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濱野成秋

これは会心の作だ

とにかく、英語の勉強になる本である。口語というのは、常日頃から意思疎通するのに頻繁に用いる伝達手段だから、知れば知るほど役立つ。そうは思えど、日本は不利この上ない。国土は欧米諸国から遠く離れたアジアの一角だし、外国人としてアメリカ国内に住んでいるだけで自然と身に付くはずの口語には、いつまで経っても親しめない。悲しい。切ない。コンプレックスだらけ。

僕の場合、子供の頃に父親が進駐軍をたくさん呼んでダンスパーティをしょっちゅう自宅でやった関係で口語表現が飛び交い、そいつが役立って今日の仕事に繋がる。しかし外人教師の来る教会で学んだ高校時代やステークハウスで基地の外周に住んでいるGIとのやり取り以外、アメリカ行きまで、苦労の連続だった。だからこの本は会心の作である。買って毎日バッグの中に入れ、1時間といわず、暇さえあらば声出して覚えるとよい。

使い分けが大事です

日本語抜きの英語論文などは、工夫をすればそれなりに上達するけれども、口語語法はだめ。結局ACLSという、フルブライトより難関と言われた大学教師だけのテストに筆者は食いついてトップ当選。おかげでNY州立大の客員教授に。だがそこで自分が喋っていたのは、おそろしく丁寧で上品な正調英語だった。Would やcouldなど、仮定法がざらの表現である。気取らぬ会話がランチ会話というのが普通のはずだが、やはりProfessor Hamanoと普段から呼ばれていると、窮屈だが正調ばかりの英語を使う。Wannaなんで表現など使わないように、get in touch withというような表現も避けてmake contact with などと言ってみたりで、大人社会とはそういうものなのだった。

だから日本語でいえば「お金魚がお元気で水泳してらっしゃる」というような英語を真面目くさって話していたんだろう。これが外国人というものなのだ。

英語学習法の本を幾つ書いた

僕は英語学習本で研究社から「合格ラインシリーズ」と称して、単語、熟語、英文法の3点セットを出し、単語集はミリオンセラーだった。それはNY州立大でディベートをやったり、車を売るの売らないので揉めた時の弁護士の卵との電話での猛烈な論戦の果てに、大雪のなか、ダウンタウンへ行き、和解をして大いに語り合った、そんな想い出も綯い交ぜになって出した。忘れもしない僕が州立大バッファローの大学院でポストモダンのアメリカ文学を院生に教えていた年とほぼ同時期だが、Malamud, Barthelme, Fiedler, Brautigan, Vonnegut…数え上げれはきりがないほど沢山の作家たちとインタビューしており、研究社の『英語青年』に原語で連載。中公の月刊文芸誌『海』に発表していた。自分でも恐れ入るが、これが僕の英語人生だったが、口語表現を大分使ったかというと、さほどでもない。

学習書としてのこの本

「日米口語辞典」は、辞書として使うのではなく、学習書として使いたまえ。

そのやり方を伝授しよう、すべてQ&A方式で、「声だし」でやること。それもゆっくり考えているようではダメ。0.1秒以内で答えられるまで間髪を入れず英語を言う。大声を出せ。小声でもぞもぞ言っているようではモノにならない。見出し語だけやったのではだめ。例文がたくさんあるだろ、それをまず日本語を先に読んで、英語を自分で作る、声出し式でね。このQ&A即声方式は、僕が非常勤で教えていた一橋大でも、早稲田でも、生徒たちにしっかりトレーニングしたよ。受験勉強だけして来た学生を、たった1年で通訳が出来るように仕立て上げたわけだ。そういうことなら出来るだろう。

TPOをわきまえて使おう

著者の皆さん、編集部のみなさん、ご苦労さま。自分の長くて短かった人生とこの本の完結とを一緒にしては気の毒だが、僕は敗戦後の負けじ魂をもってアメリカでは朝鮮戦争の元軍人だった男を猛烈に議論して打ち負かした。つまりそういうのに使っていた表現がいっぱいあるから、君らTPOに気を付けて使いたまえ。今夜は呑みたい気分である。(京都外大客員教授)

