日本浪漫歌壇 夏 水無月 令和七年六月二十一日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 歌会の行われた六月二十一日は夏至であった。北半球では一年のうちで昼が一番長い日で、東京では午前四時半ごろに日が出て、午後七時頃に日が沈む。冬至であればゆず湯に入るとかカボチャを食べるとかよく知られた習慣もあるが、夏至にはとくに何もない気がする。地域によっては特別な習慣があるのだろうか。間もなく梅雨が終わって夏が来る。今年も暑さが厳しくなりそうである。夏に向けて身体を徐々に慣らしていかなければいけない。
 歌会は六月二十一日午前一時半より三浦市勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、嘉山光枝、嶋田弘子、羽床員子、安田喜子、日本浪漫学会の濱野成秋会長とジュン葉山の七氏と河内裕二。欠席の加藤由良子、清水和子の二氏も詠草を寄せられた。
 
  目に青葉ゴールデン明けのスーパーで
     笑みつつ若者わが荷運び 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。「目に青葉」といえば、山口素堂の俳句「目には青葉山ほととぎす初鰹」を思い浮かべる。初夏の青葉のさわやかさとそれにもましてさわやかな若者の行動。どこまでもさわやかな歌である。「連休」とせずに「ゴールデン」という言葉を選択しているのが秀逸で、この言葉が含まれているために、様々なものが「金色に」輝いている雰囲気が醸し出され、歌全体に彩りを与えている。
 
  目をつむり耳を澄ませば子らの声
     この空間も今はのもの 弘子

 作者は嶋田弘子さん。「この空間」というのが何を指しているのか明確でないが、作者によると以前住んでいた家のことで、その家を売ってしまって片付けに行くのにとても辛い思いをしたそうである。建物だけでなく庭やすべてを含めたものなので「空間」と表すしかないと作者は述べる。そのような意味であれば逆にどこか無機質な「空間」という言葉の方が効果的だろう。家族の思い出の詰った場所を手放すのは、単なる物理的な移動や処分ではなく、過去の時間や記憶からも引き離されることで、その寂しさや喪失感は簡単には消えない。歌は抑制された言葉で綴られている。その静けさがかえって、作者の心の揺れや痛みを強く読者に伝える。
 
  平成の米騒動を思い出す
     はじめて食べたタイ米の味 光枝
 
 嘉山光枝さんの作品。最近は米が品薄になり価格も高騰している。歌にある「平成の米騒動」とは一九九三年の米不足のことだろう。この年は記録的な冷夏で米が不作となり、備蓄米を放出しても不足が解消できないため、外国からの緊急輸入が行われた。この時に初めてタイ米を食べた日本人が多いだろう。実際に体験した人であればこの歌を読むとその時の記憶が鮮やかに蘇ってくる。当時は外国米の味に対して否定的な意見が多かったが、現在はどうであろうか。あの時よりも食は多様化しているので料理によってそれぞれの米のよさを活かすことができるのではないか。
 
  父笑い母もそれ見て笑い出す
     梅雨とは無縁のここは青空 潤
 
 ジュン葉山さんの歌。家族の温かく穏やかな情景を梅雨時期の青空という自然描写で表現して心理的な晴れやかさを効果的に伝えている。歌手でもある作者らしく、言葉のリズムがたいへん軽快で読むと明るい印象を受ける歌であるが、実際には介護の問題などいろいろと大変な毎日だそうである。
  気任せに海岸回りのバスに乗る
     雲の切れ間に鳶たわむれて 喜子
 
 作者は安田喜子さん。「気任せに」という日常から少し解き放たれた感じの言葉によって身近な地域のバスであっても旅情を感じさせ、さらに「海岸回り」というルートがその魅力を増大させる。バスの窓から見たであろう空に浮かぶ雲の切れ間には鳶が飛んでいるが、「たわむれて」という言葉を使うことで、風に乗ってどこか気持ちよく遊んでいるような印象となり、気任せにバスに乗る作者の気分とも通ずる。鳶もまたバスに乗る作者のことを上空から見ていたかもしれないと想像しても楽しい。
 
  儚げなスーパー隅のネモフィラを
     買物籠にそっと入れたり 員子
 
 羽床員子さんの作。スーパーでの買い物という日常の一場面であるが、買う品物が「ネモフィラ」という選定が見事である。名前からして美しい花のイメージなのに「スーパーの隅」という場所により、売れ残っている現実が伝えられ、切ない気持ちにさせられる。その花を作者は買い物籠に入れる。しかも「そっと」入れるのである。ネモフィラには繊細でどこかか弱い感じもある。なにより作者の優しさが読み取れる歌である。
 
  憶良等も数多あまた集へる宵花火
     罷らむとてか美食啄む 成秋
 作者は濱野成秋会長。山上憶良が宴を退出する際に詠んだとされる「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむそ」という歌がある。その歌を意識して花火大会に行ったときのことを詠んだ歌である。憶良はひもじい思いをして家で待つ子供に食べ物を持ち帰ったようであるが、作者は「美食啄む」。このように自己を客観し、歌で自分に対する皮肉を詠むことは簡単ではない。しかし自分の見たくない一面や人に見せたくない一面をも書くのが真の表現者である。
 
  備蓄米並んでもらって抱いてゆく
     外はAI何でも出来る 和子
 
 作者は清水和子さん。並んで米をもらう日常的で生活感のある世界とどこか無機質で抽象的なAIの世界をユーモラスに対比している。もらっているのが「備蓄米」というのも皮肉でよい。これが「コシヒカリ」であればこの歌の面白みは減るだろう。結局のところ最先端技術があっても主食を得るためには素朴な身体的動作が必要で、根源的な人間の姿とAIはどこか乖離しているように感じる。現代の状況を鋭く表現した歌である。
 
  恋ごころひと雨ごとにふくらませ
     かはづのこゑの闇にとけゆく 裕二
 
 筆者の作。雨上がりに帰宅のためバスを待っていると蛙の鳴き声が聞こえてきた。いつもより大きく聞こえると感じたのは気のせいだろうか。なぜか強く印象に残った。この歌は蛙について詠んでいるが、恋ごころをふくらませるという上句が筆者のこととも蛙のことともどちらにも取れるようにして読者の想像をふくらませる形にした。
  苗五本植ゑた胡瓜は花咲きて
     今日収穫す十三本目 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。家庭菜園の収穫についての歌。野菜作りをしていないと五本の苗からこれまでに十三本の胡瓜が取れたのが大量なのか平均的なのかわからない。歌で述べられている内容は事実なのだろうが、五や十三という数字に意味はあるのだろうか。西洋では十三は忌み数である。日本の歌会ではあるが、作者はクリスチャンなので少々気になった。
 
今回嘉山さんの歌に「平成の米騒動」が出てきた。短歌に特定の出来事を詠み込むことは、その出来事の記憶やそれを体験したときの感情を呼び起こし、読者に強い印象や共感をもたらす。しかしその出来事を知らない読者にとっては、意味や背景が不明瞭になり、共感を得にくくなることもある。それでは特定の出来事を詠むのは避けるべきなのか。単純にそうとも言えない。というのも、そうした「わからなさ」が読者に想像を巡らせ、新たな解釈を生み出す可能性もあるからである。「わからなさ」ではなく言葉の余白として歌に深みや余韻をもたらすものだと考えてもよいのかもしれない。