近作詠草7 令和元年六月二十六日 (No.1932)
             濱野成秋
 
 
今や日記とは後世に語り掛けるデバイスか
日記もて書き遺すべく一隅の
   デスクしづかに吾が死ぬるを待つ 成秋
 
想いの糸をそっと捨てたり
日記とは時に郷土の歴史なれ
   なまじな心は田んぼにおとさめ 成秋
 
子も孫も先祖になんかまるで関心なし。成秋寂しく。
古日記あたら読む人吾ひとり
   結縁けちえん虚しや打つ手もなきや
 
郷里に西除川といふ川あり
春泥の川面かわもしずけき西除にしよけ
   粘土採りをる吾が幼な背は  成秋
 
歌人前田夕暮の歌集「虹」(昭和三年)にて
水あかり顔に受けつつ川底の
   砂礫すくひゐる人さむげなり 夕暮
 
と詠みたるに、吾、川床ふかく人知れず横たはるは
誰そと問ひて
冬の川渡し人あり棹の先
   うずしかばねそもまたたのし     成秋
 
前田夕暮は同じ歌集で
野さらしの風日を吹きてうら寒し
   われは露佛ろぶつに物申したき   夕暮
 
と詠んだので、吾は、水子と称して天に戻さる常習を
重ね石戻さる嬰児ちごのはかなきに
   涙す母子も百年ももとせ経ちゐて   成秋
 
と詠む。野仏を見舞ひて、産婆のいふ「上げますか戻しますか?」とは何。
「上げる」とは赤子を生かして育てること。
「戻す」とは天に召されよと、産婆が暗闇に出て間引く。
かほどに辛きこと、我が国では常習にて、今の世の人は知らず、
唯水子供養の重ね石が川辺の洞穴などに遺るも哀れ。
 
この貧しさは昭和二十年八月十五日の終戦の日まで続いた。
二・二六事件はかくして起こった。この哀しい背景を知らねば
真に歴史を知ったことにはならない。
 
しかるに歴史家でこれを知らず、唯、皇道派が粛清され
統制派が実験を握ったと書くは、乱暴であり、歴史家の
歴史家たる使命を知らぬ所為にほかならない。本日は以上にて。
 
 
                     (No.1932は以上)