投稿

生きている靴  濱野成秋   2023.7.29
 
ここは亀ヶ岡八幡宮の境内
炎天下に露天がいくつも
木陰もろくにないのに
生きた革でくるまってる空間が二つ
不用品だぞと威風堂々たる登山靴
 
摘まみ上げる、靴紐にぶらさがり
「それ、買って。二百円でいいの」
履いてみる。妙に冷たい
そんな北極空間、この日盛りにあるわけないのに
やはり冷たい靴底がひやっこい。
 
「亡くなった主人が喜びます」
 
もう君、脱いで、置いて、買わずに去っちゃいかんよ
この世から俺のために冷やっこい霊感だけを遺して
どた靴が炎天下で吠える、「俺様は靴だ、雪よ岩よ、吾等が宿り
俺たちゃ 街には住めないからに」
言われなくても君はもう、次の
生きた足首を捕まえて、護ってやる気だろ
俺はしかし雪よ、岩よ、吾等が宿り…とは行かんだろ、
もがいても、もがいても
解決など見当たらない僕の人生を
先刻知っていて護ってくれるかい、どた靴よ 
もつれた僕の家族と君の前世の家族が
亀ヶ岡の炎天下でばったり出会った、
ほどけない紐で。
 
情けなくて悲しくてみっともない
小さな僕の大胆な人生を
ビニール袋でくるんでもらい、
歩き出す自分は、もはや別人の魂魄。
この靴のために楽しい時間を、新しく作れるかい?
 
君の生家は大阪。田んぼの中にある白壁土蔵のあるお家。
そんな坊やがなんで今、逗子駅前の
神舎の炎天下なのだよ。
生きるって一筋縄ではいかない
どんな困難も乗り越えてきたというのに
売ってくれた家族も大学教授の一家だそうな。
どこ? 大町、雪の下
炎天下に雪の下か、教会がありますね。
立原正秋と親しかった早稲田の先生も
雪の下にお住まいだった。
コインを2つあげて、じっと見る革の登山靴
これお前、これから君の人生、
始まるね、
僕は黄泉にて待つ父君の遺訓も知らず
ぽっちゃり娘の汗噴き鼻先に
どた靴だけを引き受けたよとも言えず
目いっぱい笑うと笑い返してくる愛想のいいお嬢さん…。
  新星浪漫詩人
 
