている。とくに赤柿は単に秋を示しているのではない。柿といって思い出す言葉は、「桃栗三年柿八年」であり、柿はとくに実を付けるまでに長い年月がかかる。柿がなっているのはすなわち、穏やかな歳月が長く続いていることを表す。作者はウクライナの戦争に言及した。そのことも合わせて、本作は秋の情景を詠んだのではなく、争いのない穏やかな世界を願う作者の気持ちを詠んだものだと筆者は解釈した。
  家猫の二匹が眠る縁側に
     秋の日を浴びゴロゴロゴロ ゴ 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。穏やかな歌である。何気ない言葉が続いて、結句でインパクトのある言葉が登場。ゴロゴロと寝ている様子を表す言葉かと思いきや、それだけではなく猫が喉を鳴らす音も同時に表現しているとのことで、さらに最後が「ゴロ」ではなく「ゴ」となっているのは、途中で猫が寝てしまって最後まで音を鳴らさなかったのを表している。何とも手が込んでいる。一匹だと寂しさを感じてしまうかもしれないが、二匹いることで和やかな雰囲気を出している。このあたりの工夫も見事である。
  
  足柄は親子三人みたりを包みをり
     過ぎゆく四十年よそとせ祝福ありや 弘子
 
 作者は嶋田弘子さん。「親子三人」とは嶋田さんご夫婦と長女のことである。長女が生まれた時に親子三人で旅行した。その後は他にお子さんが生まれて、この三人だけで行くことはなくなったが、数年前に四十年ぶりにまた三人で旅行ができた。懐かしくとても幸せな気持ちになった。それで、今年もまた三人で同じ場所に行った。楽しいだろうと思って行ったが、娘さんが悩みを抱えていて楽しむ余裕がなく、そのような状況だったので、嶋田さんは結句に「祝福ありや」とご自身の気持ちを込められた。「三人」「四十年」と使う二つの数字を「三」「四」と並べることで自然なリズムを出しているのは流石である。
 
 今回の歌会で印象に残った一つは、三宅さんの「オノマトペ」を使った表現である。日本語にはオノマトペが多い気がするが、効果的に使えば、説明調にならないイメージ豊かな詩的表現となる。しかし言葉を選ぶのが難しい。ありふれたものだったり、合っていなければ逆効果となる。「ゴロゴロ」はありふれている。そこから独自の表現を作り出された三宅さんの挑戦には脱帽である。
三崎港にて「三崎白秋会」に招かれて詠む
             日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
 日ノ本の世は安倍首相の暗殺事件とそれに続く国葬。世界はウクライナ戦争にて日本も危うし。されど三浦半島の突端三崎港では歌人北原白秋を忍んで地元白秋会の招きで船遊びにくわわりたる。これぞ巣寂しき人生の厚恩なり。
 現地の海は波穏やかにして、船上、三浦短歌会会長三宅尚道氏の見事な白秋披露に白秋の浪漫はよみがえり、帰りの道々歌作自ずと興る。
 
  三崎にて六首を詠ず
 
 三崎港に到着。私の車にて。運転は河内裕二副会長、同乗者は三浦氏淵源の岩間満美子と私。到着は夕暮れちかくにしてまずこれを詠める。
 
  はぐれ来て暮れ行く三崎の主はいずこ
     憂えと伴に今帰り来よ
 
 折しも桟橋から船が出る。
 
  陽の入りを船に乗りゐて待つほどに
     三崎の波は穏やかに満つ
 
 船上は歌人ほか、白秋作詞「城ヶ島の雨」を歌ってくれる地元コーラスグループの先生生徒のみなさまで賑わう。
  白秋の三崎の浜は賑わひて
     柳川語るは吾一人かも
 