キルケゴール哲学反論

濱野成秋

1.「倫理」を解脱して「存在」を究明すべし

哲学者はどいつもこいつも勝手気儘な存在である。自己流の考察だけがこの世界を支配し、自己流を唯一正統な規定機関であると主張して譲らない。天候になぞらえれば彼らの主張は「どしゃ降り」である。晴天を目指して心を入れ替えよと命じても、降り続く大雨は止むことを知らない。キルケゴールの「絶望論」は特に傍若無人であり酷い。解釈上の飛躍、逸脱、暴論が乱れ錯乱している。『死に至る病』(日本語訳1949)がその典型で、彼の代表的著書ではあるが、勝手気ままに過ぎて留めようがない。かれは中心課題「絶望」を巡って、持論を縦横に展開するけれども、そのロジックには例証が偏頗であり一面の照射に終始する。それは常日頃から多少なりとも「絶望」を味わい、それを超克することに慣れた都会人なら、「絶望」の持つ多面体的特色の複雑さを会得しているから、キルケゴールの敷いた路線通りには進行せずかくも極論へと突っ走ることはしないと思われる。本論はその主旨で論考する。

人間生活において、誰しも「絶望」を幾度か経験するが、「絶望」に陥るとき、それを「罪」という善悪勘定で規定すること自体、間違っている。「希望が絶たれた時」をもって「絶望」というなれば、希望を断絶せしめた張本人は罪深いとも考えられるが、絶たれた者は「絶望」を押し付けられた被害者であるから「罪人」ではない。

また、ある、余生いくばくもない「老作家」がたった一つの希望である「息子と暮して作品を後世に遺す」ことが希望である場合、その息子が別居し、終生同居しないと断言した時、老作家は「絶望感」に覆われて余生を送るであろう。だが、その息子が後年、その科(とが)に気づいて改心し、父親の元に帰ってくれば、「絶望」はたちどころに解消し、長期にわたる過去の苦悩はもはや苦痛を消滅させている。この場合、父も息子も罪人でも咎人でもない。しょせん、道徳律の問題ではないのである。

2.多面体的ファクターを導入せぬキルケゴール

キルケゴールは聖書のようなケース・スタデイをせず、「プロディガル・サン」のような逆説も成り立つことにも斟酌しない。『死に至る病』の冒頭で、キルケゴールは「死に至る病とは絶望である」と規定する。この着想というか、テーゼは異論も含蓄しているとはいえ、言い得て妙な定義ではある。彼は言う、「絶望」は自己における病であり、それには3つの場合がある。一つは「自己」を自覚していない場合。二つ目は「絶望」して自分自身であろうとしない場合。三つ目は自分自身であるとする場合。この3つである。この段階では、「絶望」は善悪や倫理問題とは異なる「認識論」であるから頷ける。また「可能性」や「現実性」が絶たれる状態を「絶望」というとする規定も、ある場合には当を得ているであろう。

だが彼は「絶望」に、「必然性」と「有限性」を持ち込む。「可能性の絶望は有限性の欠乏」にあり、「必然性の欠乏は可能性の欠如にある」とするロジックも一面の真理である。但し「可能性」も「必然性」も、possibility とnecessity だけでなく、probabilityも介在することを考慮に入れなければならない。さもないとロジックとしては充足されない。

他方、相対性理論から言えば、「是」は時として「非」になり、「非」も時として「是」になる。たとえば茶事の準備を淡々と進め、開始5分前になったとき、はたと茶花を活けるのを失念したことに気づいた亭主は長年世話になった賓客に最大限の無礼を働いたことに気づいて「絶望」の境地に陥る。だが開始の直前に一番弟子が茶花を持参してくれたら、直後に到着した賓客は良き弟子をもったと誉めそやし、却って茶事が和んだとなれば、こうした不可抗力と珍事が急場を拭いとるというハプニングで「絶望」は解消される。長年努力を続けた自分の茶道人生も保証され、「絶望」という「苦悩」に代えて「幸せ」が支配する。この種の不条理はしばしば人為を転生させるファクターなる。キルケゴールはこの種の配慮には欠落する。これらは夏目漱石やアインシュタインがすでに言及したことであるが、状況がつねに多面体として存在する中で、キルケゴールの絶望論には外界の転変を無視した論考が目立つ。