  高鳥奈緒の世界
 
               日本浪漫学会会長 濱野成秋
 
  壱。城跡を歩く
 
 この子は、苦悩の子だ、細切なものを膨らませ、いつ何時破裂するか。
 労わらねば、励ませなければ。
 そんな危惧を持って自作詩の発表を勧めた。間もなく届いた恋愛詩。君の恋愛相手は誰? いいの、ここまで書いて? そんな筆者の心配を余所に、この子は書く、書く。
 挫折してはまた挫折して。
 奈緒は告白する。
 でも、自暴自棄の心情を書かずにはおれない。永らえて見たって、この先、どう生きるか。見えない世界に向かうしかないじゃないの。とは筆者にさえ言わないし、打ち明け話はいつも半ばで終わりだが。
 底にたゆたう何か。
 多分、いま進行中の恋愛も苦悩の方が多いのではあるまいか。不可解な奈緒の話には不可解な家族も出没する。伝統音大を出たサキソフォンの名手と作曲を勧めた。バラード風の。なのにそのサックス奏者とは、コミュニケーション、うまくいかないと、ためらう。
 筆者の、頑固なまでに整った学術芸術人生とは真逆の魅力が高取奈緒にはある。彼女は富豪の娘で、愛車は真っ赤なフェアレディ。今日は江の島まで来たわ。
 むろん恋人と。
 ご勝手になさいませ。
 おうちは渋谷南平台…とすれば納得がいく。
 いまどき執事がいる。料理長がいる。むろんメイドさんのスカートは19世紀ヴィクトリア朝のフレアが附けている。
 湘南の海辺を走る。運転は危なっかしくて。昨日は箱根まで行ってきたの。
 ああ、そう…と筆者は次の詩を受け取る。近くまで来たら、連絡していい? でも助手席には乗らないよ。いいのよ、いいの。逸らす目が哀しい。
 筆者は聞きながら、漫然と母のことを想い出していた。
 若い頃の母もこんなだったのでは?
 山城で名高い高取城。荒れ城で、瓦の散乱が著しい。そんな昭和初期、母は近くにある御殿医の石何某の中庭にある薬局で薬剤師をしていた。
 うら若き身で、厳しい修行の日々で。
 その合間を抜け出して若き母は高取城の廃墟に登る。
 相手は二高文科に通う青年だったとか。
 高取の街では噂に。富豪の薬事商の息子と薬剤師の愛染かつら。しかしその燃える恋も、折から大阪から見合いにわざわざ高取城の麓まで来た青年実業家との見合いで消えた。
 筆者の父である。軍需工場の社長さんやて。後妻やけれど、大金持ちや。あんた、橿原神宮でお神楽、舞いやった、その姿を見初めたんやて。
 と、旧家の医院の御寮(ごりょん)さん。
 早速庭の灯篭のわきで写真を撮らせ、初恋の相手を知るか知らぬか。そ知らぬ風で、箪笥ひと竿、嫁入り道具ひと揃え、かんざし、おべべ、白足袋に扇子。何もかも揃えてくれはったんや、もう、お父ちゃんとこへ行くしかなかったんやね、と母。
 高鳥奈緒も同じ道を…
 歌の好きな母は、本当は宝塚志望であったとか。
 歌曲が大好きで。これが最後の逢う瀬と高取の城跡へ。
 筆者がまだ小学生のころ、母は一人っ子の筆者に、そっとうちあけたのだった。大学生になり、高校教師をしていた頃、母を車に乗せて高取の城跡まで行った。
ここや、ここで暮らしてたんや。
 母が指さすところは、単に畑だった。この場所に家老の役宅があり、維新で家老が引っ越して行ってしまった空き家に行く当てのない藩校の儒学者たちの家族が間借り住まいをしていたという。藩校教授と崇められても、時が移ろうと、哀れなものだった。
 『三田文学』の事務所でこの話をしたら、ぜひエッセイにしたらどうだと勧められた。「光のえんすい」というタイトルで世に出た。高取城から帰路、暗がりに向けてヘッドライトを灯すと、円錐状に前方の風物がくっきり現れる。そこだけが現実で、その外側は目にも止まらず流れ去る。過去などはそんな風に朽ち果てるものなのだ。
 高取藩の藩校教授の孫娘として、維新後に貧乏していても儒学者の誇りを持って育ったであろう母にも、秘めたる恋の逢う瀬があったのだ。母と一緒に、割れ瓦の散乱する城跡で診た光景は今も鮮烈に筆者の脳裏に遺っている。が、母は他界して早や40年。筆者の肉体もやがて潰え果てるであろう。絶え果てれば、光のえんすいの光景も母のロマンも消滅してしまう。
 上空には高々と鳥が舞う…
 高鳥奈緒は我が母のことなど、知る由もない。増してや 古都奈良にある高取城での思春期の男女の出会いなど、知る由もない。
 だが、今日も空高く鳥が舞う。
 それは詩人高鳥奈緒の玉の緒とわが母の青春時代をつなぐ心の玉の緒を知るかのように。
  弐。大内裏の恋
 
 奈良の都も今は昔。その桜が京の内裏に匂いぬる日も鎌倉の世に至りて、奈緒ならぬ恋多き式子内親王の時代となる。恋の想いは変わらない。忍ぶことの辛さをこらえきれず、
 
  玉の緒よ 絶へねばたへね 永らへば
    忍ぶることの 弱りもぞする
 
 と詠む。新古今の時代でこの才女が愛したのは定家といわれるが、定家は和歌の大家。玉の緒とはむろん「命」のこと。この恋は辛い、いっそ死んでしまえば、かくも苦しい耐え忍ぶこともあるまいに。という思いは、当時の宮廷を取り巻く仕来りに圧し潰されそうだからだ。人目の惨さ、讒訴の罰の恐怖。偏見の数々に純愛を通すこともままならぬ。
 親王の想いは後世、九条武子や白蓮にも通じるが、現代浪漫歌人の高鳥奈緒の世界でもある。
 「忍れど色に出でにけり我が恋は」も同じくに、中世にいたると近松の冥土の飛脚となり、それを経て紅葉の金色夜叉に受け継がれ、今日まで営々と。さながら白蛇伝の如く日本の女性に纏いつくのである。
 その先端に、高鳥奈緒の歌があると思えば、どなたも納得されるであろう。振り切れないしがらみに、思いやりの深い奈緒はその思いを断ち切れない。
 筆者は戦前のスローバラードの巨星淡谷のり子の別れや雨の歌と重なり出てならないから、ぜひ淡谷さんのような歌にしてしまえと示唆した。おもえば自分がってな、悪い奴である。ひばりちゃんのステージ復帰第一弾として出た「みだれ髪」の作詞者星野哲郎は死に臨むほんの数年間、筆者の人生語りのお相手であったが、かれもまた高鳥奈緒のごとく、断崖の虚空に舞う鳥のような存在であった。
  憎や恋しや 塩屋の岬
  投げて届かぬ 想いの糸が
  胸にからんで 涙をしぼる
 
