濱野家治家記録(エッセイ)
 
 まぼろしの御座所 濱野成秋
 
  大正初期、山持ちの惣領息子が養子に出され
 
 父濱野定雄は1907年岐阜県揖斐郡小島村にあった所家の長男として生まれた。祖父の姓は所。名は弥太郎。生前、高さ五メートルにもなる墓碑を自分で建てる奇人である。
 
 日本は日露戦争で超大国ロシアと闘い、日本海海戦で勝利して世界を驚かせたのが明治38年で、その2年後の生まれである。国威盛んな時期の大地主の長男だから、さぞ期待も大きかっただろう。屋敷の背後の山々は皆自分が相続すべき数百万坪の山林。ほかに田畑が何十枚も。といえば典型的な田舎のおだいじんとなる身だった。筆者の幼児期の記憶では、岐阜の家には柿の木もあり門前には小川があった。その流れを利用した水車小屋が門を入った右、隅っこにあった。
 
 この屋敷と僕の誕生はかなり稀有な運勢で彩られている。父はなぜ、大阪府南河内郡長曾根村の濱野家に養子にだされたのか。この経緯については別にかくが、いずれの家系も彦根の井伊家と通底する。
 岐阜県揖斐郡の、そんな田舎地主の男の子と、山深い奈良県高取藩の藩校教授の末裔だった石井家の、上から5番目の子女秋野との縁組は、思えばあり得ない奇縁である。しかも堺の中心部から離れた、野田村丈六という田園の村落で僕は誕生した。まだ日米戦の前のことである。届を出す母に、役場はネルの布一巻きを祝にくれたそうだ。その年の12月、帝国海軍は真珠湾を攻撃しているが、僕は虚弱体質で隣室の茶棚の上の3球ラヂオから襖のすき間を通して聞こえて来る臨時ニュウスが鳴る…「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋上で米英と戦闘状態に入れり…」
 
 もう耳慣れた「臨時ニュースを申し上げます…」の音声の初発を天皇の赤子として誕生した僕は寝床の中で聴いたのである。
 
 読者諸君もゼロ戦が未明の空に向けて空母の甲板を蹴って飛び立つニュース映画を何度も見たことだろう。歴史としてゴミだらけの画面に空戦にやたら強い軽戦闘機が母艦から飛び立つ雄姿は僕の脆弱な身体とは凡そ不似合いな取り合わせだが、一緒にこの世の1ページになったのだった。アーカイブズの画像と真空管ラヂオの音声が歴史の証言者で、それを何回も聞かされ、勇ましく、大勝利を予感させる大国に誕生した僕と、一足早くこの、大日本帝国に登場した父定雄は野田村丈六の暗い奥の畳の間で、雪見障子の彼方、中庭の、石灯篭の左側にみえる白壁土蔵の扉を見ながら生きていた。
 その頃の父はまだ三十代半ば。岐阜からほうりだされて三十年後。早くも軍需工場の社長で会社員を何人も抱えて軍と業界との間で走り回っていた。岐阜にはマンガン鉱を持ち、村人を何百人と使って、村長より上座に座って床の間をしょって座り、村のお歴々と酒を酌み交わしては崇められていたのである。父は僕に似て、筋骨は脆弱で甲種合格の下士官と並べ座ると馬鹿にされそうなほど女々しい姿だったと想像する。だが村民は皆、父を、岐阜出身の、誰よりも立派な人物として頭を下げていた。それには訳があった。
 
 軍との関係は秘密裡に続く
 
 父は軍需一辺倒の中で政府に直結していた。彼の作るワイヤーロープはゼロ戦の胴体を走り、高性能でドッグファイトにうってつけ。切れ込みが良いのでグラマンに連戦連勝、戦艦武蔵の主砲を巻く特殊鋼も濱野はん、と言われていたから一目置かれる存在だった。軍も気を遣う。誰にでも威張り腐る軍人でも、濱野はん、濱野はん、とペコペコしていたという。父自身、根っからの愛国者で、二十歳そこそこで鉄鋼業界に入り、持ち前の作戦才覚で八幡製鉄(現在の日本製鉄)や日立製作所と取引先を開拓する。二十歳の後半には早くも独立して大東亜機工という名称で特殊鋼を一手扱う、ソウル・エージェントになっていたという。安来ハガネは有名だが、少量の出産だけで奪い合いになる。日本国内に特殊鋼は少ない。ドジョウ掬いの踊りで有名な「安来節」で誰もが知る島根県安来町に出かけては、原料となる安来ハガネの調達までやっていた。父は当然考え方が変わる。
 マンガン鉱脈を村人全部を使って
 
 特殊鋼と鉄はどう違うか。全く違う。父の話だと、先ず、値段が桁違いで、鉄なら拳大で今のお金にしてせいぜい500円ぐらい。特殊鋼なら百万円。なぜなら、特殊鋼はぐるぐる回転する旋盤に円形の鉄を置き、それを削って丸棒状にするには、削るしかない。その刃は特殊鋼で摩耗しない硬度の高いものを使う。分子の組成が違うのであって、焼き入れをして硬度を上げただけの鉄とは土台、出来が違う。鋼材は伸び縮みしない。だからワイヤーロープにすると、伸びないから、零戦に追いつく敵機を躱して急上昇するには、ペダルを力一杯踏んで、尾翼の昇降舵を跳ね上げたまま急上昇し、空中で宙がえりをやって、あっという間にグラマンの背後にピタリと付け、ダ、ダ、ダ…と、ペラとペラの間から撃ちだす7・7ミリ機銃で…というような話を、父とお風呂に入って聞かされる。戦後も、ハイスの3種とかハイスの4種だとか、そんな呼称のハガネはもの凄く高い値段で取引されると父から聞いた。
 