3.キルケゴールは望まずして「生」を受けた

キルケゴールは自己の誕生につき、「必然性なき誕生」という、「因果律」を伴わない「出生」という「現存在」を問題にする。父と雇女との間の、社会的には不義の子としてこの世に出現したのである。筆者自身はしかし自分にもあった「因果律」の欠落を問題にしない。

歴史上の大人物で、望まれずしてこの世に生誕した人物は多い。キリストがそうであり、アメリカ独立の父といわれるベンジャミン・フランクリンも多産系の父母の家族として16人兄弟の13番目として生まれている。キリストは言うまでもなく、フランクリンもそれにめげず、若い頃からPoor Richard’s Almanac(1760)などを出版するなどして、彼自身の存在を植民地時代の北米在住の農民たちに染み渡らせている。人間の「無」から「有」への出現現象は家柄とは無関係に「重い」と筆者は受け止める。キルケゴールは身体虚弱という二重苦を受けたと言われるが、その不運が却って読者意識に彼の存在を刻み込むにプラスしたと看做し得る。

キルケゴールが生きた社会の政治状況はどうだったか。彼の存在を脅かすものであったか。これを考えるに、筆者は自分自身の生存状況に照らして考察したい。私もキルケゴールのような、不可解で臨まぬ条件下で生を受けた。彼同様に私も身体虚弱で幼い頃から「死」と共存していたし、我が国はまた激烈な戦時下にあり、いつ暗天で炸裂する業火に見舞われても当然とする幼児期であった。防空壕の湿った泥土が放つ異臭が真夜中充満していると、それが常態化してしまい、異臭なくしては熟睡できぬ生物となり果てた。闇夜に烈火を掻い潜り、死体もろとも爆風でどぶ川にふきとばされ、死体を視ることが常態化すると、アルベール・カミュが作品『異邦人』で描いた主人公ムルソーのように人間感覚さえも焼失せしめる。いやムルソー以上に虚脱化して生き抜くのが幼年時代であった。不条理が当たり前だった。私だけではない。20世紀という戦火の日々をアプリオリに甘受せねばならない状況下では街行く人はおしなべて、そんな「生」が常道であった。

4.「絶望」は罪である、の解釈をめぐって

筆者はこの不可解性の雑居状態から実存志向を好み、すなわち快楽主義や功利主義を排し、モラリストやニヒリストにもならず、少年期には生産的な努力を続けた。つまり従前から存する価値観には逆らわず理解を示しつつもそれに帰依もせず入信もせずして、「実存哲学」に進んで「生き方整理」をせっせと果たして大学という学府に進んだ。入学するやサルトルやカミュの生活が始まり、そこにキルケゴールが介在して、3者と同居してヘミングウエイやマルロー、サンテクジュペリ、フロイトを周辺に置いて暮らした。

『死に至る病』の第2部において、キルケゴールは「自己の罪について絶望する罪」という項目を容れているが、それを考察すれば、彼の言う「罪」の概念がよく解る。「自己の罪についての絶望」は自己の背後の橋が切り落とされていると知っている。だから自分自身だけにこだわり、頑なに自分自身だけに閉じこもろうとする。それゆえに、罪だとする。もはや「善」を欲することを不可能にしている。その結果というべきか、「罪の赦しに絶望する罪」を背負うとする。

ここら辺りの解釈は俗にいう「ひきこもり現象」の一典型でもあろう。精神病患者の形質はひとえにこのような「固形性」にあるが、筆者は「絶望」と多次元の状況との関係性を利用して「絶望回避」は可能であるとする。一元論であれかこれかと悩まねばならないわけではないのだから。(了)