 高鳥奈緒の心の糸も昨日の夜更けにふつりと切れたと、電話の糸から漏れ受け給う。さりとて、筆者は如何ともしがたい。まさか沖の瀬をゆく底引き網にもつれてかかるのでは…。
 高鳥奈緒の詩情は最果ての断崖の、怒涛に打たれて途切れ途切れに舞う心の糸である。明治大正の風土になぞらえれば、勝ち気で抗議的な晶子というより、いつも勝者の陰て負けて泣いて小浜の小藩の洋館に身を寄せて、独り海に涙する山川登美子の生まれ変わりであろう。
 八代亜紀やテレサテン、秋元順子と続く女性歌手のこの種の怨念は高鳥奈緒の胸のなかで沸々と煮え滾る。
 
  参。高鳥奈緒の誕生
 
 かくて高鳥奈緒は現代の浪漫文壇に彗星の如く誕生した。
 その情念の凄さ、絡まりの恐ろしさは文章家の河内裕二の心をもとらえる。
 だが思うに、彼女は初の誕生ではない。
 筆者は短編「父の宿」で奈緒を一度登場させている。
 もう20年も前のことになるが。
 伊豆は松崎にその宿は実在する。
 元は庄屋の建物で、天保時代の建物は知る人ぞ知る。
 この「父の宿」という作品の成り立ちは、主人公の父がそのむかし、愛する女性とお忍びで伊豆松崎に宿をとった夜のことを打ち明けられる、老いたる父の、秘めたる人生の一ページで。その、たった一夜のことが気になって、主人公もまた同じ部屋で愛する女性と一夜を共にするのだが、図らずもその夜更け、たまたたま投宿した見知らぬ夫婦の破綻の果ての愁嘆場に遭遇する。
 それを目撃する奈緒の心境が現実の詩人の心そのものとは言わないが、このフィクションにみる、縺れた愛のタブルイメージは高鳥奈緒の詩の世界と重なってならない。筆舌に尽くし難いとはこのことで。
 何のゆかりもないもう一つの夫婦が破局を迎える、その渦の中に惹き込まれた男女は明け方、高鳥奈緒の詩の内奥のごとく、暗黒の淵に点々と灯火の映ずる水の面に没していく妻の姿を己の姿に重ね合わせるのである。
 我が国の浪漫詩は第一次浪漫主義文学の嚆矢「みだれ髪」から始まって、鳳晶子、登美子、昌子の若さと解放と重圧とが交互に個人を責め悩ませた日本型浪漫時代の迸りに端を発する。彼らが年齢を重ね、与謝野鉄幹が政界に走るなど、珍事が起きて自滅の兆しさえあったが、われわれの学会においては、ともすればリアリズムが託つ無感覚で感性の乏しい現実主義に文学の牙城を明け渡した感があるが、それはリアリストの思い上がりでしかないと言いたい。
 文学は浪漫をおいて、他にない。
 情念を抑えたロジックの重さは文学ではない。
 高鳥奈緒の詩を見よ。
 絶えかけて久しい、熱い人間の情念の燃え盛るさまに君の胸を焦がしてくれ給え。
 翔ぶのよ、夜空を   高鳥奈緒
 
 いつから想像の翼を落としたの?
 あなたが幼い頃、背中に持っていた想像という翼
 大人になったら想像の翼はもういらないの?
 大人だからなおのこと、想像の翼で自由にはばたけるのに
 もっともっと自在な自分になれるはず
 あなたの背につけて想像の世界に翔びたいのよ、わたしは…
 Fly, fly, fly…
 Away over the rainbow…
 沢山の誤解、ほんの些細なことで傷つきひっそりと飛ぶわたし
 水溜りに雨の波紋
 湖にさざなみ
 心は翼の先端よ、ほら、ほら、湖のきらめきを浴びて
 心無い言葉いちいち反応して翼が揺れる
 でも立て直せるんよ、少し離れて自分を
 心の避難所は永遠のネバーランド。 (June 28, 2023)
現代浪漫詩人 その1.高鳥奈緒
 
心は孤独な旅人  高鳥奈緒
 
    僕は書かねばならない。濱野成秋
 
 僕の心の文学を拓いてくれた女流作家や詩人はいっぱいいる。学生時代には津村節子や郷静子がいる。
 津村節子は社会派。郷静子は鶴見女学校を卒業後、戦乱の巷を生き抜いて文学学校にかよい、「れくいえむ」で文壇に登場した。津村同様、芥川賞をとったが、そんなきらびやかさは微塵もない人だった。鶴見女学校から日本文学学校へ。郷静子にあったのは戦後の新日本文学を率いていた野間宏、中野重治、佐田稲子に針生一郎や黒井千次の頃で、新日文は共産党と抗争を繰り返すさ中だったか。郷の心には日本中に黒雲垂れ込める暗い日々であったはず。
 そして今、同じ鶴見女学校出身の高鳥奈緒を紹介することになって感無量である。
 高鳥奈緒には、孤独で、状況に翻弄され、行方定めぬ旅人の黒雲がある。この点では郷静子に等しくするか。だのにその内奥には沸々と滾る思いが噴き上げる。
 父や母との確執、それが自己の内部をかき乱し、夫との齟齬へ、確執へ。思い詰める日々は壮絶。さながらギリシア悲劇のエレクトラである。
 西洋では孤城に幽閉されたファムファタル的存在か。現代ジャパンでは、郷静子が静かに没して十年。高鳥奈緒が彼女なりのレクイエムを背負って、鶴見文学の旗手となり、金子みすゞの世界にも通底する筆致で詩を書き散らす。
 みすゞのようでありながら、みすゞにあらず。
 奈緒は叫ぶ。ハウル。ギンズバーグのごとく迸る言葉の洪水が噴出する…。
 怒ッタコトモ 高鳥奈緒
 