 三宅翁の銘講釈続き、時の過ぎるも忘れて帰航すれば、早乙女の浴衣姿。
 
  波止場よりくるめき躍る白波の
     浴衣乙女に憂ひ目語らむ
 
 会うは別れの始めとか。ご準備御礼して車上の人となる。
 
  海今朝も揺れるしらなみ狂おしく
     薄暮となりて三崎を離る
 
 思えば今日も幻か。欧州戦争はいかにむごきか。やがて我が国もまた乱れるか。
 懊悩絶えることなく、車を走らせる。
 
  三崎からの潮の遠鳴り後にして
     暗がりの中 車走らす
 
 以上六首は即興短歌にて、車中では河内、岩間ご両人も秀逸の即興詩人にて。「オンライン万葉集」への掲載は船に同乗された諸氏もまた作歌されんを期待して。 
   2022.10.3 佳き日に感謝して
三崎にて白秋を偲びて詠みし歌
             日本浪漫学会副会長 河内裕二
 
 コロナ禍で中止を余儀なくされていた白秋を偲ぶ催しが、令和四年十月二日に十分な感染予防対策を行った上で数年ぶりに開催された。白秋の作品の舞台となった場所を詳しい解説とともに船で巡る貴重な体験ができた。主催された三崎白秋会および関係者の皆様に心より感謝申し上げたい。
 
  三崎にて詠みし六首
 
 城ヶ島大橋のたもとの浜に白秋の歌碑が立つ。三宅尚道先生のご説明では、建立は昭和二四年で、今の場所に移ったのが昭和三五年。碑に刻まれた「城ヶ島の雨」の一節は白秋の直筆である。
 船の帆のような形をした歌碑を海から眺めて詠む。
 
  白秋の詩魂息づく港町
     海守り居る帆のごとき詩碑
 
 船で三崎の湾を巡る。海は穏やか。船上には穏やかな表情をした白秋の写真もある。古代中国の思想では人生を青春、朱夏、白秋、玄冬の四つの季節に分けた。秋の日に人生も思いながら詠む。
 
  朱夏過ぎて寄せる波風静まりて
     白秋むかへ海に出でゆく
 
 地元合唱連盟の有志の皆様による「城ヶ島の雨」の合唱。しばし聴き入る。
  秋晴れの空を遊べる鳥たちも
     船追ひ聴きし献歌の調べ
 
 船は港の入り口に立つ紅白の灯台の間を抜けて外海に出る。海は変わらず穏やか。
 
  艶めいた紅き灯台後にして
     いざ繰り出さむ相模の海に
 
 太陽が沈むには少し時間が早かったが、夕日に照らされた海は黄金色に輝いて厳かであった。なぜか故郷の海を思いだした。これほど美しくなくても心に広がるのはやはり故郷の海である。
 
  沖に出で秋のゆふべに旅人は
     光れる波にふるさとを思ふ
 
 楽しい時間は早く過ぎる。船着き場に戻ると人もまばらで店も閉まっている。祭りの後の寂しさ。旅を終えて皆が帰路につく。
 
  夕闇の三崎去りゆく人びとを
     もだし見つむる二匹のかもめ
 
 三崎を愛した白秋が実際に三崎で過ごしたのは十か月程度である。長さではないのだろう。様々なことがあってたどり着いた三崎で、傷ついた白秋の心は三崎の風景と人びとに癒やされた。
 百年余り経った今でも白秋が変わらずに三崎の人びとに愛されているのは、彼の詩や短歌が人びとの心の中で生き続けているからである。文学の持つ力を再認識した。
   令和四年十月三日
三崎の白秋に思いを馳せて
             日本浪漫学会 岩間滿美子
 
