日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」で会うた武人たち
 
  不滅の美学に賭けた若庭の里
    廃落武人になき不滅の実業家
             日本浪漫学会 会長 濱野成秋
 
  足立全康は現代の武人である
 
 この武道の達人と美術館で会った。
 中世の城郭を背景に、長髪も結わずに慧眼を光らせる、孤独な一匹狼に遭ったのである。この男の存在を考えると、わが父君を思い出す。
 島根県安来市の市街地からも外れた田園に全康は生れ育つ。折からの日中戦争。太平洋戦争の激動期と戦後の苦難の時期。彼も艱難辛苦の末、美に目覚め、日本画に目覚めて、この広大な庭園と美術館を自らの財産だけで出現させた男。彼は今もって生き続ける。肉体は絶え果てるとも、心は永遠だ。美庭に支えられて。安来産の鋼鉄の如く生き続けているのである。
 安来は全国でも珍しい特殊鋼の産地である。
 特殊鋼とはハイスの2種、3種、ホットダイスなどと呼ばれ、鉄をカットし、削り出す鋼鉄であって、その純度は鉄の比ではなく、いくら熱して叩いてみても、鉄は鉄。とうてい特殊鋼にはかなわない。
 だからかつてはここから産出する玉鋼で軍刀を量産した。
 零戦の胴体を走る鋼鉄線にも成った。
 ゼロ戦は空中戦になぜ強いか。それは操縦士が狭いコックピットの中で力一杯ペダルを踏み込むと鋼鉄製のワイヤーロープはその命令を間違いなく尾翼の上下フラップに伝える。と、尾翼が跳ね上がり、風圧にも負けず頑張るから、機体は宙返りして敵機の背後にピタリと付ける。
 ダダダダ…ペラとペラの間から飛び出す7・7ミリ機銃弾で…そんな話をよく聞いた、父から、防空壕の中で。
 自分が買った安来の玉鋼でゼロは連戦全勝だった、と父。
 東亜機工株式会社の社長は我が父親だったわけだが、敗戦は哀れである。8月15日の、あの、父の号泣ぶりを筆者は昨日の出来事のように、鮮明に覚えている。
 その目で足立全康の偉業の年譜を、安来に来て、エアコンの利いた立派な美術館で読むわけである。
 全康の人生はまぎれもなく、今に生きる。
 筆者の父も愛国の武人であったから、今に生かしてあげたいけれども、もはや回生の機会はない。いまやむかし。その陰は中空に。
 だが筆者のみ知るこの父の最後の仕事は岐阜県山中にあるマンガン鉱山の坑道の奥にあった。父が作った「幻の御座所」である。幼い自分はこの坑道に入った体験を持つ。
 ここで暮らすんやで。
 父の言葉で僕は泣いた。いやや、こわい、いやや、いやや…
 松代はダミーでここが本物。
 そんなことをやる父は狂っていたか?
 元総理の岸信介氏が戦後、スペースシャトルが有楽町に展示されたとき、父との縁で私を招待してくれた。彼の隣席はなぜか一つ空いていて、僕はそこに座った。その日のことも忘れ難い。御座所の構築を頼んだ岸氏もきっと父のことを想い出して僕を呼んでくれたのだろう。伝記にも、何にも書けない動きが多々あったのだ。
 だが今は、すべてはまぼろしである。
 かかる昭和前期の武人たちの体験は、加藤隼戦闘隊も橘中佐や江川北川作江の武勇伝も今は歴史家のみ知る域になっている。真下飛泉の存在も専門家の記憶に遺るだけとなった。
 「戦友」か。ここは御国の何百里 離れて遠き満州の…と続くから、たいていの国民は満州事変あたりの作かと思うであろうが、じつは日露戦争のときの、どう読んでも友愛を軍政直下の命令より上とする歌なのだが、「飛泉」と書いて「非戦」をイメージさせる作詞家の心情など、今更議論をしても誰も聴くまい。時の流れの、遥か彼方に去ってしまうと、政治家も心情も作詞家の心情も、何もかも一緒くたになって忘却の底なし沼に落ち込んでしまうのである。
 その同時代、足立美術館の祖、足立全康は稀有にも、現代の空間に見事に容を成して現存しているから凄い…と思いながら、筆者は身術館で独り佇み、彼の年譜を読んでは自分の体験した時代のうごめきを想起して涙の湧き出るのを禁じえなかった。
 
