日本浪漫歌壇 春 皐月 令和七年五月三十一日
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
五月のことを和風月名で皐月というが、その由来を調べてみると諸説あるようだ。田植えに関するものが有力で、『日本国語大辞典』では、早苗を植える早苗月からだとか、田植えの月なので耕作を意味する古語「さ」から「さ月」、挿苗の意味で挿月などがある。変わったところでは、狩りに関するもので、狩りは五月がよいことから「幸月」、さつつき(猟月)で薬狩りをする月との意味からなどもある。語の由来ははっきりしなくても、「さつき」という音の響きや色鮮やかな花のさつきをイメージできることでも、皐月は和風月名の中でも魅力的で、歌の中で使いたくなる言葉である。
歌会は五月三十一日午前一時半より三浦市勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長とジュン葉山の七氏と河内裕二。さらに今回から参加の安田喜子氏。欠席の嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
去年の秋二度ころびたる友人の
「元気になった」と電話かけくる 由良子
作者は加藤由良子さん。ささやかな日常の一場面を詠んだ歌であるが、友との友情や友を心配する気持ちが静かに描き出されている。二度ころぶと伝えることで、友人の体力や年齢的な不安が表現され、「元気になった」と回復の知らせに作者が安堵したことが「電話をかけくる」という友人の動作により直接的な感情表現ではない形で表されている。控えめな表現で温かな人間関係が表された歌である。
本整理いるいらないの手を止めて
読み返すでは作業進まず 光枝
記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
五月のことを和風月名で皐月というが、その由来を調べてみると諸説あるようだ。田植えに関するものが有力で、『日本国語大辞典』では、早苗を植える早苗月からだとか、田植えの月なので耕作を意味する古語「さ」から「さ月」、挿苗の意味で挿月などがある。変わったところでは、狩りに関するもので、狩りは五月がよいことから「幸月」、さつつき(猟月)で薬狩りをする月との意味からなどもある。語の由来ははっきりしなくても、「さつき」という音の響きや色鮮やかな花のさつきをイメージできることでも、皐月は和風月名の中でも魅力的で、歌の中で使いたくなる言葉である。
歌会は五月三十一日午前一時半より三浦市勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長とジュン葉山の七氏と河内裕二。さらに今回から参加の安田喜子氏。欠席の嶋田弘子氏も詠草を寄せられた。
去年の秋二度ころびたる友人の
「元気になった」と電話かけくる 由良子
作者は加藤由良子さん。ささやかな日常の一場面を詠んだ歌であるが、友との友情や友を心配する気持ちが静かに描き出されている。二度ころぶと伝えることで、友人の体力や年齢的な不安が表現され、「元気になった」と回復の知らせに作者が安堵したことが「電話をかけくる」という友人の動作により直接的な感情表現ではない形で表されている。控えめな表現で温かな人間関係が表された歌である。
本整理いるいらないの手を止めて
読み返すでは作業進まず 光枝
作者は嘉山光枝さん。この歌も日常の何気ない一場面を詠んだ歌であるが、ユーモアがあり、さらに読者にも身に覚えがある情景で共感ができる。「いるいらない」という口語的な表現が親しみやすさを生み、最後に作業が進まないと結ぶも、それがどこか微笑ましい諦めに感じられる。日常生活を温かい目で見る作者の姿勢が反映された歌である。
来年も一緒に居たいと赤色の
カーネーションに願う母の日 潤