三浦短歌会  令和二年十一月二十一日  濱野成秋
 
 歌会と講演『浪漫歌人山川登美子によせて』
 
 三浦半島の突端、城ヶ島を間近に三崎港がある。そこは北原白秋が駆け落ちして隠れ住んだところでもある。当時、白秋は傷心の果て。駈け落ちは絶望の日々でもあって、暗澹たる心境であった。ところがここに、彼の歌碑が最初に建てられ、白秋自身が懐かしさを胸に訪れた。昭和十六年、真珠湾攻撃の年である。
 人生、はかなき出来事が次々起こると、人は旅をしたくなる。
 住み慣れた地で同じ顔ばかりに向かうのが辛い。天国のような住みやすい処でなくてよい、地獄の果ての、わが身の細る境遇に置かれても良い、どこか遠くに行きたい。そんな夕陽や月夜を視たければここにお出でな。筆者は山川登美子の講演も兼ねて車を飛ばした。
 歌会は午後1時半、勤労市民センターで。
 「今日はフルメンバーです」と声を弾ませる三宅尚道師匠が迎えてくれる。
 会場は料理教室のようなテーブルがあり、隣室から詩吟が聞こえる。
 
  ナラ枯れて赤茶に染まる樫の木に
     リスが登れば枯葉舞い散る  光枝
 秋である。写生歌である。朗々と読み上げる。樹木と色と動物と。その動きの中で枯葉が舞う。英語に driftというのがあり、これは漂い落ちる感であって、dropでも fallでも scatterでもない。それを「舞い散る」と詠んだところが近似してゆかしい。
 
  あいみょんを聞きつつ深夜外に出る
     秋季ただよいブルームーン高し 由良子
 
 これまた秋の風情にて、先ほど誘うた三崎の浜近く、割烹旅館の女将らしい気風がある。明暗と天地が見える。ブルームーンはハワイの装い。六十年前、この地に嫁に来た加藤由良子さんには、もはや三崎は第二の故郷以上の親しみ。恋しかるべき夜半の月かな、が脳裏に。
 ところが筆者の葉山は第二の故郷。こここそ安住の地と定めたる吾を嗤うのは、座敷に侵入して来た大蜘蛛で、加藤さんの心には程遠く、
 
  が庵は密事みそかごとよと告げに寄る
     大蜘蛛つまみし紙音かみねぞ怖し  成秋
 
と詠みたるを思い起こせど、口にせず女将の言に聞き入る。
  雨上がり菊葉の珠の輝きは
     朝の空気の為せる業なり   弘子
 
 久々に静謐なお作にお目にかかった。静寂そのものである。前二作には動きがあり人の息遣いがあるのと対照的にこのお作は静止状態。Staticそのもの。正詩型というべきか。
 
  新型の肺炎ゆゑに天国へ
     旅立つときもマスクしてゆく  尚道
 
 これは狂歌ですかと言えば、このひと月の間に入院したので、とのこと。これを深刻に捉えずにギャグとして詠むしたたかさ。却って真剣になる思いである。マスクといえばコロナ感染症ゆえの流行ものと捉えるか。否。高峰秀子主演の映画『浮雲』のワンシーン、彼女が仏印から引き揚げて来る、そのボロ船からボロリュックを背負って上陸して来る姿を視よ。誰も可も、全員、マスク姿なり。
 
  てらてらと輝く背中踊らせて
     仕事に励むイルカたくまし 和子
 イルカショーは何とも気の毒。どう見ても知能は人間もイルカも同格。どこが違うかと言えば、人間はずるいから安全な役についていて、イルカは正直者だから身体を張っている。ひとたび着水が着地になれば、それでお陀仏。だから、「たくまし」より「いたまし」と変えたいと作者。至極もっともなり。
 
  庭の木に伸びたるツルを引きゆけば
     冬瓜三つ実をつけてをり  良江
 
 結構な収穫でした。三崎は平和なり。これぞ桃源郷。桃源郷とは義理の家族や夫と細君との仲たがいがあっては成り立たぬ。
 いや、もしもですよ、もしも次の歌のような家族関係もあるなら、歌にするもよし。短歌の世界に身を投じて、一首、
 兄と一緒に駅に父を迎へに来たものの
 