  信念の結晶は肉體がほろぶとも
 
 この美術館は精神力で生き続ける全康の居城である。不落の名城である。日本式大庭園には年間幾万人訪れようとも、矢玉一つ跳ばない。傷一つ生じる憂えもない。幻の城は威容を誇る。永遠を繰り広げてやまない。
 リアリズムより永遠性の高いロマンスを、この美術館はよく心得ている。我が浪漫学会人には、この足立美術館の大庭園は時間制限のない空間ロマンの至宝に見える。筆者はいつも人に語る。「人間の心のリアリティはリアリズム小説では語りつくせない」と。
 その典型が足立庭園なのである。
 作者の足立全康は実業家であるから、芭蕉や子規、式部といった虚業に専念した人ではない。だから工場も土地も建物も、ありとあらゆるアーティファクト(人造物)は皆、彼が代価を与え自ら進んで取り組める富である。巨万の富に徹したリアリストが全康のはずである。
 ところが、愉快なり。
 そのリアル極まる蓄財を投じて創ったこの庭園は価格づけをするも失礼千万といえるほど、超俗性に満ちている。全康氏はリアリズムを跳ね飛ばした、あの久米の仙人のような風貌で、その財貨を夢の構築物に容態変化させてしまったのである。
 この庭園はもはや美の空間そのものである。筆者は赤松の生え揃うフィギュアを見て思わず一首想い浮かんだ。
 
  若松も白砂に赤き幹そろえ
     美学に生きよと我等に諭す 成秋
 想いを中世には馳せれば足利義満もその権力を恣にして金閣寺を造営した経緯が浮かぶ。権力者義光も見事な庭園を後世に遺した。金閣寺は焼失させられ、三島の同名作品に化けてしまったが。金閣寺庭園も束の間に生きたこの権力者の置き土産となった。稀有なサバイバルである。だが政情不安で都に野盗が出没する時代に飢え死にした民の骸など気にも留めず、この権力者は美庭に耽ったか、の感が拭えない。だから美の中に醜悪が窺える。永遠の美の極致ではない。この種の美醜混在したアーティファクトは西洋にも多い。
 ベルサイユ宮殿もその典型である。
 ベルサイユの庭を歩いた時、筆者は権力者の金銭の浪費を憚らぬ貪欲ぶりに少々腹が立った。足立庭のもつ永遠の美とは異なった傍若無人さに、美というより醜悪さが鼻に突いた。
 美には醜悪さを背負った美の悪霊がある。
 アメリカ・マサチューセッツのコンコードに住む哲人たちは、開発者たちが森のスペースに値付けして鉄道の駅に近いか遠いか、それで価格差を取り決めたり、黒煙を吐いて驀進する機関車の線路から遠いか近いかで代価を決めた。かかる「自然」は自然VS人工の差異にしかすぎない。
 だから林や森の威容さに襲われることはなかった。
 コンコードの森はフロリダのジャングルとは異なり、荒地はなく、テイムな住にこごちのよい、ガーデンとなっている。
 エマソンもソロウも、ウィルダネスよりガーデンと史跡を愛した里見弴、吉屋信子、小津安二郎たちと似ている。
 ポーの幽玄とは大分にことなる。
 むろん、幽玄の美もコンコードのこごち良さも、義光の貪欲さも鑑識眼の視野外にあるが、それを知らずして美を味わえと言われても、戸惑う。殺人鬼信長の華麗な安土城を只で見せてやると言われても、戸惑いは隠しきれない。「浪漫の美」とはそういうものなのである。
 では足立庭園に「幽玄の美」があるかというと、それとは雰囲気を異にする。明るくて安全で。
 映像に目を転じて考えると、別の審美眼と出会う。
 映像作品『レベッカ』であるが、この死霊を擁するマンダレーの森の暗闇は鬱々として鎮まる、ポーのアッシャー家が古城に映す累代の怨念に似たうめき声に通じる。が、足立の美庭に、それはない。美庭は美庭でも、古式の石塔に象徴される陰々滅滅たる盛者必滅の想いはこの大庭園のどの隅をまさぐり診ても窺い知れないのである。そこに見るのは足立翁の風貌とは180度異なる無垢な若さである。
 「無垢」、つまりイノセンスの美なのである。
 赤松、孟宗竹、枯山水の、どれを取っても、若々しく生き生きとしている。気味悪くない。シェイクスピア『マクベス』の、三人の魔女が暗躍する森とは正反対の無邪気さがある。若い美である。
 
