淡谷さんも、ジュン葉山君も
涙ながらの失恋の歌
                   濱野成秋
 
 今に遺る淡谷のり子の歌を聞くと、彼女の自画像を見ているようだ。
 恋人との悲しい別れが胸に迫る。ジュンちゃんが淡谷のり子に惹かれるのは、淡谷の歌いっぷりに、縺れた自分の恋の果てを見るからだろうか?
 僕はジュン君の過去を知らない。まして恋愛の、敗れた果ての心の愁嘆場など、知る由もない。だが、あの、堂に入った歌いっぷりに、そんなことまで夢想してしまう。
 筆者はまだ淡谷さんの生きていた頃の、遠い記憶を辿るとしよう。
 淡谷のり子さんとジュン葉山君とは、二世代は異なるし、彼女が生きた時代も、淡谷さんとはかけ離れ、泣き暮らす淡谷さんの心の内を語って貰える立場でもないことは明白である。それなのに、ジュン君は淡谷のり子に心酔して、涙まで流してしまうから面白い。
 淡谷さんは「別れのブルース」や「雨のブルース」を歌い終えて舞台の袖に戻ってくると、いつも瞳に涙のきらめきをみせる。
 ひばりちゃんもそうだった。「みだれ髪」を歌うときには、落涙を予期して目をしばたき、そっと目頭を拭ってから強烈なライトの渦の中に跳び込んでいく。
 僕がまだ大学生のときだった。
 とある新橋のキャバレーで“歌うたい”をやっていた。
 一種のアルバイトである。ディックさんの前座をやったことも。
 まだ十八歳の、駆け出しシンガーだけれど、生意気にもピカピカ光る洒落たブラックシルクのタキシードを着せてもらい、いい気になって大人の歌を歌っていた。
 兄貴分のディックさんの美声などとても真似のできない、あどけない声で、ディックさんの歌もやった。ラストダンスの暗いホールに向かって、林伊佐緒の「ダンスパーティの夜」をやると、ホールの中央はくっつき合ったカップルが、けなるい、頽廃的の極みで、熱烈なキスなどして、身体をうごめかせていた。
 淡谷さんはというと、深夜にはやらない。彼女の場合はまた失恋したか、あの声が泣き濡れて聞こえる。今日もそいつがもろに出てらあ、と舞台の袖で笑うディックさんをうらめしく思って、幕引きの脇で憮然としていたのが僕だった。
 その淡谷さんの歌に芯から惚れたか、ジュン葉山という、元銀座のプロ・シンガーは、淡谷調の歌を歌って、やはり涙ぐむのである。
 淡谷の持ち歌には、男が作詞した女の恨み節がある。「夜が好きなの」と題する歌であるが、淡谷さんの持ち歌で、平田謙二が女心を巧妙に描き出す歌詞になっている。
 
  夜が好きなの
  ふたりの夢が もえるから…
 
 で始まり、男女の夜の営みを連想させながら、
 
  夜が好きなの
  あなたの嘘が消えるから…
などと語る。作詩は上手い。実に女のハートを読んでいる。が、男の手で女心をそのまま引き出すからか、のり子も潤ちゃんも泣かない。
女心をずばり描いては却って白けるからなのであろう。
ところが「雨のブルース」の二番の出だしがなんとも憎い。
 
  くらいさだめに
  うらぶれ果てし身は
  雨の夜みちを とぼとぼ
  ひとり さまよえど
  ああ、ああ、帰り来ぬ
  心のあおぞら
  すすり泣く 夜の雨よ

 
で、ぐぐっと、涙がこみあげて来るのは、やはり失恋のあまり、雨夜の小径を濡れながらさ迷い歩いた、そんな体験が淡谷さんにもジュン君にもあったからだ、と僕は思うのだが、果たしてどうか。読者諸賢はその歌いっぷりから、ご推察されたい…。
と、ここまで書いて、一応、ご本人の検閲(笑)を受けるべく、メール添付で送ったら、返事が来た。
失恋なんて、今はもはや「祈り」の境地です…
と、数行書いてあった。
人生の深みというか、いかにも教養も並々ならぬジュン葉山らしく、繰り返し読むうち、寂聴や有吉佐和子や寺島しのぶの顔が次々と想い浮かんだ。(了)