 穏やかに晴れ渡る秋の日に、白秋祭の船上から望む大空の下、美しい合唱を聞かせてもらった幸せを歌う。
 
  遥かなる雲居の果てに白き秋
     悠々として歌い遊ぶにや
 
 夕陽が海に反映してできた一直線の帯はまるで、天照大神が白秋祭に遊びに来る道のように神々しかったので。
 
  わたつみに光の道を造られて
     天照もや白秋を訪ぬ
 
 申し分のない秋晴れの日に、夕日を受けて船の上から白秋の碑に手合わせて詠む。
 
  秋の日に眠る如くの静寂しじま
     白秋の碑に夕陽ゆうひを副える
 
 三崎の人たちの白秋を思う心が、永々と白秋を偲ぶ祭をまもってきたことに敬意を評して歌う。
 
  海のごと心寛きの三崎びと
     白秋の宴今がたけなわ
 
 不遇の白秋が、他ではない城ヶ島の地を訪れてくれたのだから、せめて白秋を記念する日に我々も城ヶ島を訪れよう。
  白秋の憂い去らざる城ヶ島
     せめて晴れたる秋の日訪ぬ
 
 船を降りて来ると華やいだ乙女の一群が、今を美しさの盛りと、さんざめきながら、通り過ぎて行った眩しさを歌う。
 
  秋の日に見えし程よりねび勝る
     乙女らの行く三崎の浜に
 
   令和四年十月三日
日本浪漫歌壇 秋 長月 令和四年九月十七日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 大型の台風の接近によりいささか落ち着かない日となった。日本では年間二十五回前後の台風の発生があるが、今回は十四号。この先もまだ台風への警戒が必要である。備えはできても、結局のところ静かに通り過ぎるのを待つしかない。台風が来れば、家屋の破壊や農作物の被害など残す爪痕に心が痛むが、通り過ぎた後に広がる晴れ渡った秋の天気は、すがすがしい。今回の台風で大きな被害の出ないことを願う。
 歌会は九月十七日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、、嶋田弘子、清水和子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の六氏と河内裕二。三浦短歌会の羽床員子、嘉山光枝の二氏も詠草を寄せられた。
 
  夕暮れにつくつく法師鳴きはじめ
     夜は虫の音秋はすぐそこ 光枝
 
 作者は本日欠席の嘉山光枝さん。夏になると蝉が鳴き始めるが、種類によって鳴く時期は少し異なる。ニイニイゼミは他の蝉より早い時期に鳴き、歌にあるつくつく法師は他より遅く晩夏から初秋ごろに鳴く。つくつく法師の独特な鳴き方は耳に残る。夜にはバトンを受け継いだかのように虫たちが鳴く。毎年変わらない自然の営みであるが、作者が表現するように私たちは五感で感じることで変化を実感する。カレンダーの日付ではそうはいかない。
 
  夢もなし「歩け歩け」と医師の声
     「もう夕食か」万歩計持つ 和子
 清水和子さんの作品。明るい前向きな歌とも取れるが、作者によればその逆で悲観的な気持ちを詠まれた歌である。「夢もなし」とは、「夢も見ないほど熟睡」ではなく「将来の夢もない」という意味で、歩かないと寝たきりになると医師に脅されるように言われ、一生懸命に歩いているとお腹もすかないのに夕食の時間となり、食堂に行かなければならないのなら、せめてその距離を万歩計に刻んでおく。本作にはやりきれない気持ちが表されているが、もう一人の自分の存在が重要である。自らを客観視し歌にする自分は、人生を完全に悲観してはいない。だから歌が詠める。
 
  百年ももとせの遠きに生くる歌人うたびと
     友の衰へ嘆ける夏の日 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。体に堪える夏の暑さは、歳を取って体が衰えたことを痛感させる。夏の暑い日に久しぶりに会った友は、老けて衰えたように見えた。実体験をされたのだろうか。作者は島木赤彦の歌集『太虚集』(大正一三年)にある次の歌に共感され詠まれた。
 