  月山富田城はエリオットのウエストランド
 
 翌日、筆者はここから車で20分のところにある月山富田城にわが身を置いた。その頂きになる本丸の」小さな大地にて睥睨すれば、尼子一族の最盛期の心境にとても至らぬ、諸行無常の諦念に満ち溢れた自分の姿であった。
 
  亡び果てし尼子の城に越し来る
     我が現身うつしみよこれが終焉 成秋
 
 佳人薄命というが、月山富田城にあったのは、苛烈な負け戦の果てに見棄てられた廃城であった。可哀そうに。
 安来市立歴史資料館館長の平原金造氏の博学な説明をうけて、この城は面目を回復させたけれども、気の毒に、最後に戦った、嘗ての配下毛利一族の力攻めの果て五百年を経ると、もはや風雪の為すがままであった。風雪とは惨い。時間とは情け知らずだ。
 登りつ筆者はしばしばこの和歌を思い出す、
 
  人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風  藤原良経
 せめて城屋の板廂でも遺っておればと目で弄るも、自然の神も信長の如し。情け容赦なく遺れる人工物を召し上げていた。
 遺したのはただ佇まいだけ。朽ち果てた廂の断片さえ隠れ棲まわせるを赦さなかったのである。
 活き活きと息づいた足立美術館とはかけ離れた荒涼たる風景がここに実感できた。これもまた自然美には違いないのだが。
 これは度重なる戦で連戦連勝した武人たちが「勇者のみ佳人を得る」の類の美人とは凡そ不似合いな姿である。
 持ち主が戦で滅ぶとその庭も雑草で見苦しくなる。だが足立美術館は別だ。命の絶えることのない庭なのである。
 全康殿よ、見事だ、君の、この疲れをしらぬ美学は。
 西の京を誇った大内氏の館が思い浮かんだ。
 今、その庭園には、「人こそ見えね秋は来にけり…」の寂寞感が季節を問わず纏いつく。拭っても拭っても、拭い切れないだろう。
 ポーの散文詩にみるアルンハイムの地所には幽玄の連続性はあるけれども、足立氏の庭園にある「生の息吹」は少ない。久米の仙人のような風貌の足立全康に真正面から逢うと、彼の眼光に、どちらかというと、フロストやホイットマンの息吹を感じるから不思議である。
 戦前戦中、足立氏は日本式庭園の完成度を診ていたにちがいない。金閣寺と苔寺の庭園にプラスして兼六公園の老松群や前田公の美庭の石灯篭を重ね合わせたとでもいうか、類まれな現代人による古式美である。これには横山大観の日本画数十点と金箔螺鈿の紫檀茶棚のコレクションの展示館も併設されているが、全康氏の思いの結晶とも言える壮大な庭園の迫力には圧倒されて碌に鑑賞する気にもならない人も多かろう。
 全康氏は立派な武人である。
 彼をただ、信念の人と片づけてはいけない。
 まだ実業家として巨万の富を得た夢多き人と片付けてもいけない。
 全康氏は彼独自の流派に生きる武人である。
 若き日、彼は大金持ちしか買えない横山大観の絵に魅せられて金も充分にないのに「大観の絵を買うぞ」と密かに心に誓ったと年譜は語るが、この決意は、「よしこの地で大大名になってやる」と決めた尼子一族の初代と似ている。足立美術館と月山富田城とは車で20分の距離。同じ空気を吸うと同じ発想をするか? とんでもない。時代も境遇も異なるけれども、足立も決意を固めて大阪で自転車を漕ぐような仕事から身を起こして、大成功。
 尼子には当初から高い役職が保障されていたが、巨万の富を得て後、滅び去った。だが足立はほぼ無から身を興して大成功し、世界が羨む美の極致を創り上げた。皮肉にも現代の武人の美庭の至近距離に居て、尼子は裸同然の城跡を風雪に晒している。なぜ斯くも惨めな没落を招来したか。
 