  腹ちがひ折れ曲がりたる兄こわ
     父を迎へるゐてまほしかれ 成秋
 続いて山川登美子の話となる。
 日本の浪漫主義文学は現代文学史では明治25年に夏目金之助のちの漱石がアメリカの詩人ホイットマンを日本に紹介したことに始まる、とよくまことしやかに書いているが、これは間違いである。いや、むろん、有島武郎でもない。そんな現代人ではなく、千年も前、額田王の頃に遡らねばならない。ここから説いて、古今、新古今と辿らねばならないが、それは次の機会にということで、登美子がなぜ日本女子大に来たか、なぜ晶子や雅子が名誉回復したのに、登美子だけが薄命にしてその生涯を閉じたかを語った。小浜の方々も短歌の会か盛ん。
 いつの日か、あい集う日が来ることを。
 三浦半島の三崎も小浜も、港町。
 その三崎で、筆者は良い子でいましたが、白秋もそうであったように、筆者も心は漂泊の思いにて、その果ての旅のごとく、会のあと、宵闇にキーコーヒーのカフェに行こうということになり、皆でお茶を。
 誰にも言わなかったが、その情景は、原田康子の『挽歌』に出て来る釧路の喫茶店「ダフネ」のようでありました。
サイコ・セラピスト入門講座⑴
フィラデルフィアでの体験
    ニューヨーク州立大客員教授・作家 濱野成秋
 
1 精神分析学と心理学は別物
 
 心理学は歓びと悲しみの学問。
 精神分析学は構造力学にすぎない。
 僕はよくこう言います。それは、心理診断士の称号を出す立場からいうと、若い諸君になんとか世の中の困っている人々に役に立ってもらいたいという気持ちが絶えず胸中に去来するからだと思います。
 この世の中に心理学より精神分析学を優先するドクターが多すぎるから、患者は冷たく理詰めに扱われるし、分析されればされるほど治らない。いや却って症状が深刻になる。もう自分の異状性は手の施しようのない段階に来ている、と観念する。ドクターの深刻そうな表情も患者の内奥にへばりつく。なぜもっと彩りのある心理学で治癒するセロリーと入れ替えないかと僕は助言するが、聴く耳を持たない人は多い。そのほとんどが、もう、癒し難い患者の一人になっている。
 フィラデルフィアにある「アインシュタイン記念病院」の精神科でのこと。僕がそんな病院でセラピーを行なう幸運に恵まれたのは、NY州立大バッファロー校のL・フィードラー教授とサイコセラピー論を展開中だった頃、僕は学内にいたフロイディアン(フロイト学派の学者)と親しくなり、彼らの口からフラデルフィアまで伝わって、この、第一級の病院の主任教授の私邸に一時逗留しているとき、教授が僕のセオリーに共鳴してセラピーの実地体験をさせてくれたわけだった。
 
2 セラピーは症例から割り出そう
 
 その時のセラピストは私だけだった。患者は30人もいて、大半が女性だった。彼女たちは訴える行儀良く腰掛に並んでいて、看護師が名前を呼ぶと一人ずつ立ち上がって私の前に座り、「不眠症です」、「早朝、目覚めて死にたくなる」、「幻聴に苦しんでいます」、「割り安に買った家ですが、夜中、廊下を歩く音がして…寝室のノブがカチャと鳴って…」
 皆取り越し苦労だ、見るからにリッチな暮らし向きで…などどコンセプトのジェネラリゼーションしてはだめ。瞳の動きから揺らぎまで、微妙に読み取らねば最高の暗示を出せない。
 それも制限時間内に診断しなければ嫌がられる。
 なぜなら時間をかけると治患者負担の療費が嵩むし、待機中の患者はその待合室の部屋代まで払わせられるのがアメリカのやり方だから、患者からクレームが出ないようにそそくさ結論を出す必要がある。
 僕は目つきの診断から異状を読み取り、興奮上気の鎮まらない50歳代の女性のパームリーディング(手相)をやった。手相? なぜ? あなた、ウイッチドクター?(魔女裁判)
 中年女性の驚きに満ちた目。ドクターがフォーチュンテラー(運勢診断)をするとは呆れたわ…そんな目つきだ。
 「あなたの手のひら、赤いね…でも温かい」と僕。
 「運勢を掌の皺ではなく色で看るの?」
 「赤いのは血液が末端部分まで行き渡っていることの証拠」と両手で挟んでやると、確かに温かい。「これは健康な証拠だ、あなたが病むのは身体的な原因ではないですよ、心の持ち方がよくない。もっと自信を持って生きること。元気なんだ、まだまだいける。そう思って頑張ると、君の運勢は大いに開けるよ、請け合いだ」
 と言ったら、相手の目が急に明るくなった。「そんなこと言われたのは初めてです…サンクス・ア・ロット!」急に活発になって立ちあがり、握手を求めてきた。
 