  怒ったことも
  笑ったことも
  癒やされたことも
  疲れたことも
  ときめいたことも
  人を愛したことも
  人を憎んだことも
  傷ついたことも
  傷つけたことも
  すべてがあって。
 
 恋の魔法
 
  時よ、止まれ
  魔法使いになりたい
  この瞬間
 
 人が好きだよ
 
  人に傷つけられたのに
  また人を好きになっている
  それは私、高鳥奈緒
  あの人を想えば
  魔法使いになりたい
  恋の魔法を
  いっぱい賭けてやる
 瞳
 
  あなたの瞳が
  私を離さない
  私の瞳が
  あなたを離さない
  キバを剥けば
  キバを剥く
  笑みを向ければ
  笑みがかえる
 
 無い物
 
  無い物かぞえたら
  足りない
  有る物かぞえたら
  いっぱい
 素直に生きたい
 
  素直に生きたい
  心 つくしたい
  優しく 強くありたい
  正直に 生きたい
  楽しみを見出したい
  おおきく 広い心をもちたい
  ゆっくりと
  雪が春に溶けるように
  あなたの心に寄り添う気持ちで
  それが私の気持ちなの
 
 心の文学を拓いてくれた女流作家や詩人には、西洋ならエミリー・ディッキンソンがいる。理屈っぽくて高邁すぎて。だから日本では多識を競うタイプにも愛されている。その目で郷静子さんを診れば沈んで見えようし、高鳥奈緒をみれば、多情多恨。自分とは異なる情熱があふれこぼれて、名門鶴見女学校の金字塔かと思える。府立第一高女の鳳晶子にも通じるか。梅花の増田雅子か。小浜の山川登美子も想わせて今に生きる。金子みすゞの再来とも声が高いが、吾等の学会が抱える作家詩人の中では最も謎の多い人物でもある。成秋筆。
日本浪漫学会主催 第二十五回「浪漫うたの旅」で会うた武人たち
 