ジュン葉山さんの作品。母に対する優しさが静かに詠まれた歌である。赤いカーネーションは母の日の象徴であり、生きている母への感謝や愛情を表し、その色彩は、感情の強さや温かさを視覚的に印象づけるが、全体的にトーンは抑えられている。「来年も」というひと言に年齢や健康への不安と今一緒に居られる時間の尊さが込められている。作者の強い思いが落ち着いた調べで詠まれているために、なおさら読者の心にじんわりと響く。
霧立ちて橋もマストも消え去りぬ
病む目に残る半島の朝 和子
清水和子さんの歌。作者の心象風景を示した歌だろうか。病む目の視覚の不確かさと濃霧による視界不良が重ねられ、どうしようもない喪失感が印象づけられる。その中で目に焼きつく「半島の朝」は、儚さと美しさを帯びる。この朝の風景が最後に見るものなのだろうかという切実な感情もうかがえ、強い印象と余韻を残す。
ますらをは無言で聞きゐて黙々と
後の心を誠意で示す 成秋
来年も一緒に居たいと赤色の
カーネーションに願う母の日 潤
ジュン葉山さんの作品。母に対する優しさが静かに詠まれた歌である。赤いカーネーションは母の日の象徴であり、生きている母への感謝や愛情を表し、その色彩は、感情の強さや温かさを視覚的に印象づけるが、全体的にトーンは抑えられている。「来年も」というひと言に年齢や健康への不安と今一緒に居られる時間の尊さが込められている。作者の強い思いが落ち着いた調べで詠まれているために、なおさら読者の心にじんわりと響く。
霧立ちて橋もマストも消え去りぬ
病む目に残る半島の朝 和子
清水和子さんの歌。作者の心象風景を示した歌だろうか。病む目の視覚の不確かさと濃霧による視界不良が重ねられ、どうしようもない喪失感が印象づけられる。その中で目に焼きつく「半島の朝」は、儚さと美しさを帯びる。この朝の風景が最後に見るものなのだろうかという切実な感情もうかがえ、強い印象と余韻を残す。
ますらをは無言で聞きゐて黙々と
後の心を誠意で示す 成秋
作者は濱野成秋会長。男性はどうあるべきか。作者の考えを述べた歌である。「無言で聞きゐて」と「黙々と」という重ねの表現が、内に強い感情や覚悟を秘めた沈黙の重さを感じさせ、口ではなく行動で思いを伝えることの重要性を示している。現在は忘れられてしまったようにも見える日本的な価値観や美意識を改めて説いた歌だろう。現在では「男性は」や「女性は」のような物言いは「不適切」な表現と見なされることも多く、軽々に使うことができない。「ますらを」という古風な言葉を使うことで、それを回避し、本質的な位相へ踏み込むのは見事である。
葉影より赤き実見せて桑の木は
光をゆらしてぐんと伸びゆく 喜子
安田喜子さんの作。色彩が鮮やかで躍動感のある歌である。「葉影より」という言葉で、隠されたものが現れる驚きや喜びが表現され、そこに見えるのが印象的な「赤き実」で、光を受けている光景からは、植物の生命力や季節の輝きのようなものが強く感じられる。「ぐんと伸びゆく」という擬態語的な言い回しもその成長の勢いや力強さを強調する。作者の自然への眼差しは鋭い。
鳥居より本殿までを埋め尽くす
群衆の如き雛と目合わす 員子
羽床員子さんの作。三浦の海南神社にはひな祭りの時期に境内に多くのひな人形が飾られる。その光景を詠ったものであるが、結句「雛と目合わす」があるため、単なる説明でなく歌となっている。雛は様々な家から持ち込まれた物で、その数は数百体というのだから、目を合わせれば、恐怖すら感じるのではないか。冷静に考えると雛で埋め尽くされた神社は異様である。
つばくらめ早苗田撫でて飛びゆけば
ゆらぐ水面に空の彩り 裕二
葉影より赤き実見せて桑の木は
光をゆらしてぐんと伸びゆく 喜子
安田喜子さんの作。色彩が鮮やかで躍動感のある歌である。「葉影より」という言葉で、隠されたものが現れる驚きや喜びが表現され、そこに見えるのが印象的な「赤き実」で、光を受けている光景からは、植物の生命力や季節の輝きのようなものが強く感じられる。「ぐんと伸びゆく」という擬態語的な言い回しもその成長の勢いや力強さを強調する。作者の自然への眼差しは鋭い。