3 診断には欠かせない「暗示」
 
 診断後、回復に向かったのは8名もいたとワイス教授が電話してくれた。
 こんな現象はバッファローでも起こっていたので、僕としては予測通りだったけれども、みなさんはどう受け止められますか?
 診断士は分析だけでは患者は迷う一方です。シンプトムを百例出して、つまりそういった分析をやってのけて、全部患者の前で並べ立てたら、もう最悪。多くの症例から絞り込み、それだけ言って、それに相応しい励まし言葉が患者には必要なのです。その励ましが実地検分に基づいていなければ効果に結びつかない。「暗示」というのは、「そそのかし」の意で、よくない意味も含まれますが、心理療法士は必ず科学的根拠に基づいて解析し、そのデータに基づいて「暗示」してやることが大事なのです。
 「暗示」は精神分析学でいう「無意識」(unconsciousness)に与える助言で、これが回復への強力なプッシュ要因になります。
 逆にマイナス要因となるシニフェ(発話)があります。
 それは療法士が無意識に発する言説でその典型的なものは、患者の前でけっして言ってはいけないこの言葉です。
 「色々調べてみても、よく解りませんが、しばらく様子を診てみましょう」 
 ドクターのこの一言で相手はバイバイして去って行くことでしょう。なぜなら、そんな常套句は今まで飽きるほど聞かされていて、またか、こりゃだめだ、と思って気持ちが退嬰的になって自力で立ち直ることが出来なくなるからです。
                          (to be continued) 
山川登美子を救ひ度候
       日本浪漫学会会長
      「オンライン万葉集」主幹  濱野成秋
        (元日本女子大学文学部英文学科教授)
 
 此度の小浜来訪には、私にとってはその薄幸なる山川登美子の晩年を思うにつけ、まさに参詣に近い心境が伴いました。
 日本女子大の英文学科教授として十四年間、文学講義に専念してきた私は、今から百年以上も前の人ではありますが、英文学科の生徒だった山川登美子さんの退学の成り行きをいつも残念に思っておりました。
 増田雅子さんは『恋衣』の一件で叱られても学内の教師と結婚したことでもあって、「茅野蕭々雅子奨学金」の名目で名誉回復を遂げた。だが山川さんは病を得て小浜に帰りその薄幸なる生涯を終える。今もその状態のままなのだ。つまり近現代に在って、浪漫歌人の第一人者たる山川登美子は日本女子大では特段の誉め言葉もなく事典に記載がある程度。若き世代の間で人口に膾炙する名誉回復もなきまま今日に至る。
 日本女子大は女子大では珍しく良妻賢母を標榜しない気骨ある女子大で、創始者成瀬仁蔵は、女性でありとも、立派な人間として育てるヴィジョンを掲げ、それに呼応して意想外に多くの入学希望者が現れたことは特記に値する。小生も成瀬イズムには共鳴すること多く、何も知らない新入生には建学の精神を語っていた。
それだけに、小浜より遠路はるばる入学され歌人としてかくも立派な仕事を果たされた山川登美子さんの扱いがいかにも気の毒。時代の風潮に押されて当局の指導に屈して処断したものの、その後の扱いが淡々に過ぎて浪漫華麗の向きにあらずして、その情熱なき無念さは今日も変わりなく続く。学寮委員としても幾度も成瀬イズムに籠る情熱を生徒に教えてきたなりに、今でも日本女子大の名誉にかけても登美子の名誉と情熱の回復を遂げさせてやりたい思いです。
 幸い生家が記念館となり小浜市も見事に行き届いた管理ゆえさぞかし登美子君も父君もお悦びと思いますが、その邸内の回廊を一歩、一歩踏みしめるにつけても、涙のこみ上げるを圧し留めることのできぬほど、痛ましく存じました。したがって、この一文は、玄関脇にある登美子の辞世の歌の歌碑を読んだ時点から、登美子の見果てぬ夢を追い焦がれる心情を、百年の過客を超えて、切々と物語ることになります。
 