  不滅の美学に賭けた若庭の里
    廃落武人になき不滅の実業家
             日本浪漫学会 会長 濱野成秋
 
  足立全康は現代の武人である
 
 この武道の達人と美術館で会った。
 中世の城郭を背景に、長髪も結わずに慧眼を光らせる、孤独な一匹狼に遭ったのである。この男の存在を考えると、わが父君を思い出す。
 島根県安来市の市街地からも外れた田園に全康は生れ育つ。折からの日中戦争。太平洋戦争の激動期と戦後の苦難の時期。彼も艱難辛苦の末、美に目覚め、日本画に目覚めて、この広大な庭園と美術館を自らの財産だけで出現させた男。彼は今もって生き続ける。肉体は絶え果てるとも、心は永遠だ。美庭に支えられて。安来産の鋼鉄の如く生き続けているのである。
 安来は全国でも珍しい特殊鋼の産地である。
 特殊鋼とはハイスの2種、3種、ホットダイスなどと呼ばれ、鉄をカットし、削り出す鋼鉄であって、その純度は鉄の比ではなく、いくら熱して叩いてみても、鉄は鉄。とうてい特殊鋼にはかなわない。
 だからかつてはここから産出する玉鋼で軍刀を量産した。
 零戦の胴体を走る鋼鉄線にも成った。
 ゼロ戦は空中戦になぜ強いか。それは操縦士が狭いコックピットの中で力一杯ペダルを踏み込むと鋼鉄製のワイヤーロープはその命令を間違いなく尾翼の上下フラップに伝える。と、尾翼が跳ね上がり、風圧にも負けず頑張るから、機体は宙返りして敵機の背後にピタリと付ける。
 ダダダダ…ペラとペラの間から飛び出す7・7ミリ機銃弾で…そんな話をよく聞いた、父から、防空壕の中で。
 自分が買った安来の玉鋼でゼロは連戦全勝だった、と父。
 東亜機工株式会社の社長は我が父親だったわけだが、敗戦は哀れである。8月15日の、あの、父の号泣ぶりを筆者は昨日の出来事のように、鮮明に覚えている。
 その目で足立全康の偉業の年譜を、安来に来て、エアコンの利いた立派な美術館で読むわけである。
 全康の人生はまぎれもなく、今に生きる。
 筆者の父も愛国の武人であったから、今に生かしてあげたいけれども、もはや回生の機会はない。いまやむかし。その陰は中空に。
 だが筆者のみ知るこの父の最後の仕事は岐阜県山中にあるマンガン鉱山の坑道の奥にあった。父が作った「幻の御座所」である。幼い自分はこの坑道に入った体験を持つ。
 ここで暮らすんやで。
 父の言葉で僕は泣いた。いやや、こわい、いやや、いやや…
 松代はダミーでここが本物。
 そんなことをやる父は狂っていたか?
 元総理の岸信介氏が戦後、スペースシャトルが有楽町に展示されたとき、父との縁で私を招待してくれた。彼の隣席はなぜか一つ空いていて、僕はそこに座った。その日のことも忘れ難い。御座所の構築を頼んだ岸氏もきっと父のことを想い出して僕を呼んでくれたのだろう。伝記にも、何にも書けない動きが多々あったのだ。
 だが今は、すべてはまぼろしである。
 かかる昭和前期の武人たちの体験は、加藤隼戦闘隊も橘中佐や江川北川作江の武勇伝も今は歴史家のみ知る域になっている。真下飛泉の存在も専門家の記憶に遺るだけとなった。
 「戦友」か。ここは御国の何百里 離れて遠き満州の…と続くから、たいていの国民は満州事変あたりの作かと思うであろうが、じつは日露戦争のときの、どう読んでも友愛を軍政直下の命令より上とする歌なのだが、「飛泉」と書いて「非戦」をイメージさせる作詞家の心情など、今更議論をしても誰も聴くまい。時の流れの、遥か彼方に去ってしまうと、政治家も心情も作詞家の心情も、何もかも一緒くたになって忘却の底なし沼に落ち込んでしまうのである。
 その同時代、足立美術館の祖、足立全康は稀有にも、現代の空間に見事に容を成して現存しているから凄い…と思いながら、筆者は身術館で独り佇み、彼の年譜を読んでは自分の体験した時代のうごめきを想起して涙の湧き出るのを禁じえなかった。
 
  信念の結晶は肉體がほろぶとも
 
 この美術館は精神力で生き続ける全康の居城である。不落の名城である。日本式大庭園には年間幾万人訪れようとも、矢玉一つ跳ばない。傷一つ生じる憂えもない。幻の城は威容を誇る。永遠を繰り広げてやまない。
 リアリズムより永遠性の高いロマンスを、この美術館はよく心得ている。我が浪漫学会人には、この足立美術館の大庭園は時間制限のない空間ロマンの至宝に見える。筆者はいつも人に語る。「人間の心のリアリティはリアリズム小説では語りつくせない」と。
 その典型が足立庭園なのである。
 作者の足立全康は実業家であるから、芭蕉や子規、式部といった虚業に専念した人ではない。だから工場も土地も建物も、ありとあらゆるアーティファクト(人造物)は皆、彼が代価を与え自ら進んで取り組める富である。巨万の富に徹したリアリストが全康のはずである。
 ところが、愉快なり。
 そのリアル極まる蓄財を投じて創ったこの庭園は価格づけをするも失礼千万といえるほど、超俗性に満ちている。全康氏はリアリズムを跳ね飛ばした、あの久米の仙人のような風貌で、その財貨を夢の構築物に容態変化させてしまったのである。
 この庭園はもはや美の空間そのものである。筆者は赤松の生え揃うフィギュアを見て思わず一首想い浮かんだ。
 