 もし昇降舵を固定するワイヤーロープがただの鉄のハリガネだったら、風圧に負けて伸び切り、零戦の性能も悪くなる…と、父は愛国心から純度の極めて高いワイヤーロープを納入していたから、海軍からは非常に請けが良かったという。
 安来には軍刀作りの工人たちが群がる。軍刀も戦争には欠かせない。だが父は太刀に使うより、零戦だ、戦艦だ、これからは鋼板を戦車に貼らねば敵弾が貫通するぞと説得して買い占めていたが、それは玉鋼といって、安来には鉱脈はあるが量産できない。味方同士が原料の争奪戦を国内でやっていては戦争に負ける。
 
 こう思って、原料から掘り出す方針に切り替え、それに乗った軍部や官僚が父の存在を大いに重宝したという。だが鉱石を掘り出しても精錬技術が良くないと良い製品にはならない。八幡製鉄に送り込んで精錬してもらう。そのころ、「岸さんがうちにちょくちょく来て、お茶漬けを食べてはったよ」という。
 
 その話は戦後もレジェンドとなったが、僕は話半分に聞いていた。父のほら話だろう。
 
 ところがアメリカがスペースシャトルの展示会を有楽町でやったとき、岸さんが招待してくれたことがあった。そのとき、あのレジェンドは本当だったのだと思った。招かれて儀式の日に行ってみると、岸さんが僕と握手しながらニコニコして「君のお父さんには色々、ほんとに親切にしてくれた」と相好をくずしておっしゃり、僕は未だ若くて周りに政治家たちが注視するなかで戸惑っていると、「遠慮せずにここに座りなさい」とすぐ横の席に座らされたのである。並んで腰かけること小一時間、岸元総理は僕と一緒だった。あの時ほど、父の遺徳の凄さを感じたことはない。戦中、あのマンガン鉱山に一度連れられて行った日のことがまざまざと蘇った。
 あわや坑道の暗闇で暮らす運命が
 
 坑道にはトロッコが敷かれ、裸電球が粗削りの岩面に点々と灯る。その中を奥へ、奥へ。ポタポタ…ポタポタ…頭上から落ちる雫。襟の中に落ちて来る水滴はあまり気持ちのいいものではない。この想い出は後でも書くが、その時、トロッコに同乗していた父は、
 「成生、ここで暮らすことになるんやで…」と事も無げにいう。
 「いやや、怖い、こんなとこ、いやや…」
 
 僕は泣きだしたが、間もなく終戦となり、軍の注文もなく、鉱山は閉山。操業停止で、本土決戦もせずに済んだからよかったが、もし天皇の終戦の詔勅を一日二日遅らせていたら、米軍の大部隊は神奈川県葉山町の海岸から上陸して、あっという間に水際作戦の機関銃部隊は蹴散らされて火炎放射器で焼土となり、そのまま横浜も焼土と化して首都は制圧されていたことだろう。僕らはその時分、まだ堺市の端に住んでいたので、岐阜まで逃げて、マンガン鉱山の洞窟で暮らしていた可能性が十分あった。
 
 それを想うと、父の予言は無視できない。
 あそこは天皇陛下の御座所まで造る積りやった。ほんまかいな? 御座所は松代だったはずだが、戦時中から松代は有名だったから、天皇陛下はこっちに来はる予定だった、という父の言葉には信憑性がある。岸総理は父に、天皇の御座所を頼んでいたのでは…?
 
 今となればその可能性を辿るよすがはない。
 
 御座所があり、「陛下! 敵軍が攻めて来ました!」
 
 父はそう言って山奥へ…一緒に…思っただけでぞっとする。戦争末期、マンガン鉱石の精錬もままならず、父の作るワイヤーロープは特攻機の餞別に使われた。知覧から飛び立ち、途中、グラマンに遭っても機銃弾一発も積んでないと可哀そうだと進言して銃弾をなるべく沢山積み込ませ、伸び切った鋼鉄線を新しいのに取り替えて離陸させる。「その線がな、物資の不足で、だんだん細くなりよるもんやから、伸びた古いのと捩じって使うたんや」
 
 岸さんと父は飛び立つ姿を涙で送り出したという。
 あれからもう80年。自分は今、葉山の御用邸付近の住まいで無事に、のうのうと生きている。人生なんて、先代の風変わりな曲がり角のお陰で生かして貰えてる。父のお陰で、戦後、家で何度もダンスパーティを催した父は、アメリカ軍を誤解しとった、ええ奴らばっかりや、こんな奴らと戦争してたとは情けない…父の口癖だった。が、応接間で僕は蓄音機係をやらされ、米軍の将校たちが母とブルースを踊る姿を視る父の胸中はと想うとぐっとこみ上げてくるものがある。
 
 すべては夢か。岸信介元総理は僕に、署名入りの分厚い個人史をくれた。毛筆の署名は日米安保のときと同じ筆致である。
 
 だが岐阜のマンガン鉱山の記述はない。父との交友録もない。
 
 陰の世界に生きたのか、岸さんと父は。その、誰にも言えない埋もれた友情は消えてしまったのか? いやいやお二人の友情は今も心なしか、そこはかとなく我が家の書斎の稀覯書棚の辺りに漂っている。
(以下次号)