 父君に召されていなむ永久とこしえ
    春あたたかき蓬莱のしま 登美子
 
 蓬莱にはもう鉄幹もいない。晶子も遠い存在。また会いたいかと自問すれば、否私の心は彼らから離した父君の愛の許にあります、と登美子は答えるだろう。小浜の登美子研究の方々も、おそらくそう解釈されるかと思いながら、入り口から畳の控えの間に。歩み入る第一歩で一首浮かぶ。
 君かめ生まれ変はりて父君ちちぎみ
   御膝みひざで食事ぞ稚児のかわゆき 成秋
 
 奥の間まで人の気配。訪れる人なきはずが、咳の声がしている。まさか登美子の? しばし廊下を歩む。空耳か。と、庭の蔓草が目に留まる。
 
 伸び盛るつる草にくえちぢむ
   あるじの心を知らでか庭にゐて 成秋
 
 さらに三歩あゆみて、庭の燈篭に飛び石の茶事を連想し、また一首。
 
 枯れしぼ御體みからだいとおし燈篭の
   赤き火影ほかげ密事みそかごと裳て 成秋
 
 廊下の奥でまた咳(しわぶき)の気配。やはり登美子はそれと気づいて黄泉より急ぎ戻りしや? それともあれは新詩社で滝野や勇と荷造りせし啄木か?
 
 その名さへ忘られし頃飄然ひょうぜん
   ふるさとに来て咳せし男 啄木
 いやあの咳は女性だ、登美子自身のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君らの背後に鉄幹の仕掛けが。気の毒だ。大学当局も官憲より君を庇って立ち往生。かろうじて採りし決断で成瀬もいかばかりの断腸の思いであったか。どうぞご賢察して下され度。
 
 それとなく赤き花みな友にゆずり
   そむきて泣きて忘れ草つむ 登美子
 
 この歌はあの時期の作ではないけれども、登美子の謙虚さはいつも変わらない。女子大開学前の世紀末、晶子と写った登美子をみよ。大店(おおだな)娘の晶子が椅子に座し、寄り添いて上級藩士のお姫様が床に。登美子も山川家もいかに節度ある御心か。
 廊下を歩きながら考える。と、また深窓から咳が。あの咳は女性だ、令嬢のはず。耳を欹てる。森閑とする館内。幻聴? 登美子よ、わが生徒よ、君の「恋衣」に罪はない。大学当局も苦肉の策で採りし措置。出来たばかりの学園である。成瀬氏もさぞや断腸の思いのはず。どうぞ察してやって下され度、とも筆者は思う。
 時の流れは惨(むご)い、切ない。取り戻せない。
 人の短い生涯など瀬川に浮かぶ小笹舟である。忘れ草でよいという登美子の見舞いに、僕は勿忘草を持って参じたい。白百合の君よ、君は余計なことをしたか。いや百年の流れの中で、あの日露の沸き立つ勝(かち)戦(いくさ)モードの中で浪漫主義文藝は小笹舟の如く翻弄された。だが今にして思えば、『恋衣』は日本人の、今の民主の時代を生む勇気ある雄叫びでもあったのだ。
 登美子よ、君こそホイットマンの言う自由人。なのに風潮の囚われ人にされた。自由主義という船の、船頭の一人として。かつて万葉集学者で日本女子大学長もつとめた青木生子教授は増田雅子と共に登美子も讃える中心的人物だが、私も同大学英文学科教授であり浪漫文学の研究者として、失意のうちに退学して去った登美子の後ろ姿に哀惜の情を禁じ得ない。山川登美子よ、願わくばあなたは蘇ってわがゼミに還るべきだ。僕は君のか弱き體と卓抜した学績を勘案し、飛び級にして卒業させてやりたかった。
 遂に寝室へ。登美子は? 奥座敷に姿はなく咳も聞こえず、ただ柔らかな陽光が私を迎え入れてくれた。登美子よ。
 
 わが胸の棘の痛みは刺しさわ
   百年ももとせ過ぎてもゼミに復せよ 成秋
                            合掌