  若松も白砂に赤き幹そろえ
     美学に生きよと我等に諭す 成秋
 想いを中世には馳せれば足利義満もその権力を恣にして金閣寺を造営した経緯が浮かぶ。権力者義光も見事な庭園を後世に遺した。金閣寺は焼失させられ、三島の同名作品に化けてしまったが。金閣寺庭園も束の間に生きたこの権力者の置き土産となった。稀有なサバイバルである。だが政情不安で都に野盗が出没する時代に飢え死にした民の骸など気にも留めず、この権力者は美庭に耽ったか、の感が拭えない。だから美の中に醜悪が窺える。永遠の美の極致ではない。この種の美醜混在したアーティファクトは西洋にも多い。
 ベルサイユ宮殿もその典型である。
 ベルサイユの庭を歩いた時、筆者は権力者の金銭の浪費を憚らぬ貪欲ぶりに少々腹が立った。足立庭のもつ永遠の美とは異なった傍若無人さに、美というより醜悪さが鼻に突いた。
 美には醜悪さを背負った美の悪霊がある。
 アメリカ・マサチューセッツのコンコードに住む哲人たちは、開発者たちが森のスペースに値付けして鉄道の駅に近いか遠いか、それで価格差を取り決めたり、黒煙を吐いて驀進する機関車の線路から遠いか近いかで代価を決めた。かかる「自然」は自然VS人工の差異にしかすぎない。
 だから林や森の威容さに襲われることはなかった。
 コンコードの森はフロリダのジャングルとは異なり、荒地はなく、テイムな住にこごちのよい、ガーデンとなっている。
 エマソンもソロウも、ウィルダネスよりガーデンと史跡を愛した里見弴、吉屋信子、小津安二郎たちと似ている。
 ポーの幽玄とは大分にことなる。
 むろん、幽玄の美もコンコードのこごち良さも、義光の貪欲さも鑑識眼の視野外にあるが、それを知らずして美を味わえと言われても、戸惑う。殺人鬼信長の華麗な安土城を只で見せてやると言われても、戸惑いは隠しきれない。「浪漫の美」とはそういうものなのである。
 では足立庭園に「幽玄の美」があるかというと、それとは雰囲気を異にする。明るくて安全で。
 映像に目を転じて考えると、別の審美眼と出会う。
 映像作品『レベッカ』であるが、この死霊を擁するマンダレーの森の暗闇は鬱々として鎮まる、ポーのアッシャー家が古城に映す累代の怨念に似たうめき声に通じる。が、足立の美庭に、それはない。美庭は美庭でも、古式の石塔に象徴される陰々滅滅たる盛者必滅の想いはこの大庭園のどの隅をまさぐり診ても窺い知れないのである。そこに見るのは足立翁の風貌とは180度異なる無垢な若さである。
 「無垢」、つまりイノセンスの美なのである。
 赤松、孟宗竹、枯山水の、どれを取っても、若々しく生き生きとしている。気味悪くない。シェイクスピア『マクベス』の、三人の魔女が暗躍する森とは正反対の無邪気さがある。若い美である。
 
  月山富田城はエリオットのウエストランド
 
 翌日、筆者はここから車で20分のところにある月山富田城にわが身を置いた。その頂きになる本丸の」小さな大地にて睥睨すれば、尼子一族の最盛期の心境にとても至らぬ、諸行無常の諦念に満ち溢れた自分の姿であった。
 
  亡び果てし尼子の城に越し来る
     我が現身うつしみよこれが終焉 成秋
 
 佳人薄命というが、月山富田城にあったのは、苛烈な負け戦の果てに見棄てられた廃城であった。可哀そうに。
 安来市立歴史資料館館長の平原金造氏の博学な説明をうけて、この城は面目を回復させたけれども、気の毒に、最後に戦った、嘗ての配下毛利一族の力攻めの果て五百年を経ると、もはや風雪の為すがままであった。風雪とは惨い。時間とは情け知らずだ。
 登りつ筆者はしばしばこの和歌を思い出す、
 
  人住まぬ不破の関屋の板廂
     荒れにし後はただ秋の風  藤原良経
 せめて城屋の板廂でも遺っておればと目で弄るも、自然の神も信長の如し。情け容赦なく遺れる人工物を召し上げていた。
 遺したのはただ佇まいだけ。朽ち果てた廂の断片さえ隠れ棲まわせるを赦さなかったのである。
 活き活きと息づいた足立美術館とはかけ離れた荒涼たる風景がここに実感できた。これもまた自然美には違いないのだが。
 これは度重なる戦で連戦連勝した武人たちが「勇者のみ佳人を得る」の類の美人とは凡そ不似合いな姿である。
 持ち主が戦で滅ぶとその庭も雑草で見苦しくなる。だが足立美術館は別だ。命の絶えることのない庭なのである。
 全康殿よ、見事だ、君の、この疲れをしらぬ美学は。
 西の京を誇った大内氏の館が思い浮かんだ。
 今、その庭園には、「人こそ見えね秋は来にけり…」の寂寞感が季節を問わず纏いつく。拭っても拭っても、拭い切れないだろう。
 ポーの散文詩にみるアルンハイムの地所には幽玄の連続性はあるけれども、足立氏の庭園にある「生の息吹」は少ない。久米の仙人のような風貌の足立全康に真正面から逢うと、彼の眼光に、どちらかというと、フロストやホイットマンの息吹を感じるから不思議である。
 戦前戦中、足立氏は日本式庭園の完成度を診ていたにちがいない。金閣寺と苔寺の庭園にプラスして兼六公園の老松群や前田公の美庭の石灯篭を重ね合わせたとでもいうか、類まれな現代人による古式美である。これには横山大観の日本画数十点と金箔螺鈿の紫檀茶棚のコレクションの展示館も併設されているが、全康氏の思いの結晶とも言える壮大な庭園の迫力には圧倒されて碌に鑑賞する気にもならない人も多かろう。
 全康氏は立派な武人である。
 彼をただ、信念の人と片づけてはいけない。
 まだ実業家として巨万の富を得た夢多き人と片付けてもいけない。
 全康氏は彼独自の流派に生きる武人である。
 若き日、彼は大金持ちしか買えない横山大観の絵に魅せられて金も充分にないのに「大観の絵を買うぞ」と密かに心に誓ったと年譜は語るが、この決意は、「よしこの地で大大名になってやる」と決めた尼子一族の初代と似ている。足立美術館と月山富田城とは車で20分の距離。同じ空気を吸うと同じ発想をするか? とんでもない。時代も境遇も異なるけれども、足立も決意を固めて大阪で自転車を漕ぐような仕事から身を起こして、大成功。
 尼子には当初から高い役職が保障されていたが、巨万の富を得て後、滅び去った。だが足立はほぼ無から身を興して大成功し、世界が羨む美の極致を創り上げた。皮肉にも現代の武人の美庭の至近距離に居て、尼子は裸同然の城跡を風雪に晒している。なぜ斯くも惨めな没落を招来したか。
 