鳥居より本殿までを埋め尽くす
群衆の如き雛と目合わす 員子
羽床員子さんの作。三浦の海南神社にはひな祭りの時期に境内に多くのひな人形が飾られる。その光景を詠ったものであるが、結句「雛と目合わす」があるため、単なる説明でなく歌となっている。雛は様々な家から持ち込まれた物で、その数は数百体というのだから、目を合わせれば、恐怖すら感じるのではないか。冷静に考えると雛で埋め尽くされた神社は異様である。
つばくらめ早苗田撫でて飛びゆけば
ゆらぐ水面に空の彩り 裕二
筆者の作。五月の風景を写生した歌である。ありふれた内容であるが、言葉使いを工夫することで詩的に表現した。最近は米価の高騰によりニュース等でも米について取り上げられることが多い。普段はとくに意識もせずにいるが、改めて水田を眺めてみると、どこかしっくりときて日本的な風景なのだと思う。近所の水田は次々と埋め立てられて宅地になっている。残念な気がする。
裏畑の胡瓜とトマト昨日の
風雨に耐えて黄花をつける 尚道
作者は三宅尚道さん。家庭菜園の一角も自然である。植物の生命力や自然の営みのたくましさが身近な野菜の胡瓜やトマトで表現される。一見事実を述べたに過ぎなく見えるが、小さな自然に目を向ける作者の眼差しこそがこの歌では詠まれている。自らも自然の一部であることを自覚していなければこの歌は作れない。
吾子の逆境に寄り添う夫の目に
親娘のしこり解けゆくをみる 弘子
作者は嶋田弘子さん。葛藤する親子の和解の瞬間を捉え、そこに親子関係が深まるのを見た歌である。「寄り添う夫の目」という表現は、言葉ではなく視線で優しさを伝えることを示しており、深い情感を生み出している。作者も親であるが、二人を静かに第三者の眼差しで見つめることで、夫と同様のやり方で二人に強くて深い愛情を送っている。
短歌は俳句と異なり、必ずしも季語を含む必要はない。しかし四季の移ろいや自然の変化を織り込むことで、作品に深みや余韻が生まれる。四季のある日本では、人々の生活は昔より季節と密接に結びついてきた。そのため季節感のある言葉は、読者の感性に強く訴えることができる。短歌は限られた三十一音で表現するため、季節を感じさせる言葉を選ぶことは、詩情を高める上で重要な手段となる。季節感を表す言葉で使い古されていないものを探すのは大変であるが楽しいことでもある。
裏畑の胡瓜とトマト昨日の
風雨に耐えて黄花をつける 尚道
作者は三宅尚道さん。家庭菜園の一角も自然である。植物の生命力や自然の営みのたくましさが身近な野菜の胡瓜やトマトで表現される。一見事実を述べたに過ぎなく見えるが、小さな自然に目を向ける作者の眼差しこそがこの歌では詠まれている。自らも自然の一部であることを自覚していなければこの歌は作れない。
吾子の逆境に寄り添う夫の目に
親娘のしこり解けゆくをみる 弘子
作者は嶋田弘子さん。葛藤する親子の和解の瞬間を捉え、そこに親子関係が深まるのを見た歌である。「寄り添う夫の目」という表現は、言葉ではなく視線で優しさを伝えることを示しており、深い情感を生み出している。作者も親であるが、二人を静かに第三者の眼差しで見つめることで、夫と同様のやり方で二人に強くて深い愛情を送っている。
短歌は俳句と異なり、必ずしも季語を含む必要はない。しかし四季の移ろいや自然の変化を織り込むことで、作品に深みや余韻が生まれる。四季のある日本では、人々の生活は昔より季節と密接に結びついてきた。そのため季節感のある言葉は、読者の感性に強く訴えることができる。短歌は限られた三十一音で表現するため、季節を感じさせる言葉を選ぶことは、詩情を高める上で重要な手段となる。季節感を表す言葉で使い古されていないものを探すのは大変であるが楽しいことでもある。