  夏の日は暮れても暑し肌ぬぎつ
     もの言ふ友の衰へにける 赤彦
 
  晴れた朝吾子らの位置をゼンリーで
     見届け楽しむコーヒーの香り 弘子
 
 嶋田弘子さんの歌。「ゼンリー」とはスマートフォンのアプリの名前で、そのアプリに登録したスマホは位置情報を知ることができる。お子さんたちとグループ登録している作者は、彼らが現在どこにいるのかを確認し、何をしているのかを想像する。お子さんのことをずっと心配されていた日々もこのアプリで終わり、今では安心してコーヒーを楽しむことができる。「晴れた朝」とあるので、家にいるお子さんたちを確認し、朝食を食べてこれからどこかに出かける姿でも想像されているのであろうか。
  秋勝り萩の花咲く庭に降り
     静謐の中友を言祝ぐ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。知り合いにおめでたいことがあった。すっかり秋の様相になった庭に出た際に、その方のことを思ってお祝いの言葉をつぶやくと、草花が聞いてくれたような気がした。庭に咲く花も友を祝っているかのようであり、「静謐の中」という句があることで、つぶやかれたお祝いの言葉だけが広がってゆく。生きにくい世の中においては人の幸せを喜ぶことは、実はそんなに簡単なことでもない。ネットで問題になっている誹謗中傷の類いはそれを示すだろう。上句で表される庭の花の美しさは、下句の友の幸せを願う美しい気持ちに向かう助走であり、結句に集約される。
 「ことほぐ」には、「寿ぐ」と「言祝ぐ」の二つの漢字表記がある。「寿ぐ」は結婚のお祝いのイメージが強いので、「言祝ぐ」にされた。
 
  いつになくこころ弾めり昼下がり
     彩なす秋桜はなと風に吹かれむ 裕二
 
 筆者の作。秋桜を見た人から話を聞いた。ある晴れた日の午後のこと、公園に咲くきれいな秋桜を前にして心が弾む。秋の風に吹かれながら、しばらく花を見つめる。見た人の気持ちになって詠んだ歌である。
 
  中秋の名月橋の上にあり
     在位七〇年エリザベス女王逝く 由良子
  
作者は加藤由良子さん。先日亡くなった英国女王を詠まれた。日本的な風景を想像させる上句から下句は世界的な出来事に展開する。美しい中秋の名月のイメージが、気品あるエリザベス女王と重なる。「橋」という言葉も象徴的である。長きにわたり英国と世界の架け橋となった女王は世界の人々に愛された。そんな女王を思って下句を読むと、このような大きな出来事があっても中秋の名月は変わらずに美しく輝いているとまた上句に思いが戻る。素晴らしい歌である。
  おほよそは歓迎されぬ我なれど
     裏山の蚊の歓迎止まぬ 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。この歌は諧謔を含む狂歌である。思わず笑ってしまうのは、誰もが蚊によく刺される人とそうでない人がいるのは知っているが、それがなぜなのかはよくわからないからである。血を吸うのは産卵前のメスだけで、しばらく痒いだけであれば、気づかぬうちに刺されてしまった自分の「負け」を認めて諦めの気持ちでいられるが、蚊はマラリヤやデング熱を始めとする多くの伝染病を媒介し、毎年世界中で多くの人が亡くなっている。場所によっては笑えない歌である。
  
  散歩する亡夫の姿見つけたり
     一年前のグーグルアースに 員子
 
 作者は本日欠席の羽床員子さん。グーグルのストリートビューに、自宅近所を散歩する生前の旦那様の姿が映っていた。そのことにとても感動されて詠まれた。「見つけたり」という言葉から作者の喜びが伝わってくる。撮影時に散歩されていたのも、画像を発見されたのも偶然であるが、作者の変わらぬ愛が偶然を引き寄せたのだと思わせる歌である。
 
 今回歌会で取り上げられた「ゼンリー」や「グーグルアース」のような先端技術が家族の絆を強め、愛を育むことに筆者が意外な気持ちになったのは、実際にそれらを使っていないからだろうか。ネットは効率や利便性を追求するが、その方向性が何となく家族とは結びつかない気がする。思い込みだろうか。結局、家族の問題が解決できるのであればそれでよい。時代は変わったのである。