  尼子は斯くして富田城を放す
 
 尼子一族の出発点は比較的恵まれていた。都で贅沢三昧に暮らす佐々木京極家の配下として認められ、守護として当地に派遣された。最初から支配階級であった。守護制度は中央政権がよほど強力な権力を持ってなければ、地方へ飛ばした守護を操ることが難しい。鎌倉時代以降、恩賞の大小で武士団は動いたので、戦国の世になって尼子が京極をあっさり裏切っても当然の成り行きとも見なせる。
 だが、その後の武士団の抗争ぶりは武略のみならず陰謀や調略、だまし討ちが横行していた。下っ端の、普段は田畑を耕す農民がつねに家来として駆り出されて、殺し合いをさせられるから、この身分関係は決して誉めたものではない。
 尼子は庶民階級に温かかったとする通説があるが、権謀術数に長けた毛利元就も尼子に攻められた時には、吉田郡山の小さな城郭に農民家族も何千人と匿い、温かい炊き出しを与えて労っている。近隣に布陣した尼子軍団が冬将軍の到来で凍死寸前となり、退き上げると見るや、その「しんがり」(最後尾の弱体軍団)に討って掛からせた。つまり「恩」に報いて当然というわけだ。
 下級武士団として農民たちも手なづけていたのは、武人の常套手段で、信長の「楽市楽座」や信玄の堤防工事、「人は石垣、人は城」の哲学もこの類であり、秀吉も家康も天下人となるには盛んに農民を利用している。尼子の場合も月山富田城の建築と守りの維持体制は下級軍団の命がけ防衛をやらせたから、どうも、あんまり誉めたやりくちとは言えない。
 元就は息子二人に吉川と小早川の二つの勢力圏に養子として入れ込むかたちで毛利軍団を多極化させ、大内と尼子という巨大軍団を策謀もって戦わせて両者をへとへとにした後、漁夫の利をもって自分の勢力だけを巨大化させることに成功。それをもって富田城を攻略、調略に次ぐ調略で籠城する尼子軍勢を寝返らせて、最終的にはこの広大な城には百五十名だけになったというから、毛利も悪きゃ、裏切り去る部下たちを押し留めることの出来ない尼子も情けない。
 権力抗争の果てとは斯くして埋没の途を辿るのである。
 
 中世の家名主義第一のなかで夥しい数の城郭が出現し、夥しい数の戦乱が続いたけれども、その家名が殆ど維持継続されなかった。ところが他方、個人主義の中で、こう言っては過言かも知れないがエゴイストだらけで、先祖を敬うことも少なくなった時代に、立派に後世に受け継がせるに足る価値ある庭園を誕生させた足立美術館の壮挙は立派である。奇跡である。その招来にどれだけ永続性があるか、幸あれと祈らずにはおけない。(了)
日本浪漫歌壇 春 弥生 令和五年三月十八日
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 東京の桜の開花発表は平年より十日ほど早い三月十四日であった。最高気温が二十度を超える日が数日続いたのが、早い開花に影響したのだろう。暖かい日が続き、すっかり春になった気分だったが、歌会当日には雨が降り、風は冷たかった。桜の花が長く楽しめると思えば、少々寒いのも我慢できる。入学式にまだ桜の花は見られるのだろうか。
 歌会は三月十八日午後一時半より三浦勤労市民センターで開催された。出席者は三浦短歌会の三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、嶋田弘子、清水和子、羽床員子、日本浪漫学会の濱野成秋会長、岩間滿美子の七氏と河内裕二。
 
