日本浪漫歌壇 春 弥生 令和四年三月十九日収録
       記録と論評 日本浪漫学会 河内裕二
 
 春の訪れを感じられる三月十九日、午後一時半より三浦勤労市民センターで三浦短歌会と日本浪漫学会の合同歌会が開催された。出席者は三浦短歌会から三宅尚道会長、加藤由良子、嘉山光枝、櫻井艶子、嶋田弘子、清水和子、羽床員子の七氏、日本浪漫学会から濱野成秋会長、岩間滿美子氏と河内裕二。三浦短歌会の玉榮良江氏も詠草を寄せられた。
 
  早咲きの桜まつりの取り止めも
     人出は多く桜満開 光枝
 
 作者は嘉山光枝さん。河津桜のまつりが新型コロナウイルスの影響で昨年に続き今年も中止された。まつりが中止になっても桜は咲き、桜が咲けば人は集まる。嘉山さんが行かれたときにも人はたくさんいて、人をかき分けるようにして歩かれたそうである。
 
  高齢の姉の誘いで梅見の会
     思い出話し亡き兄若し 由良子
 
 加藤由良子さんの作。お姉様のお宅の庭に亡くなったお兄様が若いときに植えた梅の木があり、その花を見ながらお兄様の思い出話をされた時の歌。加藤さんは三十一文字に自分の思いを込めるのは難しいと仰ったが、下句から思いは十分伝わってくる。
  北条のたけ女子おなごを想はせて
     梅花流るる鎌倉の春 成秋
 
 作者は濱野成秋会長。この歌の「春」は時期を表すのではなく「春景色」という意味である。鎌倉は囲い女の街で、春になると男は若い女を求めて別宅に行き、妻は鬼になって怒る。濱野会長は江戸小唄「春風がそよそよと」に言及された。
 
  春風がそよそよと 福は内へと この宿へ
  鬼は外へと 梅が香 添ゆる
  雨か 雪か ままよ ままよ
  今夜も明日の晩も 居続けしょ 生姜酒
 
 この小唄のような情景を思い浮かべて詠まれた歌だとすれば、男は頼朝で女は愛妾の亀の前、鬼は政子である。政子は怒って亀の前を襲撃させる事件まで起こしている。この歌はただ春を詠んだのではなく、鎌倉の歴史を詠んだ一首である。
 
  枕辺に『三浦うた紀行』最期まで
     置きて逝きしと身内に聞けり 尚道
 
 作者は三宅尚道さん。笹本朝子さんへの悼歌である。笹本さんは三浦短歌会に初期から参加されていた方で、昨年亡くなられた。三浦短歌会は昭和二二年に始まり七十五年の歴史がある。『三浦うた紀行』は三宅さんの歌集である。
  「いいことない?」「何もないのがいいことよ!」
     青日の談斯く沁みる今 弘子
  
 嶋田弘子さんの作品。「青日」とは若い日のことで、若い時に退屈して交わした何気ない会話が、今では本当にその通りだと思えるという歌である。「斯く沁みる」の「斯く」は「本当にこのように」という実感を表現されたとのこと。
 
  みちのくの海傾かたぶきてたおれける
     ひとのもとにも春は来るらむ 裕二
 
 筆者の作。二〇一一年三月十一日に起こった東日本大震災の犠牲者への鎮魂の歌。「海傾きて」とは津波のことで、鴨長明の『方丈記』に出てくる言葉である。
  
  春の野に若草色や心浮き
     何とは当ての無き身なれども 滿美子
 
 作者は岩間滿美子さん。窓の外を見ると、きれいな若草色の春蘭が生えていて、それに心を奪われロマンチックな気持ちになった。春だからといって何かあるわけではないが、それでも心は浮き立つもので、そのようなお気持ちを詠まれたとのこと。
  亡き夫と約束したる「湯楽ゆらの里」
     親族うからと連れたち朝風呂に入る 員子
 
 羽床員子さんの歌。「湯楽の里」は横須賀にある温泉施設で、以前ご主人とお仕事でその前を通られたときに、一度入ってみたいと話していたそうである。その温泉に行かれたことを歌に詠まれた。
 
  戻らずにじっと海見る鳥一羽
     ああ、日が落ちる一緒に見ましょう 和子
 
 作者は清水和子さん。清水さんはお部屋から屋根に止まっている鳥をよくご覧になるが、たくさんの鳥がみな山側ではなく海側を見て止まっていて、さらに夕暮れになると必ず一羽だけが残っていることが不思議だそうである。鳥を見るのを日課のようにしていると鳥が友達のように思えてこの歌が生まれたとのこと。
 
  一ツずつ重荷下しつ黄昏の
     時を歩みて父母の影みゆ 艶子
 
 作者は櫻井艶子さん。ご主人を亡くされて四年目。本当なら主人の顔を思い浮かべなければいけないでしょうけど、と櫻井さんは笑いながら仰った。なぜか夫よりも両親のことを思うことがある。櫻井さんだけでなく、連れ合いを亡くされた皆様も同様だそうである。「血は水よりも濃し」だろうか。
  外出のままにならない家猫は
     くしゃみ激しき抱きて歩めば 良江
 
 作者は本日欠席の玉榮良江さん。家の中で飼っている猫を外に連れて行ったら、くしゃみをしたということでしょうか。くしゃみが激しいとなれば、犬や猫にも花粉症はあるようなので、花粉症かもしれない。
 
 今回の歌会では、嶋田さんや清水さんの歌のような会話表現を用いた手法について考えさせられた。どちらの歌も口語の持ち味が活かされている。筆者の場合、短歌は文語の方がしっくりくる。初めて俵万智の『サラダ記念日』の非常に口語的な歌を読んだ時には違和感を持った。現在ではさらに三十一文字すべてが会話になっているような歌も珍しくない。そのような極端に口語的な歌にはやはり抵抗がある。今回お二人の歌で、会話表現によって臨場感や情感が生まれ、作品世界が広がることを教えていただいた。口語でも使い方によっては厚みがでる。自分も挑戦してみたい気持ちになった。