  尼子は斯くして富田城を放す
 
 尼子一族の出発点は比較的恵まれていた。都で贅沢三昧に暮らす佐々木京極家の配下として認められ、守護として当地に派遣された。最初から支配階級であった。守護制度は中央政権がよほど強力な権力を持ってなければ、地方へ飛ばした守護を操ることが難しい。鎌倉時代以降、恩賞の大小で武士団は動いたので、戦国の世になって尼子が京極をあっさり裏切っても当然の成り行きとも見なせる。
 だが、その後の武士団の抗争ぶりは武略のみならず陰謀や調略、だまし討ちが横行していた。下っ端の、普段は田畑を耕す農民がつねに家来として駆り出されて、殺し合いをさせられるから、この身分関係は決して誉めたものではない。
 尼子は庶民階級に温かかったとする通説があるが、権謀術数に長けた毛利元就も尼子に攻められた時には、吉田郡山の小さな城郭に農民家族も何千人と匿い、温かい炊き出しを与えて労っている。近隣に布陣した尼子軍団が冬将軍の到来で凍死寸前となり、退き上げると見るや、その「しんがり」(最後尾の弱体軍団)に討って掛からせた。つまり「恩」に報いて当然というわけだ。
 下級武士団として農民たちも手なづけていたのは、武人の常套手段で、信長の「楽市楽座」や信玄の堤防工事、「人は石垣、人は城」の哲学もこの類であり、秀吉も家康も天下人となるには盛んに農民を利用している。尼子の場合も月山富田城の建築と守りの維持体制は下級軍団の命がけ防衛をやらせたから、どうも、あんまり誉めたやりくちとは言えない。
 元就は息子二人に吉川と小早川の二つの勢力圏に養子として入れ込むかたちで毛利軍団を多極化させ、大内と尼子という巨大軍団を策謀もって戦わせて両者をへとへとにした後、漁夫の利をもって自分の勢力だけを巨大化させることに成功。それをもって富田城を攻略、調略に次ぐ調略で籠城する尼子軍勢を寝返らせて、最終的にはこの広大な城には百五十名だけになったというから、毛利も悪きゃ、裏切り去る部下たちを押し留めることの出来ない尼子も情けない。
 権力抗争の果てとは斯くして埋没の途を辿るのである。
 
 中世の家名主義第一のなかで夥しい数の城郭が出現し、夥しい数の戦乱が続いたけれども、その家名が殆ど維持継続されなかった。ところが他方、個人主義の中で、こう言っては過言かも知れないがエゴイストだらけで、先祖を敬うことも少なくなった時代に、立派に後世に受け継がせるに足る価値ある庭園を誕生させた足立美術館の壮挙は立派である。奇跡である。その招来にどれだけ永続性があるか、幸あれと祈らずにはおけない。(了)