  包丁を毎日曜日研ぎくれし
     夫の心情十年後ととせご気づく 由良子
 
 作者は加藤由良子さん。亡くなったご主人は、毎週日曜日の朝食後に何も言わずに包丁を研ぎ、終わるとご自分の部屋に戻って行かれた。その行動をずっと気にも留めなかったが、亡くなってから十年が過ぎて、ご夫婦での生活を振り返った時に、それはきっと旦那様の愛情だったのだと思われて歌に詠まれたそうである。
 
  ぬか床のきゅうりが苦い?宝物
     無くしてなるものかと手を入れる 弘子
 嶋田弘子さんの歌。お母様から受け継いだぬか床を現在も大切に使われている。嶋田さんにとってそれは宝物で、漬けた漬物をいつもご家族で美味しくいただいていたが、ある時きゅうりの味が苦くなった。このままではぬか床はダメになってしまう。「無くしてなるものか」という気持ちでできることはすべてやり必死に元のような状態にまで回復させた。かれこれ一か月もかかったとのこと。
 
  眼から鼻花粉は来たりくさめする
     年中行事の如く始まる 尚道
 
 作者は三宅尚道会さん。花粉症の方は共感できる歌である。まさに「年中行事」で、毎年同じ時期に苦しむことになる。三宅さんも花粉症になってもう二十年だそうで、それまで平気だった人もある日突然花粉症になると言われると、筆者のように花粉症でない者は不安な気持ちになる。花粉症の歌が詠めるとしても、この「年中行事」に参加するのは遠慮したい。
 
  在りし日の姿思ひて読むメール
     用件のみも言葉優しく 裕二
 
 筆者の歌。日々の仕事においては手紙ではなくメールでやり取りをすることがほとんどになった。過去のメールを確認することが必要になりキーワードで検索すると、探しているメール以外にも予期せぬメールが検索にかかることがある。先日も偶然に亡くなった方から生前にいただいたメールが出てきた。亡くなられてもう七年ほどになる。その方のことを思い出しながらメールの文面を読んでみると、用件のみを伝えるものであったが、言葉使いなどは生前にいつも優しくしてくださったその方のお人柄がにじみ出ていた。
  大阪は見所多しと息子より
     行く先々の写メール届く 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。大阪に転勤なった息子さんから送られてくる関西の様々な場所の写真を見ると、旅行気分になるそうである。楽しい気持ちを母親と共有したいと思う息子さんとその写真を楽しみにしている嘉山さん。心温まる歌である。
 
  思ふまま生きられぬとも年嵩ね
     なほ迫り来る波迎えなむ 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。ある程度の年齢になれば、この歌に共感する人は多いのではないだろうか。「迫り来る波」をよけるのか、それとも迎えるのか。これまでの人生の経験を活かして「波を迎えて」よりよい人生を送りたいというお気持ちで詠まれたのだろう。筆者もそうしたいものである。
 
  いにし世を知らぬ存ぜぬ子らたちに
     すさむ思ひを語るも空し 成秋
  
 濱野成秋会長の作。「慌む思ひ」とは戦時中や終戦直後の大変な時期のことで、子供たちに話そうとしても、そんなことは関係ないという態度を取られてしまう。作者にとって非常に重要な現実も彼らにとってはただの歴史に過ぎない。歴史は繰り返すと言うが、再び戦争が起こらないようにするには、戦争とはどういうものなのか知る必要がある。しかし聞く耳を持たないのではどうしようもない。空しいお気持ちを歌に詠まれた。
  手の切れしヴィトンのバッグが買い取られ
     八千円にてらとランチす 員子
 
 作者は羽床員子さん。「手の切れし」というのは、縁が切れたのではなく持ち手が切れたという意味。そのような状態のバッグでも八千円で買い取られるとは驚きである。修理して中古品で売るのだろうが、持ち手が切れるほど使い込まれたものでも欲しい人はいるのだろうか。
  
  トンネルを越えれば雪国白銀に
     今一度会いたし待つ人なけれど 和子
 
 作者は清水和子さん。川端康成の「雪国」を思わせる上句に、下句は百人一首にある「小倉山」で始まる藤原忠平の歌の下句「いまひとたびのみゆきまたなむ」を思わせる。どこか聞き覚えのある歌になっているが、光景が目に浮かんできて、映画の一シーンを見ているようである。待つ人はいないけど会いたいという気持ちも理解できるし、三月とはいえ北国の山間部ではまだ雪が残っている場所もあるだろうから、現実の光景と言ってもおかしくない作品だろう。
 
 春夏秋冬、日本の四季は素晴らしい。季語を入れなくてはいけない俳句とちがい短歌は季節感を全面的に表す必要はないが、それでも季節感は歌に彩りを添える重要な要素である。今回は三宅さんと清水さんの作品が季節の歌であった。自然を描写すれば自ずと季節が現れる。次回は四月。春を迎え、桜を詠む歌は何首よせられるのであろうか。